印税を受け取らない理由
  
  

 『STAR EGG 星の玉子さま』発刊にあたって    
2004/10/8 森博嗣 

 文藝春秋から本を出すのは初めてのことです。今までに各社から百冊以上の本を出しましたが、
今回の『STAR EGG 星の玉子さま』は、幾つかの点で特異な一冊といえます。たとえば、このように、自分の本について発行と同時に一文を書く、などということも初めてです。小説では、本の中にまえがきもあとがきも一切書きません。そういう姿勢でこれまできました。

 絵本は、過去に数冊作りましたけれど、すべて他の方に絵を描いていただきました。ですから、『STAR EGG 星の玉子さま』は、初めて自分で絵を描いた、自分の絵を使った最初の作品です。
これが見かけ上の最も大きな特徴だと思います。
 しかし、本当の特異点は別にあります。この本は、「できるだけ多くの人に読んでもらいたい」と僕が考えた初めての作品なのです。そんなこと、当たり前ではないのか。作家たるもの、書いた作品を、上梓した本を、できるだけ多くの読者の手に取ってもらいたいと願うのは、ごく普通の感情だろう、と思われるかもしれません。しかし、正直にいいますが、僕は今回が初めてなのです。

 これまでの百冊の本の中で、読んでくれ、と人に薦めた本はありません。読者に対しても、「面白いから、読んで下さい」と言ったこともないし、どこかに書いたことも一度もありません。それどころか、知人や親族にさえ、発行された本を進呈する、といったことはしませんでした。出版社からは、本ができると見本として十冊をいただけるのですが、それらは封をしたまま、僕の書斎に山積みされています。つまり千冊です。既にこの書斎は倉庫になりました。例外として、毎回本を送って下さる作家の方、二十人くらいに、お返しとして出版社から贈呈本を送ることはありますが、自分からすすんで送ったことは一度もなかったはずです。
 読みたい、と向こうが希望していなければ、本をこちらから手渡すことは、とても恥ずかしい行為だと僕には思えました。だから、「できるだけ沢山の方に」といった発想にはなりません。読みたい人だけが手に取ってくれれば、それで充分だし、その人が支払ったお金の分だけでも満足をしてくれたら、それで本の機能は果たせるだろう、と自分では考えていました。
 その姿勢は今も変わりはありません。これからも、しばらくはこんなふうでしょう。

 そんな森博嗣ですが、しかし、今回だけは、みんなに読んでもらえたら良いな、と少し思いました。それはつまり、これならば、まあまあ恥ずかしくないかもしれないな、という気がちょっとしたからです。つまり、言葉にすると非常に傲慢な印象ですけれど、それは「自信」に近いものだと思われます。もちろん、発泡スチロールの小さな一粒みたいな、大変小さくて軽い自信ですが……。

 そもそも、子供の頃から本を読むことも、文章を書くことも大嫌いでしたから、自分の能力として、小説の執筆にはこれっぽっちも自信を持っていません。出来上がった作品に対する自己評価は非常に低いものです。それに比べれば、僕は自分の描く絵が好きだし、子供のときから絵を描くことが好きでした。絵ならば、まあまあ恥ずかしくない程度のレベルにはあるのではないかと感じます。
 ただ、他人から絵を褒められたことはほとんどありません。むしろ、下手だとか、不器用だと言われ続けてきました。学校の先生からも絵を褒められたことはないし、ようするに、まだ人に認められたことはないのです。しかし、自己評価では、「まあまあ良い」ということです。僕は、自分の評価は、自分一人でするシステムを採用しています。どこかに審査員を作ったり、大勢の多数決で、自分の評価をするような、民主的な制度は採用していません。僕の場合、自分の評価が絶対的であり、しかも明確です。逆に、他人に褒められても、貶されても、まったく気にならないし、自分の判断がそれで変わることもありません。子供のときから、そういう点では「余所見をしない子」だったのです。

 つまり、こういったとても自分勝手で我が儘な価値観に基づいて、今回の本を人に薦めてみようと考えた次第です。もう少しやわらかくいえば、ようやくなんとか、人に薦められる本を、絵という(僕だけが認める)奥の手を使って作ることができた、というわけです。
 さて、できるだけ多くの人に読んでもらいたい、という場合、どうしたら良いでしょう。そうやって、口で言うだけでは充分ではありません。そのためにはどう行動すれば良いか、を考えました。
 簡単です。本を無料で配れば良いのです。この発想から、今回の絵本では、著者印税をゼロにしてもらい、逆に僕の方から資金を出版社に提供して、本を作ったり、宣伝をしてもらおうと考えました。もちろん、同人誌ではありませんので、出版社にも出版社のポリシィがあり、流通その他の制約も存在します。僕の申し出は、編集部で物議を醸すことになりました。

 全国の書店に流通するものですから、本を無料にすることは困難です。本当に無料にしてしまったら、どれだけ本を作っても足りないし、僕以外に沢山の人が損をします。では、僕が出すお金を使って、新聞やテレビで広告を出してはどうだろうか。それも提案してみましたが、出版社の重役会議にまでかかって、やはり認められませんでした。出版社の立場はよく理解できます。そんな勝手なことを許していては、通常の出版業務に影響が出ます。変な前例を作るわけにはいかないのでしょう。でも、このようなやり取りの末、僕の本気が理解してもらえたようです。普段よりは広く宣伝をしていただけることにもなりました。

 自己資金を出版や広告には使えないことになりましたので、次に僕が考えたのは、できた本千冊を僕が買い上げ、方々へ配って回ろう、という広報活動です。目的は、より多くの人に知ってもらうことです。ちなみに、これまで、自分の本を自分で買ったことは一度もありません。
 印税をゼロにすることは認めてもらえました。これによって、本の値段は四割も安くなりました。願ってもないことです。常々、日本の書籍は安すぎると方々で書いてきましたが、今回だけは特別です。なにしろ、もともとは無料にしたかったのですから。
 印税がゼロのうえ千冊の本を購入するのですから、当然ながら、僕としては赤字です。しかし、当初は、多額の宣伝費を支出するつもりでいましたので、それに比べたら、何分の一という安さです。文藝春秋の担当I井氏には、当初から無理、我が儘を言ってきましたので、このあたりが妥協点かという感じで、今は納得しています。

 買い上げた千冊は、各方面で活躍している著名人に送ろうと思います。そうすれば、そのうちのほんの一部でも、もしかしたら他の人にこの本の噂をしてくれるかもしれません。少しでも、多くの方が目にとめてくれれば良いな、と思いますし、すべてはそのために実施したことです。
 ところが、僕はテレビも見ないし、新聞も読まない人間ですので、現在の日本で、どんな方が著名人(特に、影響力のある人)なのかあまり詳しく知りません。一所懸命考えましたが、名前を思いつく人はせいぜい五十人程度でした。そこで、読者の方々に、インターネットで「この絵本を誰に送りたいか」という募集をすることに決めたのです。

 この絵本を誰に送りたいか、そして、その理由を、メールで受け付ける予定です。そして、その中から僕が選んで、どんどん本を送ろう、というプロジェクトです。インターネットの僕のHPで、希望があった送り先を公表し、そのうち、どこへ実際に送ったかを、可能なかぎりリアルタイムで報告するつもりです。どうか、皆さんのご協力をお願いいたします。
 また、送り先の住所を調べたり、実際の発送作業は、文藝春秋の方の手を煩わせることになります。たぶん、出版社としては元は取れるとは思いますけれど、考えてみたら余分な仕事です。この点では深く感謝をしています。

(文藝春秋「本の話」12月号に掲載)
 

 
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