エッセィ

作家として使える頭脳が得られたか?

/☆Go Back☆/

 先月号のイン★ポケットはネット上で大いに話題になったが、顛末はこの号に載るのだろうか。さて、本誌にエッセィを、と頼まれ、〆切よりも1週間以上まえにメールで原稿を送った。1200文字で依頼されたのが、つい筆がのってしまって1500文字になってしまった。このため、スペースオーバとなり、数日後、「削ってほしい」と要求された。ここで言い訳だ。当方もプロの文章書きなので、一応は最適化した完成品として出荷している。だから、完成した車の重量を2割減らしてほしいと要求されるのと同じくらい、文章を切るのは難しい。可能だが、一度最適のものを見てしまうと、どうしても不満が残る。さて、重要なことは、もともとは、依頼された文字量を超えて出荷した森が一番いけない、ということだ。まだまだ作家にはなれない所以である。

 というわけで、もう信じられないくらいめちゃくちゃ面白い内容のエッセィを奇跡的に書き上げたのだが、それはあっさりボツにして、ここに書き直すことにした。幻の原稿はどうなったのか、と読者の期待だけ高め、そのまま闇に葬りたい(ほら、こんなことを書いているうちにもう480文字だ)。

 まさか自分が小説など書くことになるなんて思ってもみなかった。文章(特に物語)を書くことに慣れていない人間なので、最初の頃は本当に苦労(というより驚異)の連続だった。その中でも、何が最も苦労だったかというと、表記の問題だ。漢字で書くのか、ひらがなで書くのか、カタカナ表記にもバリエーションがある。つまり、内容や文章表現以前の、基本的な文字の作法がわかっていなかった。少しでも小説を書いた経験があれば、こんなことは意識せずにすんだのだろう。

 できれば、作品中では表記を統一したい。ばらばらではみっともないだろう。だから、表を作って書き出してみた。自分なりのルールを構築しようとした。だが、たちまち、そのマイ・ルール表は肥大化する。例外も次々に現れる始末。たとえば、「駄目」と漢字で書きたいときもあれば、「だめ」と軽くひらがなにしたいときだってある、ということが物語を書いていて初めてわかる。森のような真面目で固い(こんなに几帳面な人はN市内には2、3人しかいないぞ! と勝手に思うことの多い)人間でさえ、これくらい揺れ動くのである。作家の方々の苦労が偲ばれる。

 日頃は学術論文を書いているわけで、小説とはまったく違う表記に慣れている。ワープロの辞書も切り替える必要がある。だが、頭はそんなに簡単には切り替わらない。難儀なことだ。しかし、何作か書くうちに、不思議に馴染んできた。覚えるものだ。表記方法もずいぶん変化したものの、しだいに収束し、定着して、例のルール表もいつしか不要になった。人間の頭脳というのは(四十歳を過ぎても)なかなか使えるアイテムだと妙に感心。まんざらでもない。「まんざら」ってどう書いたら良いのか?(ここで1200文字だ!)
 

(1999.7、「IN★POCKET」に掲載)


こちらがボツになった文字オーバの原稿だ!

ミステリィを書いて学んだこと

/☆Go Back☆/

 「笑わない数学者」を書いたのは4年前の9月。ノートパソコンの打ちにくいキーボードを途中で何度か分解・掃除しながら書いた。毎晩遅くなってからの執筆で約2週間かかった。

 作品としては2作目になる。1作目は、骨格をさきに書いてから肉付けする手順で書いてみたが、この程度の長さであれば人間の頭脳に一時に展開できることが判明したので、この作品ではシーケンシャルに書き進んだ。もちろん、まだデビューするまえのこと。したがって、誰が読むのか、確定していない。読んでくれるとしたら、娘か妻か・・、それさえ期待薄、という状況。それでも、シリーズものとして書いていたのだから不思議である。

 理由は、その方が楽だから、であろう。

 とにかく、あまり苦労がしたくない。何事も合理的であってほしい。最適化したい。ストーリィをミステリィにしたのも、主人公を大学の教官にしたのも、あるいは、数学をテーマにしたのも、ひとえに、「楽だから」という理由だ。人は、自分にとって楽なもの、そして楽な道、を選べば良いと思う。それが適材適所で他人の役に立つことにもなる。そう信じよう。これがラクチンの法則。少なくとも、自分にとって何がラクチンなのかを探すことは重要だろう。また、逆の意味で、自分にとって最も苦労の多い道を探すことにも意味がある。つまりは、「ビジネス」か「修行」か、という両極だ。

 大学の教官になって、(専門ではないのだが)数学の入学試験問題を作成する作業を何度か任された。受験生がせいぜい30分で解く1問に2カ月以上の時間を使い、数人で議論して練り上げる。少なくとも、解く者の50倍の時間は、その問題について考えている計算になる。これが問題提出者の仕事だ。もしかして、ミステリィ、否、小説でも同じだろうか(森はまだ見極めていない)。

 解答者はひたすら答を求めれば良い。目標に向かってただ走れば良い(このルーチンの多くは機械によって代替できる)。ところが問題制作者は、あらゆる道筋をチェックし、あらゆる可能性を試し、あらゆる誤解を予測しなければならない。彼らが走る道を整備し、彼らが走るときに見るものを想定し、当然ながら、事前に自分で何度も走ってみる。結果として、採点時に「こんな解決方法があったのか」と感嘆することはまずない。さらに、何割が問題を正確に解くのか、どの段階まで理解されるか、平均点がどれくらいになるのかも、事前にコントロールされていなければならない。そのためにヒントも表現も厳選される。

 このように、問題を提出する行為とは、問題を解く行為に比較して、格段に苦労が多い(ように見える)。

 常々考えるのだが、学生に試験問題を解かせるのではなく、学生に問題そのものを作成してもらう、つまりテストを作らせるのが良いだろう。彼らにとってもこれ以上の勉強はないし、また、その能力を的確に評価できるに違いない。ただし、おそらく、それができない学生がほとんどなのである。今の学校教育は「問題を解く人間」を生産することに終始しているからだ。

 数学の先生に、テストのあとで学生が文句をいう。「こんなの簡単過ぎるよ、先生」「解けるわけないじゃん、難しい過ぎる」そのいずれに対しても、先生はただ微笑むしかない。「君が作ってごらん」と言いたいところを我慢しながら・・。

 ミステリィを書くことは、ミステリィを読むことよりも苦労が多い。それが、この4年間で森が学んだことだ。これはラクチンの法則に矛盾している。

つまり、これは修行か?


/☆Go Back☆/ ★Go to Top★