エッセィ

「スペースシャトルに何を乗せるのか?」

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 セメントといえば、日本ではコンクリートやモルタルを作る粉のことだ。いや、周囲の人に尋ねてみると、たぶんコンクリートと同義だと思っている場合が多い。外国のプラモデルを作った人は知っているはずだが、海外では、接着剤、つまりセメダインとかボンドに近いニュアンスになる。そもそも、流れるように「つながった」文章が好きではないので、組み立て前のプラモデルみたいに、パーツのまま、つれづれに書く。無駄を承知で書いた、ここまでが本論の導入部である。文章中の太字に特に意味はない。ダブルクリックしたくなるが・・。

 文章をつなげるための接続詞が、通信効率を落としていることが往々にしてある。一例を挙げよう。NHKで日曜日にやっている「日本人の質問(だったと思う)」。ちらりとしか見たことがないが、確かに知らなかった知識が得られることがある。しかし、番組は30分だ。これは得られる知識に比較して実に長い。番組の最後に一枚のボードに書かれてまとめられる。知識だけに限定すれば、情報伝達はほぼあの一枚に尽きる。なんて、忙しく考えているわけではない。ただ、例を挙げて、目的と効率を問題にしただけである。

 通信、情報化社会、マルチメディア、インターネット・・。イーサケーブルは、オフィスを這い回り、モデムのボーレート(通信速度)は上がる一方。みんな、速度を気にしている。なのに何故、テレビなんて見るのか? とんでもなく低いボーレートではないか。このセンテンス、意図がわからなければ、読み飛ばしてもらって良い(それこそ時間の無駄だ)。

 挨拶をしたり、言葉の合間に接続詞を入れたり、つまり、滑らかにつながっているイメージを捏造するためのデコレーション。あるいは、端々に入るウィット。エキスパンション・ジョイントみたいなものだろうか。潤滑剤だと評して意義を見いだすこともできるが、そのうち、潤滑剤だけになったりして、と勝手に心配もする。

 インターネットがブームなんだそうだ。森は、新聞もテレビもほとんど見ない。ブームって言っている人たちがどこの誰で、何の目的でそうふれ回っているのか知らないが、じゃあ、電話とか、ファックスとか、コピーとかもブームなのかな。少なくとも、インターネットより使われている。携帯電話もブームか。そもそも携帯電話なんて言い方がおかしい。今まで持ち歩けなかった状況が異状だっただけで、置いてある方の電話を固定電話と呼ぶべきだろう。当たり前のことだ。人間は歩きながらでも話せるのだから。

 ところが、商売になるのは、こういった手段、つまり潤滑剤なのである。携帯電話もインターネットも、通信のハードもソフトも、つまりは、伝達の手段を提供しているだけ。では、いったい何を伝達するのか?

 WWWのホームページを見渡してみるとわかる。日本中の人たちがそのうち、この電子の蜘蛛の巣に日記を公開する勢いだ。それも良い。だけど、誰が読むのか。

 カラオケが出始めの頃は、みんな仲間の歌を聴いていた。それが、誰でも歌うようになると、一人も聴いていない。次に自分が歌う曲を探しているだけ。ホームページも数年後にきっとそうなる。自分に酔うのも悪くはないが。

 カラープリンタの宣伝も、ワープロやパソコンの宣伝も、年賀状だとかゴルフコンペの案内だとか、つまりは、使用目的は何も新しくないではないか。何か新しいことができる、とどうして胸を張って言えないのか? まるで、スペースシャトルに乗って、温泉旅行に行くみたいだ。それが、いけないと言っているのではない。

 ゲームのプログラマになりたい少年が増えているらしい。みんな、ゲームに熱中している。プログラムの勉強もしているだろう。だけど、最初に、TVゲームを作り出した世代は、TVゲームなんて見たこともなかったのだ。プログラムだって教えてもらったわけではない。だから、あの新しい発想ができたのである。手段ではない、新しいものを創造するインスピレーションは、どこか別のところからやってくる。

 ビデオを買ってきて、さて、何を撮るのか。パソコンを買ってきて、何をするのか。レジャービーグルに乗って、どこへ行くのか? いずれも、与えられた手段。便利な環境でしかない。だが、新しいイマジネーションは個人の中からしか生じない。ボーナスが余っても買えないのだ。

 要するに、華々しい最新の情報伝達システムに何を流すのか、何を乗せるのかが、キーなのである。何を創っていくのか。何を伝えるのか。それが、今、そして、これからの個人、団体、社会に問われている。

 しかしながら、という死語に近い接続詞を使ってみる。個人がいきなり情報を発信することは好ましい。それ自体、新しいからだ。従来のトップダウン、つまり上から下へ組織図を塗り替えるものでもある。第一、組織図なんて、2次元で描ける単純さをとうに失っている。

 会社の組織図は、個人を一番上に書くべきだ。現代の指向は間違いなくこうである。けれど、今のところ、そんな組織図を見たことがない。何故か。やっぱり、この世で一番固い物質は人間の頭脳、特に集団の意思決定であるということ。

 「オブジェクト指向」という言葉を知らないと、上記の概念は理解できないかもしれない。社会の上下は既に反対になっている。いずれ、大きな変革がくるのか、それとも、集団の頭の固さがそれに勝るのか。電流だって、本当はマイナスからプラスへ流れているのだけど、相変わらず、小学生には教えないようだ。オブジェクト指向を知らない人、特に人の上(実は下なのだが)に立つ人は、本屋さんへ。

 しゃべり方が上手になってもしかたがない。歌が上手く歌えたってしょうがない。つまりは、何をしゃべっているのか、何を歌っているのか、その内容が問題なのである。それが、その個人(オブジェクト)の社会における利用価値であり、個人が発信する本質だけが、組織を変え、社会を変える。下から上(実は、上から下なのだが)へ、リンクは広がっていくのである。

 そんなことを意識しないで、毎日、ゆっくりとコーヒーを飲みたい? のんびりと自由な思考を巡らしたい? そのために、すべての技術は発想されるが、集団が鈍重になった今、個人の切れ味だけが切り札である。

 ただ、のんびりと地球を宇宙から眺めてみたい。この単純で、純粋で、明確だった最初の動機を、現代人はどう受け継ぐのか・・、さて、幻想か否か、歴史の復元力を拝見しよう。   

(1996.11 「日本セメント」社内報「セメント工業」No.256に掲載)


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