(1)おでんの源流『田楽』
2000/02/07


臨界事故という悲劇的な出来事で、
再度その名前を聞くことになった
茨城県金砂郷村。
そこは“おでん”の名称の起源となった
失われた中世芸能『田楽』が今も残る村である。


■JCO事故で全国に流れた金砂郷村

 JCOの臨界事故がニュースで流れたとき、テレビを見た私の眼は宙を舞っていたのだった。そこに映っていた風景が、1997年3月に訪れた茨城県は金砂郷村だったからである。

 いまはほとんど姿を消した幻の中世芸能『田楽』だが、日本に3個所程度残る田楽の中でも金砂郷村のものは7年に一度開催される大がかりなもので、その発祥は9世紀にさかのぼる。しかも私が最も関心のある芸「高足」が見れる唯一といってもいいものだった。(画像は金砂郷田楽の舞台全景)

 1996年に網を始めてチャットで面識をいただいたのが、水戸在住のJAZZ翁という方で、ご自身も笙の笛を演奏される伝統芸能ファン、しかも金砂郷田楽の撮影も行っていた。チャットの中でちょうど来年(97年)に田楽が開催されると教えられ、臆面もなく押し掛けた。それが私の始めてのオフミ体験となったが、それは田楽が取り持つ縁だったのだ。


■おでんの名称の起源となった「高足」

 さて、田楽だが、耕田儀礼として始まった農村の蕪雑な芸が、院政期に京都の民衆によって洗練され鎌倉期には隆盛を極め芸能として高められ、現在神事として今日に残るのは農村化した鎮守社の祭礼である、と言われている。

 田楽研究といえば、まず頭に浮かぶのが、中世芸能研究の名著である守屋毅『中世芸能の幻像』(淡交社1985)。そして民衆の集団的歌舞という側面からその意味を考察した上林澄雄『日本反文化の伝統』(講談社学術文庫1976)といった刺激的な書である。

 平安末期、京の町を集団で乱舞横行した「永長大田楽」の面影はすでに無いが、当時の都市芸能としての田楽の余韻をいまに伝えてくれるのが金砂郷田楽であり、その中で演じられるのが、おでんの名前の起源となった「高足」である。

 「高足」は、前述の『中世芸能の幻像』では、竹馬状のものに乗って演じる一種の軽業でもともと散楽の雑伎と呼ばれるものの系譜を引くとされる。かつての姿は左画像、現在金砂郷村で行われているのは右上の画像である。金砂郷のショットでは太い木の竹馬を肩に掛けて舞台を巡っているシーンで、実際はそれに乗ってピョンピョンと飛び跳ねる。

 なぜおでんの名前の元になったのかというと、串に豆腐を刺したカタチが「高足」を演じる姿に似ていたため。焼き物の“田楽豆腐”が最初の名前で、それを煮込みにした時に“おでん”(たぶん“御田楽”の転化か?)となって現在も定着している。

 実際に見た金砂郷田楽の「高足」は、曲芸的な性格が強いといわれている雑伎のイメージはあまりなく、文字通りピョンピョンとかわいく飛び跳ねる程度でご愛敬と言った感じ。もちろん地元の方の演技で専門家というわけではないから、致し方ないだろう。

 しかし、中世の民衆、そして貴顕も狂ったといわれる田楽の一端に触れることが出来ただけでも、幸せであった。それも7年に一度の機会である・・・幸運と言わねばならない。


■平成に宿る中世的なるもの。

 ところで、「バサラ」という名前のブランドが出てきたとき、ネーミングを『中世芸能の幻像』から引っ張ったのかな?と思った。「婆娑羅(ばさら)」とは鎌倉〜南北長期に定着した言葉で、もとは仏教用語。音楽や舞楽の調子外れを表し、後に遠慮会釈無く傲慢・放埒に振る舞うという意味に転化したと『中世芸能の幻像』にはある。

 特に芸能や祭礼における常軌を逸した風俗・行動を表すものとして定着したが、その意味するところは、社会の埒外に自らを置くという意志表示。田楽も常軌を逸した振る舞いと大流行によって反社会的なムーブメントとなったが、平安〜鎌倉の田楽、鎌倉〜室町の婆娑羅、そして戦国〜徳川のカブキ者という流れは、大衆の情念の噴出という点で特に強い関心を持っている。

 私が田楽や婆娑羅に惹かれるのは、昭和20年の敗戦から“平成の御代”に至る現在までの流れが、中世ととても状況が似ていると感じているからだ。既成権威の崩壊、倫理観・価値観の多様化、それを背景にした民衆の奔放な表現、・・・そして来るべきその制限と再編成。

 原子力を筆頭にテクノロジーの進歩の度合いは数百年前とまったく違うとは言え、人が抱える思いや悩みに大きな違いはない。文明の進歩と人間の情念はスパイラル(螺旋)で上昇していくのだと思う。生活や技術、環境は様変わりしても、螺旋を縦に貫く人々の情念はいつの時代もほとんど変わることはないのだ。

 だから、若い女の子が履く“圧底ブーツ”が、私には「高足」の今様的表現に見えてしかたがないのである(爆)。


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