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![]() 上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立していた。宿駅として整備されたのは、慶長七年(1603)伝馬制施行以降のこと。上尾宿は、中山道の中では比較的小さく。駅前の仲町1丁目付近が中心。飯盛り女は結構多く、岩槻や川越からも遊びに来る連中が多かったとのこと。 安政7年(1860)の大火で宿場の遺構はほとんど残っていないということです。 本陣1 脇本陣3 旅籠41 |
![]() ![]() JR上尾駅の前、市の中心が宿の中心地区でもあった。すぐ右手に氷川鍬神社がある、上尾宿の案内板があるが、雨風に曝され汚くなっていて読みにくい。読んでみると神社の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が二軒あった。その右近くには問屋場、さらに右に行くと道をはさんで両側に一里塚があったとあるが痕跡は全く残っていない。防火を祈念して屋根に鍾馗像を乗せる習慣があり、駅前宮本町に今も残っていると聞いて探してみたが、瓦屋根の家自体がが少なく見つからなかった。 |
![]() ![]() 古くは御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた神社。ご神体は小鍬だそうである。右手に上尾郷二賢堂碑記と雲室上人生祠碑頌が建立されている。 ■上尾郷二賢堂碑 二賢堂は聚正義塾の正式名で、菅原道真と朱文公という二賢を祭ったことに由来する。二賢堂は上尾宿に設けられた学舎で、この宿がかっての郷学の跡地であったことを示している。 |
■遍照院![]() ![]() 桶川へ向かう街道の右手奥にある寺で、日常山秀善寺と号する真言宗智山派の寺院。本尊は不動明王、寺領二十石の朱印地を与えられた見るからに格式のある寺でありました。 ■孝女お玉の墓 誰だか説明はないが、資料によると上尾宿の遊女でお玉は美しく気立ての良い女であった。参勤交代でやって来た加賀前田藩の小姓に見初められ、江戸に下ったが、二年後悪病に罹って戻り、25歳で亡くなったという。 |
![]() ![]() 右手のたばこ屋さんの前にある庚申塔 ■上尾宿説明板 彩の国平成の道標と中山道上尾宿と関する表示がある。 屋根には鍾馗像が乗っている。防火の神様となっている。 |
![]() ![]() ![]() やがて久保西交叉点で、右側に森があり立派な塀に囲まれた屋敷がある。ここら辺の名家に違いないと思ったが、特に資料がなく後に調べた。紅花の仲買問屋であった須田家だそうである。地図を見ると須田倉庫というのがある。左右の通りは、べにばな通りとBS通りとある。左へ行くとブリジストン上尾工場がある。右側は須田家と関係あるのだろう。 |
![]() 桶川の手前の明和6年の庚申塔。やがて桶川宿入り口。 |
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