『四季 春』試読者の声
2003/9/13up

  

今年の初め頃だったかと思いますが、『四季 春』が出版されるまえに、読者の方にゲラを読んでもらう、という変わった企画が持ち上がりました。「試写会」ならぬ、「試読会」です。その結果、いただいた感想からピックアップして広告のコピィに使おうというアイデアです。これが実現し、7月後半に、十数名の方に初稿(間違いだらけだったかと思いますが)をお送りすることになりました。講談社の広告に使われた文章はほんの一部、僅かなものだけですので、ここでは、その全文をご紹介しましょう(書かれた方々の了解を得ている、とのことです)。なお、作品を未読の方のために、文章中に森がマスク(●)をしました。【2003/9/12 森博嗣】

(大阪府・三十九歳・女性)

 白いドレスの小さな手は何と強大な力を持つのか!
「彼女」のその後に関する話の幾つかを既に垣間見ている読者(私)は、遡った時間の光景に多少たじろいだ。それは想像を超えた能力の開示の一部分だったからだ。
 季節に彩られた湖から湧き出た水を操り、川を作り出すのは、彼女だったのか、と思う。
 華奢な手が操る幾筋もの川は少しずつ合流し、大きな河川となって流れて行く。それが今までの森作品であり、このシリーズの様な気がする。
 しかし、私が見たのはまだ一つの春の風景だけなのだ。芽吹く春が新緑の夏に変わりゆくとき、私はどんな緑の濃さを見ることになるのだろう。

東京都・三十三歳・女性

「春」は四季の始まりだ。  この本は、いくつもの森作品を読んできた人たちに最も強烈な印象を残したと言える、天才・真賀田四季の物語だ。
 手にする多くの人が、いったい何がこの物語で語られるのか、胸を高まらせ、待ち望んでいたことだろう。
 そして、危惧する人もいるだろう。
 あの真賀田四季をいったい誰が語るのか。平凡な一個人が語ったところで、彼女の凄さのほんの一部しか表現できないのではないか、あまりにも陳腐なものになって自分をがっかりさせるのではないか、と。
 物語は「僕」によって語られる。最初はその視点に戸惑いを覚えるが、やがて引き込まれ、読み手は「僕」になる。そして、彼女の力の前にひれ伏し、隷属するのだ。
 その心地よさ。私達はいつも、何か大きな力の前にひれ伏したいと心の奥底では思っている。だからこそ、真賀田四季という存在に惹かれるのだろう。また一方では、その圧倒的な存在から逃れたいとも思っているのだ。
「四季・春」は孤独な真賀田四季の始まりの物語であり、静かで、激しい、序章である。私たちは「僕」になることで、その一端に触れることができる。これからどんな四季が展開されるのか期待せずにはいられない。

千葉県・二十七歳・男性

 私が初めて手に取った森ミステリィは「すべてがFになる」であった。すでに周知のことだが、S&Mシリーズの1作目である。シリーズ名の通り犀川助教授、西之園萌絵が主人公であるが、読みすすめていくうちに彼女の存在感を感じずにはいられなかった。今でも心に焼き付いている。シリーズ続編が次々に出版されていく中でも、彼女に対する議論がやむことは無かった。

 一脇役に何故これほどまでに読者が注目し続けるのか?

 このとき私はその答えを見いだすことができなかった。
その間、Vシリーズを初めとする多くの作品が発表されていった。
・・・しかし「四季・春」を読み終えて実感した。

 彼女のためにこれまでの作品はつづられてきたのだと。

 だからこそ多くの読者がその魅力に引き込まれ、そしてこうも感じたことだろう。
「もっと彼女を知りたい!」
「少しでも彼女に近づきたい!」
……と。

「すべてがFになる」が発刊されて早七年。ついにそれが実現する。彼女の視点で観察し、彼女の思考を垣間見る。

「彼女は四季、僕らはそれを痛感する」

東京都・三十三歳・女性

 脳のニューロンが新たなシナプスを生むときに快感を伴うとすれば、きっと、こんな感じかも知れない。
自分は何の為に生まれて来たのか、生きる価値って何なのか、恐くて考えたくなくて、曖昧なままに日々暮らしている自分に「それで良いんだよ」と、やさしく云ってもらえた気がする。

東京都・二十九歳・女性

 まさかもう一度、貴女に会える日が来るとは。
 本書を手にしたとき、そんな純粋な喜びを覚えた。
 これまで発表された作品同士が鮮やかにリンクされていくことに感嘆すると同時に、真賀田四季という天才が成長していくプロセスをかいま見ることができることに、昂奮を覚えずにはいられなかった。
 もちろん、森ミステリィだけに作中にあっと驚く仕掛けはあるのだが、本作はミステリィという概念では括ることはできないだろう。真賀田四季という”天才”の物語――としか言いようがないのだ。
 希望に満ちた「春」に始まり、「夏」、「秋」そして凍てついた「冬」に至るまでのあいだ、彼女はこの世の中に何を見出すのだろうか。
 彼女にとって、生きるというのはどういうことなのか。
 彼女はどこから来て、そしてどこに行こうとしているのか。
 この先に出会うであろう人々との関わりを、彼女はどのようなものとして捉えるのか。
 そして、私たちはどこまで、真賀田四季という天才の深淵に近づくことができるのだろうか。
こうして「四季」という四部作において、我々読者が真賀田四季の過去、現在、そして未来を読めるというのは、あまりにも幸福なことだと感じずにはいられない。たとえこの一冊を読み終えたとしても、私たちにはあと三度も、彼女に出会うチャンスが残されているのだから。

埼玉県・J書店・女性

 読み終えてまず思ったのが、この小説は新しいファンを得るための小説ではない、森博嗣の小説のファンのために書かれた本だ、と言うことです。

 『真賀田四季』というキャラクターが、この小説の後に何をするかを知った上で読まなければ、この小説は楽しめないのではないかと思いますし、恐らく森先生自身もこの小説を読む読者が犀川シリーズとVシリーズを読んでいることを前提としているのではないのでしょうか? 『F』を初めとしたシリーズを読まなければ、この小説を楽しむための土台がないので、それほどこの少女時代の四季に魅力を感じることが出来ないと思うのです。

 推理小説にはしばしばいわゆる「名敵役」というキャラクターが登場し、それによってストーリーがより魅力的になることがあると思います。私の友人たちやインターネットのファンサイトなどでは、真賀田博士はとても人気があります。●●●●●であり、●●●●で判断すれば彼女は●であるはずなのに、私の周囲ではヒロインの萌絵以上に人気があります。「真賀田四季」というキャラクターはとても魅力的なのですね。

 以前から思っていたのですが、森先生は「天才」描くのがとてもうまい作家だと思います。シリーズの中でも何人もの天才が出てくるのですが、真賀田四季はその中でも完成された天才だと思うのです。その完成された天才:真賀田四季という人間が出来上がる過程は非常に興味深く、この小説を読み終わった後は必ず完成形である『すべてはFになる』を読みなおしたくなるはずです。

 四季の兄である其志雄に対する四季の感情と、その変化。もう一人の●●である「其志雄」への四季の依存ぶりなど、まだ成長途中の四季のある種の人間らしさが、その後の四季を形創ってゆく。森先生が最初に「F」を書いた段階でここまで想定していたのでしょうか? その計画性には本当に驚きます。

 最後の方で、慣れ親しんだキャラクターが現れたとき、実は少し安心したんです。天才の思考を読み続けて少し怖くなっていたのかもしれません。

 次作品の「夏」を早く読みたくてたまりません。「春」だけではまだ正直物足りないですね。

 「夏」が楽しみです。

長野県・三十三歳・女性

 待ちに待った待望の新刊、だ。
 あまりにも期待していたせいか、「待つ」が三重になってしまった(時間的にはそれほど待ってはいない。森先生の発刊ペースは相変わらず驚異的に速い)。
 そしてその期待は見事に、かなえられた。
 否、手にしたのがまだ「春」だけということを考えれば、
 最終的には期待値を軽く4倍は超えてしまうのかもしれない。
 ある意味、怖い。

 過去の作品にちりばめられた謎が、少しずつ明かされていく。まるで、ジグソーパズルのピースがはまっていくような感覚。正しいピースが入ると、その隣にはめ込んでいたのは実は違う場所のものだった、と気づくのはよくあること。そうして間違っていたピースが正しい場所に移り、パズルは完成に近づいていく。まさに今。
 最後に出来上がるのはどんな絵なのだろうか。

東京都・B書店・女性

 森博嗣好きなら必ず知っている「真賀田四季」という、天才の回顧録である。
 あまりにも幼い彼女が、人として生きるためには歪まざるを得なかったのでしょう。
 それにしても“天才”であるという事は、かくも残酷で冷たく、孤独で、美しく歪んでいるものなのかと驚愕させられます。
 しかしその歪みを、森氏の文体はあくまで淡々と美しく、幻想的に描いており、読者にとって不快感はないのです。
 今作で大きな“歪み”を喪失してしまった彼女が、今後何を経験し、誰と出逢った後、私たちが知っている彼女になってゆくのか、次回作「夏」がとても気になります。

愛知県・二十六歳・男性

 森ミステリィで描かれる時代・人物・テーマは様々であるが、全体を見渡してみたとき、そこには大きな本流が流れていることに気づく。森ミステリィを読んでいると年齢・性別の範疇を越え、個人の肉体までも超越して存在する人格というものを予感することができる。そこに語られているのはつまり、人間の本質とは何かという問いではないだろうか。

 私にとって、森ミステリィ作品群は、人格や意志・思考といった、人間のどこにあるとも言えなくて、外側からの観察では直接見ることのできない人間の本質的な部分を浮かび上がらせ、それを垣間見せてくれる存在である。ちょうど周りの星々の観察から、ブラックホールの存在や性質を推測する行為に似ているかもしれない。あるいは、人間の本質とは、例えば、白い紙の下に隠された硬貨みたいなものかもしれない。その場合、森ミステリィを一作品読む行為とは、紙の上に鋭く一本線を引くことにあたる。上から見ているだけでは紙の下に何が隠されているのかも判らない。紙の上から触れてみれば、形・硬さなどの性質を少しは感じることができるけれども、その詳細はまだ判然としないだろう。紙が厚ければなおさら難しくなる。そこで線を引いて紙の上から硬貨をなぞるのだ。一本だけでは下にある硬貨の全容はもちろん判らない。もう一本引き、さらにもう一本、とそうやってどんどん線の数を増やしていくうちに、やがて硬貨の輪郭が浮かび上がり、その模様も詳細に見えるようになるのである。森ミステリィを読むことは、まさにそういう感覚である。ある程度線を引けば、硬貨の種類や裏表が判るようになるだろう。ただし、それでも硬貨自体の色は見えないので、隠されたものが五百円玉だったりすると、その新旧を見分けるには、より多くの線を引いてみる必要がある。それも前に引いた線と重複しては意味がない。常に新しい余白を見つけ、新たな位置・角度から硬貨をなぞらなければならないわけだが、森ミステリィは作品ごとに見事に異なる線を引いてくれるのである。

 そして今回、また新しい一本の線が引かれようとしている。しかもこれまでよりもかなり太い線のように思う。今までに引かれてきた線の集合によって、ぼんやりと浮かび上がっていた面を、軽く塗りつぶしてしまうくらいの太さかもしれない。ここまで人間の内側に入り込んだ作品が今までにあっただろうか。主観であると同時に客観でもある視点。あの天才に最も近く、最も遠い存在によって語られる物語。それは最も核心に近いのに、最も遠いということ。すべての人と隔絶されていながらも、すべての人に影響を与える彼女。一体どこからどこまでが彼女の領域なのか・・、想像するだけで恐ろしい。彼女との再会に喜んだのも束の間、翻弄され、目眩を感じ、その絶対感に畏怖を覚えた。ひょっとしたら、人類の誕生も彼女の意志だったのかもしれない、とさえ思えてくるほどである。日本に四季があるのも、たぶん彼女の意志に違いない。ちょっと大袈裟だけど、素直にそう思う。新しくもあり懐かしくもある彼女との再会が、意識していなかった点と点を結ぶ感覚。その結果引かれた線も、まだ終点には達していない。「夏」「秋」「冬」と読み終えたとき、紙の上にどんな硬貨の姿が浮かび上がっているのだろうか。これまでに引かれた線をもう一度なぞりながら、その日を楽しみに待ちたいと思う。

千葉県・三十六歳・女性

 美しい会話が、続いていく。
 透き通った精神が、脳に心地良く染み込んでいく。
 書いてあること何もかも、ああその通りと納得していく。
 3歳の、5歳の、8歳の天才の姿を、何の抵抗もなく受け入れてしまった。
 いいのか、いいのだろうか、すべて納得してしまって。
 天才って何? 天才の定義って何?
 疑わなくて、良いの? あなた、頭を使っているの?

 なんて何かが自分に囁きだしたのは、3回も読み返してから。
 季節は始まったばかりだから、まだこの続きがあると知っているから、
 安心に身を任せ、ただただ頁をめくり続けていただけの私。
 指先には5グラム位の緊張感。冬、そのときには何グラム?

 切ない語り部の一言一言が胸を打つ。
 次は、誰が語るのだろう。夏は、秋は、そして冬は?

 今はただ、この物語にめぐりあえたことに感謝いたします。

愛知県・四十二歳・男性

 およそ人間が既に発明しているであろう、必要とされるものの存在を、三歳であるが故に具体的に知らなくても、真賀田四季さんは予測しちゃう。そんな天才な! そして、花筒の部分が長い蘭を見てダーウィンが口吻の長い蛾の存在を予言したのと同様、これこそが推理というものの本質だと知った。決して当てものではない、天才にのみ可能な、論理的思考の賜物こそが推理であり、中でも究極の推理とは「存在の予言」なのだ。森作品の探偵がいずれも天才として描かれている訳が、ここに到ってやっと理解できました♪

東京都・二十七歳・女性

 私達はどこから来て、そしてどこへ行くのか。自分という意識の本質はどこにあるのか。誰もが常にどこかで問い続けているテーマであり、それを考えるときのスリルを皆が知っている。私という存在の意味と価値を丸ごとつかみ取りたいという欲求が、その思考をドライブする。

 森はデビュー作の『すべてがFになる』からずっと、我々のこの欲求を刺激しつづけてきた。天才・真賀田四季というキャラクタ自体が、人間の本質という概念と意識と肉体の関係をモデル化した存在であり、四季の少女時代の物語である『春』もそういう意味で充分にエキサイティングだ。しかし森の作品の魅力はそんな興奮のさらに先、もっと遠く静かな場所にある。

 森の小説に登場する人間はみな飛ぼうとする。それは現実の肉体を意識の入れ物として捉え、入出力を制限する容器から意識を解放する物語を森が描いてきたからだ。自由に飛翔するために彼等はさまざまなものを切り捨て、破壊しようとさえもする。そうして自由と孤独を知った人間が見るかもしれない風景が、作中で微かに映し出される。空の果てから微弱な電波に乗せて届けられるようなこの映像が、すなわち森作品の価値だろう。それは誇り高く、寂しげで、何故かとても優しい。

東京都・Y書店・男性

 真賀田四季という天才は、窮屈で孤独な存在であるがゆえに、多重な人格を形成してしまった。栗本其志雄から見た彼女の物語は、これほどまでに悲しいものであると感じた。
 『すべてがFになる』をお読みでない方は、理解不能なお話です。本書を読まれる前に、『すべてがFになる』をお読みください。また、本書を読まれたあとも、『すべてがFになる』を読み返してください。全く違った読み方ができます。

東京都・F書店・女性

 読み終えて即行『すべてがFになる』を読み返してしまいました。以前読んだ時とは違う、硬質の『F』にどこまでも深い切ない色彩が 入って、えもいわれぬ読後となりました。
 1+1が2以上、4にも5にもなる、こういう感動はやはり読書の醍醐味ですよね。嬉しいです。
真賀田四季が好きになりました(それまでは得体が知れないなあ・・と思ってましたが)。そして『四季 春』を読むにつけ、彼女のしあわせは何処にあるのだろう、心の底から笑ったことはあるのかな、といらぬ心配までするようになってしまいました。



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