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今年の初め頃だったかと思いますが、『四季 春』が出版されるまえに、読者の方にゲラを読んでもらう、という変わった企画が持ち上がりました。「試写会」ならぬ、「試読会」です。その結果、いただいた感想からピックアップして広告のコピィに使おうというアイデアです。これが実現し、7月後半に、十数名の方に初稿(間違いだらけだったかと思いますが)をお送りすることになりました。講談社の広告に使われた文章はほんの一部、僅かなものだけですので、ここでは、その全文をご紹介しましょう(書かれた方々の了解を得ている、とのことです)。なお、作品を未読の方のために、文章中に森がマスク(●)をしました。【2003/9/12 森博嗣】
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白いドレスの小さな手は何と強大な力を持つのか! |
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「春」は四季の始まりだ。
この本は、いくつもの森作品を読んできた人たちに最も強烈な印象を残したと言える、天才・真賀田四季の物語だ。 |
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私が初めて手に取った森ミステリィは「すべてがFになる」であった。すでに周知のことだが、S&Mシリーズの1作目である。シリーズ名の通り犀川助教授、西之園萌絵が主人公であるが、読みすすめていくうちに彼女の存在感を感じずにはいられなかった。今でも心に焼き付いている。シリーズ続編が次々に出版されていく中でも、彼女に対する議論がやむことは無かった。 |
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脳のニューロンが新たなシナプスを生むときに快感を伴うとすれば、きっと、こんな感じかも知れない。 |
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まさかもう一度、貴女に会える日が来るとは。 |
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読み終えてまず思ったのが、この小説は新しいファンを得るための小説ではない、森博嗣の小説のファンのために書かれた本だ、と言うことです。 |
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待ちに待った待望の新刊、だ。 |
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森博嗣好きなら必ず知っている「真賀田四季」という、天才の回顧録である。 |
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森ミステリィで描かれる時代・人物・テーマは様々であるが、全体を見渡してみたとき、そこには大きな本流が流れていることに気づく。森ミステリィを読んでいると年齢・性別の範疇を越え、個人の肉体までも超越して存在する人格というものを予感することができる。そこに語られているのはつまり、人間の本質とは何かという問いではないだろうか。 |
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美しい会話が、続いていく。 |
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およそ人間が既に発明しているであろう、必要とされるものの存在を、三歳であるが故に具体的に知らなくても、真賀田四季さんは予測しちゃう。そんな天才な! そして、花筒の部分が長い蘭を見てダーウィンが口吻の長い蛾の存在を予言したのと同様、これこそが推理というものの本質だと知った。決して当てものではない、天才にのみ可能な、論理的思考の賜物こそが推理であり、中でも究極の推理とは「存在の予言」なのだ。森作品の探偵がいずれも天才として描かれている訳が、ここに到ってやっと理解できました♪ |
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私達はどこから来て、そしてどこへ行くのか。自分という意識の本質はどこにあるのか。誰もが常にどこかで問い続けているテーマであり、それを考えるときのスリルを皆が知っている。私という存在の意味と価値を丸ごとつかみ取りたいという欲求が、その思考をドライブする。 |
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真賀田四季という天才は、窮屈で孤独な存在であるがゆえに、多重な人格を形成してしまった。栗本其志雄から見た彼女の物語は、これほどまでに悲しいものであると感じた。 |
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読み終えて即行『すべてがFになる』を読み返してしまいました。以前読んだ時とは違う、硬質の『F』にどこまでも深い切ない色彩が 入って、えもいわれぬ読後となりました。 |