エッセィ

「アイスクリームのデザイン」

/☆Go Back☆/

 CAT(Critic by Around Thirty)への原稿依頼があったとき、そんなコーナー があるなんて知らなかった。

 連想するのは、猫は除いても、Computer Aided Thinkingくらいだし、人生の半分も 過ぎてしまってけれど、本コーナーにフィットした話題は僕の日常にはない。とまず、 先に謝っておいて、日記のようにシーケンシャルな自然連想にまかせて書きたい。

 コンピュータをアイデアプロセッサーとして使うようになって、数年になる。 最初はテキストに還元できる思考のみであったが、最近それも改善された。手書きより ワープロやグラフィックスの方が速くなった時点から、CRTの中でものを考えるようになった。

 ファイル間を散歩したり、無造作にスクロールしたりして考える。これをCATと勝手に 呼んでいる。ワープロやグラフィックスを清書ソフトと位置づける人には不理解かも しれないが、停電すると僕の思考能力は低下する。下書きをコンピュータでして、 清書は手書きですることはあっても、その逆はありえない。

 特にグラフィックスのアイデアプロセッサーには救われた。元来、視覚的にものを 考える記号化未熟な人間なので、テキスト主体の記述・記憶環境には窮屈していた。 最近では、研究上のアイデアの大半をグラフィックスソフトというAR空間の中で 思いつく。

 そんな僕の秘密のスクラップブックの中から、この機会を逃したら出力されないと 思われた1枚の絵を見つけた。

 アイスクリームである。突然ではあるが、「デザイン」という言葉から 僕が最初に連想するのが、このタイプのアイスクリームなのである。

 それは、小学校の3年生くらいだったと思うが、買ってもらったアイスクリームを なめながら父と歩道橋を渡っているとき、不注意にもクリーム部分をそっくり落して しまったという強烈な記憶のためである。

 暑中の一日であったと思われること、父と二人で歩くという機会の希少さ、 さらに、このタイプは毎日食べられるものではなかった、という情景と背景を 付け加えておこう。

「しまった!」と思って父の顔を見たとき、父はこう言ったのである。

「デザインが悪かったな」

 作ったような話なので恥ずかしくて滅多に人に言えない。けれど、作り話なら、 もう少し適切で面白い脈絡をつける自信がある。

 ちなみに、僕の父は建築家である。少なくとも自分でそう言っていた。父の最も 古い記憶は、二間しかない借家、母と僕の眠る部屋とは対照的に明るいもう一方の 部屋。襖の隙間から見える黒い扇風機とT定規を操っているシャツ姿の父である。

 デザインという言葉の意味を、当時の僕が知っていたかどうか記憶にないが、 そのときは、「アイスクリームの持ち方が悪かった」というニュアンスに 受け取ったかもしれない。父が何のデザインのことを言ったのか不明である。

 この絵は以上の疑問のひとつの解釈である。クリームの溶解に起因する不安定さに 対して、(1)コーンの形状で、(2)クリームの埋込深さで、(3)ドライアイスの 使用で対処するといったデザインを考えたが、それぞれ、建築の計画系、構造系、環境 設備系のデザインに見えないこともない。

 僕は現在、材料・施工系で仕事をしているので、さらに無理に数秒考えてみた。その 結果、(4)溶けないクリームを作る。(5)クリームを力強く載せる、といった デザインが浮かんだ。いずれもビジュアルにならないことが、なんともこの分野の 地味さを象徴しているようであるが、(5)が最も無害であり、(4)が最も根元的な 解決であるという救いはある。

 大学で建築学を学ぶようになって、デザインに対する自分なりの概念が一新された。 それは、某計画系の先生の講義中であった。そのときの講義の内容は思い出せないが、 僕の中にインプットされたのは、次の2点であり、現在も不変である。

 すなわち、[1]デザインは削ること、[2]デザインの対象は形状ではない、である。

 CATから連想してここまで書いてきたが、もちろんCADも伏線的に頭に浮かんだ。CAD のDはデザインでグラフィックスではない。パースを出力するソフトをCADと呼ぶようだが、この程度の支援で良いのであれば、スプレッドシートもワープロも大抵のソフトや 電卓は、建築に不可欠なCADといえる。

 それは、別の話題なので、ともかくとして、僕は、アイスクリームのパースペクティヴを連想してしまうのである。アイスクリームのデザインにパースを利用しても変ではないと思いたい。しかし、本当は少し変だ。

 TVや新聞の折込みで毎日目にする住宅展示場的な○×ホームや自動車ショー的なスポーツカーのCGパースも大差ない。感心するが、少し変だ。アイスクリームのパースは、 すごいけれど、あまり美味しそうでない。住宅のきれいなパースも、同様に、僕には 居心地の良い空間には見えない。普通の人には見えるのだろうか? 住宅や自動車や アイスクリームを、他人に見せるためのものだと思っているからだろうか?

 住宅と言えば、父は(専門は商店建築であったようだが)、よく「住宅ほど 難しいものはない」とこぼしていた。F1より自家用車の設計が難しいように、本来、 矛盾する欲求に妥協線を引かねばならないからだと想像される。

 狭い敷地内に広い空間を、という矛盾であれば、設計者の(ときにはこじつけともいえる) 手腕が発揮できるかもしれないけれど、「広い方がいいけど狭いのもいいな」とか、 「赤も好きだし青も捨て難い」という矛盾が、ファジーな世の中には多いのだろう。

 材料では、強くて軽くて長持ちして工作しやすいという性質が多くの場合シーソー になるが、案外矛盾しないで実現できる技術が開発される。そのうえ、安くというと 少し困る。僕の専門のコンクリートは、軽い、強い、長持ち、工作簡単という性質が 独立してコントロールできる数少ないマテリアルである。しかし、やはり経済性だけは 日和見主義になる。

 建築学科に入学して、図面をひき、美術館なんか設計していたのに、今はコンクリート やシミュレーションに夢中で、「思えば遠くへ来たもんだ」なんて心境になるけれど、 かつて「建築」という街から見えた、ちっぽけだったこの青色の彼方は、来てみれば 広大な冒険エリアで、逆に「建築」は小さく見える。

 立派な企業人となった同級生から、「よく飽きもせずコンクリートばかり」と指摘 されるが、それは非研究者。非学者の視点であって、こういう一面は、当然どの分野でも 同じだろう。

 また、部分の中に全体が含まれることは、社会との直接(あるいは同時)関連が極めて僅かな一部分に挑戦した研究者が、一般人よりグローバルな哲学を構築している数多くの実例から容易に想像できる。

 今の僕にとって、建築は、コンクリートの中の一分野でしかない。それどころか、現在の興味領域から見れば、コンクリートでさえ一部分でしかない。しかし、不思議にも、「デザイン」は相変わらず外輪山のようにどの方向にも見えるから怖くなる。

 デザインとは、材料と構造と機能を含んでいる。けれど、それは、形にも、大きさにも、強さにも還元できない、シミュレートできない領域のために用意されたとっておきの呪文のようにも思える。

 つまり、人間が考えるしかない行為なのだ。

 考えるということを、未来と過去を比べることだとすれば、有理数計算でもできそうである。それは、台風の進路予測みたいに45度くらいの扇形であろう。

 けれど、すべての約束と期待の隙間に、円周率のような人間的な無理数が点在していたりする。

 すなわち、当たり前なのに、シミュレーションにけっして現れない予感があったりする。それが、「デザイン」の本来だと、僕は神様のようにこの言葉を出し惜しみするのである。

 バーゲンセール的に表現すれば、「未来を過小評価する世代」「シミュレーションしてしまう世代」、意識しないとクリームのように溶け落ちてしまうアイデンティティに支えられた、なんとなくアモルファスな33歳の思考である。

(1991/6 某学術専門雑誌に掲載)


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