「黒 La Nigreco
第1次終刊によせて

n-ro.7 2001.8.1


今号をもって「黒」は第一次を終了します。あらためて、秋に第二次をスタートします。創刊は文字どおりの出たとこ勝負。六号までならこのやり方でなんとかいけるだろう――と思い込んでいました。

発送して原稿を頼んで、コンピュータに釘付けになって、そして自分たちも書き、また発送して……というサイクルを六回。結局、一号はみだして、七号までたどり着きました。創刊時、びっくりするほど戻ってきたアンケート。それから、思いもよらないカンパにはすごく励まされました。

ここで一旦、第一次を終える理由はふたつです。かんたんにいえば、創刊当初からの行き当りばったりのつくり方を、多少なりとも変えたいということ。また、懸案のパンフレットの刊行を具体化するための体勢を、そろそろ整えたいということです。

あらかじめいっておけば、創刊号であげた四本の柱――

(1)「無名の人びと」の連載を継続する場所として (2)事典参加の中断で頓挫した、〈アナキズム運動史〉を考えたり、見返してみたりする場所として (3)(向井孝)運動論パンフ準備、前段階的な意見交換ができる場所として (4)そのほか、できれば自称他称の彼、彼女ら――〈アナ族〉の思いや表現の場所として――は、「黒」刊行にいたる数年越しの経緯とともに、第二次へそのままひきつがれます。

「黒」という名前で出すかぎり、刊行の主旨は変わらないということです。

おおげさにいえば、同人三人は、DiYで刊行物をつくることを、生活のおおきな一部としてきました。「イオム」「直接行動」「サルートン」「非暴力直接行動」「風」、または「AiR」。「次」など変えなくとも、という声もあります。しかし、自分たちのやりたいことと、やれることを限定すること。そしてなぜつくるのかを、いつもはっきりさせておくことが、個々人の自発性にもとづく協同には不可欠だと思います。

とはいえ、第二次。何を、どうやろう、という具体的な話は、またしてもこの号の発送が終わってからのこと。ただ、「黒」が、本当に試されるのは第二次だということだけははっきりしています。

では、「黒」第一次、これで終了。おかしな言い方だけど――次の出会い、その一期一会を――


一年目の「総括」

水田ふう


「黒」の創刊号の発行は、二〇〇〇年七月一日となってる。まァちょうど一年。

そもそも「黒」を出すことになったのは、あの日外アソシエーツ「近代日本社会運動史人物大事典」(全五巻)や。

発端は日外の編集委員会のつくった会報「特別付録」やった。この付録も事典も「アナキスト」の部門を担当したのはHという人なんやけど、その書き方のいやらしさ、いいかげんさ、雑さ、何より卑しさに、同じ編集委員として名を連ねていた向井さんは、憤怒と責任感で寝込むほどやった。

その内容を知った若干の人たちもそれぞれの立場で、付録や事典本体をめぐって、編集委員会や出版元の日外に抗議した。でもまるで官僚的な対応しか返ってこんかった。

そんなことがあった後、九八年十一月のコスモス忌が、鶴見俊輔さんを講演にまねいた。鶴見さんは、コスモス忌をアナキストの集りと誤解?して、講演のなかで「大事典」のことにふれ、自分も編集委の一人として「責任を感じている」、みんなの前で「謝りたい」と云いはった。

それにつけこんで、司会してたわたしが出しゃばって、「鶴見さんもいっしょにやるいうてはるし、全く別のよいものを自分らでつくろう」なんてつい云うてしもた。そして後のパーティの席で、誰かれかまわず声をかけて、「事典」つくりの仲間にさそったりして、わたしは大張り切りやった。

わたしは、それまで「アナキズム運動史」についてまるで考えたことなかったし、なんの見識も持ってなかった。まして、アナキストひとりひとりが生きたことを、どんなふうに記録したり、記述すべきなのか、なんてことを考えてみもしないで、早々十二月に第一回の集りを呼びかけた。

集ったのは、「三年をめどにつくる―『事典』」ということではっきりイメージとプランをもってきた大沢正道さん、奥沢邦成さん、……他は、「事典」とはこういうもん、という予めの知識も考えもない私以外はみな編集者、とか出版関係の仕事してたりとか、アナの知識にくわしい人とか、それからわたしがさそって、何か手伝えることがあれば…といった、十人くらい。

向井さんは、「こら、えらいことになったなぁ。まあ出来るかでけへんかわからんけど、こうなった以上、何か手伝いたいいうような人ともいっしょにできる「やり方」を見つけて、アナの一つの運動として『「事典」でない「事典」』がつくれたら……」いうことやった。(この最初の時に、大沢さんとは、むしろ対立的なまでに意見が違うことがわかったんやけど……)

はじめ、わたしは毎月一回の東京での会議にいそいそと出かけて行った。それが、九九年の五月頃からだんだん足が重とうなって、とうとう会場の前まで行きながら、中によう入らんと帰ってしまうような状態になった。「やり方が、どうもちがう」「いや、これはわたしらがつくろうとしてるもんとちゃう」……それが、はっきりしだしたのが九九年の八月頃。

その間、寝ても覚めてもそのことばっかりで、睡眠薬なしでは寝られんようになってしもた。夢でも「まえの大事典のやり方とどこが違うんや。なんで、人にABCDとランクつけんねん。学者や研究者だけが利用するようなもん、誰がつくりたいんじゃ」と演説してたり……。

それから、これは編集委員ではない人からやけど、この事典づくりの呼びかけ方と事典のつくり方に対する批判を、まっ正面から書いた手紙をふたりから受け取った。

この間の経緯やなにしろ呼びかけた張本人はわたしなんやから、もうどこにも逃げようがない。しまいには、「向井さんはいつも『やる時は軽薄でないとやれん』言うてたやろ」いうてワァワァ泣いたこともあったけど、それこそお門違いというもんやった。

でも、そのほかに編集会議に出てきてる人はみな、出版事業として、最初のHとのいきさつには関係ない、しかしもっとエエ『事典』つくりに「合意」してたんやった。

気がついたら、三人だけが、人と別のことでこだわってたり、やりたがってるようなことになってた。浮いた存在いうわけやな。で、こちらが抜ける、となった。「非常識」はこっちやったというわけやんか。

それから少しして、三人で「黒」を出すことにしたんやった。わたしの第一の目的は、「編集委ニュース」1〜13までに連載した向井さんの「〈無名〉の人びと」を、とにかく書きつづけてもらう場所を作りたい、いうことだけ。

「〈無名〉の人びと」はまったく「事典」という形態に合わん。「事典」やったら、一行か二行、せいぜい十行とかいうことになる人ばかり。でも運動いうのは、その時、その場所、その状況全体があって…いや逆や、そういう人たちの全体が運動をつくってる。そやから、(誰がその名を知ってるやろ)事典でその名をひくこともないやろ。

特に「アナキズム運動史」は、そういう「〈無名〉の人びと」によって担われて来たいうことが云えるし、それがいままで見落とされてきたことなんやいうことが、この頃しみじみ、ようわかってきた。

もっとも、「黒」の中味は、いままでの「イオム」「非暴力直接行動」から続いているものと全く変わってないともいえるねんけど、「風」が突然「黒」――アナを標榜することで――になって、戸惑ったり、拒否反応をいだいた人もいる。読者はそやから、減った。そして減った分ぐらい「AiR」の若い読者が増えた。

それから、「雑誌」は、いままでの個人通信とちがう。編集ということでは同人以外のバラエティがほしいんやけど、書き手が少ない。いままでは、いきあたりばったりにたまたま出会った人に面白い話きいたりして「それ書いて欲しい」で、七号まできたけど……これからどうするか。そういうことは全部中島くんにまかせっぱなしで、わたしは、またまた、なんの考えもなし。

七号で、「第一次の終り」にして、次ぎのステップ「第二次」に行くから、何か「総括」みたいなこと書け、と中島くんに言われて書きだしたんやけど、どうしてもわたしには「ことの始まり」をぬきには書けなくて、ダラダラと読者にはもう関係ないことを書いてしもた。

そやけど、運動いうのは、はずみや偶然や間違いや失敗や、大騒ぎや落ち込みや、そんなんばっかりやと思うけど、いつでもそれを何度も何度も振りかえることでしか先にいかれへんのやし、あったことを、ないことにはできんのやし……「黒」をだしながら、これ迄とちがうところは、朝から晩まで「アナ、アナ、アナ」ばっかり云いながら暮らして……中味はあんまり変わらんけど、これからは人から「お前はアナキストか?」ときかれたら、「うん」というたろ、と思ってる。これがわたしの、「黒」を一年間出したいうことの「総括」やな。


三つのこと

中島雅一


書きだしたら、なぜか時間を遡る。書くのがだるいことが後になるからだ。

書いた後で強引に順序を入れ替えた。だからちぐはぐだけれど、これが私の「黒」第一次をふりかえって――です。

まだ「黒」を出す前のこと。いま求められているのは、より精緻な研究や自己言及ではなく、運動としてのアナキズムをはげしく追求することではないか? こんな意見を松田政男さんからぶつけられた。私がまだ「日本アナキズム運動人名事典」に参加していたときのことだ

私は研究家ではない。松田さんのつきあってきたような運動家とはほど遠い存在だ。しかし、少なくとも何かはこたえなければならない。このことをいつも念頭においてきた。松田さんはそんなこたえを求めているわけではないだろう。しかし、そのこたえは、いいわけなしに、たとえばこの誌面として出すほかないのだ。

貴重な資料の発掘、情報量の多さ正しさを競うことでは当然なく、回顧、あるいは自己言及に尽きるそれではない行為として、いかに過去と向き合い、対話しつづけることができるだろうか。これは「黒」を出す限り続く課題だろう。

「黒」発刊までの流れは、大枠を水田さんが書いたので繰り返さない。私自身のことで書き加えたい。

会報「特別付録」をめぐって、いくつかの抗議が起きた後、日外編集委員会の対応は官僚的以下のあまりに不可解なものだった。私は連名での抗議を呼び掛けた。編集委のメンバーは、当時私の勤めていた職場の関連団体であり、私はその団体が、「埋もれた精神」を掘り起こしてきたことに一定の信頼をよせていたからだ。

私たちは代表者なしに、指導、被指導の関係なしに何ごとかをつくろうとし、いまもそれを私はやっているつもりだ。彼らの集団のつくり方も、理念のうえではそうだったのだろう。しかし彼らの主張はこうだった。私たちに責任者はいない。だから、責任はどこにもないのだ……。

最後、直接の話し合いで、記事の筆者は自分は病気なのだと謝罪した。もうひとりのアナキスト担当者は自分には責任がないと明言した。 非代表者であることを強調する者が謝罪文を書いた。抗議されたことに対して逆に怒りを隠さない編集委員の顔を見ながら、あの不可解な対応の根は、彼らの「載せてやった」という傲慢さにあったのだと気がついた。和解ではない。少しの理解もない。編集委メンバーとの関係一切の廃棄が私の結論だった。

そして、私は「日本アナキズム運動人名事典」の計画に参加した。計画から離れた理由だけを書くと、かつて責任がないことを明言した件の担当者が、執筆予定者案としてあがったことが第一だ。

その是非をめぐる意見交換のなかで、筆者選択の基準は、記述の正確さのみ。つまり、かつての日外抗議の経緯は、この事典とは「無関係」ということになっていた。

私にとってみれば、これは、事典参加の動機、スタート地点の消滅を意味する。私の立場はここにはないことがはっきりした。そして、やりたいものの足をひっぱることは連合仁義にもとる。

私は、既成の事典をうわまわる出版事業の順調な遂行よりも、仲間としての記録をどうつくるか、ということへのこだわりの方をとり、この間の経緯を自分なりにあらたにやり直すつもりで、「黒」をはじめた。

ここで話は現在に戻る

「黒」を一年間つくってきたことで私は何を得たのだろう。

ひとことでいえば、それは過去から来る未来を、たくさん確かめることができたことだ。過去から来る未来。それはまるで彗星のようなもので、知らないところからながれてきて、パーッと、あたりを明るく照らしながら前方に飛び散っていく。

それをはじめて自分の目で確認したのは、サッコとヴァンゼッティの写真をみていたときのことだ。(*)

ヴァンゼッティは、人間が地上からきえないかぎりつづく「人間相互の理解」の過程に自身の死の意味を刻み込んだ。「人間相互の理解」――その過程を、人間の手から引き放そうとする最大の装置が死刑制度だろう。だからこそ、その死は、いまも私たちとともにある――それは永遠の現在に吊り下げられた、私たちの未来の生なのだ。

私が「黒」でやりたいことは、そんな過去から来る未来を一とき、誌面に載せることだと思っている。たとえば、向井さんの「〈無名〉の人びと」や、相京さんの「気配を残して立ち去った人たち」のなかに、私は前方へ飛び散っていくものを見る。そのひろがり、つながりとして、たくさんの現在のあることを想起する。それをつなぐことが「黒」を出す、ひとつの意味だと思う。

もしこれらのことが起こらなかったならば、私は町角でくだらない連中とおしゃべりをしながら一生を終えただろう。注目もされず、誰にも知られず、失敗者として死んだかも知れない。いまや私は失敗者ではない。これこそ私の生涯であり、勝利なのだ。偶然なことから、寛容と正義と人間相互の理解のために、いまのように生きるとは考えもしなかったことだ。われわれの言葉――われわれの生命――われわれの苦痛――それが何だ! 腕のよい靴職人と貧しい魚行商人の生命を奪うことが、すべてではないか! この苦痛こそ、われわれの勝利なのだ。

(バルトロメオ・ヴァンゼッティ)

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