捕虜と乱痴気 
――5.10 Street Rave Against War

中島雅一


「行列をたださせられている感じ。(略)たださせられているんだな、みたいな」

「捕虜か」

「うん、捕虜が付いていっているみたいな感じだよね」

話を4・5デモのことからはじめたい。

これは、「抵抗23」として4・5/4・19デモに参加した桜井大造さんと翠羅臼さんの発言*だ。4・5のデモのことを言っているのか、4・19のデモのことを言っているのかはわからない。しかし、私が4・5のデモのあり方を思い出すとき、表現として、これはいちばんそれにふさわしい。

4・5、私もそのデモのなかにいた。雨が降っていて、私たちは歩道側に寄り、みんなでつっ立っていた。渋谷駅前のガードをすこしくぐったあたり。いそぎ足で救援に向う仲間を目で追いながら、たぶん芝居を通じた山谷支援の古い関係がそれを可能にしてくれたのだろう、私たちは後ろに合流できそうな「抵抗23」の隊列が来るのを待っていたのだった。

その少し前、私の耳もとに若い仲間逮捕の知らせが小声でまわってきていた。みんなの耳もとを一巡した直後の、その虚脱した風景は、私は忘れられない。

私たちは抑留者の行列だった。隊列のわきには機動隊員と赤いコーンがあるだけで、腐ったキャベツは転がっていなかったが、列からそれて、私たちは撃たれた。滅茶苦茶に殴られた若い仲間は、車に押し込まれて連れ去られた。公務執行妨害。警察の公務とは、戦争協力体勢を防衛することである。

その日のデモは、果たしてデモだったのか。たしかに、びしょぬれの人間の行列が、A地点からB地点へと、移動させられた。私たちは警察の捕虜だった。主催者も捕虜であることを私たちに求めた。そして、行列のこちら側、主催者の側からも間接的に弾が撃たれていた――そのことを知ったのはデモ後のことだが。

* 「喧・々・諤・々 4・5/4・19行動を巡って」

4・13そして4・19のデモで三度、四度、私たちの友人たちが次々と逮捕されていった。19日は、のじれんの野宿者の仲間がやられた。

そして、翌月、仲間たちがようやく解放されたころには、「反戦バブル」云々という冗談が周囲の会話に混ざっていた。ひろがりを見せた反戦運動は完全に下火になっていた。

運動は波で、上って下がる、上がって下がるけれども、また上がる。反原発も反天皇制も、ほかの何々だってそうだった。ずいぶん長く下がったままだったが、久しぶりにまた上がったな、という時期が3ヶ月半くらい続いた。だから下火になったことに、あれこれ思う必要は私はないと思う。おおげさにいえば、いつも戦争は続行中。人間と自然への戦争は、ずっと国家と資本から挑まれつづけているのだから。私たちの反戦はブッシュの勝利宣言で終わるものではない。

しかし、「めずらしく若者がたくさん参加した新しいかたちの市民運動」の燃えかすは、きれいに灰にはならなかった。焼け残りからは奇妙な不燃物がごろごろと出てきた。警察との癒着。醜悪な自己保身。排除の論理=ソフト路線での統一主義。何も新しくはない。それどころか、腐り果ててるじゃん? そしてなによりも、立場をはき違えた「非暴力」。権力を行使する側と揉めることが見苦しいなんて、そんな非暴力がどこにあるもんか。抵抗なしの非暴力なんて、ただ何もしないということ。非暴力は、私にとっての非暴力直接行動は、権力を行使される側に立つものだけがもつ、暴に非ざる、まぎれもない生命力のことだ。デイヴ・デリンジャーさんがきいたら、信じられんという顔をするだろう。ガンジーがきいたら……憤死するだろう。

新しい月、5月、本当はいまこそ盛り上がるべきなんだけどなあ……というため息少々で、有事法制粉砕の声を私たちの友人が叫び始めたころ、反戦運動の熱はすでに回収される運命にあった、と思う。

しかし、そうはならなかった。回収されつくされるどころか、私たちは新たな熱を孕んだ。5・10 Street Rave Against War――このサウンドデモで、停滞の予兆がかき消されてしまった。風向きが変わったのだ。

もちろん、その熱はいつまでも続くものではない。そんなことはもちろんわかっているけれど、冷気が立ち篭めかけたそのしゅん間、その間げきをぬって、水位の落ちた底を蹴り上げて飛んだこのデモは、だれよりも早く状況を先取りした。そしてそれは、WPNのデモと真っ向逆のベクトルをもって路上に貫かれ、その自由は、私たち個々人の内部に深く根をはってしまった。

4.5の捕虜の行列は、5・10、踊る抗議者の群れとなり路上全面を覆っていたのだった。

この日のデモの様子を、おぼえているかぎりで説明したい。

Street Rave Against War、僭称「らいおんハート・平和パレード」参加者は、3時すぎくらいから宮下公園に集合。はじめはまばらだったが、出発直後には100人くらいにはなったろうか。巨大なスピーカーをのせたトラックを先頭に、午後4時半頃宮下公園を出発。

するといきなり、進行はストップしてしまう。機材の調整のためか、段取りがうまくいかなかったのか、なんだかわからなかったが、公園を出て数十メートルのところでしばらく待機。すると、対抗車線に反共親米右翼が白い街宣車で通りかかる。私たちを目ざとく見つけた若い隊員2人は、車を停めて、マイクでわめきだした。絵に描いたような右翼が、絶妙のタイミングでひょっこりと登場したので、一同爆笑。即座にFuckサインとブーイングで応答する。ある参加者が対抗車線そばまで行ってカメラを構えると「震えてるじゃねえか」と凄んでみせたが、心の底から確信をもって馬鹿にしきっている私たちに、右翼のあんちゃんはまるで食い込めなかった。馬鹿だなあ。かわいそうに。おれたちはこれからすごくお楽しみなんだから、こんなウンコ右翼なんかにかかずりあっている時間はないのだ。

いつまでたっても出発しないデモにしびれをきらした警官が怒鳴り出してから数分後、えらく重そうな金属製のオブジェというのか、御輿というべきか、その上に「殺すな」の小田マサノリさんが乗りこんで、ようやくデモは進み出した。

小さなガードをくぐり、電力館わき、消防署、そして渋谷公会堂のある交差点へと登っていく坂道。有事法粉砕! の強いコール。そして、殺すな! サウンドカーからは、重〜いレゲエ。スティール・パルスとかリントン・クゥエシ・ジョンソンではなかったな。何がかかったかは忘れてしまった。私は知らない曲。耳に残ってるのはボブ・マーリーの「エクソダス」。

リズムに有事法粉砕のコールがのる。全員が唱和するのではない。ばらばらだ。私たちは、たくさんのリズムでひとつの音だ。

サウンドカーの前、横、後ろに私たちは陣取って、ゆっくり歩く。そろそろ体もほぐれたころ、私たちは渋谷公会堂前を通過した。リズムがぐんぐん早くなる。ドラムンベース。

戦争反対と怒鳴ってる奴がいる。ただぎゃーぎゃあわめいて踊ってるのもいる。ビールをあおっているのもいる。「殺すな」ホーミー。サウンドカーの後ろ、いちばん音圧を吸収できる場所に群がって飛び上がっている者もたくさん、たくさん。1本の黒旗。ビール。ゆっくりだ。ゆっくり。ゆっくり。トラックはサウンドシステムを守りながらすすむ。刑事に脅されながら進む。渋谷区駐車場の入り口の前で、私たちにわめく警官。早く進め。早くしろ。なにやってんだ。

東武ホテルが右前方に見えて来た。ビースティ・ボーイズの「Fight for your right to party」。DJはMayuriさん。あのギターのイントロの音がきこえる。あらためて調べたら1986年のヒット曲と出たから、私なんかはちょっと懐かしい。ガッコ行きたくねえな、っていうんで始まるやつだった。しかし、こんな場所できくとは思わなかった。こんな風景で。

すでに、私たちはばらばらに路上を覆っている。両腕をあげて。こんなに楽しそうに抗議してる人びとの群れは、いま日本でここにしかないだろう。抗議してるんだか楽しんでるんだか、わからない。そんな群れもここだけだろう。

パルコが見えて来る。4・5、撃たれた捕虜の場所。撃たれた捕虜は、私たちの場所に戻って来て、あのときと同じ一斗缶のドラムを叩いている。サウンドカーより先を歩きながら、派手に踊っている。捕虜の行列は、ここには跡形も無い。ざまあみろ。新しいふうを装おう、骨の随まで旧左翼の市民運動官僚諸君。口をひらけばルールルール、夢見心地のホームルーマーたち。

いま、検索不能の人びとの群れ、名づけようのない集団のみんなが踊っている。腕を上にあげて自分たちの存在を宣言してる。私は笑いがとまらなかった。みんなも笑ってる。こんなしっくりくるデモは初めてなんだからしょうがない。

ビースティの「Fight for your right to party」。

コーラス。

You gotta fight
 for your right
 to party

ここで、拳が上がっていた。何本も。反り返るような腕ではなく。この曲はこのデモのアンセムのようにきこえた。

パルコの前。沿道の人だかりは、私たちのデモを眺めている。ロフトの高い段に立って、鈴なりだ。その数はすごい。そして見る間に、デモの幅が膨らみ出す。ぶらついてただけの女の子2人連れ、野宿者のおっちゃんもまた1人……。

丸井の前、気が付くと、盾を持った警察官がずらーっと並んでいた。妨害が始まる。薄〜く激突。抗議。脅され通しの車は、揺るぎなく前へゆっくりと進む。丸井をこえて、右に曲がる大盛堂前の交差点、私たちはふたたび大きくひろがり、路上を奪い返す。ギャラリー、そして群れに入って来る人数はさらに増えた。そして、交差点の四方から眺める人だかりに向って、私たちは口々に有事法粉砕を叫んでいた。

「1991年、英国。傷つきやすい自然環境や地域への高速道路建設に抗議して、Reclaim the Streets! は始まった。その後数年間で、環境保護活動家・学生・スト中の労働者・レイヴ文化の人々による幅広い共同行動となり、世界各地に広がっている。この抗議行動のモデルは、公的空間――街路や道路――の奪還、一筋のアスファルトを、人々が「未来の種を現在の社会で育てる」ために集まる場所へと変換することである。そこには、自動車もなく、ショッピングモールもなく、国家からの許可もいらない。直接行動として祝うのだ。抵抗としてダンスするのだ」*

人間の生活が国家に従わされるのではなく、国家が人間の生活に従うべきだ。だから私たちは路上を奪う。ここで踊る権利が私たちにはある。まあ次はぶっ叩かれるかもしれないけど。

* 森川莫人訳/NY Reclaim the Streets! Web Pageより

警察の規制が激しくなった。

スクランブル交差点が見え出すと、指揮官車が出て来て、新米の警官が警告を開始する。即座に、4・5の捕虜が、警告する警官の不手際を大声でなじる。班長さん、班長さん、しぃっかりしろよ。新米さんは警告時刻をいい忘れているのだ。上司からきびしい叱責が入った模様。宮下公園がどっちかもわかんないで来たみたい。

気が付いたら音が消えていた。機材のトラブル? 発電機のガソリンがなくなったのだろうか。DJは腰を付いてトラックに座りこんでいた。機転をきかせて、人びとのパーカッションの音が大きくなる。トラックは機材の問題を解決しながらゆっくり進む。再び、刑事の恫喝。早く進め。留置場ってどういうとこか知ってるのか。トラックは歩を早めない。運転手さんは腹がすわっている。

それから何分がたっただろう。随分たったはずだ。諦めの雰囲気がただよい出して、駅前のガードをくぐったその瞬間、ばーんと音が出た。DJは清野栄一さんに交代していた。

どうやらガソリンをすばやく調達してきて、発電機が戻ったらしい。1曲目、ダルに開始、そして2曲目、3曲目でバキバキっとアゲまくるトランス。サウンドカーの前に張り付こうとして人が押し寄せた。足をアスファルトにのめりこませるほど強くならし、体を空中へ飛ばしながら踊る。

有事法粉砕! 戦争反対! 殺すな! 場所別でばらばらのコールと音と人の熱の塊が、ガードをくぐりおわり、ゆっくりと左へ角をまがろうとする。

私は足下を見た。ここがそうだった。4・5、私たちが雨のなか虚脱してつっ立っていたあの場所だ。ここがそうだった。4・13、私たちが仲間を取り戻せなかった、あの場所だ。

有事法粉砕! 戦争反対! 殺すな! アンダーワールド「Rez」。ジョン・レノン「Power to the people」。あの3・20の次の日、徹夜あけの昼に聞いた曲。清野さんのサウンドカーから流れた曲だ。ルイ・アームストロング。デモの解散地点では、サゲずにアゲて欲しいと思ってたけど、多分かける曲を間違えたのかも。本音ではデモ中ずーっとアガるトランスだけをかけて欲しかったという人もいるだろう。最後になって、ふたたび音がギラギラと跳ねだした。

もう1周行きたかった。だがここで、おしまい。宮下に到着したころにはもう6時半を過ぎてたと思う。だから2時間以上。

私が初めて行った小さなデモのこと。車に乗り込んだビリー・ブラッグがギター1本でうたって、あれ格好よかったな。さかのぼればリザードやアナーキー、A-Musikのトラックでの演奏も知られているし、筋は違うが郷ひろみもやったか。音のあるデモ、サウンドカーデモはいままで何度もあっただろう。

しかし、ここまで抗議者たちの恣意性(行動の好みから音の好みまでを含めて)を、ばらばらのままにひとつのデモのエネルギーに転化したことがあっただろうか。私は知らない。

たとえば、自分のなかの記憶でいえば、山谷の酒のにおいぷんぷんのワッショイデモ1回。ずいぶん昔、緩急有り奇跡的にうまくいったときのジグザグ&密集&グルグルやりまくり2・11デモ1回。そして、今年1月から2月にかけての私たち、名づけようのない群れのデモ何回か。とっさにデモで楽しかった、よかったと思う記憶をさぐるとこれくらいしか出てこない。しかしそれも断片だ。

毎度毎度のデモで、のみ屋の交流の楽しみ込みで曖昧に納得させているデモのつまらなさ。かわらなさ。語尾が同じシュプレヒコール。ギッコンバッタンというリズムのコール……面白い、しっくりくる、デモのやり方は即座に見つからない。誰しも、そんなジレンマを抱えている。この日、こんなデモがやりたかったんだ、と思った人は私もふくめて数知れないだろう。

ばらんばらんに存在する、私たちの恣意性にもとづいた欲望、捕虜の行列が禁じられたそれ、人間の生きていく熱を、このデモは路上にまるごと連れ出したのだった。

それは、音の力だ。音の力はでかい。しかし連れ出したのはそれだけではない。3・20、4・5、4・13、4・19、そして5・10。この小刻みな時間と空間に起きた、あれこれのささやかな抵抗と連帯に、私たちは少しづつ連れ出されていたのだ。だからいま、ちっとも運動が下火だなんて思わない。国会なんか行く気もしなかった。私のイラク反戦闘争は、ここで区切られる。

2003.7.16

(03-11-03up)

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