バレエの美神

03年2月15日(土)・16日(日)

Bunkamura オーチャードホール

指揮:アンドレイ・アニハーノフ
演奏:レニングラード国立歌劇場管弦楽団

充実したすばらしい公演でした。
私は「ガラより全幕」の観客ですが,これくらい次々と見事な踊りを見せてもらうと,ほんとうに幸せな気分になれます。

舞台は,『眠りの森の美女』1幕のワルツの演奏から始まりました。オーケストラ演奏なのがまず嬉しいですし,アニハーノフ指揮なのもとても嬉しい。
せっかくなら,レニングラード国立バレエのコール・ドが踊ってくれればもっと嬉しいけどー,と思ううちに幕が開くと,そこは宮廷。装置だけでなく,国王・王妃や宮廷の人々も。

   

第1部

『眠りの森の美女』よりローズ・アダージオ

エレーナ・エフセーエワ

4人の王子:ミハイル・シヴァコフ, デニス・モロゾフ, アンドレイ・クリギン, ヴィタリー・リャブコフ
国王:マルト・シェミウノフ  王妃:ナタリア・オシポワ

レニングラード国立バレエ

エフセーエワは,若いこともあるのでしょうが,気品あるプリマというタイプではないみたいですね。お茶目でちょっと庶民的なお姫さまでした。上手でしたし,かわいらしかったです。

4人の王子では,常に他の王子より1回多く手首を回すクリギンが笑えました。サポート担当はシヴァコフでしたが,この中で見ると,やっぱり彼が一番王子ですねー。カツラとヒゲも似合っていて,今まで彼を見た中で一番かっこよかったかも〜(←失礼な誉め方?)。
シェミウノフが,王妃と仲良くしたり,「我が娘はどの王子が気に入ったのかな」と気を揉む芝居をしたり,一生懸命でとってもかわいかったですー。

   

『パ・ド・カトル』

オクサーナ・シェスタコワ, イリーナ・ペレン, エルビラ・ハビブリナ, オクサーナ・クチュルク

プログラムの解説によると,ハビブリナ@グラン,シェスタコワ@グリジ,クチュルク@チェリート,タリオーニ@ペレンだそうです。(ソロを踊った順)

ペレンは特異な解釈のタリオーニでした。
この作品は「表面上にこやかに親しげに振る舞いながら,実はライバル意識の火花が散る」というモノだと認識していたのですが,彼女はほとんど笑わず能面のような表情で通しました。メイクもいつも以上に濃い目で,特に目の周りをきつめに描いていたのではないかしら。「アタクシは別格なのよ」と言わんばかりの表現で,他の3人を寄せ付けない権高なタリオーニ。

異論はあるでしょうが,私はよかったと思います。彼女はこのバレエ団の看板プリマではありますが,普通に踊ったときにタリオーニに見えるほど突出した格ではないので,賢い選択だなー,と思いますし,なにより,単なる仲良し4人組の踊りになるよりはずっといいです。
この作品はそんなに好きではないのですが,彼女のおかげで非常に楽しめました。しーんとした客席の中で,笑いを抑えるのに苦労してしまったわ。

シェスタコワは,メド−ラでは可憐さが作為的に見えて気に入らなかったのですが,この作品ではその(私には)作為的に見える感じが効果的でよかったです。
クチュルクは,ペレンに会釈するところは儀礼的な笑顔なのに,彼女が舞台から去ると突然花のような笑顔に豹変していきいきと踊るので「うまい!」と感心。
ハビブリナだけは,心から優しげに踊っているように見えて,ちょっと場違いだったかしら〜。

   

【16日のみ上演】

『眠りの森の美女』よりグラン・パ・ド・ドゥ

ディアナ・ヴィシニョーワ, イーゴリ・コルプ

ヴィシニョーワのオーロラは久しぶりに見ましたが,テクニックは完璧ですし,もともと伸びやかに見える踊りがいっそう大きく見えるし,以前と違ってきちんと抑制がきいていて気品があるし,なによりもその輝かしい華やかさ!!
いっそう美しくなって(メイクも濃すぎず),まるで太陽のような明るさと大輪の花のような美しさでした〜♪♪

コルプは,踊りはきれいですし,手の差し出し方などマナーも柔らかく,立派な王子。多少影は薄かったですが,パートナーが華がありすぎのせいでご本人のせいではないですもんね。ステキでした。
前日の『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』を見てサポートが苦手なのか? と思ってしまったのですが,そうではないみたいです。身体の前に横抱きでリフトして下向きに持ち替える動き(わかりにくくてすみません・・・。バレリーナがサポートされながら回転して身体を倒す動きが3回続いた後のリフト)がスムーズで感心しました。

  

『ロミオとジュリエット』バルコニーの場

スヴェトラーナ・ザハロワ, アンドリアン・ファジェーエフ

キーロフのレパートリーであるラブロフスキー版の上演。ちゃんとバルコニーのセットがありました。

久しぶりに見たファジェーエフが大人になっていたので仰天しました〜。この前見たときは,とーってもかわいい少年ぽい王子だったのにー。(ま,「この前」と言っても5年前なわけだが)
いや,悪いと言っているわけではないです。ステキな青年になっていて,踊りには力強さも感じられ,真摯な恋のロミオでした。

ザハロワは流麗で美しい動き,情感もありましたが,初々しいジュリエットというよりは高貴な姫君の趣。なにしろ髪型からして縦ロールですからねえ。
バルコニーシーンだから,もう少し少女らしさが必要ではないかとも思いますが,無理に演技をして作られるとまた文句を言いたくなりそうなので,普通のロミジュリではなく「身分違いの恋」ヴァージョンだと思うことにしました。
彼女の静謐な美しさには,節度のある(長いキスなどしない)ラブロフスキー版がよく似合いますね〜♪

2人のパートナーシップもよく,特に16日は,(どこが前日と違ったのかわからないのですが)恋の喜びの中に別れの予感のようなものさえ感じられました。
名演だったと思います。

  

『ドン・キホーテ』よりグラン・パ・ド・ドゥ

エレーナ・フィリピエワ, デニス・マトヴィエンコ

イリーナ・コシュレワ, スヴェトラーナ・ギリョワ

レニングラード国立バレエ

コールド・バレエもつき,ソリストによるヴァリアシオン2つをはさんだ構成でした。

フィリピエワは揺るぎのないテクニック。バランスは長いですし,フェッテは,高速で片手を腰に当てたままでダブルも織り込みしかも軸足は微動だにしないという美技を見せて,たいへん見事でした。特に15日は好調だったようで,バランスは特に長く,大きな拍手がわきました。
彼女のキトリは初めて見たような気がするのですが,もう少しなにか・・・お色気とか恋の喜びとかあるいは姐御肌とかいう味付けがほしいような気も・・・。でも,たぶん彼女の持ち味が,堂々たる押し出しの正攻法だというコトなのでしょうね。

マトヴィエンコは,技巧的な回転技をいろいろ披露していました。客席から大受けだったのでいいのかもしれませんが・・・ううむ・・・何か間違った方向に進んでいる気がしないでもない・・・。
彼はテクニックがたいへん強いようですが,超絶技巧が売りのダンサーではなく,ダンスールノーブルなわけですよね? 難しい技を見せて軸が傾いたりフィニッシュでよろめいたりするよりは,回転数を減らしてもきれいに踊ってほしいなー,と思うのですが・・・。そんなことは承知の上でのガラでのサービスだと思いたいです・・・。

・・・と,15日は思ったのですが,16日はよかったです。
難しいコトをきれいにこなしていましたし,表情も楽しげで,ちゃんと明朗快活なバジルに見えました。(15日は,失礼ながらなんだか荒んだ印象で,いったいどうしちゃったのかと心配してしまったのでした。いや,ファンでもないのに余計なお世話ではありますが)
少年の輝きからかっこいい男性への移行期でいろいろ試行錯誤中なのかもしれませんねー。

(03.2.18)

第2部

『ラ・シルフィード』よりグラン・パ・ド・ドゥ

ナタリア・レドフスカヤ, イリヤ・クズネツォフ

レニングラ−ド国立バレエ

装置とコール・ド・バレエつきの上演。

レドフスカヤは上手ですねー。軽やかで優しい感じのシルフィードでした。彼女は跳躍が強いと思うのですが,跳ぶときの雰囲気が役に応じて違うので,こういうのを正真正銘の名人と言うのだろうなー,とひたすら感心。

クズネツォフもきれいで軽やかな踊りでした。ロシアの男性ダンサーの踊るブルノンヴィルは,脚さばきは見事でも上半身が饒舌すぎて「なんか違うなー」と思うことが多いのですが,彼はそういう感じがなく,素直に楽しめました。

コール・ド・バレエは,このバレエ団にしてはあまりきれいではなかったような・・・。ううむ・・・軽やかさが足りないのかな?

  

『シンデレラ』よりグラン・パ・ド・ドゥ

オーレリア・シェフェール, クリス・ローラント

マイヨー版から2幕のシンデレラと王子のデュエット。(「グラン・パ・ド・ドゥ」という表記は疑問です)

コピエテルス/ローラントの『ラ・ベル(美女)』が予定されていたのですが,直前の怪我でコピエテルスが来日できなくなり,演目も変更になりました。

プロコフィエフ作曲の愛の物語ですから,古典中心のガラの中で上演されるコンテンポラリーとしては,違和感がなくてよかったと思います。一昨年全幕でも見たのですが,デュエットだけ取り出して上演すると性的なニュアンス(脚へのこだわりとか・・・)が強まるように思いました。「大人向きのシンデレラ」といった感じでしょうか。

全幕で見たときは仙女のコピエテルスが圧巻で,シンデレラのシェフェールはそれほど印象に残らなかったのですが,こうして見ると,ちょっと野性的な雰囲気もあって,なかなかステキ。ローラントがダンサーにあるまじき髪の短さで,かわいらしく,かつ人が好く見えたせいか,全幕で(王子は別のダンサーで)見たときと違って,シンデレラが主導権を握っているように見えるのが興味深かったです。

(03.2.19)

『牧神の午後』

マイヤ・プリセツカヤ, シャルル・ジュド

レニングラード国立バレエ

背景幕や牧神の寝そべる岩もありました。幕は,ジュドが持ってきたのでしょうか?

プリセツカヤ以外のニンフたちは,なんとも「板についていない」感じでした。この作品の特徴である「平面の動き」ができていない。バレエ団のレパートリーにないのでしょうからしかたないですし,ニンフなしでの上演よりはいいと思いますが,もう少し準備して出演してほしかったかな。

プリセツカヤは,ニンフではなく芸術の女神のようでした。(おお,公演名の「ミューズ」ですねー。いや,もっと偉いヘラとかアルテミスかも)
たぶん本来はそういう役ではないと思うのですが,彼女が踊ればそうなるしかないですね。牧神と向き合うところは「下がりおれ,下郎!」と言わんばかり。存在感と威令と美しさとがすばらしかったです〜。
―昨年のインペリアル・ロシア・バレエの公演でもこの作品で見ましたが,今回のほうがよかったように思います。前回は,背中のラインに年齢を感じるかなー,などと思ったりもしたのですが,今回は全く隙がなかったです。感嘆♪

ジュドの牧神は・・・どうなんでしょう??
本来はもっと猥雑な存在なのではないかと思うのですが,品格があって,こちらも神様の境地に近かったような・・・? 内股の歩き方や身体に引きつけた手首の角度,大きく口を開けての哄笑などが非常に上手なので,異形の存在ではありますし,見事な集中力と存在感には感心するのですが・・・ううむ・・・暑い夏の午後の気だるい感じとか,エロティックさなどは,私にはさほど感じられませんでした。たぶん,もっと品性お下劣な牧神のほうが好きなのでしょう。すみません。

   

『ライモンダ』よりグラン・パ・ド・ドゥ

ユリア・マハリナ, デニス・マトヴィエンコ

ジャン・ド・ブリエンヌに予定されていたボリショイのマルク・ペレトーキンがケガで来日できず,急遽マトヴィエンコが出演しました。

グリゴローヴィチ版での上演のようでしたが,この作品のグラン・パは本来コール・ドといっしょに踊るので,アダージオやコーダのときに舞台上が2人だけでは淋しい感があったのがちょっと残念。
せっかくならレニングラード国立の男性ダンサーももう何人か出演させて,コール・ド付きでやってほしかった気もしますが,レパートリーにないのかも・・・。ま,贅沢を言えばキリがない,というコトでしょうかね。

マハリナのチュチュ姿は久しぶりでしたが,たいへんな存在感で輝いていました。豊かな大人の女らしさがありますし,若いころより「かわいげ」が増したような感じも。以前よりポワントが弱くなったような気はしますが,これだけ華があれば,そんなことはどうでもいいよねー。紺色のくっきりとした衣裳に身を包み,邪気のない明るい笑顔で踊っているので,見ていてとても幸せな気分になれました。

マトヴィエンコは「神妙に務めております」という感じ。若いし華奢だからパートナーに貫禄負けの感じはありましたし,踊り慣れていないのかなと思う部分もありましたが,代役の労を多とするべきでしょうし,私は『ドンキ』より好きです。短いひらひらマントがついた白の衣裳もかわいらしくて,やっぱり王子のほうが似合うと思うよー。

(03.2.20)

『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』

ディアナ・ヴィシニョーワ,イーゴリ・コルプ

ヴィシニョーワが,たいへんたいへんすばらしかったです〜。

前回のキーロフ公演でゼレンスキーと踊ったときもよかったのですが,今回はそのとき以上のでき。たたみかけるように演奏される音楽に一瞬たりとも遅れずに完璧に踊って,しかもその中で,余裕たっぷりに自分ならではのアクセントをつけた表現を見せる。
音楽とともに身体が軽やかに大きく動いて,こんなに上手なダンサー見たことないわぁ,とさえ思いましたし,その生命力溢れる輝きに,興奮させられました。

今まで見たこの作品のバレリーナの中で一番すばらしかったです。まるで彼女のために振り付けた作品みたい。
見事なバランシンというのは「ダンサーと音楽が一体化する」という感じですが,今回の彼女はそれ以上。うまい言葉がみつからないのですが,そうねえ・・・「音楽と戯れる」とか「音楽を操る」と言えばいいのかな。

コルプはですね・・・初めて見るので楽しみにしていたのですが,ええと・・・よくなかったと思います。ていねいにきれいに踊っていましたが,動きにキレがないというかバランシンに見えないというか・・・。音楽も彼のソロはテンポを落として演奏していたようですし・・・。
彼はたぶん,超正統派(保守派?)のロシア・バレエの王子様なのでしょう。レパートリーを見ても,古典ばかりで新しいのはバランシンくらい。しかも『ショピニアーナ』や王子役がずらーっと並んでバジルや『海賊』はない。なんというか,まあ・・・一種のミスキャストだったのでしょうねえ。

もっとも今回のヴィシニョーワに関しては,だれがパートナーであったとしても,彼女の独壇場になったのではないかという気がします。ほんとにすごかったですもん。
この作品での彼女のテクニックと音楽性とスピードとパワーに拮抗した踊りが見せられるパートナーって・・・10年前のルグリくらいじゃないかなー。(ううっ,見てみたい)

   

第3部

『ジゼル』第2幕より

イヴリン・ハート, ファルフ・ルジマトフ

アンドレイ・クリギン, アリョーナ・コロチコワ, イリーナ・コシュレワ, スヴェトラーナ・ギリョワ

レニングラード国立バレエ

黒いマントに身を包み暗い森の中に歩み入ってきたアルベルトの表情は,これ以上ないほど険しいものでした。
それはたぶん,単なる悔恨や自責の念などではなく,もちろんジゼルにもう一度会いたいなどという甘い想いでもなく,自分自身への絶望。
彼がジゼルの墓に詣でることは「しなければならないこと」ではあったでしょうが,彼女に詫びるとか許しを請うとかいうものではありません。貴族であるゆえに恋人を裏切った自分を,貴族であるからこそ許せないアルベルトにとって,彼女が自分をどう思うかは,実は意味がないことです。自分で自分を許せないのですから。

ジゼルは,そんなアルベルトの前に現れます。彼の魂を救うために。
彼女の表情が悲しげなのは,恋人を恨んでいるからでも,自分の生を惜しんでいるからでもありません。自分の愛する人が絶望の中にいて不幸だから。だから,彼女は彼の前に現れます。肉体を失い,精神だけになった姿で。

最初,アルベルトにはジゼルの姿ははっきりとは見えません。気配は感じるが,目には見えない。追い求めても現実ではない。彼女が落とす白い花は確かに手の中にあるのに。そして,彼女は再び消えてしまいます。
やはり幻だったに違いない。そう思ったアルブレヒトの前に,ウイリーたちが姿を現します。

ヒラリオンが殺されるのを目の当たりにし,自分も恐ろしいウイリーたちに捕らえられたまさにそのとき,再びジゼルが現れます。
今度は,アルベルトの目にも彼女ははっきりと映ります。それは,自分の中に閉じこもっていた彼が外界に目を向けたからかもしれません。それとも,彼の身を救いたいというジゼルの意志が,はっきりとした輪郭を持ったからかもしれません。

ジゼルは,彼を救うために全力を尽くします。最初は彼をかばってミルタの前に立ちはだかって。次には,自分の墓から離れないように,静かな,しかし強固な意志を以って彼を制し,自分が代わって死の舞踊を踊り始めることによって。
しかし,彼女の力は弱い。アルベルトは墓から引き離され,彼もまた死の舞踏を踊らなければなりません。

二人は踊り続けます。
ジゼルは,アルベルトを救うために。ただ,そのためだけに。
では,アルベルトはなんのために? それはもちろん魔力で踊らされているから。でも,それならなぜ,彼は命乞いをするのでしょう? 慫慂として死への道を選ばないのは,もういいからとジゼルに告げないのは,やはり死にたくはなかったから。
彼はそれを自覚してはいません。ただ,ジゼルがいるから彼女とともに踊っているだけだけれど,でも,たぶん,無意識のうちに生き延びたいとは思っていたのでしょう。
ジゼルはそのことを知っています。でも,彼女はそれでいい。彼に生きていてほしいのは,笑顔を取り戻してほしいのは,誰よりも彼女なのですから。そのために,ここにいるのですから。

惹かれ合い,抱き合い,引き離されながら二人は踊ります。
アルベルトが消耗しきって,ついに死に瀕したとき,暁が訪れ,ウイリーたちは姿を消します。
ジゼルは愛しい人を救った静かな喜びの中,彼を包み込むように抱きかかえ,別れを告げます。アルベルトは彼女を抱き上げ,引き止めますが,それはもちろん叶わないこと。彼女の姿は消え失せます。つい今まで彼女がいた場所には何もない。そこにいるのは自分だけ。

呆然として墓の前に立ったとき,アルベルトはジゼルの無私の愛を悟ります。
彼女はこんなに自分を愛してくれた。あんなに許せないことをした自分を許し,恨み言の一つさえ言わず,ただ自分を救うためだけに恐ろしい時間をともにしてくれた。彼女がいなければ,きっとヒラリオンのように,我を失い,必死にもがきながら死んでいったに違いない。もし彼女がいなければ。

彼女の墓前に捧げた百合の花を呆然として取り落としながら,彼は自分の弱さを悟ります。
その彼女に自分は何をしたのか。生前の仕打ち。彼女を悼んでではなく,貴族としてしなければならないと思ったからこうして墓までやってきたこと。そして彼女にすがって,自分一人生き延びようとして,そして,生き延びたこと。

必死に墓に駆け寄っても,どんなに彼女を求めても,彼女はいない。
ほかの誰にもできないくらい愛を与えてくれた人なのに,貴族であることにとらわれていて,自分は彼女に何も与えることができなかった。そして,彼女の愛に甘えて,命を永らえている。
ひと言でいい。彼女に想いを伝えたい。人間として詫びなければ。そして,感謝を,愛を告げなければ。
でも,今となってはそれはかなわない。彼女を抱きしめることさえできない。見つめることさえできない。それは自分自身の罪。自分のしたことの当然の帰結。

深い絶望の中で,夜更けに墓に向かって歩んでいたとき以上の絶望の中で,彼は墓の前に崩れ落ちます。

そして・・・たぶん,一人でこれからも生きていくのだろうと思います。

   

ハートが,それはもうすばらしかったです。

踊るというよりは,漂っているかのようで,人間ではなく,精神だけがそこにいるかのよう。
腕まで白く塗って,人間ではない存在を表していましたし,足音が全くしない。技量もあるでしょうし,たぶん特別なトウ・シューズを使っているのでしょう。
あまり跳べないし,脚も上がらない。(シューズのせいでそう見えたのかもしれませんが)普通はポアントで踊るところをドゥミ・ポアントにしていたところもあったように思います。
でも,そんなことはどうでもいいと思いました。動きの全体から,彼女の全身から愛と慈しみが溢れているようで・・・感動しました。
演技もよく練られたもので・・・たぶん,何百回もこの作品を踊る中で到達した,彼女の表現したいジゼルが確立しているのだろうと思います。

それに対してルジマトフは,彼女が踊りたいジゼルを前提に,自分がそれに対してどう踊ればいいのか探っているように見えました。(よく言えば,彼女の表現を受け止めて新しい表現を創ろうとしていた。悪く言えば,「これ」が見出せなくて試行錯誤していた)
その結果出てきたものは,今まで彼で見た中で最も「ジゼルを求めるアルベルト」。いつも以上に,両腕を広げ胸を大きくそらす動きを多用して,それを表現していました。
一方,ブリゼ(?)で舞台を斜めに動いて前方に進むところなどでは,動きの鋭さがありませんでした。これは,体力と技術の衰えなのかもしれませんが,これも,そんなことはどうでもいい。あれだけ必死にジゼルを求めてくれれば。
これは,ハートの表現が引き出してくれたものだと思いますし,私はルジマトフのファンとして,彼女に心から感謝しています。

ただ・・・なぜこんなに悲しい結末になったのかと思うと胸が痛みます。

私は,ハートのジゼルには,ハッピーエンドこそふさわしいと感じました。ハッピーエンドという表現はおかしいかもしれませんが,ジゼルの無私の愛によってアルベルトは救われる,生命だけでなく魂も救われる・・・そんな結末こそがふさわしい。
一方,レニングラード国立(とキーロフ)の演出は悲痛なもので,アルベルトは最後にジゼルの墓の上に倒れ伏して終わります。そして,ルジマトフが表現すれば,そこはこれ以上ないくらい悲痛なものになる。今回は,いつも以上の激しい表現で,墓の手前に倒れ,墓ににじりよっていました。それはもう感動的な表現。

でも・・・私はルジマトフに尋ねたい。
あの聖母のようなジゼルが渾身の力で愛を傾けて,なお救われないアルベルトであっていいのでしょうか・・・。

カーテンコールでのルジマトフは,2日とも「いっちゃった」ままでした。明るく穏やかに微笑むハートと対照的に,アルベルトのまま彼女を抱き寄せ,感謝していましたし,アルベルトのまま観客にあいさつをしていました。
あれだけ役が入っているということは,彼にとっても充実感のある舞台だったのだろうと思いますし,それを彼のために嬉しく思いますが,でも・・・。

   

フィナーレ

出演者が順番にひと組ずつ登場。ジュドは,メイクを落として,黒い私服でした。
そして,最後にプリセツカヤが・・・。舞台中央に立ち,客席の拍手に応えたあと,下手の出演者の方に歩み寄ると,全員が端から膝を折って,彼女にレベランス・・・。いやはや,あたかも女王陛下の謁見でございました。わはは,さすがに驚いた〜。
3人の王子(4人−クリギン)はエフテーエワをエスコートしたあと後ろのほうにいたのですが,プリセツカヤが登場するなり,ひざまづいてお出迎え。全員が前に進むと,静かに舞台を去っていきました。いやー,ご苦労さまですね〜。

(03.2.21)

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