以下、向井氏が様々な雑誌に寄せた原稿、パンフ、「イオム」「非暴力直接行動」からの抜粋、昨年11月2日大久保地域センターで行われたAAAセミナーでの発言メモをもとに文章化したものである。
私が向井氏の考え方や実践をどううけとめたか、それをいくつかのテーマにそって、たどって書いてみたい。
0 はじめに
実感からときおこせば、私たちの運動の始まりは、危機感にかられてというようなものではなかった。それは「X-DAY状況下の社会統制への抵抗」という弾圧の度に悲壮の度合いを増す衣装をまとってはいたが、実は当人たちは喜々としていたのだ。少なくとも私は。私たちは。
それはもちろん、「悪」の象徴である天皇が死ぬから嬉しいなどというつまらない理由からではない。死ぬことにともなっておこるだろう未曾有の出来事に、ある種、期待していたのだ。こういえるだろう。「天皇制国家権力の強化」は、過去とひと味違う日常をうむ格好の口実だったと。それが私にとっての運動、だった。
それから数ヶ月後次から次に、まるでトコロテンのようにでてくる行動の要請に応えながら、大喪の礼粉砕闘争芝公園発の雨中のデモが終わって、気がつくと、「行動」する気がなかった。それ以外にいい方がない。足が藁のようにぐにゃぐにゃのようだった。
デモは黒いヘルメットに黒旗――私は俗にいう無党派学生の運動の末端に連なっていた。面白いことも随分あった。しかし「恒例」の6月共同行動を前にして、友人たちに不参加をいった。
一口にいえば、運動は恰好よくなければならない。にもかかわず、私たちのそれはあまりに恰好悪いのではないかそれが率直な理由だった。
運動とは表現である。パフォーマンスという、当時流行っていた言葉をつかわずにいえば、運動は行為による芸術――行為芸術である。だから私の志向する運動は、既成の政治運動の枠に収まらない。収めたくない。それは、既成の文化的・経済的・政治的抗いの枠を突き崩し、あるいはまた合成・実験を加えた表現である。未知の他者をひきつけ、巻き込もうとする、ある渦の表現である。
ならばそこで、私たちが、これまでの運動のそれと別の表現のスタイルをもとうとしないのはおかしい。それをどうつくるか、もつか考えたい私はそんな抽象的で漠然としたことを一くさり話した。気の乗らない行動に、行動することを前提として引きずられるのはいやだった。「何故運動を続けながら考えられないか」という批判と幾分かの共感をうけとった。
学習会・会議・集会・デモ・立て看・ビラの繰り返しに、そして、そうすること以外に、考えついてもどうしたらいいかわからぬ私自身に飽きがきたのだ。自分の内部で、次第に薄れていく抗いの実感とにかく、運動なるものが、自分のことではなくなってきた。
その頃、以前はただ持っているだけで通りすぎていた向井孝氏の文章に、目を止めた。私は向井氏の考え方と実践のなかに、運動を自分のことにするきっかけがあると感じていた。89.12.29読了と珍しく、そんなことを書きつけた黄土色のパンフの巻頭でいわく――
やり方が思想だ〈行動の提起〉というと、今までの進め方は、「何故やるのか」を自他に明らかにする〈位置づけ〉これがまた大ヘンにはじまって、「だから、やらねばならぬ」となって、ヤットコサ、「やる」ときめることだった。
そのいささかしんどい経過に対して、さてこれからの「どうやるか」は、(事務的なことを除いて)論議もされず、たいていは既成のパターン通りときまっていた。
そのときどきの状況、條件、課題にあわせて、「やり方が、変わる」ということは出てこなかった。つまり「やり方を変える」という視点はほとんど欠落していた。
運動が「おもしろない」「しんどい」「仲間がさっぱりでけへん」……ことの理由の一つは、何よりも、いままでの運動のやり方、行動スタイルのマンネリ化、硬直化にある。
つまり、どんな高遠な〈位置づけ〉があっても、かんじんかなめの〈行動〉がいつもと同じで相も変らずいささかの自己満足、「ともかくやった!」が残れば上出来ということで終わっていたことにある。
(中略)
とすれば、運動において何よりも求められなければならぬのは、まず〈どうやるか〉、〈やり方〉の視点ではないか。(1)
1 反運動としての運動
行いすますもの、悟りすますもの、この世の静止したもの一切。それが、敵だ。このように断じた、詩人の言葉を読んだ。
行いすまし、悟りすますものを掻き乱すこと。静止したものに「動き」を与えること。
それが、運動だ。といえるなら、これまでの向井孝の数々の実践は、常にそのようなものとしてあった。
「進歩とか進化は信用しない。よく変化しようが悪く変化しようが、とにかく変化することは何でもいい、というのが前提。」(2)
変化をとにもかくにも是とする感覚。とにかく「動き」があることが、気分いいという感覚。私はこれがまず生理的にわかる。
向井氏はセミナー席上で、自分の運動をふたつの表現で定義した。ひとつが「運動論的運動」。もうひとつが「反運動としての運動」。
これまでは問題があるからいわなかったと前おきをして口にした後者「反運動としての運動」(以下「反運動」)が印象的だった。もちろん問題だ、と思ったわけではない。ストンとその意味が自分のなかに入ってきたのだ。
「反運動」とは何か。運動を潰す運動? それは、既存の運動を否定的媒介として新たな運動を創造しようとする運動である。実験としての運動である。
もし既存の運動から欠落した視点が、運動の〈やり方〉にこだわる視点ならば、「反運動」はその視点を最重要として、〈やり方〉の実験を意識的に追求した運動のことである。
反天皇パロディステッカー、天皇踏み絵共同行動、朝売新聞・号外新聞刊行、配付。パロディ札ビラ空中散布。ビラ爆弾。念仏デモ……。それらの前に「反運動」という言葉をおくと、向井氏の実践を貫く太い線がより鮮やかにみえてくる。
運動をなのり、権力との関係を含め、私たち自身の新たな関係性をつくれない運動とは何か。行いすまし、悟りすますものを掻き乱すこと。静止したものに「動き」を与えることを目的としない運動とは何か。お馴染みの弾圧。お馴染みの人間とお馴染みの作業。お馴染みの行動。それは運動ではなく、停滞である。
その意味で「反運動」の「敵」は権力だけではない。反権力を標榜し、運動をいいながら新しい「動き」を封じる運動の〈やり方〉それも「敵」である。
ここでその「敵」を、既存の政治団体の運動、もしくは新左翼諸党派のそれに帰しても、仕方ないだろう。何をいまさら。いま、問いはこのようにたつ。
党派の運動を「組織のための運動」(3)という逆倒として嘲った私たちが、集会・デモ、あるいは機動隊との衝突・逮捕に帰結してしまう運動のあり方をもったのは何故か?
私たちは始めようとし、実際始めたつもりだった。そしてあまりうまくいかなかった。〈やり方〉を変えていくという視点の重要性を知ってはいたが、実現できなかったことにおいて、私たちは党派のその部分だけは笑えない。
しかし、行動の要請に応えながら、〈やり方〉を常に意識し、さらに変えていくことは簡単なことではない。いざ渦中に入れば実感でいえばそうした「余裕」がなくなるのだ。「反運動」の意味を認め、理解する人が運動の渦中にあってはまれであるという事実。私のような、ある種運動の渦中から離れた人間が、それを述べているという不幸。ハッキリいって書き心地は悪い。でもとりあえず、書いた方がいいのだ。
何故私は「反運動」(のようなこと)を考えていたにもかかわらず、できないのだろう。この問いに、反省としてではなく、こたえるとしたら。こたえにはなっていないが、こんなことを思う。
そもそも私たちは何故、あやしげな運動なるものにひかれたか。素朴ないい方をすれば、それは退屈でつまらない普段を拒否したからである。だから運動とは面白い、恰好いいものでなくてはならなかった。しかし、たとえば運動が忙しくてつまらないものだったら……? そして運動とはたいていそのように語られがちだ。苦行の人びとと大勢会った。皆長くて暗いトンネルのような運動と人間関係に嵌まった、後になって、気づくのだ。しまった! それじゃ元も子もない。
「反運動」は、私たちを運動へ導いた動機に立ち返らせる。何故なら、運動とはもともと実験のことだったからだ。アソビに大枚はたいた、生きる実験が、私たちにとっての運動である。だから運動が、自身の賭かった実験である以上、自分勝手にやるものであって、それ以外のものではない。自分勝手でない運動はその人のものではないという意味で、偽物だ。
おそらくその姿勢が、いま大停滞の運動の底をうつ最後の方法であり、そして「反運動」を私たちにおいて可能にする、最低限の了解ではないか。
2 戦後アナキズム運動と向井孝
汽車にのりこんだがあまり混んでいない。やがてベルがなりすぐ動きだした。とおもうと、向井はちょっとふりかえって私を見て、それからとつぜん「皆さん!」と声をあげ新聞の紹介、それから反戦論と演説をしはじめた。
ふだんあまりききなれない、あまりに大きい声と、乗客が急にだまってしまったのに、私は全身が熱く、かくしていたカバンを夢中で胸にかけていた。……
(中略)加古川をすぎるとひどく混んできた。向井はまたずんずん前を行っている。「ごめん下さい」とやっとの思いで中にはいると、二人連の男の人が買ってくれた。それですっかり元気がでて「無政府主義の平民新聞」といってみると、又まえのおじさんが一部、そして「さあずっと前へゆきなさい」と路をあけてくれる。順々に路がひらいた。ようやく明石。しらべてみるとわたしの分は九部うれていた。「まあいいさ。大出来だ。ずっと車の中をわたって歩くのは、つかれたろう。」(4)
向井氏は自称・他称アナキストの集団とは一線を画したスタンスをとっているそんな印象が強い私などの年代からすれば、そこに描かれている風景はやや不思議だ。
もちろん知ってはいるのだ。戦後すぐの日本アナキスト連盟に入り、組合運動に力を入れたこと、第2次アナ連の解散までアナキスト連盟のメンバーとして活動したこと。そして「真の連合を阻む」として実態をもたないアナ連の解散を68年11月という運動の昂揚期に提起したこと。幾人もの無名のアナキストの追悼集、遺稿集、評伝をつくり、その名を刻んだことetc.(5)
しかし、かんぐっていえば、向井氏が「反運動」をいうようになった理由のひとつには、戦後のアナキズム運動の停滞にひとつの契機があるだろう。
そして、かつての論文(6)で提示された批判の論点が、今もってすべて生きている以上、向井氏がとったスタンスは当然だろう。
集まって何をするかは、第二、第三の問題だったのかもしれない。そのように〈運動〉に対して没主体的であるとき、「やれるものがやる」というアナキズムは、運動として全く態をなさなくなる以外にない。(中略)
昨日まで行動によってむすびつけられていた仲間との連帯感は、しばしば記憶だけに残り、具体性を喪失する。つまり彼は、それ以後アナキストを自称するだけで、〈どのようなアナキズムかを明らかにしない〉ことで、きわめて恣意的かつ自己都合主義的にアナキズムを語る。そしてただ他者のアナキズムを非難し、攻撃することで、自己のイズムの正当化を示すことになる(中略)
運動は個人の熱意とその努力によってのみ行われ、組織としてやりえたことは機関紙の定期発行だけであった。海外の場合はまた別のことがいえるかも知れない。しかしいい尽くされてきたことだが、戦後の日本のアナキズム運動は、ほとんどすべて停滞としてあった。
そしてそうした停滞への反感をもとに数度の結集があり、結局何らの力にならなかった。何故なら、初めに組織ありきの運動は、必ず組織維持の活動だけに終わる。そして自壊する。
アナキズム運動不在への憤り→とにかく集合/やることを集まって(から)考えよう→〈若手〉・〈革命派〉結集→分裂・混迷・不仲→若干名の残存
この淘汰のサイクルが、何回回ったことか。私が書けるのはこのような結論である。
いまここで自称・他称のアナキストの結集は意味をなさない。アナキズムを前面に掲げた運動は成立しない。少なくともそこで自分のなすべき役割はない。個別課題への自分自身のやり方による「参加の仕方にアナキズムがある」(7)。
たとえば、アナキズムのひとつの表現として、反国家という言葉がある。そうした言葉が出てくる道筋は分かる。そしてそれは正しい。しかし、その圧倒的に正しい言葉への同調を基盤とした結集が、どのような「動き」をうみだすかを考えた時それは、運動の言葉ではない。信念、信条の言葉であり、思考の停止を内部に保証し、外部に強いる言葉である。
アナキズムの原理・原則を、運動の指標として前面に突き出すことで行動の具体性を喪失させ、「動き」を塞ぐ――生長すべきアナキズムをかえって疎外してしまうこのおかしな感覚。
戦後のアナキズムを前面に掲げた組織で、こうした運動的陥性から逃れた例を知らない。しかし、向井氏はそのような戦後の「アナキズム運動」の袋小路から自由だった。それは、向井氏があくまで「動き」をうむことを目的とした実践のなかにあって、アナキズムをことさらにいい・なのることでアナキズムを疎外するジレンマに、もっとも自覚的だったからだろう。
伝聞できく範囲でいえば、第2次アナキスト連盟の解散前後(?)が、向井氏の「反運動」の全面的な開花、本領発揮の時期の始まりであることを考える時、それは明らかだ。ベトナム反戦姫路行動の夕方、駅に向かう人込みをそのままベトナム反戦のデモに見立てて巻き込む。ある日、町中をステッカー、ポスター、ビラを張りめぐらせてしまうという〈やり方〉等々。
これがアナキズムか? 反戦運動が「革命運動」より低次元のものとみなされていた時に、こうした運動が「アナキズム運動」からニセアナという表現で激しく批判されたことは想像し難いものではない。
文化主義。反戦平和主義。改良主義。市民主義。状況追随主義等々。おそらく同種の批判はずっとつきまとっただろう。たとえば
「市民運動の相貌をもつことによって、〈公許的アナキズム〉を僭称していったと見ることができる。」「アナ連解散後、彼らのアナキズムが明確に、いわば〈公許的〉な脱イデオロギー思想として市民権をもっていくという〈情況性〉を生みだしていったのは、戦後のアナキズムの決定的な末路である。」(8)
もちろん批判にもいろいろある。ここにあげたものは、そのうちのひとつでしかない。しかし、それらの批判の元にあるものは何か。
微妙な点に触れていないことを承知でいえば、要はマルクス主義にまさるイデオロギーとしてのアナキズムとそのアナキズムを掲げた徒党をもってこそ力であるという、いわばアナキズム版新左翼党派の発想に、近い。公許、あるいはニセアナに対置する本物のアナキズムとは、一体何か。マルクス主義において、その前衛性、正当性を競う党派とどこが違うのか。「アナキズム革命」を最頂点とし、そこからの距離で優劣を数え上げて断罪する思想に、説得力はない。
現在の情勢から思想の運命に「勝ち」「負け」の判定を下すことには何の意味もないし、またそのような偉そうな真似はできない。私がただいえるのは、それらの批判における否定の激しさが、アナキズムへの確信の深さ、感情の大きさ、そしてその信をより普遍的な思想へと昇華しようという企図のもとにあるものだとしても、私たちに伝える具体性が、そこにはあまりに乏しいということだけである。
その意味で、「ねこも杓子もヤジ馬も引きこんで、シッチャカメッチャカに騒ぎ立てる面白半分不まじめ路線の市民運動風(?)」(9)がうみだした「動き」、それをつくりだそうとした姿勢、そしてその実践を言行一致の事実として示したその一貫において、私たちは何よりも具体的にうけとるものが、ある。
「来年卒業したら、いまみたいなアルバイトやめて、つとめねばならない。すると、いよいよ何もデケへんようになってしまう。どうしたらエエか、毎日迷っている。」
「なんで、いまのままのヤリクリアルバイトやったらアカンのか。」
「そんな中途半端な生活では落着かへん。」
(中略)いまこれからどうする、という立場におかれた、一五歳〜二五歳の世代層が選択するみちは、より積極的になまけ者、遊びを意識した、光栄ある〈社会的身分の拒否者〉でなけらばならない(10)
これもまた市民主義といわれ、批判の的になるのであれば、反論の必要はないだろう。
いうならば戦後アナキズム運動のほとんどは、個人としてアナキストたちが、その行為を互いに脈絡させることなしにそのときどきを動きつづけた、その小さいさざなみの不可視の集積としてあったということである。
このことが意味するところのものは、戦後のすべての時期を通じてアナキズム運動は、きわめて少数の個人によって、意図するとされぬにかかわらずむしろ私的に行われることで、人知れず見えない地下水脈をつくりつづけたという結果である。そしてまた、たまたま運動が社会的それゆえ組織的なものとしてあらわれたときは、たとえば〈ベ反委〉のごとく、それそのものの行動組織としてであった。それをしいて関連づけるならば組織的なアナ運動をめざしながら皮肉にもそれを実現することのなかったアナ連の周辺から派生するかたちにおいて具体化したということである。(11)
かつて存在したというアナ連の周辺から、あるいはまったく既存のアナキストの運動体とは関係のないところから派生した運動が、跡形もなく消えたいま、私はここに何を書き足せるだろうか。
とりあえずは、ない。向井氏のそれを含む様々な「小さいさざなみの不可視の集積」は、社会的には無力だったかどうか。そうだとする人は多いだろう。そうではないとする人も少なくないだろう。それぞれのうけとり方で。けれども、私にこうした感情を刻む力があったのは、それ、「小さいさざなみ」に違いないことだけは確かである。
3 非暴力直接行動の論じられ方
――暴力−非暴力論議の閉鎖系
クロイツベルクにあるアナキストのインフォ・カフェを訪ねたことがある。日本から来たのだというと、カウンターの女性が何人かの友人を呼び出して紹介してくれた。10代の野球帽をかぶった女のコが数名やってきた。それから、40代中頃の髭面の男が来て、ある新聞を手渡してくれた。そして、自分は反国家運動というネットワークをつくっているアナルコ・サンジカリストだという。日本のイラン人排斥について話して別れた。
その日の夜、投宿先のスクワットで、これはどういう新聞かときいた。女性の住人が本のページを繰りながら、鼻で笑っていった「非暴力」非暴力という時、周囲の誰それの批判的意見よりも、その時の確信に満ちた軽蔑的表情を思い出す。
私はこの暴力論というのが苦手だ。論にとっつくきっかけのようなものを、私はつかめないのだ。しかし、向井氏について語るうえで、非暴力直接行動について触れないわけにはいかない。今とにかく思っていることから書き出してみる。
頭の上にのっけられた靴を払いのけるのがどうして暴力か。なるほど、それは暴力ではないと思った。だから投壜戦になったらボンボンあいつらに投げていいのだ。そんなたとえで、玉姫公園の焚き火で誰かと話しをした。そんな暴力までを批判するのはおかしい。これが、私のもった最も単純な暴力論だったと思う。
あるいは機動隊や警官との対峙の場面で、銃口に花を差し込んだり、挨拶するような態度。それをさして、私たちはよく「非暴力」と名づけ、気持ち悪いものとして切ってすてた。ヒッピーは嫌いだ。そのような態度は唾棄すべきだといまも思う。おかしないい方だが、それは相手に対して高みに立とうとする卑しい態度だ。
しかし、機動隊殲滅とか、その手の掛け声に、私は声がでない。ある混乱に乗じて、目の前の友人の腹に、拳を打ち込んだ私服のうすら笑いの顔を見た時、そういった感情をもったことはあるが、別に何もできない。
また、究極的には資質が問題とされるような暴力論を唱えるようなそれこそ、柄ではない。
このとりとめのなさからも分かる通り、いままで私は、暴力か非暴力かあるいは武闘か否かという問いを自分のなかでたてたことはなかった。そしていまもその問いをつきつめて考える契機をもてない。それより先に、何故あれかこれかを決めなければならないのか? という反感がくるのだ。
つまり、その論議は、あらかじめ決定した結論に向かって、ノルかソルかを迫る以外の展開を出ないだろうというのがその理由。政治的、経済的な権力、権力の現象体たる組織や人物、施設(建物、所有物)を抹殺しようとすれば、行為に限りはない。さらに、そこに直接性とアナキスト泣かせ(?)の冠がつけば、黙って頷くほかない。とすればノル以外に「正しい」結論はない。
結局、あれかこれか、という二者択一の問いにもとづく閉鎖系の論議には、少なくとも新しい思考の過程がない以上、新たな「動き」をつくる余地はない。
さて、向井氏のキメ細かく考え抜かれた非暴力直接行動論については是非、直に向井氏の文を読んでほしい。ことに、非暴力直接行動・六つの意味というガンジーの塩の行進を具体例にとって、非暴力直接行動のエッセンスを集約した文章が、分かりやすい。(12)
非暴力直接行動一応の要約。
直接行動といえば、テロリズム一般の形態をまず思い浮かべる。しかし直接行動の本質は〈生産労働〉である。生きる上で必要なものを、自分の手で充足させようとする行動働き、つくることがそれである。そしてその〈生産労働〉は、人びとがつくりだしている非暴力的日常において持続的に行われている。その意味で非暴力と直接行動は不可分のものである(だから、非暴力とは書かず、向井氏は必ず非暴力直接行動と表現する)。
しかし、国家は人びとの非暴力的日常におおい被さり、それを与えた秩序として盗む。資本は本来、人びとの直接行動としてある〈生産労働〉を、賃労働として間接化し、その上前をはねる。この〈擬似非暴力体制〉によって略奪されたものを奪還することを、闘争という。その闘争は法を時に乗り越え、個人責任、間接手段たる政治を排すという姿勢で、あくまで能動的、創造的な力として行われる――。
不十分な要約はこれで終わる。可能な限り働かないことで〈擬似非暴力体制〉への抵抗(?)を試みる以外、〈生産労働〉を奪還することが、いまどのようにして可能か。私には無理だが、より現在的な細かい議論が可能だろう。結論からいえば、私はこの非暴力直接行動の考え方に共鳴する(13)。
最後に、非暴力直接行動論に対する、今後も繰り返されるだろう消耗の論議について、書いておきたい。
その反駁とは、極限状態〈絶対状況〉において、つまり自分が、あるいは友人や守るべき何かが、いままさに抹殺されようとしているという局面において、非暴力なんて悠長なこといってる場合か? というものだ。
非暴力直接行動とは、相手に暴力を使わせないようにしむけるという意味での積極的な態度のことであるとしても、あらゆる手だてをこうじる隙がない時、どうするのか。非暴力直接行動は、無抵抗と同義ではない。簡単にいえば、その極限状態においてを結論は決まっている。その場合、抵抗は当為であり、当然、暴力的手段をもって対応する以外ない。そこで、暴力か非暴力かの選択を突きつけることに意味はない。
私たちに、絶対状況下における闘いの防衛を必然とさせることによって、暴力的な私たちの対応をも、しばしば引き出すことになる。しかし、その闘争は、直接行動生産労働の奪還のみを掲げるものである限り、常に非暴力を指向するものとして、暴力的闘争と同質のものではない。いうならば、暴力闘争は、その暴力機構を自己肯定的に、ますますエスカレートする以外にないのに反して、直接行動はきわめて、限定的・条件的・状況的である。(14)
つまり、向井氏は「暴力に反対したことはない、非暴力に賛成」(15)である。非暴力=暴力ハンタイという単純な無知による懐疑、反感をもつ人びとにとっては意外な(?)発言だろう。この程度のことを知らずして非暴力直接行動を云々いう論を検討することは、時間の無駄だ。
では何故向井氏は武装闘争ではなく、非暴力直接行動なのか。それは、武装闘争が「仮に権力を打倒し、勝利したとしても、クーデターと同じく、必ず〈暴力の悪循環〉にとらえられ、人民の解放は名目だけになる。」(16)――という無残な具体例に裏づけられた表現に尽きるだろう。だからこそ、「肉体的強弱や武装の優劣、兵員の大小によって勝敗が決まる既成の闘争概念を超えた〈新しい闘争概念の創造〉」(17)が必要である、としている。つまり武装の強弱でいえば、私たちに勝てるはずがない。むざむざそうと分かってやむにやまれない場合もあるにせよ権力の〈暴力の土俵〉にのるのか。そこで自分たちの〈非暴力の土俵〉に相手を引きづりこむことにおいて、私たちの〈新しい闘争概念の創造〉がなされうる。
その創造の過程はいうまでもなく、暴力か非暴力かという問いによって口火を切られることはない。
〈きわめて創造的な新しいかたちの闘争〉とは、従来の非暴力、暴力〈概念〉からまったく自由なところに生まれ出るものだろう。
(中略)
一般状況として、私たちはしばしば〈非暴力〉という語句にこだわるあまり、直接行動といえば、〈無抵抗のすわりこみ〉とか、〈静かなデモ〉しか想定しえない。
そのような〈既成の非暴力概念〉は〈既成の暴力概念〉と密着して、むしろ新しい闘争形態の発展を妨げている。(18)
ここでもまた、言葉のなかに固定を許さない、運動の思考が貫かれている。そのことにおいて、このところ猫も杓子もの調子でいわれだした処世術としての非暴力と向井氏の非暴力直接行動は、明確に分離する。
4 自由連合ということ
自由連合という言葉を誰がいいはじめたのか知らない。しかし、私は自由連合という考え方をアナキズムで知ったのではない。内ゲバへの抑止力を考えるところから……ということではなかった。何人もの演奏家によって、それはもたらされた。もたらされた数年後、そういえばと重なったのが、アナキズムの自由連合という言葉だった。
私はフリー・ジャズやフリー・ミュージックのソロ演奏をする演奏家たちが好きだった。いまも好きだ。そして、好きな理由とは別に、こうともいえると考えた。
コードにのせて恥ずかしげな「メッセージ」をうたうひとりのうたが、無様に、自分以外の何かにたよって音を出しているにもかかわらず、それらの音は、たったひとつ音によって立ち、そして一つの生命として循環していた。演奏家たちは完全なソロ演奏を貫き、またある時は様々な他者とのコラボレーションを行っていた。そこには自分の音を出しながら、相手の音によって変わり、変わることでソロに立ち返り、そしてまた何かを相手に投げかけ、そしてまたその反応をうけとって変わるという関係があった。
考えてみれば、別にフリーと形容のつく、あるいは形態の音に限らず、演奏家は皆このようにやっているわけだが、とにかく、私はそのような演奏家のように在りたいと考えた。
古い言葉でいえば、自立その自立によって、他者との理想的な関係強制・被強制のない、対等・平等で、流動的・創造的なそれがもてる。そんな単純な考えだった。
しかしそれが、私の考えた、私たちが目指す社会の原理であり、その原理を内包した社会運動の原則であり、かつまた同じ時間・空間を共にする他者と関係をとる時の根本だと考えた。アナキズムの目指そうとする社会の定義としてよくいわれる「自立した個人の自由な連合にもとづく自治社会」のもっとも小さな実現をそこに見ようとしたのだ。
〈統一でなく、連合を!〉という文章に触れたのはその後だ。一人の演奏家として読めば、それはそのまま通じる言葉だった。
〈統一〉が〈集団〉の思想だとすれば、自由連合が「個」の思想であることも自明である。
〈自由連合〉とは、終始、おのれ一身においてそれを追求するものであり、だからその具現が相手へ及ぶことがあるとしても、決して相手を律しようとするものではない。
自由連合は、(イ)仲間を自分の方へ引きよせる求心的な〈統一・集権〉ではなく、みずからを仲間へと投げかける、外延的な〈連合〉においてつくる他者との、深浅でいえば、浅いシンプルな関係。 (ロ)仲間の場へ自分を赴かせることで自分を開きながら、仲間へ同化するのでないことにおいて、あきらかにする自己主体の相対的固有性。
だから自由連合は、仲間に必ず自分がうけとめられることの確かさによって、それが成立するのではないということが出発点になる。(17)
自分がかならず受けとめられるのではないことにおいて自分を投げかける、自分を開く。そのことが、その相手への絶対的な相互〈信頼〉がうみだしたものはたとえば何か。たとえば、それは「イオム」読者との共同行動である。ただひとつ送られる「イオム」という印刷物が可能にした全国的行動は次の通り。
①75年ヒロヒト在位50周年祝賀に向け「反天皇パロディステッカー」全国三万枚貼付
②85年元旦「ヒロヒト御名御璽入りB6版ビラ」5万5千枚を全国でバラまき「天皇踏み絵行動」
③86年朝売新聞三万部発行、全国戸別配付
④88年号外新聞五万部発行、マスコミ郵送、全国戸別配付
ことによく知られている②の行動にさいしては、イオム読者に限定しての提起だったという。
提起者の役割は、説得や強制でなく、参加・不参加についての相手の恣意性の尊重であり、その恣意性に期待する基盤としての(一方的な)「信頼」しかない。(18)
そしてまた、向井氏は、自由連合は統一の裏返しではなく、真の統一、つまり統一をも包摂するようなもの真の統一の思想としている。だから統一との対比でその正当性を語ることは筋違いである。そのことを前もってことわるけれども。
〈統一〉がしばしば一部の突出を規制し、低いレベルに平均化して、行動を無意味化する〈組織の思想〉であるならば、〈自由連合〉は、行動の多義・多様性、個別的部分的限定性などによって、身軽に個人の動きをスタートさせ、複数の共働をつくり出す〈行動の思想〉である。
また、ちょっとした思いつきや、試行錯誤的混乱、予定しないハプニングをも創造のチャンスに転化する、つまり〈やり方〉、〈技術〉にあらわれる〈方法の思想〉である。
いうならば、「異質な他者との積極的な出会い」、「対話」は、このような〈行動〉と〈方法〉の思想〈自由連合〉を媒介として、はじめて成立するものだろう。(19)
全国組織でもなく、位置づけ・方針決定・意志統一、といった「手続き」を経ずに、さらに公安が「イオム」をとっていたら? 等々、未確定な要素を孕みながらも、向井氏は一方的な思いを、信頼をテコにして、このような「動き」に転化した。見ず知らずの個人通信誌読者との全国一斉行動の実現。
初めの話に戻る。演奏者にも、伝えることができる・できないにおいて優劣はある。とするならば、ここで、向井氏だからそこまでできたという理解もあるだろう。そこで、私たちが自分の及ばない何かに求めようとした時、自由連合はありえない。そうではなく、自分とは別の何かを意識することで、改めて自分を当事者とした運動を模索する。そのことで初めて、それぞれがそれぞれの自由連合が可能になる。
自由連合は、関係の思想である。関係をもつということは自己をもつことである。それなしに関係はありえない。連合するひとつひとつの間には、信頼があると同時に、緊張がある。その信頼と緊張において、それぞれが自己を問われ、自立を問われる。あなたは何か。あなたは何をしたいか向井氏の自由連合に関する文章を読むたびに、私は89年に亡くなった演奏家Eのよくいった言葉を思い出すのだ。文字にすると随分とチンケで見すぼらしいけれども、ここに書く。オマエハオマエノオドリヲオドッテイルカ!? いまもよく耳にきこえる。
5 支援運動と自分の運動
「原発の問題が大事だから反原発運動やったわけではない」(20)
「大事ではない」のに何故その運動に参加したかというとつづめていえばこのようなことだろうか。それは、反原発運動が、運動それ自体を大きく変える可能性をもっていたそして実際にそうだったからであり、80年代の反原発運動は、60年代の安保闘争、70年代のベトナム反戦という大きな運動の波と通底するものだ……。
その発言をうけて、友人が発言した。「向井さんは、支援運動という運動をどう考えますか」。つまり支援者がそれを自分の運動としてやることは出来るのか? ということだった。それは私が運動にかかわり合ってからいままで追いかけてくる問いでもあった。
チアパスでも新宿でもトルコでも、ギリシャでもナイジェリアでもどこでもいい。やむにやまれない内側から噴き上げてくるような抵抗が世界の様々な場所にはある。しかし、そこに自分を同化させたり、含ませることは出来ない。それらの人びとの苦痛を即座に「分かる」のは嘘だ。
退屈かもしれないが例をだす。いまから8年前。山谷越冬闘争に、初めて支援として参加した。南千住の駅から玉姫公園までの「危険地区」の斜線入り地図をもらって歩いた。玉姫公園突入前の準備、突入、突入後のゲート防衛、そして夜半の人パト。カイロと毛布とおじやをリヤカーにのっけて、野宿のおっさんに声をかけて歩いた。すでに金町一家との激しい衝突は終わっていた。金町らしきランクルが玉姫公園のそばまできたといっては笛が鳴り、ゲート前で角材をもった。コートは、京都の番茶のような匂いだった。交代で焚き火にあたりながら眠った。
ある時、焚き出しの後、伝達のため小走りをした。すると、目の前を塞がれ、止められた。おっさんが一人ひどく酔った調子で激昂していうには、越冬だけ来ててめえら学生がなに恰好つけてんだということだった。年が明けて、公園での越冬闘争は終わった。その後、ある会合で友人たちとそのことを話した。それはヤマのおっさんが学生をやりこめる切り札のような言葉であって、皆いわれるもんだという人もいた。しかし、越冬支援を自分の問題として考えることはやっぱりやや抽象的なことだった。その後、このことは私のなかに根をもった。つまり、私は運動といい闘争というけれども、結局のところ運動の当事者ではなく、関係者でしかないのだ。
その時の考え方を整理するとこうだった。経済的、政治的な権力によって、苦痛を強いるものと苦痛をうけるものとがいる。被抑圧者はやられているばかりの「弱者」とは別だ。そこにまた、別の角度から毛色の違う圧迫や疎外感を感じ、それらの元凶への叛逆に能動的な意味を見いだしたいとする自分がいる。
しかし、私の立場は、より具体的に苦痛を強いられているものとの関係性というややこしさの上にしか成り立っていない。私の想像力の突端に描かれた連帯はしぼんだ。
はっきりいってヒトゴトなのだ。ヒトゴトの運動に自分を駆り立てようとする空虚さ。運動へと自分を駆り立てる動機のようなものと、実際の行動とがまるでつながらなくなった時、もしそれをやり続けることが運動というならば、もう私は運動には関わらないことにしよう。ヒトゴトとの関係主義でかかわった運動からはなれ、当事者性をどれだけでももてることそれはいわゆる運動以外のことでもいい。自分のこと、それが何かは判らないが、とにかく自分自身のことをやるべきだ。
結局逆倒していると感じたのだ。初めにあるものは運動ではなく自分のやりたいことと(それを含む生活という意味で)根源的な日常である。それを抑圧するものに対して、初めて闘争がある。もし本当の運動というものがあるのだとすれば、これが自分にとっての筋だ、と考えた。
しかしここでもまたしかし、である。「自分のやりたいこと」などというのは、実際のところ、あまり大したことではなかったりするのである。
向井氏は冒頭の質問に対し、このようなことをいった。つまり、
「支援は支援。自分の運動ではない。応援団や。運動は結局は勝った、負けたなんだけど、僕なんかは雰囲気が面白いとかが重要だ主体性なんて問われたら困るけど――そういうことで野次馬運動論をいったり、助っ人論をいったりしてきた」(21)
後日、『野次馬運動論』(1985)とタイトルがついたパンフを向井氏より送られた。二人の漫才台本のかたちをとっている。一人はこんな時に(東アジア反日武装戦線・大道寺、片岡両氏が死刑攻撃にさらされている時に)漫才なんてできないとゴネ、一人がじゃあんた何をやるの? という掛け合いの末……
△そら…な、まず、よお考える、いうこっちゃ。
●それ、何もせえへんいうのと同じやで。なんぼ考えても、行動はでてけえへん。そやろ! うちらやじ馬やさかい、気やすうに動けた、いうことが、あったんやないか。
△そやけど、考えのない行動はミーハーや、ヤジ馬や。
●ミーハーでもヤジ馬でも、気やすうに自分のからだつこうて動いているうちに、うちら、えらいちごてきてるで!(22)
という結論的やりとりが出てくる。
「そら…な、まず、よお考える、いうこっちゃ。」を結構やって、いまもまあやっているけれども、「自分のやりたいこと」と運動がしっかと結びつくか・結びつかないか、そんな気の重い基準を前に運動はもうたくさん。つまらない。忙しいだけ。疲れるだけ。イヤな思いをするだけ……というホンネに徹底的にひらきなおった途端、それまでとは逆にこうも考えられることに気づいた。
別に適当に、自分勝手に、ひっつけてもいい。その結びつけ方において、私たち自身の持ち前の「芸」を見せればいいのだ。
そこでさらに考えをひろげてみるとそれまでなかった新しい何かを、自分がその運動に加味できるのであれば、その「ほんのちょっぴり」が、乖離した自分の動機と行動とをつなげることにも気づく。
いうまでもなく運動は、論ずるものではなく、〈やること〉である。〈やる〉というその〈やり方〉において、運動する者の主体性は保証され、〈自分の運動〉となる。(23)
具体的にはどのようなことか。
自衛隊が姫路でパレードをする。取組をやるかやらぬか? →やる→やれることはなにか? →沈黙→やっぱりビラまきくらいか……(本音)→(安易さを否定せずに)では、何かを付け加えるとしたら? →ビラを投げるのは? →デパートの屋上からも投げるのは? →警察の目を眩ますには? →ビラ爆弾行動
行動の提起はあっても、やる気はたかまらない。気はあっても具体性・魅力に乏しいやり方しか出てこない。そのような時、〈ちょっとでも新しいことをつけ加える〉という発想が、「運動する者の主体性は保証する」。と同時に、〈新しいこと〉をやることの刺激が、運動内部に変化をもたらす。そしてその変化を再び運動へと展開するという循環が可能になる。
その時、私たちは、支援運動への参加を、その「やり方」をもって自分の運動とする可能性を見つけることができるのではないか。
6 おわりに
人数あるいは弾圧つまりは権力に対する打撃として算出される「成果」ではなく、「理論」としてでもなく、何故向井氏は運動を〈やり方〉として語るのか。踏み絵ビラやビラ爆弾等、私は多様な運動の〈やり方〉に注目しながらも、その意味をとりかねていた。何故かといえば、それは、運動とは究極的には勝ち負けであり〈やり方〉はあくまで手段のことであって、目的ではないという考えが根にあるからだ。
ところで、私たちは天皇制解体でも入管体制粉砕でも、あるいは総破壊でもいいけれども、それら途方もない大目標に、指先だけでも触れたことはあるだろうか。
ベトナム戦争の終結時、向井氏はベトナム人民は勝たなかった。負けてしまわなかったことで負けなかったと書いて「赤旗」で叩かれたという。そこでつまり人民が負けても負けても這い上がるということですか、と相槌をうった参加者には「這い上がるかいな」(24)と応えた。そのやりとりは、「反運動」という言葉とともに、深い印象を残した(その考え方を知ることで、向井氏の非暴力直接行動のなかみに一歩近づくことができたとも思う)。
何故印象的だったかといえば、一昨年、あるダダイストの50年目の命日に小さな集まりをもった時、私は、丁度似たような意味のことを考えたのだ。戦時下の放浪のはて、敗戦ま近の東京で、彼は虱に食われながら飢え死にした。彼もまた、負けてしまわなかったことで負けなかったのではないか。
彼の熱心な読み手ではない私にとっても、その死は、土の固まりを弄んでいて、時につまむ、それ以上潰しきれない小さな石そのようなものとして感じられた。その小さな砕けないものとは何か。それは、誰もけしされない――ヒトの最後の、最低の、ギリギリの核のような……ちょっと大袈裟な言葉でいえば尊厳のことである。その他、無名の、砕けないことで自己を貫いた細かな塊の、いまに呼びかけるもの。
チリの音楽家の手首を切り落とした何か。ユダヤ人の入れ歯の山を築いた何か。アジア人の女を強姦した何か。同志を寝袋の中で撲殺する何か。ホームレスの生きようとする権利を奪う何か。その苦痛を強いる何かは、私たちがニンゲンである限り、厳密にいえば、消えてなくならないような気がする。しかし私は、そのようなヒトが自由になろうとする自由を投げない、失わないだろうというその信頼において、とある自由の社会の実在を信じる。
権力者の武装は、組織の近代化や科学の発達によって著しく強化され、その威力は、国家の内と外に向かって、しばしば圧倒的に発揮された。
にもかかわらず、人民の〈地位〉と〈処遇〉は、しだいに向上し、改善されてきた。(中略)
すなわち、人民は、集団をつくり、組織を結び、それの連合をはかることによって、全体の意志としての例えば、訴状・嘆願・陳情・逃散・出奔・怠業、さらには示威・一揆・焼打・ストライキなど、〈人民に固有の非暴力の方法〉つまり〈直接行動〉の展開によって、そのたびごとに敗れながらも、その〈結果〉として地位や処遇の改善をつくってきた。(25)
今後もそうだとはいわない。あらゆる必然の論理を拒絶し、ただ私たちはそう在ろうとする――意志において、この〈結果〉に鼓舞され続ける。
もとより私たちは、その出発点において、敵に負けているのであり、はじめから互格でない勝負にたとえ何度負けても、負けたことにはならないであろう。負けると判った闘いに負けて、さらになお立ちむかっていくことは、勝つことでなくとも、負けたのではないことにおいて、権力をおびやかすものである。そしてその持続において、ついに勝利の機会をつかみうるかもしれない。(26)
私たちは自分たちの抗いをもって、即座に引換えにしたい何かを、コレともアレとも指させない。また、そのような引換えを可能にする抗いの方法など知らない。
私たちは過程にあり、ついにその過程のなかで「その持続において」おわるだろう。そしてまた、その過程は必ずしも、未来の誰それに理解され、うけとめてもらえるとは限らない。
ならばその過程とは一体何か。「革命の展望はない。民主的で、市民的で、人にやさしく、地球にやさしく、おまけに非暴力で、これからもガンバロー」だから、結果より過程が大事だこんな気持ち悪いものいいが溢れかえっている。馬鹿な!
私たちに必然の結末、終着点としての革命なるもの、あるいは「絶対」なるものはそもそもありえなかったという意味で、私たちはいおう。過程にすべてがある。だから自分勝手に、無責任といわれようが、不真面目といわれようが、正しくなくていい。何といわれようがどうでもいい。好き勝手、自分のいちばんの好みで……やる運動――それがその過程である。
そこでその抗いの〈やり方〉とは、それそのものとして、私たちの生である。〈やり方〉とはすでに手段のみをささない。
そしてそれは、人びとの根源的な日常に底流する、どのような時・場所にあっても、負けてしまわない、とりあえず生きようとする本能と無関係ではない。
這い上がらない者がどう生きるか。その問いにこたえるものとして、運動はありえるか。逆にいえば、それこそが運動であり、そのこたえを未来に含もうとする人びとの協同を相互扶助といい、協同の方法を自由連合と呼ぶ。
そしてあるとき、私たちがふとまわりを見まわすと、そのようにして無数に出てきた行動自体のあり方にこそ、私たちが明日に求めた社会のあり方があり、すでに私たちがその第一歩を歩き出している、ということでなければならない。(27)
すでに数歩、その途上にある向井氏と同じ時間、同じ場所を、その後の幾人かがまた、自分を投げかけ、自分を開くことによって、すでに漠然と歩いている。歩こうとしている。
かつて山鹿泰治の生涯を描いた向井氏は、最後にこのように書いた。山鹿泰治の生涯は
「私たちのアナキズムとは何か」ではなく「私たち自身のアナキズムをどう生きるか」を気付かせるべく、問いかけているのである。(28)
ここで問いかけているものは、山鹿泰治の生涯であると同時に、向井氏の幾多の実践である。その幾多の実践をもって目の奥にうつる、氏の姿である。
これ以上よく、向井氏の存在の意味を私たちに投げかけ、語りかける言葉はない。
私たちのアナキズムとは何かではなく、私たち自身のアナキズムをどう生きるか、それを気付かせるべく。(28)