さようなら小倉市民会館
2003.08.25 by ビーフハート

■憧れと想い出の場所・・・北九州市 小倉市民会館。

小学校からの幼なじみ、中学から一緒に音楽を始め、高校から就職の時まで演奏を続けた仲間、「桃っちゃん」こと桃田君から電話をもらったのは、先週の18日だったか。

「とうとう小倉市民会館も取り壊しになるっちゃ。それで北九州のバンドが揃ってさよならコンサートやるんやけど。俺も倉光も出るっちゃ。見に来てくれんね?」

小倉市民会館・・・それは福岡県北九州市の小倉北区にある、キャパは1500人くらいの今となっては小さなホールだ。

場所は、小倉城と新しい複合施設「リバーウォーク」を借景にした北九州市役所の対面。丸い銀色の球体が浮かぶ噴水の斜め南側にある。古くから北九州市に住んでいた方にはおなじみの風景だ。

さすがに築ウン十年となって老朽化してか、ついにお役ご免の時を迎えた。

小さな古いホールだけど、今から28年前の1975年から1981年まで、“マジ”に音楽をやっていたわてらにとっては、それはまさに「殿堂」と言ってもいい会場だった。

当時のメジャーな全国区ミュージシャンのほとんどがこの会館でコンサートをやっていたし、さらに地元のヒーローと言っていい多くのミュージシャンもここでの演奏が檜舞台だったからである。

◇    ◇    ◇

小倉市民会館でわてにとっての最大の思い出は、シーナ&ロケッツで現在も活躍している鮎川誠氏のサンハウス時代のステージを、スタッフ(手伝い)として舞台の袖から見たこと。サンハウスは高校生時代のわてらのヒーローだったし、コピーもしていたなぁ。生で見る鮎川さんは、ほんとうに格好良かった。

そして大学生の頃、福岡にあるBEAというブッキング会社のアルバイトでコンサートの設営をやっていた関係で警備がてら見た、長渕剛。コンサートの終わり、降りてきた緞帳が頭にゴッツン! 今では右派的民族歌手と成り果てたようで、あの頃の青春恋愛歌謡時代が懐かしいもんだ。

そして最後に、小倉を拠点に人気を誇ったバンド・とべない飛行船のデビュー初コンサートをここで見たこと。通称「とべひこ」とは、個人的にも関係というか人的繋がりがあったので、さらに思い出深い。

◇    ◇    ◇

さて、このレポートはその「とべない飛行船」など、北九州市の音楽シーンを彩った様々なバンドやグループが、小倉市民会館への惜別のために集った模様を伝えるもの。わての当時の想い出を織り交ぜながら、極私的に書かせてもらいます(敬称は当時の呼び方にします)

■オープニングは、「とべない飛行船」の演奏から。

今回のコンサートは、当時の音楽仲間が集まって出来たプロジェクト「音故知心」の最終段階だという。

第一段階は98年の「とべない飛行船・再飛行」コンサートで、これはわても見に行った。ちなみに、当サイトのグラムロックのコーナーで一緒に原稿を書いていたうっちん氏はかつてこのバンドのキーボードをやっていて、再飛行コンサートにも出演している。

それから5年目のこのコンサートが最終的な仕上げということで、小倉市民会館の有終の美を飾るものとなった。そのオープニングは、小倉を象徴する「とべない飛行船」だ。

わてと同年代の、キーボードのうっちん、ドラムの桃っちゃん、そしてギターの倉光君(以下倉光)にとって、“とべひこ”は兄貴であり、また音楽の師だった。

その3人、うっちんが中心となって「ウェルカム」というバンドを結成し、『とべない飛行船』の事務所兼合宿所に転がり込んで、弟分になった。音楽修行の傍ら、“とべひこ”のクルーをやってプロへの道を目指していたのである。

そんなことを思い出しながら、“とべひこ”の演奏に耳を傾けていた。やはり年季というか、演奏はビシッ!と決まっている。

会場は、8分くらいの入り。客席には大人に混じって、幼児から小学生、中学生などの姿も見える。“とべひこ”はアイドル的存在でもあった。当時中学生から高校生ぐらいの女の子たちも、いまでは30代中盤から40代を超えている。親となったファンが子どもを連れてきているのだ。わてらも、そういう年代になってしまった。
キャニオンからのデビュー作「あの頃青春」、セカンドシングルの「思い出せ、あの頃」など、懐かしい曲が流れると、思わず手拍子。

現在極度の貧窮状態にあるうっちん氏の姿は無かったが(爆)、オリジナルメンバーの針尾さんがキーボードを弾いていたのが印象的。

わても一時「ウェルカム」に居た時があり、あの合宿所の屋上だったかで練習したときのことをふと思い出してしまった。

■アプリコット
わてはフォークシーンには疎かったので、失礼な話だが「アプリコット」を覚えていなかったのである。

しかし、プロフィールを読んでびっくり。渡辺プロからの招きで研究生になって頑張っていたとは。さすがにそのハーモニーは健在だった。

歳を取ったと自嘲的なアナウンスがあったが、イヤイヤ。しっとりした色香が漂ってます。

■桃っちゃん、倉光と久しぶりの再会。

さて、ここでかつての仲間、桃っちゃんと倉光とロビーで再会する。倉光とは5年振り。桃っちゃんはわてのお袋の葬儀以来だから6カ月振りか。彼らは今回のプロジェクトで中心的な役割を果たし、機材のセッティングなどで大忙し。でも、その中で時間を割いてくれた。おおきに。

現在二人は「ジプシーローズ」という、1945年の敗戦後に男性諸氏に多大な功徳を施したある女性の源氏名をグループ名にして、セミプロで活躍している。若いミュージシャンたちの指導的役割を果たしているのだ。

また自作曲がレトロ門司港のラジオ局のテーマソングとなったり、番組を担当することになったそうである。

偉いなぁ。わてなんか、もうポロンポロンと弦を振るわすのが関の山だもんね(T_T)

中学生の頃、わて&桃っちゃん&うっちんで結成したのが「ヤンキーズマンネンズ」という妙竹林なユニット。教室で岡林信康なんかをガナっていた。ま、あれから30年。

■ゲストは、ふとがね金太さん。
当日のゲストは、戸畑出身で元ツイストのリーダー・ふとがね金太さん。

“とべひこ”とも古くからの知り合いであり、「音故知心」プロジェクトそのものにも深く関わっている方だ。

そう言えばBEAのアルバイトで、福岡市の電気ホールであったツイストのコンサートを手伝ったなぁ。前座はなんとハウンドドッグだった。

■素晴らしい演奏だった「摩天楼」

次に登場したのは「摩天楼」。このバンドはあの当時から凄腕だった。「北九州市民音楽祭」だったかで見た記憶がある。ぶっ飛んだね、ほんと。

ギターの幡手氏の名前は、アマチュア仲間でも轟いていた。ギタリストではビーフ?か幡手か?と言われていたもんだ(大嘘)

プロフィールを見ると、幡手氏は東京でプロミュージシャンをされているとのこと。やっぱり・・・というか。演奏もさすがプロ、素晴らしく息を呑むプレイの連続である。22年振りの再結成ということだったが、当時のオリジナル「耳なし法一」の緻密な構成とテクニックには、脱帽という感じだ。

■あ〜〜あ、懐かしの「シュレーダー」。

次にご登場は、特別セッションとして、福岡地元の誇りであるチューリップのカバーバンド「シュレーダー」だ! もう涙出てたのは、わてとメンバーの縁者くらいか(爆)

「シュレーダー」と、わてや桃っちゃん、うっちんとの接点は、中学時代のアイドルだったチューリップ。「シュレーダー」のメンバーだったボーカル&ギター&ピアノの山本君と倉光と知り合ったのは、高校生の頃だったろうか。
ボーカルの山本君、顔を見るのは25年ぶりになるかなぁ。驚いたよ、ここで会うとは。

76〜77年当時、わて&桃っちゃん、うっちんは「ストランド」というバンドをやっていたが、シュレーダーともメンバー入り乱れてコンサートや録音を行っていた。竪町にあったヤマハのホールでコンサートに出たり、録音スタジオで自作のアルバムを作っていたもんだ。

当時チューリップのカバーで、わてがあえて前衛的アプローチとしてブルーノートスケールでソロを取ったりしたが、それで今でもいぢめられる。困った話である。

彼らが演奏したのは、懐かしい「銀の指輪」と「青春の影」の2曲。ベースには倉光のなかなか美形派の奥方が友情出演。ご夫婦でギターをかき鳴らしているという。いいねぇ〜。

倉光のギター、桃っちゃんのドラムはさすがに現役、タイトに決まっていた。

■ブルース系の先輩バンド「武蔵」

お次は、ブルース系のテクニシャンが集まった「武蔵」である。わてらにとっては先輩バンドだ。さすがに、ギターもお上手。

あの頃は、ブルースブームだったこともあり、黒人音楽系はけっこう多かった。ブルースのジャムなんてよくやっていたなぁ。

懐かしい気持ちで耳を傾ける。

■NEW DOBBのひで、でしょ?

中入りに登場は、DOBB。あのNEW DOBBのひでだろうな。だって、あの高校生の頃やプロデビュー当時の面影がまったくないっちゃもん。

現在はバンド活動とともに、地元FM局で「DOBBのロック塾」という番組のパーソナリティもやっているという。

NEW DOBBには想い出がいっぱいある。

グループの中核だったひで兄弟の家が若松にあった。わてもそこの高校に通っていた関係上、家にお邪魔したり、高塔山の練習場でよく顔を会わせていた。重いアンプを転がしながら、山の上の音楽堂まで運んだもんだぁ。

ひでのギターは高校生の頃から素晴らしいものがあった。当時人気だったのは、ジェフ・ベック演奏の「哀しみの恋人たち」のカバーで、情感あふれるソロは高校の文化祭でも拍手喝采もの。ひでのプレイが有名なのに、わても無理矢理させられたことがあって、それは現在もトラウマである(──; わてはレスポールが嫌いなの!(言い訳)

また高塔山での練習仲間に「薔薇族」というグループがいた。ギターに当時T高校という地元の有名な進学校の生徒だった大江慎也氏が居て、ストーンズやシルバーヘッドのカバーをやっていた想い出がある。大江氏はその後「ルースターズ」を結成する。

大江氏はあの頃から独特のオーラを持っていたと、今でも思う。

■個性的なオリジナル曲が際だった「シュールモア」。

次の演奏は、わてらの先輩格のバンド「シュールモア」。レゲエやハードロック(当時的表現)風、でありながらも演歌だったり童謡風にも感じたりの、独特のオリジナルナンバーを演奏した。

終了後、ギターの小林氏に花束などが贈呈される。わてはその微笑ましい光景を見ながら、なんとも嬉しい気持ちになった。ええなぁ、音楽って。

■“とべひこ”関係者、山崎さんの特別バンド。

次も特別セッションのユニットである。

メンバーは“とべひこ”のクルーでもあり、また臨時メンバーとしてベースも務めていた山崎宏氏。現在は医師として活躍されている同氏が率いる「THE山崎」の登場だ。

福岡市で主婦をされてるという美人ボーカリスト嬢が歌うのは、リンダ・ロンシュタットなどのアメリカ西海岸カントリーPOP系の3曲。ギターには「摩天楼」のメンバーで現在歯科医をされているという山崎栄二氏が加わっていた。

そのため「山崎ブラザーズバンド」という名称での出演予定だったのだが、突如ふとがね金太氏が改名を迫って「THE山崎」という名前になったらしい。

さて。ベースを弾かれる山崎宏氏だが、わてが“とべひこ”の弟バンド「ウェルカム」で一時ギターを担当していた時に一緒に演奏したことがあった。ウェルカムのベースが不在となり、その助っ人として福岡県芦屋町で開催された“とべひこ”コンサートの前座にて一緒にプレイしていただいたのだった。

あの頃は、「うっちんさぁ〜〜〜ん!」ぬぅあんて黄色い歓声が降り注いでいたもんだが・・・。彼もいまでは4児の父、ただのベースケなおっさんになってしまった(爆)

■ハーモニーも演奏も見事だった「クッキージャム」〜「DU-PLEX」

クッキージャム」、そして「DU-PLEX」・・・懐かしい名前である。

ギター・ピアノの大内義隆君とギターの江尻利行君は、当時の八幡大学付属高校(現九州国際大学付属)の生徒だった。

わての実家が八大付属の真下にあった関係で、授業をさぼったわてと一緒に、よく付属の悪友らがタバコを吸ったり飯を食いに来たりしていたのだった。その時に、後に地元の商業カメラマンになったM君(ベーシストで一緒にバンドもやった)が引き合わせてくれたと思う。

また進学した大学もみんな一緒だった経緯もあって、一度わての古くて汚い実家に遊びに来てくれたこともあった。あの時は大内君だけだったかなぁ。

彼らはあの頃から独特の曲と美しいハーモニーが人気だった。プロデビュー後、ヒットが出ずに解散するが、大内君は作曲家やプロデューサーとして名を馳せた。少しだけど、同じ若かりし頃を共有した人間として、その活躍はとてもうれしかった。

わても一時期、同じ若松の学校に通っていたO君とフォークユニットを組んでいたことがあって、時々フォーク系の喫茶なんかで演奏していた。

大内君らの素晴らしい演奏を聞きながら「O君は今なにをやってるんだろうな?」なんて、かつての旧友のことを振り返っていた。会場も二人の演奏にじっくりと耳を傾けていた。

■桃っちゃんと倉光率いる、現役バンド「ジプシーローズ」を見る。

というわけで、福岡市の西の果てに住むわてである。そろそろ帰宅の時間も迫ってきた。午前11時からの開演、午後5時の終演という長丁場のコンサートで、さすがにわても歳だ、疲れてきたσ(*^^*)。今回は旧友である桃っちゃんと倉光のバンドを見たい聴きたいという大目的を果たしたら、帰ることにした。

残念だが、翌日は仕事・・・ま、そげな年代ちゅーわけですなぁ(^_^;)

彼らの演奏はどんなもんだろう?と興味しんしんである。ハードでありポップでありプログレでもあり、また色んな方法論を取り込んだというオリジナルで演奏活動をやっているという。かつての仲間のプレイ、わても気持ちが高まるのである。

わても昔はギター弾きだった。だから、高校から大学と多感な時期に一緒にプレイする機会が多かった倉光の“現役ぶり”に、心が多少はさざ波立つ。

演奏に聞き入る。・・・悔しいぞ! 倉光、あの頃よりもさらにさらに腕が上がっている。現役に戻ってもう10年近くになるというから、当然プレイに磨きが掛かっているとは言えだ。悔しいぃぃぃぃぃ! いつからそんな音を弾き出すようになったのだっ!!(-"-)
ドラムを叩く桃っちゃんの顔は遠くであまり確認出来なかった。しかし、倉光はちょうどカブリツキに陣取ったわての目前でプレイしてくれていた。昔から彼は柔和な表情でギターを弾くタイプだったが、それは今でも変わることなく、さらにプレイする喜びが溢れているように感じた。

桃っちゃん、倉光ぅ〜、いい演奏だったよ!

◇   ◇   ◇

わてもマジに楽器を弾くことが無くなったけど、昔の情熱ちゅーか、そんなものを呼び起こしてくれたコンサートやったですな。同期だった仲間が今でもしっかりとしたプレイを続けている姿を見て、とても感動した。そして、小倉市民会館での最後を飾ることが出来て、見ていて、本当に羨ましかった。

今は音符よりも文字をいじる方が趣味としては主になったけど、また機会があったらギターをかき鳴らしてみたいもんだ。

わてからも一言。

「さようなら小倉市民会館、ありがとう小倉市民会館」


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