むとう  ただおみ
(1912−1998)
 就任期間:昭和26年〜52年
武藤先生は帝国美術学校(現武蔵野美術大)時代に、既存の美術家団体とは一線を画し新しい美術の世界の創造を求めて、1934年(昭和9年)に新進気鋭の画家13人が集まって設立された“JAN”(ジャン)の会の創立メンバーの一人でした。

JANとはフランス語の“Jeunes”(若く)“Neuveaux”(新しい)“Artistes”(芸術家達)の頭文字をとって、アンドレ・マルローに師事した仏文学者の小松 清氏によって名付けられたものでした。 

時代は、大正デモクラシーの自由の横溢した空気とは真逆の方向に向かって急激に変化しはじめていました。昭和7年に5.15事件、犬養毅首相暗殺。そして暴走した関東軍によって満州国が建国。昭和8年に小林多喜二事件。これには主義や思想に関係なく多くの若者たちが違和感を覚え、時代に対するいら立ちと何をすべきか?との焦燥感を強く感じていたようです。

そうした時代の空気の中で、武藤先生達、当時の若手の芸術家達は主義や思想とは関係なく、新しい自由な自己表現の場所を求めるために、既存の価値観や権威などとは一線を画し自分の道を歩んでいました。そうした反骨精神から生まれたのがこの“JAN”の会だったのです。


−美術室にて−

Ready先生撮影




武藤 忠臣 先生  
 「マテオ・ファルコーネ」の妻役

−PS講堂横にて−


但し、武藤先生の場合、自分の芸術表現に対する願望は美術に留まるだけではなく、演劇の道にも広がって行きました。

日本の近代演劇のルーツとも言える劇場であり、また劇団でもあった築地小劇場に学生演劇ではありましたが、何度となく出演し、後に名優、名演出家となる宇野重吉、東野英二郎と言った人々の手伝いを得ながら芝居を行っていました。

画家として生きるか?俳優として生きるか?悩んだ先生は映画会社のPCL(現在の東宝)に俳優としての採用試験に臨みますが、結果は演出ならば、、、。と言う事だったそうです。

その結果、画家として歩む道を決められたとの事でした。その時に画家になるか?演出家になるか?同じように悩みながらPCLの門を叩いたのが後の名監督となる黒沢明でした。
 

授業での武藤先生は「決して自分の考えを生徒に押しつけるような事はなさらなかった。」高等部の美術部で部長をしていた重光純氏(21期)は、先生の授業中の指導について  「画家としてのご自分の流儀、自己表現は、抽象画家としてはっきりとした方向性を持っていたけど、授業でも美術部でもその目線で見る事はせず、生徒の自由な発想や感性を信じて、自由にやらせてくれていた。」言っています。

確かに、私が文化祭に出品するため30号の大作に取りかかっていた時の事。絵の一部分の表現で迷路にはまりこんでいました。先生は製作中の生徒の間を順番に見守りながらアドバイスを与えてくれていました。3回目に私の所に来た時に武藤先生が一言、「私が言った事をどのように理解しているのか、、、。」と独り言のように静かに言いながら「チョットいい?」とひと言ことわられて絵の前に立ち、いきなり親指の腹で、私が悩んでいた箇所を潰すようにしてそのまま右横にズーッと指を1センチほどずらしたのです。

心の中で『アッ、先生なんてことするんだ!』と叫ぶ私に向かって、何も言わずに包み込むような笑顔を残して、そのまま次の生徒の所に移って行きました。怨むような気持ちでキャンバスを見た私は、一瞬にして電気でうたれたようになりました。そう、全てが解決したのです。私がくよくよ悩んでいた事は何だったのか?『そうか・・・こんな表現方法があるんだ、、、。』

先生は、「何もこの通りにやれって言うんではないんですよ。こう言う方法もあるってことネ。」と後で話してくれました。そう、先生は普段から学生に敬語を交えて話していたところがありましたが、今思うとそれは我々に対しても、ただの生徒としてではなく一個の人間として向き合ってくれていたのではないかと思います。




−出展作品の前で−
「青山座」 THE END

文責 宮沢泰行 21期