第 3 章
ISLAMIC ARCHITECTURE in CHINA
中国 南部イスラーム建築

神谷武夫

中国南部の地図
中国南部のイスラーム建築地図

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01 揚州 (ヤンジョウ)**
  YANG ZHOU 江蘇省

清真寺(仙鶴寺)**
MOSQUE (XIANHE SI)

Yangzhou

 泉州、広州、杭州 と並んで来歴の古い「南海沿いの四大モスク」のひとつで、他のモスクと同じように動物名を冠した愛称、「仙鶴寺」(シェンハースー, Crane Mosque) の名で呼ばれている。仙鶴とは、不老不死の鶴の意であろう。 建物の配置形態が 飛翔する鶴のようであったので、この名がついたのだという。
 長江(揚子江)のやや北に位置する揚州は、隋代に五大水系をつなぐ大運河が建設されると、水上交通の第一の要衝として繁栄した。唐代には 国内に限らず、南海や東海と結ぶ国際的な貿易港となった。鑑真が日本にやってきたのも、ここからである。さらに遠く中東からも アラビア商人やペルシア商人が来住して コミュニティをつくった。

揚州   揚州

 南宋時代には、バグダードのハリーファ(カリフ)から遣わされた 普哈丁(プハティン)という名の使節が揚州を訪れて布教し、南宋末の 1275年に 新しいモスクを創建したという。「江都縣誌」にあるこの年号には疑問も投げかけられているが、それが仙鶴寺である。その後 戦災などで焼失、洪武帝の 1390年をはじめ 何度か再建された。現在の建物は、清の中期以後のものと見なされている。近年は文化大革命で荒廃したが、1982年に修復がなされて蘇った。
 敷地は 南北の道路に面し、南側の広い道路ではなく 北側の狭いほうの道路にエントランスがある。あまり広くないうえに奥行の浅い敷地なので、配置計画に苦労が見られる。大門をはいると前庭があり、この右側が大殿(礼拝殿)前の中庭となり、二門も前廊もあるのだが、やや窮屈なせいか あまり用いられない。普段は前庭から月門をくぐって まっすぐ行った南庭(講堂院)のほうから 大殿に出入りをする。南庭の西側には講経堂、南側には誠信堂(教室)がある。大殿からは小さな望月亭が張り出しているのが珍しく、この庭に華やぎを与えている。しかしこれが塔状には なっていないので、このモスクにはミナレットがない。金曜モスク(清真大寺)ではないからだろう。

揚州   揚州

 礼拝殿は、切妻の大屋根の列柱ホールの手前に 柱廊状の前廊、奥に礼拝室と同じ 5間巾の後窰殿(こうようでん、ミフラーブ室)があり、列柱ホールとの間を 連続アーチ状の木製スクリーンで仕切っている。実際の礼拝時には両者とも区別なく使われるのだが、棟と棟の境に こうしたスクリーンをいれるのが中国式モスクの特徴である。
 後窰殿は通常のミフラーブ室よりもずっと広く、礼拝スペースにもなっている。ミフラーブ前の中央部分は上部が吹き抜けていて、その外観は入母屋造りの方亭になっている。ここから アラビア語のカリグラフィーで飾られたミフラーブへの採光をするとともに、小屋裏をそのまま装飾天井のように見せている。
 室の端部には 木製の堂々たる宣喩台(ミンバル)が置かれている。ミフラーブのすぐ右側に置かれていないのは、日々の礼拝はこの後窰殿だけで足りるので、大きすぎるミンバルが邪魔になるのだろうか。礼拝室をスクリーンで仕切ることの欠点である。しかし もしかすると、これは後窰殿ではなく、本来の後窰殿は西側に突き出していたのが、道路拡幅の際に削り取られてしまったのかもしれない。そう考えると、現在の異例なプロポーションの後窰殿(礼拝室)の成立事情がわかるのだが。
 これは全体として、偉大なモスクというよりは、適度なスケールの快適な空間のつらなりから成るモスク 、と言えようか。




普哈丁園 清真寺と墓廟群 *
PUHATIN MOSQUE & TOMBS

普哈丁園   普哈丁園

 中国イスラームの四大聖墓として崇められてきた古墓がある。ごく早い時期にアラビアから布教にきて 中国で没した四聖賢の墓と伝えられるもので、2墓が泉州、1墓が広州、あとの 1墓がここ揚州の、仙鶴寺を創建したと伝えられる 普哈丁(プハティン)の墓である。これと泉州のものとは、国務院の国家文物局による「全国重点文物保護単位」に指定されているが、建築ではなく、中国へのイスラーム導入の 歴史的記念物としてである。
 中国には無数の古碑があり、寺院の縁起や来歴を伝えているが、権威づけのための誇張や捏造が多く、単なる伝説と区別しがたい場合も多い。預言者ムハンマドが 4人の弟子を唐に派遣して布教させた というのは その代表で、これら四大聖墓と結び付けられた謬説である。プハティンがムハンマド直系の 16代目の子孫だというのも そうだし、後述のように、広州のワッカースの聖墓は まったくの偽物である。
 プハティンは補好丁とも書かれ、田坂興道氏によれば、アラビア名の Burhan al-Din (ブルハーン・アッディーン) であろうという。使節として南宋を訪れ、1275年に仙鶴寺を建てた後 この地に没した というが、あるいは単なる貿易商であったのかもしれない。市の京杭運河のほとりに葬られたので、この墓園も「普哈丁園」と呼ばれるようになった。
 園は約 1.5ヘクタールの広さがあり、古清真寺、古墓園、古典園林の三部分から成る。古墓園にはプハティンの墓をはじめ、明、清代にいたる 67人ものアラブ人の墓がある。いずれも 磚(レンガ)造のシンプルな方形の小堂で、壁は白く塗られている。瓦屋根だが木造ではなく、どれも 持ち出しペンデンティヴの上にドーム天井を架けているのが興味深い。入口はみな アーチ開口である。

普哈丁園

   起伏のある敷地の一番下に(本来の墓園入口の脇)木造の小モスクがある。明代中期の建設で、付属の建物は何もないから、墓園付きの 単なる礼拝堂であろう。適度な大きさの中庭に面して建つ、切妻一棟の堂で、前面は柱廊になっている。内部は、後面の壁に窓が連続していて明るい。ミフラーブ室が後に突出して、中国式のプランとなっている。


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02 鎮江 (ジェンジアン)*
  ZHEN JIANG * 江蘇省

城西清真寺 *
WESTERN MOSQUE

鎮江   鎮江

 揚州から大運河を南下して、長江を越えるとすぐに、人口 100万ほどの 鎮江(ちんこう)に至る。三国時代からの歴史をもち、北宋時代に鎮江の名を得た。長江と大運河の交差点に位置する利点から、商業都市として栄えた。マルコ・ポーロはこの都市に景教徒(ネストリウス派 キリスト教徒)が優勢であったというが、元末の『至順鎮江志』では すでに回教徒が景教徒の約3倍いたという。といっても 400人ほどであったが。現在は 回族が約 8,000人。景教寺院は今に残らないが、モスクは 7院、清真女寺が 1院ある。
 唐代に創建したと伝説のある 古潤礼拝寺は明代に破壊され、さらに文革で破壊されて、今は郊外に新しい「アラビア式」モスクとなっている。市内に残るのは、磚造の古い家々の建ち並ぶ 細い清真寺街に面した 城西清真寺で、西大寺ともいう。道の名をとって「山巷 清真寺」とも呼ばれている。文化大革命でだいぶ被害にあったが、解放後に修復された。
 曲がった通路を通って事務所の横を抜け、木造の門を左に入り、さらに右手の白壁の二門を抜けると、やっと整形の中庭を囲む伽藍に出る。ずいぶんと奥まったモスクである。
 中庭へは北側から入るので、礼拝殿は正面ではなく右手となる。中庭は四分庭園のように分割されて、それぞれに樹が植えられているので、緑の多い、落ち着いた中庭となった。礼拝殿は切妻大屋根の一棟で、面積は約 440㎡、2列の柱列の並ぶ 間口5間の建物である。奥の中央に後窰殿があり、仕切りスクリーンには2本の円柱を立てた木製3連アーチである。全体にシンプルなモスクであるが、内部の梁や桁には彩色装飾がほどこされている。
 江蘇省で規模最大のモスクというが、それほど大きく感じられない。南京の浄覚寺より大きいのだろうか。


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03 南京 (ナンジン)***
  NAN JING  江蘇省

浄覚寺 *
JINGJUE MOSQUE

南京   南京

 江蘇省の省都、南京(なんきん)は中国四大古都のひとつに数えられ、中華民国時代には首都であった。悪名高い日本軍による 1937年の「南京虐殺」の舞台になった所でもあり、明代の 15世紀に ベトナムからアラビアまで 南海大遠征を行ったイスラーム教徒、鄭和(1371 頃~1434 頃)の墓の所在地でもある。しかし 揚州や鎮江が貿易都市であったのに対し、南京は政治・軍事の中心都市であったので、ムスリム商人の活躍場ではなく、したがって伝説的な古いモスクもなかった。
 それでも 江蘇省の文物保護単位に指定されている名高いモスク、浄覚寺(チンチュエ スー)は 明初、洪武 21年 (1388) に 朱元璋、すなわち洪武帝が創建したと伝えられる。明朝の初代皇帝であった朱元璋は、ムスリムではなく 儒教の徒であったが、元を滅ぼし 明を樹立するのに貢献した回族の軍人に報いたのだろう。当時、南京のムスリム人口は 10万を超えていた。

南京

  当初、モスクは三山街礼拝寺と呼ばれ、67ヘクタールもの敷地をもっていたという。現在は 南京の都心の繁華街に位置する。1430年には火災で炎上したが、それは ちょうど鄭和が第7次の(最後の)南海遠征に出る前日だったので、鄭和は出発を翌年に延期し、国庫資金によるモスクの再建を 宣徳帝に願い出たという。また 1492年にも重修理がなされているが、明の嘉靖年間(1522-1566)に世宗皇帝から下された敕賜の牌があるように、きわめて重要な地位にあった。現在もイスラームの活動の中心的役割を担っている。

 道路に面した 磚造の大門(雕牌坊)から一歩中に入ると、外の繁華街とは打って変わって 静謐な境内が展開する。四合院的な院落式(中庭型)の構成で、キブラ方向である左へと進む。ところが 礼拝大殿の手前の中庭の真ん中に 正庁の建物が建っているので、奥の中庭に行くには 両脇にまわらねばならない。おまけに 正庁と礼拝殿を結ぶ屋根を 鉄骨造で架けてしまったので、中庭の趣が半減している。
 中庭の左右には講堂(胡蝶廰)があり、奥の礼拝殿は 5間の巾である。内部は広々した列柱ホールであるが、後窰殿(ミフラーブ室)より1スパン手前に 木製障壁(スクリーン)をつくり、一種の多弁形アーチを連続させている。中央のすぐ右のアーチの奥に ちょうどミンバルがくるようになっているのは、揚州のモスクよりも具合がよい。後窰殿のキブラ壁は 赤地の上に アラビア語のカリグラフィーが金色で図案的に描かれ、両側の窓からの採光を受けて、実に華やかな効果をあげている。


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04 寿県 (ショウシェン)**
  SHOU XIAN  安徽省

華東清真大寺 *
EASTERN GREAT MOSQUE

寿県   寿県

 寿県(じゅけん)は合肥の北西、准南の近くにある 小都市で、1912年までは 寿州といった。保存のよい宋代の城壁で囲まれた歴史都市なので、「中国国家歴史文化名城」に指定され、七大古城壁のひとつにも数えられている(他は、西安、南京、荊州、興城、平遥、崇武)。都城はほぼ正方形で、東西南北に城門(市門)を備え、それを結んで東西、南北の真っ直ぐな大通りが 都市を田の字形に分割している。完全に復元、修復された南門に程近い、奥まったところにあるのが 華東清真大寺である。
 モスクは 明末の天啓年間 (1621~27) の創建と伝える。文革で荒廃していたが、1995~96年に修復工事が行われ、均整のとれた諸堂と伽藍配置をとりもどした。敷地は奥行の深い長方形で、すべての建物は中軸線上に、一列に並べられている。道路に面した磚造の大門は三門になっていて、両脇の小門から入ると前庭に出る。同様の、しかし木造の二門の奥に広い中庭があり、左右に講堂、正面に正殿と、シンプルな構成である。
 古くからの多くの有名なモスクが 増築を重ねた結果、中庭が狭くなっているのに比して、このモスクの中庭は十分な広さをもち、完全な幾何学庭園となっているのが興味深い。中庭の中央に、幾何学パターンの舗装の園路が正殿前の広い月台(テラス)に伸び、その両側は植え込みで区切られた緑地で、樹木が規則的に並ぶ。
 中東のモスクにおいては、モスクの幾何学的な中庭には いっさい樹木が植えられず、その代わりに中庭中央に泉水が配置されるのとは、はっきりと異なった、中国式の「緑の中庭」である。
 堂々たる正殿(礼拝殿)は巾5間、入母屋の重檐(チョンヤン 二段重ね)屋根で、柱廊の周囲には木の格子をめぐらせている。二段の屋根の間には「無像宝殿」と書いた額が掲げられている。講堂 は5間の切妻、単檐(タンヤン)屋根の建物で、学校として用いられた。


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05 安慶 (アンチン)**
  AN QUING  安徽省

関南清真寺 **
SOUTHERN GREAT MOSQUE

安慶   安慶

 安慶(あんけい)は、南京と武漢を結ぶ長江(揚子江)の中ほどにある 水運要衝都市。人口 60万ほどの落ち着いた都市である。関南清真寺は明代の成化5年 (1469) の創建と伝える。明末に戦乱で壊滅するも、清の康熙帝の時に再建。その後も たびたび破壊や修復を繰り返し、1876~1896年に再建。1970年代に文化大革命で荒廃したあと、1983年に全面的に修復された。
 敷地は都市内で不整形な上に、大きな高低差がある。現在のメインの入口は 上側の繁華な道路に面しているが、こちらは後から整備したもののようで、RC造の平凡な建物群の間を縫うようにアプローチする。この最上部に木造の小規模な望月楼(ミナレット)が載るが、大殿(礼拝殿)に行くには 省心楼というRC造の建物の横の階段を下りていく。しかし これは大殿の北側 側面の小庭に出るので、東側正面に出るには、左側に大きく回りこんでいく。

安慶   安慶

 本来の入口はその先の(現在は裏側の)静かで趣のある地区の道から アプローチした。それにしても、600㎡ もの広さの大殿を擁しているために、正面の二門から入る中庭も、礼拝室の広さとは不釣合いに狭い。しかしこれは増築の結果ではない。というのも、大殿は入母屋造りの大屋根一棟でできているからである。そのために屋根頂部の高さは かなり高く、20mを超える。しかも棟飾りを載せた「硬山」ではなく、丸めた「巻棚」にしているのは異例である。屋根はすべて 緑色の瑠璃瓦で葺かれていて、周囲の緑と調和している。
 中庭の左右には小規模な講堂があり、大殿の正面は 斗栱で支えられた2段の瓦屋根の庇が 堂々たる印象を与える。1,000人が同時に礼拝できるという内部は 広々した列柱ホールで、顕しになった小屋組が雄大な姿を見せる。すべて一色の塗装であるが、後部に突き出した後窰殿の方を見ると、金色のカリグラフィーで飾られた柱飾り、扁額、ミフラーブまわりが たいへんに華やかで重厚な眺めをつくっている。
 全般に、配置計画は苦しいが、大殿は雄大で調和のとれた、見事なデザインであると言える。アラビア語の扁額も、控えめなミンバルも良い。


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06 上海 (シャンハイ)***
  SHANG HAI  直轄市

松江清真寺 ***
SONGJIANG MOSQUE

松江   松江

 上海地域にイスラームが入ってきたのは 元代の 13世紀で、現在は5万人ほどのムスリムが居住している。しかし市内に古いモスクは残っていない。清真西寺が RC造で建て直されて 小桃園 清真寺となっているが、中国各地の新しいモスクと同じように、建築的な価値は低い。上海で見るべきモスクは、市外の松江(ソンジアン)にある。
 今でこそ上海市郊外の松江県となっているが、14世紀頃までは こちらが綿織物で栄えた華亭県という都市で、ここに属していた上海が 13世紀に独立し、18世紀に現在の市域を形成したのである。華亭県は松江と名前を変え、次第に上海のベッドタウンのようになっていったが、近年再開発されて 観光地となりつつある。
 今は松江に住むムスリムは 300人程度になっているが、松江清真寺は上海地域で最も古く、かつては「真教寺」と呼ばれていたことが、1407年の扁額でわかる。創建は元代の至正年間 (1341ー67) と言われ、明の永楽帝の時代 (1402-24) に再建されたようである。近年は 1985年に修復され、上海市の「重点文物保護単位」に指定されている。

 敷地は広く、東側に緑豊かな園林が広がっている。この庭園への入口からモスクの後窰殿に至るまで 東西軸が通っているが、現在は、再開発された北側の商業街と広場の側に 大門を設けている。広場側から境内が見通せないように 外照壁をもうけ、門をくぐると さらに内照壁(磚の板に清真寺と縦書きで彫刻されている)がある。このアプローチ路を進むと 二門前の、半円形状の中庭(前庭)に出る。これを囲む塀の意匠が凝っていて、瓦を縦に何段も重ねた上に屋根瓦を載せている。こうした曲線に満ちた中庭というのは類例がない。
 ここで 90° 振れると モスクの本来の軸線となり、塀のアーチ開口をくぐれば広い園林に抜け、反対側の二門をくぐると 礼拝大殿前の中庭に出る。このように、広い敷地が人間的スケールの小区画に分割されながら、奥へ、大殿の周囲へと つながっていくのが、このモスクの配置計画の大きな特徴であり、来訪者に 住宅におけるような親密感を与えるのである。
 二門がまた特異な姿をしていて、邦克門楼(ミナレット)を兼ねている。磚造の下部は元代のもので、アーチ開口の内側は 磚の段重ね状のペンデンティヴに支えられた ドーム天井である。重檐(二段重ね)の屋根の上段は 棟が東西と南北に直交して十字形をなす珍しい形で、日本の城の天守閣にも ありそうで無い(私が知っているのは、北インドのヒマラヤ地方だけである)。こうした「交差入母屋屋根」は、モスクの奥の後窰殿でも繰り返され、さらに高く聳えている。

松江   松江   松江

 中庭の左右には、例によって講堂(現在は展示室に用いられている)があり、正面に 明代の礼拝大殿の前廊がある。中庭から斜め横手に抜けると、古柏園や墓園をめぐりながら、大殿の周囲をぐるりと回ることができる。前廊の奥は4本柱が立つ ほぼ正方形の礼拝ホールで、ここに明代のミンバルが残る。
 特異なのは、次の杭州の真教寺と同じように、奥の後窰殿とホールとの間に 緩衝空間があることで、聖龕(ミフラーブ)をいっそう奥まったものにしている。まるで儀式を行う祭壇のように見えるが、本来 ミフラーブは 麥加 (マッカ)の方向を示す「方向指示器」であるに過ぎない。これほど特別扱いされたミフラーブは、中東のモスクには決して見られないものである。この後窰殿は元代の磚造のものなので、明代の木造の礼拝ホールとは明瞭に分節したかったのかもしれない。内部は邦克門楼と同じように、高さ8mのドーム天井となっている。また、アラビア文字で装飾されたミフラーブは、大変に立派である。


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07 杭州 (ハンチョウ)***
  HANG ZHOU 逝江省

真教寺(鳳凰寺)*
ZENGJIAO MOSQUE (FENGHUANG SI)
全国重点文物保護単位

杭州   杭州   杭州

 泉州、広州、揚州 と並んで来歴の古い「南海沿いの四大モスク」のひとつで、他のモスクと同じように動物名を冠した愛称、「鳳凰寺」(フェンフアン スー, Phoenix Mosque) の名で呼ばれている。当初のモスクの形(プラン?)が鳳凰に似ていたというが、定かでない。 市の南にある 鳳凰山にも因んでいるのかも知れない。杭州は南宋時代(12、13世紀)に首都となって大いに栄え、豪壮な王城が鳳凰山の東面に営まれたという。
 元代になると、色目人としてのムスリムが開封から大量に移住し、多くのモスクを建てた。1280年頃に訪れたマルコ・ポーロは杭州の繁栄をほめたたえ、その人口が約 100万人であると記している。つまり 世界最大の都市だったわけである。
 イブン・バットゥータは杭州のムスリムの地区にある金曜モスクと その他のモスクについて書いていて、田坂氏は この金曜モスクが 真教寺(チェンチャオ スー)のことであろうと推測している。現在の鳳凰寺は杭州の中心部の中山中路に西面し、敷地面積は 2,600㎡と、それほど広くない。1929年に道路が拡幅された折に敷地が狭められ、5層のミナレットを戴いた磚造の大門も 取り壊されてしまった。
 モスクの創建は唐の時代だという伝説が流布しているが、これには何の証拠もない。元代の 1281年に創建され、延祐年間の 1314~1320年に火災のため再建された、という記録のほうが信憑性が高いようである。この再建には 阿老丁(アラー・アッディーン)という ペルシアの伝道師が醵金したことを伝える、アラビア語の墓碑がここに残っている。その後 明代の 1451年あるいは 1646年にも再建されたらしい。


杭州鳳凰寺の平面図 (From "中国伊斯蘭教建築" by 劉致平, 1985)

 現在に残る建物は、磚造の後窰殿の中央部のみが元代のもので、両脇は明代の増築である。礼拝ホールの部分は老朽化の理由で、1953年に 鉄筋コンクリートで建て直されてしまった。その内部は小規模な体育館のような印象となり、後窰殿との落差は大きい。そしてまた 先の松江清真寺と同じように、礼拝ホールと後窰殿はまったく切り離されて その間に緩衝空間をもつという、喉がくびれたような特異なプランとなった。他に類を見ない 異例のモスクである。
 松江では後窰殿が小さかったので あまり違和感はなかったが、杭州の場合は直径が 8.3mの大ドーム天井であり、両脇の増築は右がドーム直径 6.7m、左が 7.3mという規模なので、全体の巾は礼拝ホールよりも広くなってしまった。ホールから見通しはきかず、一体どのように用いたのか不思議な気がする。普段の礼拝は 後窰殿だけで済ませたのであろうか。
 ドームの屋根は瓦葺で、木造であるかのごとくに、中央が「八角重檐」(二段重ねの八角円堂)、両側が「六角単檐」(六角円堂)の反り屋根になっている。構造は例のごとくに、磚の段重ね状のペンデンティヴ(三角形扇面拱)に支えられた ドーム天井で、木造の柱・梁がないことから、これを「磚砌無梁殿」と呼んでいる。木製の聖龕(ミフラーブ)は北宋時代のもので、「可蘭經」(クルアーン)からの抜粋が アラビア語で刻まれている。


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08 福州 (フージョウ)
  FU ZHOU 福建省

南門兜清真寺
NANMENDOU MOSQUE

福州   福州

 福建省の省都・福州(ふくしゅう)は漢代から続く古都であって、国家歴史文化名城に指定されている。日本の長崎にある黄檗宗・崇福寺は、明末に福州から渡来した僧・超然(ちょうねん)を開山としたので、「福州寺」とも呼ばれている。しかし宋代以降、港湾都市として栄えたにしては、特に注目すべき 古モスクはない。
 南門兜(ナンメントウ)清真寺は、創建が唐の貞観2年(つまり唐の第2代皇帝・太宗の治世、628年)であると、イスラームが中国にきわめて早く伝来したという謬説を そのまま当てはめた伝説を残しているが、628年というのは、マディーナに居住したムハンマドが まだマッカのアラブ軍と戦っていた頃で、その時代に中国にモスクが建てられた などというのは荒唐無稽の話である。1549年の「重建清真寺記」碑にある、元代の至正年間 (1341~68) に重修とあるのが、創建であろうか。1541年に火災で炎上して1549年に重修理、その後何度も再建や修復を繰り返したらしい。
 南門兜というのは地区の名前で、道路に面したRC造3階建ての門楼(頂部にドーム屋根)から深く引き入れて、中国型の 趣のある木造モスクに導く。現在のモスクは小規模なもので、四合院住居のような配置形式をとっている。左右に講堂をしたがえた正面の大殿は 軒が低く、あまり立派な印象を与えない。内部は意外に奥行が深く、巾3間、奥行4間の列柱ホールとなっている。かなり老朽化しているので、そろそろ大々的な修復工事が必要であろう。
 興味深いのは、ミフラーブの手前の床が礼拝ホールよりも2段分くらい高くなっていて、まるで舞台のようになっていることである。両側の柱と上部の梁、それに左右の高欄で囲まれたスペースは、通常の中国型モスクと異なって、手前に突き出た「後窰殿 」と言える。いずれにせよ ミフラーブ室を強調して、神事でも行いそうな空間にするのは、中国以外に見られない習慣である。


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09 泉州 (チュエンジョウ)**
  QUAN ZHOU  福建省

清友寺(麒麟寺)**
SHENGYOU MOSQUE (QILIN SI )
全国重点文物保護単位

泉州   泉州

 広州、杭州、揚州 と並んで来歴の古い「南海沿いの四大モスク」のひとつで、他のモスクと同じように動物名を冠した愛称、「麒麟寺」(ジリン スー, Giraffe Mosque) の名でも呼ばれた。アラビア名は 艾蘇哈ト大寺 Masjid al-Ashab なので「聖友寺」(シェンヨウ スー)であるが、誤って「清浄寺(チンジン スー, Qing Jing Si) とも呼ばれてきた。今では 清浄寺のほうが 正式名称のように扱われている。アラビア人のムスリムが 北宋の大中祥符2年 (1009) に創建したと伝えられているため、中国最古のモスクという歴史的意義から、イスラーム建築の中では最も早く、国務院の国家文物局による 全国重点文物保護単位 に指定された。
 現在の泉州は小規模な、落ち着いた商工都市であるが、宋代、元代には中国随一の国際的な港湾貿易都市として発展し、いわゆる「海のシルクロード」の起点でもあった。そのため早くからアラブ人やペルシア人商人が来訪して、ムスリム・コミュニティの 蕃坊(ばんぼう、外国人居住区)をつくった。マルコ・ポーロの「東方見聞録」では、「ザイトゥーン」(刺桐)という都市名で描写されている。ザイトゥーンとはアラビア語でオリーブの意であり、10世紀に留従効がオリーブの木を植えたことに由来するという。
 モロッコ出身のアラブ人旅行家、イブン・バットゥータは マッカからインド、中国に至る 24年間に及ぶ旅を「三大陸周遊記」に書いていて、1345年に上陸したザイトゥーン(泉州)が壮麗な大都会であること、現地のムスリムたちに歓迎されたこと、しかしザイトゥーンの町に ザイトゥーンは見当たらないこと、などを記している。またムスリムの鄭和が南海大遠征(1405~33)を行った際に、大航海の出発点としたのも泉州港である。かつては この町に9つのモスクがあったが、今はここのみである。

清友寺平面図

清友寺の平面図
(From " Chinese Architecture" by Laurence G. Liu, Academy Edition)

 市の中心部の涂門街(トゥメン ジエ)に面した聖友寺が、中国に現存する最古のモスクの遺構であることは まちがいないが、現存の遺構は 元代 1310年の再建である。ペルシア人の イブン・ムハンマド・アル・クーズ・シーラーズィーの寄進によるという。 創建時の建築形式を 忠実に踏襲したらしい。大門もまた その時の建設であったが、上部にあった宣礼塔(ミナレット)は 明暦の泉州大地震で崩壊してしまった。
 このモスクは、中国では さまざまな点において特異であって、中国式であるよりは、中東のモスクに ずっと親近感がある。そのことが、この遺構の古さを物語っている。つまり 回族ではなく、当時泉州に住んだアラブ人やペルシア人が、自分たちの礼拝のために 故国のモスクのスタイルを持ち込んで建設した建物なのである。
 まず 木造ではなく、石造であること、したがって アーチを多用していること、そのアーチも 尖頭アーチの頂部を反曲線にした「オジー・アーチ」であること。中国では新疆ウイグル地方にのみ見られる「イーワーン」式の大門にしていること、等々。それだけでなく、諸堂の配置にも不思議なことが多い。大門からミフラーブに至るまでの軸線が通っていないし、礼拝殿の前に中庭がない。そして礼拝殿を道路に ぴったりと寄せて、多くの窓を穿っている。道行く中国人に中を覗かせて、イスラームへの興味を誘ったのであろうか。ただ エジプトにはこうしたモスクは珍しくない。カイロでは広い敷地を得ることがむずかしかったせいもあり、道路に接して窓をあけたモスクを しばしば見かける。

泉州

 大門はペルシア的なイーワーン型の「ピシュターク」で、アーチの高さは 10m、内側の半ドームは リブが付き、奥の低い半ドームには ムカルナス風のパターンが彫刻されている。大門の高さは約 12mで、屋上が「望月台」になっている。周囲には中東風の銃眼狭間のパラペットがまわる。礼拝殿との奇妙な位置関係は、敷地の狭さのゆえだったろうか。
 「奉天殿」と呼ばれた礼拝殿は、面積が約 600㎡のアラブ型 列柱ホールで、かつては 12本の石柱が立っていた。これらに 大門のようなアーチやヴォールト屋根が架かっていた形跡はないから、木造のフラット・ルーフだったのではないかと思う。それは アラブ型として珍しくないが、中央ミフラーブ部分の壁が キブラ壁から奥に出っ張っているのが、後の中国式の後窰殿の起源のようにも見える。中東では、アラブ型にもペルシア型にも、そうしたモスクは思い浮かばない(マグリブまで行くと、ミフラーブ室が突出するが)。

 そしてオジー・アーチであるが、大門のイーワーンには 大きく用いられているものの、本来これは構造的に不安定なアーチなので、礼拝殿においては ほとんどが壁つきアーチとして用いられている。これなら崩壊のおそれはない。ところが道路側の窓開口では アーチを用いずに、すべて水平の 楣(まぐさ)を架け渡している(楣というのは一種の梁だが、開口部の上に渡す梁を 楣(リンテル)という)。これらが示しているのは、おそらくアラブ人やペルシア人がアーチ構造を望んでも、建設にあたる中国人はアーチに慣れていなかったので、壁つきアーチや楣に頼ったのではなかろうか。
 なお石材は花崗岩であるが、大門にだけ、中国では他に見られない輝縁石(玄武岩の一種)を用いていて、その石積みの優秀さが 高く評価されている。 もしかすると、このオジー・アーチの大門だけが、中東からきた職人の手で建設されたのかもしれない。
 こうしたすべてが非中国的であったからか、奥に 明善堂(ミンシャンタン)という、中国式の木造礼拝殿が 1609年に建設された(創建は 1131年ともいう)。これは、次第に中国人の信者が増えていったせいであろう。現在見られるものは、廃址になっていたのを、近年建て直したものである。




霊山聖墓 (リンシャン シェンモー)
LINGSHAN HOLY TOMB

泉州   泉州

 泉州の郊外の清源山という山の麓に 無名のイスラームの古墓があり、「霊山伊斯蘭教聖墓」と呼ばれている。国指定の重要文化財(全国重点文物保護単位)となっているが、それは建築ではなく、中国にイスラームが伝来した 歴史上の古址としての墓に対してである。その根拠は、明末に書かれた「閩書」中に、唐の武徳年間 (618~626) にムハンマドの弟子4人(四賢)が中国に来て、布教ののち没し、一賢の墓は広州に、二賢の墓は揚州に、三賢と四賢の墓が泉州に設けられた と書かれていることである。
 この 四聖賢の伝説は、この書以前から広く流布していたもので、ムスリムたちはこれを誇りとして、これらの古墓に巡礼もした。しかしこの伝説はまったくの謬説で、武徳年間というのはムハンマドがマッカからマディーナに移住(ヒジュラ)してイスラーム教の確立に辛苦していた頃で、中国への布教などさせるわけがないのである。田坂興道氏は諸資料から、元以前のある時代(おそらく聖友寺創建の頃)に外国よりこの地に入り来たった 学識ある2人のための墓所ではないか と書いている。
 花崗岩でつくられた2基のイスラーム墓は 元代の 1323年に重修理されたという記録がある。真上の石造の屋根は 1962年のもので、オープンな廟としている。背後には馬蹄形に回廊がつくられていて、7枚の石碑を並べている。 その中には 鄭和が明の永楽 15年(1417年)に第5回目の海外遠征にあたって、ここに参拝したことを記した石碑もある。この聖墓はスーフィー聖者のマザールやダールガーの役割をしていて、ムスリムは ここに願掛けなどにも訪れたのだろう。
 回廊は石造だが、まるで木造のような架構形式をとっていて、柱、柱頭、腕木、梁、石の板庇と、インドの建築を髣髴とさせる。


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10 広州 (グァンジョウ)**
  GUANG ZHOU 広東省

懐聖寺(獅子寺)**
HUAISHENG MOSQUE (SHIZI SI )
全国重点文物保護単位

広州   広州

 泉州、杭州、揚州 と並んで来歴の古い「南海沿いの四大モスク」のひとつで、他のモスクと同じように動物名を冠した愛称、「獅子寺」(シーズ スー, Lion Mosque) の名で呼ばれた。「懐聖寺」(フワイシェン スー)というのは、預言者ムハンマドを懐念するモスク という意味である。しかし その礼拝大殿は現代の 1935年の再建であり、数百年の古齢を誇るのはミナレットだけである。それがこのモスクのシンボルになっているので、モスク全体が ミナレットの訳語である「光塔」(Guangta Tower)をとって、「光塔寺」(グアンタ スー)、あるいは「懐聖光塔寺」という呼称が広く用いられ、前面の道路も 中山六路光塔街 と名づけられた。
 広州は広東省の省都で、人口 800万を超える大都会である。古代から栄えたが、特に唐代においては 南海貿易で最も重要な地位にあった。遠くアラビアやペルシアからも多くの商人がやってきていたことは、唐の滅亡の原因ともなった黄巣の乱で 広州のペルシア人やアラブ人が大量に殺戮されたという記録が示している。南宋の時代になると、中国一の国際貿易港の位置を泉州に奪われるが、16世紀以降はヨーロッパとの貿易を担う唯一の国際港となり、そのためアヘン戦争の舞台ともなった。

 広州の懐聖寺もまた、唐代の 7世紀 (630年代) にアラビアからやってきた伝教者のアブー・ワンガス(と、日本では表記されている)が創建した という伝説が流布しているが、揚州や泉州や福州の項で述べたように、これは もちろん信じがたい。太宗皇帝の貞観元年 (627) に創建と書いた本も数多いが、これは前述のように、ムハンマドの弟子4人が唐初に中国に来て布教したという、中国イスラームの権威付けのための 多くの古碑文に基づいている。
 「回教の伝来とその弘通」を著した田坂興道氏は 史料を駆使して、懐聖寺は北宋の煕寧年間 もしくは それから遠く下らざる際に、ムスリムの 辛押陁羅(アブダッラー)という富豪の寄進で創建されたのであろう と推測している。
 その後、元の至正 10年 (1350) に再建され、清の康煕 34年(1695年) に火事で炎上して再建というのが 信憑性の高いラインである。とすると、現存ミナレットは磚造であるから、清代の火災には焼け残ったであろうと考えられるので、元代の建築を伝えていることになる。そして諸堂は何度も再建するうちに 中国式の木造建築となってしまったが、創建時と元代の再建時には、泉州の聖友寺と同じように、石造または磚造の 中東風モスクのスタイルを伝えていたはずである。
 晩唐の 880年頃に、クライシュ族に属するイブン・ワッハーブが使節として長安に来て皇帝に謁見しているが、広州や長安にモスクが存在したとは全く言及していないというから、おそらく唐代にはこのモスクはまだ存在しなかったのだろう。

広州懐聖寺   広州懐聖寺

 懐聖寺のミナレットは、中国では他に例を見ない珍しいもので、西方の円筒形ミナレットにきわめて近い。高さは約 36mで、2段構成になっている。下層には磚造の螺旋階段が二重に組み込まれていて、いずれでも屋上に上ることができる。ここから日に5回、礼拝の呼びかけ(アザーン)をしたのである。上部にいくほど細くなる塔状をしていて、磚のうえに漆喰を塗っただけの壁には 何の装飾もない。おそらく、アラベスク装飾をするような職人は 中国には来なかったのではないかと思われる。かつては塔の頂部に 金鶏の彫刻が取り付けてあったというが、地震や火事で失われてしまった。
 塔の上部には夜毎に灯をともして、近くの珠江を航行する アラビア船への灯台の役割も果たしたという。もともと英語のミナレットはアラビア語のマナーラのなまったもので、マナーラとは「火がたかれる場所」、「光の場所」を意味する灯台から派生したのではないか というから、灯台を兼ねた「光塔」の訳語は ふさわしかったのである。
 伊東忠太は 明治 43年 (1910) に行った このミナレットの調査を、後に「広東における回教建築」としてまとめていて、ミナレットの外壁の厚さは 1尺 7寸、中心柱の径は 12尺 5寸、階段の巾は 4尺 5寸、塼の大きさは 7寸 5分 × 3寸× 2寸と記している

平面図

懐聖寺の平面図
(From " Ancient Chinese Architecture" by Sun Dazhang, Springer)

 さて モスクの敷地面積は約 3,000㎡あるが、道路からずいぶんと奥まっていて、レンガ造の門から 長いアプローチ通路をとっている。矩形の境内の入口には 明代の望月楼が門となっていて、二段重ねの瓦屋根を戴いている。中庭は三方を回廊で囲まれている、ヨーロッパの修道院のクロイスターの趣である。ところがミナレットはここになく、ずっと離れた道路の近くにある。 市民に礼拝の呼びかけをするには、むしろ この方が自然である。
 新しい礼拝大殿は周囲に柱廊をそなえている。外観は中国式であるが、内部はRCのトラス梁が並ぶ無柱ホールで、伝統的な意匠への期待を裏切っている。伊東忠太が訪れたときには あった明代再建の大堂を、1935年に建て直したのは なぜなのだろうか。奇妙なのは ミフラーブが入口の正面ではなく 左方向にあることで、門からの軸線を 90度振っている。マッカが西側、道路が南側にあることの折り合いである。この隣には、女性の礼拝のための、小規模な清真女寺が用意されている。




斡葛斯墓 (ウォゲス モー)
WOGES TOMB

広州   広州

 中国イスラームの四大聖墓として崇められてきた古墓がある。ごく早い時期にアラビアから布教にきて 中国で没した四聖賢の墓と伝えられるもので、2墓が泉州、1墓が揚州、あとの1墓がここ広州の、懐聖寺を創建したと伝えられる 斡葛斯(ワンガス)の墓で、特に「先賢古墓」と呼ばれた。ワンガスとはムハンマドの弟子の 1人、サード・ブン・アブー・ワッカースのことで、サード・ワッカースは「賽伊德 瓦戛斯」や「賽爾弟 斡歌士」等 さまざまに音訳された。懐聖寺の北方にある 旧 「回教墓場」 内のワッカースの墓は、四大聖墓の中でも最も有名で、ワッカースはムハンマドの母方の叔父であるとされた。唐の高祖在位の武徳年代 (618-626) に、ムハンマドに派遣されたワッカースは、貞観元年にペルシャ湾から広州に辿り着き 懐聖寺を建立したというのである。
 ところが史実はそうではなく、ワッカースは ムハンマドの母方の曽祖父の孫で、17歳にして改宗してムハンマドの忠実な弟子となり、シリアやペルシアの征服に功あり、クーファの太守を務めた後、70歳頃に没してマディーナ(メディナ)に葬られた。そういう生涯であったから、中国に来たことは一度もない。

広州斡葛斯墓
斡葛斯墓の断面図 (From "中国伊斯蘭教建築" by 劉致平, 1985)

 おそらく これも唐代 あるいは宋代にやってきた布教者の墓が、いつしかサード・ワッカースの名と結びつけられたのであろう。ワッカース伝説は明の中葉におこり、さまざまな異説で飾られた。いつの時代にか ドーム屋根の廟で覆われ、明代には前面に木造のオープンな拝堂が建てられ、墓園は2ヘクタールの広さとなった。園内には各時代のムスリムの墓が立ち並び、緑に満ちた静謐な空間となっている。
 磚造のドーム屋根としては、現存最古のもののひとつで、唐代という説もあるが、杭州の鳳凰寺と同じ方法のスキンチであることから、元代の建設である可能性が高い。ただ、やはり元代の小ドームである河北省 定州の清真寺の後窰殿とは、スキンチも屋根もまったく異なっている。


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11 ホンコン 香港 (シャンガン)***
  XIANG GANG 特別行政区

九龍清真寺
KOWLOON MOSQUE

九龍   九龍

 香港は北京語でシャンガンと発音するが、広東語ではホンコンなので、植民地時代に英語でもホンコンと呼ばれた。中国の中では特別な位置を占め、イギリスの直轄植民地として発展したせいか、中国式モスクはない。いくつかのモスクの中で 最も規模の大きいのは香港島の対岸の 九龍市にある清真寺である。
 もともとは駐留英軍の中の インド人ムスリムのための礼拝所であったらしい。1896年の創建だが、1980年に倒壊し、1984年に再建された。九龍公園の一角、繁華なネイザン通りに面した一段高い敷地に、都市型のモスクらしく、1階にエントランスと大礼堂、2階に礼拝殿、3階に女礼拝殿を重ねている。
 それほど質は高くないが、現代建築の中にアーチやドーム その他の伝統的な要素を盛り込もうとしている。ほぼ正方形プランで、2階の屋上の四隅に望月楼(ミナレット)、3階屋上の中央にドーム屋根と、(空から見れば)シンボリックな造形としている。
 礼拝殿は鉄筋コンクリート造の列柱ホール型モスクで、男性用礼拝殿の中央に 円形の吹抜けがあり、上階の女礼拝殿から見下ろせ、その上がシンボリックなドーム天井(屋根)になっていて、天井は鏡片で飾られている。男子用と女子用がこのように連結されているのは 新機軸であると言えよう。規模は大きく、1,000人が同時に礼拝できる。内部にはふんだんに白大理石が用いられている。女子用の礼拝室には、ミフラーブもミンバルもない。


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11 昆明 (クンミン)**
  KUN MING 雲南省

正義路清真寺
ZHENG YI LU MOSQUE

昆明

 昆明は云南省の省都で、人口 480万の大都会である。 南部にあっても海抜が 2,000m近く、快適な気候に恵まれている。 元代にムスリムの色目人、賽典赤(さいてんせき、サイイド・アッジャル・シャムスッディーン Sayyid Ajjal Shams al-Din)が雲南省を統治して以来、現代までムスリム人口が多く、鄭和もその後裔であった。
 古モスクの正義路清真寺は 南城清真寺ともいい、賽典赤の創建と伝える。『雲南通史』には 唐の貞観6年創建と記されているが、信じるに足りない。それでも云南省で一番古く 400年の歴史を誇っていたが、なぜか 1997年に取り壊されてしまい、鉄筋コンクリートで再建された。 破壊、再建の典型的なモスクで、現在のものは建築的には ほとんど価値がない。 建築家がタッチして、現代のモスクのあり方を探求したようなものは、中国には ほとんどないようである。 ここでは敷地の狭さから、重層された朝真殿と呼ばれる建物の 2階に 礼拝室がある。

平面図
旧・正義路清真寺の平面図
(From Liu Zhi-ping "Islamic Architecture in China" Urumqi)

 さいわい、古モスクの平面図と立面図、そして2枚の写真が、劉致平の『中国伊斯蘭教建築』に載っているので、そこからに転載させていただく。敷地は狭小で、中庭も十分な広さがとれなかったようである。大門に接するように花庁が建っていた。このモスクには邦克楼(ミナレット)がないが、この花庁の上部に邦克楼が建っていたのかもしれないが、劉致平が調査した当時は巻棚屋根になっていた。一番奥の、幅5間の大殿は華やかに彩色されていたという。

 新疆ウイグル地方における西方的なモスクとちがって、中国型のモスクの特徴のひとつは、ミフラーブのあるスペースを後窰殿として 礼拝室の後部に突出させることにある。しかし、雲南地方では 独立的なミフラーブ室をつくらない。この昆明の新・古モスクに見られるように、ミフラーブはキブラ壁内に平面的に納めるか、この柱で囲まれた程度のスペースをもう少し奥まらせるかである。世界的に見て、ミフラーブを部屋として扱うのは、イスラーム圏の西端のスペインと、東端の中国である。それは モスクの中庭に樹木を植えるのが 同じくスペインと中国であることと対応していて、大変に興味深い。


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13 大理 (ダーリー)***
  DA LI 雲南省

南門清真寺 *
SOUTHERN GATE MOSQUE

大理   大理

 大理(だいり)は人口 42万の小都市であるが、紀元前から続く古都で、10世紀半ばから 13世紀半ばまで 300年以上にわたって 大理国の首都でもあった。昆明に都が移ってから さびれたが、そのかわりに 城壁で囲まれた「古城」が古都のたたずまいを伝えている。標高は約 2,000m。
 大理を首府とするペー族自治州の住民は約3分の1がペー族だが、1852年に清朝に反旗をひるがえして蜂起した 杜文秀によるイスラーム政権が 1872年まで続いたくらいだから、回族も多く居住している。そのために、小規模ながら 木造の古モスクが2つ残されている。
 大きいほうが南門清真寺で、道路に面してRC造3階建ての小ホテルが 両脇にミナレットをしたがえた姿で建てられ、その1階の中央が 奥のモスクへの門の役割を果たしている。駐車場となっている前庭から階段で上の敷地に上ると、門を兼ねた木造の2階建て事務棟がある。この中央を抜けると 閑寂な中庭を囲む境内で、左右が講堂、正面が礼拝殿である。
 間口 3間の礼拝殿は 14世紀の建立で、清代に重修理をしたという。手前の階段を貫く2本の樹木とともに、棟に反りをもった瓦屋根の礼拝室が見事なプロポーションでたたずんでいる(左側の講堂がRC造の再建であるのが惜しい)。前面はすべて古式の折り畳み戸で 趣があるが、奥行3間の内部はそれほど意匠が凝らされていない。ミフラーブは少し奥行があるが 何の装飾もなく、ただ木製の、扉も天蓋もないミンバルが置かれている。




清真古寺 *
OLD MOSQUE

大理

 人民路という名の細い道の、より古い町並みに建つのが 清真古寺である。 街路に面して 今にも朽ちそうな木造の門をくぐってL型に深く引き込んだ奥に、中庭を囲むモスク境内がある。南門清真寺とよく似た構成だが、右側は講堂で閉じてなく、回り込んだ奥に 2階建ての教学楼がある。ミナレットはない。

大理   大理

 礼拝殿は 南門清真寺と同じく3間の間口の両脇に、それぞれ半間伸ばしている。南門のように両側の講堂が迫っていないので、ゆったりした感じを与える。礼拝殿の内部は南門清真寺より ずっと古式を伝えていて、梁には外部の軒の斗栱と同じように 極彩色の塗装がほどこされている。ミフラーブのあるスペースは少し後部に突き出ていて、手前の 2本の柱と低い梁で結んで、その存在を強調している。現在の「老大殿」は奥行が浅いので、この背後に「新建大殿」を増築して、礼拝室を広くすることが計画されている。

( 2008 /05/ 10 )

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