高橋 亨輔 さん  (21期)  1973年卒業 


    「柔道大会の思い出」
2015年7月 掲載 
高等部生の頃は60歳って・・・
   まだまだ先の事だと思っていましたが
還暦会を同期で祝ったとたんに、もう61歳になっていました。
2年前に大病をしたことで、残りの人生を悔いなく過ごしたいと思い、ロックバンド活動やゴルフ・蕎麦打ち等々の趣味をこれまで以上に真剣にやっていかないといけないと思っている昨今です。

余談ですが、柔道では取得できなかった二段を、大学時代に合気道と数年前から始めた『蕎麦打ち』で取得できました。さらに蕎麦打ちでは三段取得を目指しています。
 

今回のこの投稿引き受けのキッカケは、同期のリッキー(松本君)と一緒にやっているロックバンド「MS」のLIVE後の打ち上げで、会場に来てくれた高等部同期生でこのHPを担当している唐澤さんと飲んでいた時に、「柔道大会」の話が出たことからでした。

自分自身が柔道部に在籍していたこともあり、数ある高等部のイベントの中でも、とても印象深い二年生時のイベント(大会)であったと思います。しかし既にそこから45年近くの歳月が経とうとしているので、かなり美化され、自分に都合のいいような内容になってしまっているかもしれませんが、その点はお許しください。

この「柔道大会」の思い出は、同級生(HR205)でもあり柔道部仲間だった“今は亡き”吉川浩君(以下、吉川と親しみと敬愛の念をもって、他人行儀な“君”を外した表現にします)の存在を抜きには考えることができません。いろんな意味において“戦友”だった吉川と共に戦った、「柔道大会」を思い起こして(振り返って)みたいと思います。



結果をいってしまえば『優勝』したのはわがクラスHR205ですが・・・


当時のHR205には柔道部員(共に有段者=黒帯)だった私と吉川の二人が在籍していたという事で、既に優位だったのは事実ですが、だからといって優勝して当たり前と思うのはいささか性急かと思います。

有段者と書きましたが、私は柔道については初段止りだったのですが、吉川は最終的には二段を取得していました。彼はこの「柔道大会」時にはまだ初段だったように記憶しているので共に「有段者=黒帯」という表現を使いました。間違っていたらゴメンナサイ。

当然、同期には柔道部に所属していなくても有段者はいましたし、体が大きく力の強い猛者もいて、柔道部員が勝てるという保証はどこにもありません。

当時のクラス別の組み合わせがどうだったかは定かではありませんが、11クラスあったので試合数の多いクラスだと3回戦わないと決勝に出られなかったと思います。さてHR205はどうだったかというと“優勝”までに3回戦ったような気はします・・・

試合メンバーは5名でその役割名は「先鋒・次鋒・中堅・副将・大将」だったように思います。特に体重別ではなかったので、だれでもどの役回りに付くことができました。本来の柔道の団体試合だったら体重制で軽量級⇒重量級というような感じで決まっていたと思います。



そういえば、・・・・・


東京都大会(?)に柔道部が出場した時に、吉川がその役回りでは計量時に体重オーバーで引っかかり出場できなかったことを思いだしました。

そして当時は失格したら足に直接「失格印」を押されたのです。

幸い、学校としては一回戦を通過したので、翌週(だったと思います)の二回戦(会場:講道館)に向けて吉川の減量作戦が始まりました。顧問の末広先生も一回戦突破とは思っていなかったようで、次の一週間は付きっきりで実戦稽古をつけてくれました。そして稽古後には必ず体重計で計量したので、吉川もけっこう必死で食事制限をしていたことを思い出しましたわ。(笑)

平素の稽古後の帰宅時には、高等部そばのお店(駄菓子屋!?)でソフトドリンクを飲んで、なんか食べるのが慣習だったので、何も食べられない減量中の吉川をずいぶんからかっていたように思います。 ※たしか校則的には“買い食い禁止”だったような・・・

最終的には吉川は減量に成功し、計量にも合格して試合に出場しましたが、残念ながら高等部は末広先生の熱血指導の甲斐もなく、二回戦であえなく敗退してしまいました…。

責任の一端は私にあったと思っています。全戦全敗でしたから、吉川があんなに減量したのに本当に申し訳ないことをしたと、少しだけ後悔しています。

そんな彼らしいエピソードを思いだしながら・・・こんな話って、こうやって文章を書いていかないと思い出しもしないし、思い出すこともなかったかもしれません。そういう意味でも吉川や当時の事を思い出すいいきっかけになったと嬉しく思います。



さて、本文に戻ります。


この「柔道大会」のメンバー構成では私は副将で、吉川が次鋒、大将が久保田君だったように思います。申し訳ありませんが先鋒・中堅(塩谷君!?・福井君!?)はさだかではありません。

なぜ、こんな組み合わせにしたのかというのが彼のエピソードなのです。たしか吉川が先頭に立って他クラスの情報収集をやっていて、当時の柔道部でいえばキャプテンだった西村君と吉川が群をぬいて強かったので、「二人は合わないようにしようね!?」とか、力のある猛者はどの順番といった事をしっかり調査していましたね。
結果的にはこれが、優勝の要因になるのです。

私にはポイントゲッターとして、必ずポイントが稼げる比較的無風地帯の副将をということになりました。そんな彼の期待に応え、私は「全試合一本勝ち!」ということにはなりませんでしたが、一応全勝はしました。

吉川はどんな猛者と当たっても相手にポイントを与えないということで、このポジションをチョイスしたと思っています。

実際に大会では、既に柔道有段者だった上野君やラグビー部の金丸君と当たっていたと思います。二人とも力があり強いので勝敗の結末は覚えていませんが、試合ではそうとうてこずっていたように覚えています。

『優勝』にはこの情報戦の成果の部分と、決勝戦で大将として戦った久保田君の土壇場での逆転勝利が大きかったと思っています。

久保田君は野球部に所属していて運動神経抜群のアスリートで、実際に決勝戦は彼の双肩にかかっていました。大将戦で負ければ準優勝になっていたのです。

その彼が実力的には相手方が強かったように思いますが、試合の土壇場で攻め込んできた相手を“うっちゃって”みたいに投げ飛ばして、見事に『一本』をもぎ取ってクラスを優勝に導いたのでした。



なんかむちゃくちゃ嬉しかったと記憶しています。


本当に嬉しくて、当時私が好きだった○○さんにすぐ優勝報告をしたことを昨日のように覚えていますが、当時の彼女の受け取り方はどうだったのでしょうかね〜!?そこは定かでないのがちょっと残念でした。

とにかく“優勝”できたことは一生の思い出になっていますし、その後もあの“優勝話”を吉川と何回となくした覚えがあります。
 

 吉川に合掌!!


 2015年7月16日 高橋 亨輔




          柔道部OB会提供 「14期 柔道大会」



 末弘 英 先生  体育科  2015年1月 掲載
      2年生時の柔道大会

1960年(昭和35年)頃、高校カリキュラムの改訂で、国技の柔道、剣道が体育必修種目になりました。高等部は施設や費用の関係で柔道を選んだそうです。その結果高等部に私が就職出来た訳です。

授業は1・2年時と2年間に亘って受け身から立ち技・寝技とほぼ基礎的な技を教えてきました。その結果初段の実力が付いた生徒も多くいました。

柔道大会は16期から、私の希望と生徒の要望が一致して、クラス対抗として1クラス選手7名、補欠2名の計9名のチームで始まったと思います。最初は体育館に畳を敷いて実施し、教師、生徒の応援で大変盛り上がりました。しかし体育館には安全面で問題があり柔道場で試合をすることになりました。その結果予選を授業で行い本大会を11月(修学旅行後)に6クラストーナメント形式で試合をしました。




 

 途中から優勝したクラスの選手と補欠にメタルを授与しました。また最優秀選手を決めて発表したこともあります。授業の集大成として始めた大会が結果として3年生の体育特講の授業に繋がり、多くの有段者(講道館認定)を出す事になりました。

当時クラス代表で試合に臨み勝った人も負けた人も今は高等部時代の懐かしい思い出になっていると思います。応援の結果クラスがまとまって、男子が少し見直されたかも知れません。時期やチーム編成(重量別)やクラス代表の人数に変更は有りますが、今も大会は継続されています。

今年(2014年)素晴らしい柔道場が完成しました。今後もこの大会が続き多くの生徒が試合を通して、緊張感を体験していい汗を掻いてほしいと思います。

最後に私の自慢は、43年間日常生活に支障が出る様な怪我や事故が柔道の授業で出なかった事です。これも生徒が真面目に取り組んできたからだと感謝をしています。 

 2014年12月 末弘 英