★ 特許法70条、民法1条の3、特許権侵害、無効事由の主張、権利濫用の抗弁
H11. 9. 2
大阪地裁 H8(ワ)4216 ボルト締付機特許(争点)
特許権侵害訴訟において、当該特許が無効であると認定することにより請求棄却の判断を行えるか。
(判旨)
@ 特許権といえども、その権利の行使は信義に従い誠実にこれをなさなければならないのであって、権利の濫用は許されない(民法一条二項、三項)から、特許登録に明らかな無効事由がある場合、権利者が、第三者に対し、当該権利を行使し実施の差止等の民事的救済を得ることは、権利の濫用として許されない
A 本件特許出願優先日前である本件広告が掲載された「鋼構造ジャーナル」の発売時(昭和五六年六月一一日)には、既に原告価格表が作成され、原告において需要者に原告価格表を配布する用意があり、本件広告を見た需要者から購入の申し出を受けた場合には、同シャーレンチを販売する用意があったから、当業者が本件発明の内容を容易に知り得るような状態に至ったものと認められる。
(判決文の抜粋)
一 争点一について
1 特許法は、特許無効審判制度を設け(同法一二三条)、特許の無効に関する第一次的判断を特許庁の職責とし、審決の取消訴訟の第一審を東京高等裁判所の専属管轄に服せしめている(同法一七八条一項)ことからすると、侵害訴訟において裁判所が特許権の有効無効を判断することは、許されないと解される。
しかしながら、特許権といえども、その権利の行使は信義に従い誠実にこれをなさなければならないのであって、権利の濫用は許されない(民法一条二項、三項)。そして、特許登録に明らかな無効事由がある場合、本来当該特許登録に係る発明の実施は、権利者が独占できるものではなく、万人が享受できるものであることが明らかである。それにもかかわらず、無効であることが明らかな特許権を有する権利者が、第三者に対し、当該権利を行使し実施の差止等の民事的救済を得ることは、産業の発達を阻害するものであり、権利の濫用として許されないものというべきである。
被告らは、明確に権利の濫用を主張していないが、その主張の内容は、権利の濫用を根拠づける事実に該当すると認められるので、以下、この観点から判断する。
2ア 原告の製品であるS−6000タイプ(S−6100及びS−6200型シャーレンチ)が、本件発明の実施品であることは当事者間に争いがない。
イ 証拠(甲9の1、2、甲モの1ないし3、甲ヨ、乙4の1、2、弁論の全趣旨)によれば、右シャーレンチに関して次の事実が認められる。
A 原告は、S−6000タイプのシャーレンチに関する価格表(原告価格表、乙4の1)を発行しているが、同表にはS−6000タイプの内部構造図が掲載されており、同表末尾には「
1981.4.1現在」と、同表中の定価表には「昭和五六年四月一日現在」と記載されている。そして、右構造図にはS−6000タイプのシャーレンチの内部構造が詳細に図示されており、同図には本件発明の構成(特許請求の範囲第1項)の全てが明示されている(このことは、原告も争わない。)。B 原告価格表の作成に当たり、原告内部で作成された禀議書(甲9の1)では、起案日が「(昭和)五六年五月一七日」、件名が「S−6000・S−9000型価格表作成の件」、「目的又は理由」欄には「新機種発売に伴う調整、部数各三〇〇〇部作成」、添付書類欄には「添付見積書の通り 但し本見積書は一機種当り」、決裁年月日として「(昭和)五六年五月二六日」との記載があり、資料として添付された見積書(甲9の2)は大日本印刷株式会社作成の昭和五六年五月一二日付原告宛見積書であり、品名欄に「シャーレンチ価格表」、規格「A4」、数量「三〇〇〇」、単価「五七円」、金額「一七万一〇〇〇円」との記載があるほか、品名欄の「シャーレンチ価格表」の記載の下に「S−6000 三〇〇〇枚、S−9000 三〇〇〇枚」との書込みがある。
C 原告は、昭和五六年六月一一日付け週刊「鋼構造ジャーナル」(甲ヨ)に「新発売!!S−6000タイプ強力型」と題する広告(本件広告)を掲載したが、同広告には、S−6000タイプと思われるシャーレンチの外観写真が掲載され、その下方にはカタログを原告本社機器部等に請求することができる趣旨の記載がある。「鋼構造ジャーナル」は、建築鉄骨、鋼製橋梁、鉄塔、海洋・陸上各種大型構造物等の分野の専門誌であって、毎週月曜日に発行されている。
ウ 右認定事実からすると、原告は本件広告掲載時には既に本件発明の実施品であるS−6000タイプのシャーレンチの製造を開始しており、本件広告が掲載された「鋼構造ジャーナル」の発売時(昭和五六年六月一一日)には、既に原告価格表が作成され、原告において需要者に原告価格表を配布する用意があり、本件広告を見た需要者から購入の申し出を受けた場合には、同シャーレンチを販売する用意があったものと認められる。
もっとも、前記禀議書は、その記載からすれば昭和五六年五月一七日に作成され、同月二六日に決裁されたことが認められるから、原告価格表は、その日付(昭和五六年〔一九八一年〕四月一日)の記載にもかかわらず、右日付の時期に配付され始めたものとはいえない。原告価格表に記載された日付が、右のように実際の配付時期より遡った日である理由について、原告は、「原告においては、年度末(毎年五月末日)に過大の利益金が見込まれるときは、経理上の都合でカタログなどの印刷物が入荷されていないのに費用計上することが過去において再三あり、このような場合、カタログ等には、現実の印刷日でなく、費用計上より前の日付を記載していた。」と主張するところ、甲ムによれば、原告は、平成四年に、カタログ等広告宣伝物について、物が入荷されていないのに費用計上をしていたとして国税局の指導を受けていたことが認められ、原告主張のような取り扱いがされていた可能性があることは否定できない。
しかしながら、右禀議書は、前記のようなその記載内容からすれば、単にS−6000及びS−9000の新型シャーレンチの価格表の作成部数とその費用に関するものであると認められる上、見積書まで添付されているのであるから、新機種の製品が開発される一般的な手順からみて、稟議書が作成された昭和五六年五月一七日の時点で、S−6000タイプの商品開発、製造準備、価格決定、原告価格表の基本的内容の作成等は終了していたとみるのが適当である。そして、右禀議書が同月二六日に決裁を経た後は、原告において、正式に原告価格表の作成を業者に発注し、若干の校正を経て印刷され、これにより原告価格表は、禀議書決裁日である昭和五六年五月二六日から余り時間を経ることなく、公に配布することが可能となっていたものと推認される。
したがって、本件発明の実施品であるS−6000タイプは、遅くとも本件優先権主張日である昭和五六年七月四日よりも前に、原告によって製造、販売が開始され、当業者が本件発明の内容を容易に知り得るような状態に至ったものと認められる。
(中略)
3 よって、本件発明は、その優先権主張日である昭和五六年七月四日よりも以前に、原告によって公然と実施されていたものであると認められ、特許法二九条一項二号、四三条の二第一項、パリ条約(千九百年十二月十四日にブラッセルで、千九百十一年六月二日にワシントンで、千九百二十五年十一月六日にヘーグで、千九百三十四年六月二日にロンドンで、千九百五十八年十月三十一日にリスボンで及び千九百六十七年七月十四日にストックホルムで改正された工業所有権の保護に関する千八百八十三年三月二十日のパリ条約)四条B前段により特許登録を受けられない発明であったことが明らかであり、本件特許権は、特許法一二三条一項二号により無効審判手続において特許を無効とされるべきものであることが明らかである。したがって、原告が、そのような本件特許権に基づき、被告会社に対し被告物件の差止等を求め、被告三浦に対し損害賠償を求めることは、権利の濫用に当たるものというべきである。
(コメント)
我が国においては、特許の有効無効の判断は特許庁の専権であるため、訴訟において特許無効の抗弁を主張することは原則として失当である(これを認めたいくつかの裁判例はあるようである)。これに対しては、近年の特許紛争の早期解決の要請から改善が求められているところでもある。本判決はこのような背景でなされたものであるが、無効事由が出願日前の特許品販売による新規性喪失という、民事的判断に馴染むものであったことから、行政処分における重大かつ明白な瑕疵の法理を援用して、原告の請求を権利濫用と構成したものと思われる。なお、この事案では、被告らは明示的に権利濫用の主張をしていない点も興味を引く。