エッセィ

「次世代の会話能力」

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二十年ほどまえ、つまりまだ学生だった頃、近い将来に次のような機械が普及すると森は考えた。日本語を自由に入力できるタイプライタ、携帯可能な電話、自分の位置が確認できる地図、二本脚で歩行するロボット、そして、携帯可能な翻訳機。その後、パソコンが登場した。家庭でカラーコピィやファックスが可能になり、好きな音楽を聴いたまま歩けるようになり、カメラは自分でフォーカスを合わせるようになった。ワープロ、携帯電話、ナビゲータ、とすべて実現した。現在、森の予想が外れたただ1つの例外は、携帯翻訳機である。

 音声入力を認識し、それを翻訳し合成音声で出力するシステムは、技術的には充分に可能である。これがウォークマンくらいの大きさで発売されれば、10万円程度でも飛ぶように売れるはずだ。もう英会話を習う必要もなくなる。だから、大学の教官になっても、学生たちに常々こう話していた。「英会話の勉強なんて無駄だよ。君たちの時代には、機械が通訳してくれるから」 森の言葉を信じて英会話の勉強をしなかった人間はいなかった、と思われるが・・。

 しかし、どうだろう、あと十年経てば・・。

 さて、会話の能力というのは、一般社会では必要なものかもしれないけれど、それは、たいていの人がたいていの努力で身につけることが可能なものであって、価値は高くない。社会で真価が問われるのは、文章を書く能力だと実感している。これは日本語でも英語でも同じ。そして、これを教えてくれる先生が極めて少ない。何故なら、「書ける人」というのが極少数で、人に教えるほど暇ではない(書けるだけで儲かる)からである。逆にいえば、「話せる人」は、話せるだけでは儲からないから、先生になる。結果として、教科書になる(文章化が可能な)部分のテクニック(代表的なものは「文法」)だけが、学校の教科の対象となっている道理だ。

 英語教育は、書いたり読んだりすることから、会話へと比重がシフトしているようだが、あまりにも会話重視になることは好ましいとは思えない。インターネットを見てもわかるように、現代はまだまだテキストの時代である。サイトの英文を読むくらいは翻訳ソフトを使えば容易いが、いざ畏まったメールを書こうと思うと、明らかに翻訳ソフトでは力不足。英会話が堪能な人でも、英語を書かせるとまったく駄目だという例が非常に多い。日本語でも、話すことが上手な人はえてして文章が酷いものだ。

 小さな子はすぐに英語を話せるようになるとか、半年間留学しただけで英会話はばっちり、といった話を耳にするが、それは、本来ボキャブラリィが少ない人間だったと言っていることに等しい。たとえば九官鳥なら半日で英語に慣れてしまうだろう。なかなか英語が話せないという状況は、恥ずかしいことでもなんでもない。それだけ、厳密で詳細な日本語を操っている証拠だともいえるからだ。

 重要なことは、自分の使っている言語(信号といっても良い)が、充分に自分の思考、意志、感情、つまりは伝達したい情報の本質を表しているか、という自問である。言葉の機能の広がりやばらつきを認識する、すなわち、自分が選んだ言葉がどんな意味に受け取られるのかを予測できることが重要であり、自国語でない言語を学ぶ価値がそこにある。文法の学習にも同じ意味がある。いずれも、客観性が高まるからだ。

 そして、そういった言語の機能を踏まえた表現を身につければ、あと十年以内に、英語ばかりでなく、ドイツ語もフランス語も中国語も韓国語も、会話が可能になるだろう。翻訳機に入力する言葉の厳密性と、翻訳機が出力した言葉を軽く確認できる能力があれば良い。それが未来の会話能力である。

 日本語を書くことの基本はかつては毛筆の習字にあった。英会話の基本が発音そしてヒアリングにある、という時代はあと何年?

  

(2000/11 雑誌『英語教育』に掲載)


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