エッセィ

「学ぶ理由」

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●大学院に進むべきか

 この相談はときどき学生から受ける。森の環境(国立大学工学部)と分野(建築学科)において、答は簡単だ。「大学院への進学に反対する理由は、経済的なもの以外ない」である。

 進学すれば、当然ながら2年間給料がもらえず、免除されないかぎり学費を支払わなければならない。家庭の事情で、すぐに働かなければならない場合だってある。また、一刻も早く社会人になりたい、という個人的な願望もあるかもしれない。だが、もしそうでないのなら、大学院へ進学すべきである。それ以外のリスクはない(著しく少ない)。だから、「悩んでいるなら行け」というのが答だ。悩む余裕がある立場ならば、進学するべきだ、と考える。これが結論。しかし、これでは話が終わってしまう・・。


●大学はスクールではない

 そもそも、大学とは何をするところなのか?

 小学校、中学校、高等学校、にはいずれも「校」の文字が付く。ところが、大学は大学校とはいわない。これはつまり、大学がスクールではないからだ。すなわち、「教えてもらう」あるいは「教育を受ける」場ではない、という意味である。学ぶための知識と方法は、すべて(ほとんど)高校までの教育で身につけられる。もう自力で学ぶ手法を知っている。それが大学生なのだ。大学の教育とは、講義室で行われる授業にあるのではなくて(あれは単なるガイダンスだと思って良いだろう)、学びたい学生が、自分からすすんで教官の部屋へ訪ねてくる。そこで議論があり、ともに学ぶことができる。こういった学び手の主体性のうえに成り立っているのが本来の大学のシステムだろう、と森は考えている。この観点からすると、現在の大学(の多く)は、単なるスクールに成り下がってしまった、と思えてしかたがない。ほんの少し、大学の雰囲気を残す唯一の例外は、「卒業研究」だろうか(これさえ廃止してしまったところもあると聞く)。


●研究で学問を実感する

 森が勤務するN大学の工学部の場合、4年生になった最後の1年で学生は全員、卒業研究を行う。論文を書くのである。それがどういう意味のあることなのか、それを、書いた本人が、書き上げたときに理解するだろう。論文とは単なる課題のレポートではない。森の場合も、大学に入学して最初の3年間は授業が本当につまらなく感じた。「なんだ、大学って、中学や高校と同じではないか」と思ったものだ。それが、卒業研究をして、実験をして、計算をして、それを書き上げたときには、少なからず興奮したことを覚えている。なるほど、これが学問か、これが大学か、と少し思った(「少し」だとは、もちろん、当時は気づいていない)。

 すなわち、高校(あるいは学部3年生)までの勉強とは、学問をするための道具の使い方を教わったに過ぎない。これまでに与えられた問題は、道具を試すだけの意味しかなかったのだ。それに対して、卒論に取り組むと、初めて、道具を使って何かを作り上げる、という気持ちに(少なくとも森は)なれた。これは大きな違いだろう。

 大学の学部の授業への不満から大学院の進学を決心し、入学試験にも合格していたので、卒論を書き上げたとき(年度末の2月だった)には、「良かった、これがもっと続けられるのだ」と感じた。今でも、学生たちの様子を観察していると、卒論を書き上げたときには、ほぼ例外なく、「大学院を受けておけば良かった」と口にする。卒論でそれを実感する以前に大学院進学か就職かの決断をしなくてはならないのは、どうにもタイミングの悪いシステムだと思う。


●卒論と修論の違い

 修士課程(博士課程前期課程)に進学すれば、森が学生だった頃は自分の研究に四六時中没頭できたものだ。だが、最近では大学院の授業も充実して(表現は良いが)、ある程度は講義や演習で時間を取られるようである。しかし、2年間をかけて書き上げる修士論文が最優先の目標であり、かなりの時間がそれに使えることは間違いない。卒論と同分野のテーマであれば、ベースも既にある。極端な話をするなら、世界的な発見だって充分に可能だろう。修士論文を書き上げれば、局所的な当該分野における有数の研究者といっても良いだろう。

 卒論を書こうとしている4年生は、もちろん素人である。だから、適当な研究テーマを選ぶことは難しい。興味のあることはぼんやりと存在しても、それが研究として成立するのか、という判断は素人には不可能だ。したがって、多くの場合は、指導教官や先輩と相談するか、あるいは最初から研究テーマが提示されている。さらには、その問題を解決する方法まで与えられている。つまり、どんな実験をしたら良いのか、どのような計算が必要なのか、それはどこで調べれば良いのか、すべて(例外はあろうが)教えてもらえるだろう。それが卒論である。自分が世界で最初に発見するのだ、という征服感はあっても、ただ単に、計算しただけ、実験しただけ、という不満は残るに違いない。しかたがない。それが卒論なのだ。

 これが修論になると、 研究テーマは与えられていても、問題を解決する手法を模索する段階からスタートすることが多くなる。変なたとえであるが、卒論が数学の計算問題ならば、修論は応用問題に近いイメージだ。この課題を成し遂げる行為は、講義を聴いて単位を集める勉強(教育)とは、一線を画するものだといっても過言ではない。


●学士、修士、博士の違い

 さて、この修士の段階で修了(卒業)して就職する人がほとんどである。さらにこの上の博士課程(後期課程)に進む人は非常に少ない。博士課程では何をするのか? これはもう博士論文を書くことのみ。他に何もする必要はない。講義も演習も事実上ないといって良い。3年で博士論文の研究が成し遂げられれば、「ラッキィ!」と絶叫しても恥ずかしくないくらい難しい。何故なら、博論では、問題解決の手法が与えられないなんてレベルではない。何が問題なのか、何を研究すべきなのか、といったスタート地点を探すことから自分の力でしなくてはならないのだ(原則として、ではあるが)。

 森も最近気づいたことだが、本当のところ、研究とは、何を研究したら良いのかを見つければ、峠はもう過ぎていると考えても良いくらいだ。問題を解決する人間よりも、問題を見つける、問題を作る人間の方が、少数であるが、明らかに上位となる。問題の解決には、人の助けが借りられる、機械の力も利用できる、しかし、どこに問題があるのかを考えることができるのは、個人の頭脳だけ。博士とは、つまり、その能力に与えられる称号といえる。

 仕事と手法が与えられたとき、それを的確に解決できるのが、学士。仕事を与えられたとき、手法を自分で模索し、方向を見定めながら問題を解決できるのが、修士。そして、そもそも、そのような問題を与えることができるのが博士である。社会の需要は量的にこのピラミッドになっていることだろう。


●現実そして本音

 N大学の建築学科の場合、1学年が50人(今年から少し減るが)。大学院の定員は現在30人で、昨年度の大学院入試の応募倍率はほぼ2倍だった(他大学からの受験者が20名以上加わっているからだ)。ということは、学部の4年生で卒業して、就職を初めから希望している学生は10名に満たない。実際に就職するのは、大学院入試に失敗した学生が加わるため、最終的には20人以上となる。つまり、4年生で就職する学生の大半は、大学院の入試に落ちた学生だ、といわれても客観的なデータとして嘘ではない。これが現実である。一方、30人の修士2年生は、ほぼ全員、進学ではなく就職を希望する。博士課程に進学する学生は1割か多くても2割程度である。修士であれば、就職先はまったく狭くならないけれど、博士になると研究職が前提となり、門戸はぐっと狭くなる。

 書き忘れていたが、N大学は旧帝大の1つである。実は、工学部建築学科という組織は既にない。工学部がなくなって、工学研究科となった。どういうことかというと、そっくり、組織の全部が大学院化してしまったのだ。したがって、4年生までの学部の教育は、大学院の教官が出向して担当している。大学院が既にスタンダードになっているわけだ。

 「高卒」という言葉があるが、「大卒」が同じニュアンスで使われる日も近いだろう(その表現の是非を論じるつもりはないが)。人間には適材適所の価値があり、そして、個人の人生の目的もまた様々だ。仕事をしている人間がけして偉いわけではない、人は皆平等である。大学院へ進学することは、確かに、就職の有利さ、就職後の配属、出世の有利さをもたらす。しかし、そんなことははっきりいってどうだって良い。価値はないといっても良いくらいだ。そもそも人間にはどんな価値があるのか、という問題に帰着するし、そんな主観的な議論をするつもりもない。

 ただ、一ついえることは、学ぶことは楽しい、という森の個人的な体験である。それだけだ。他の人が、どう感じるか、森にはわからない。

 どんな動物だって、遊ぶし、働くし、寝るし、食べる。しかし、人間だけが、学ぶのである。人間としての楽しみが、学ぶことには、きっとある。それに気づくことは、とても尊いと森は思う。

 だから、「大学院へ進学して何が良かったか?」ときかれれば、答は「大学院で勉強していた、そのとき、その瞬間が最高に楽しかった」と答えることにしているし、今でも、それが正解だと信じている。できることなら、もう一度、大学院生になりたい。

  

(2000/8 『エグゼクティブ臨時増刊号 大学院を選ぼう!!』 に掲載)


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