アナキズムFAQ


I.3.4 個々のシンジケートの間にはどのような関係が存在するのか?

個々人が共通の問題に取り組み、問題を克服すべく共に提携するように、シンジケート間にも同様の関係がある。全くないとは言わないが、他の仕事場から完全に独立した仕事場などほとんどない。仕事場は、インプットとしての原材料と自分達の製品に対する消費者とを必要としているのである。従って、様々なシンジケート間には繋がりが存在することになる。そうした繋がりは二つある。まず第一に、個々のシンジケート間の自由合意である。第二は、諸シンジケートの連邦(産業部門間・地域間の)である。最初に自由合意について考えてみよう。

アナキストは、民衆が自分自身の生活を組織できるようになることが重要だと認識している。つまり、中央集権的計画立案を拒否し、その代わり、労働者協会間の直接的繋がりを主張するのである。クロポトキンの言葉を使えば次のようになる。『自由な労働者には自由な組織が必要となろう。個人の自律性を犠牲にすることのない、自由合意と自由協働だけがこの基礎となり得るのだ。』(クロポトキンの革命的パンフレット、52ページ)生産に(そして消費にも)直接関与している人々こそが、いかなる官僚よりも遙かに自分のニーズをより良く知っている。つまり、自由合意は自由経済の基盤なのであり、そうした合意は『合意を行う関係者それぞれに平等に開かれている様々な進路の中での自由選択としての、自由同意によって到達』される(ピョトール=クロポトキン著、無政府主義と無政府共産主義、52ページ)。資本主義につきものの富と権力の集中がなければ、自由合意は現実のものとなり、ヒエラルキーを覆い隠すものにはならないであろう。従って、アナキストは次のように考えるのである。『自由な個々人は、自分の兄弟(姉妹も!)と提携し(中略)生を十全に享受するという自分の願望だけに動かされて、生活に必要なもの全てを(中略)生み出してきた。それと同じやり方で、個々の機関は自由で自己充足的で協働的であり、そして、その機関自身の可能性を拡充するが故に、他の機関と協定を結ぶのだ。』(ジョージ=バーレト著、アナキズム革命、18ページ)そうした協定の一例は、製品やサービスの注文に見ることができよう。

このことは、分権型経済を意味する−−資本主義(例えば、巨大企業や多国籍企業が示しているように、資本主義神話の上での「分権型」でしかない)よりも遙かに分権型なのだ。つまり、『自由な相互の合意によって、より密接に結びつき、織り合わされて成長する』経済なのである(前掲書、18ページ)。社会的アナキストにとって、これは、『必要なものと当面の供給とをふまえた、必要物と金銭を媒介としない、利潤を持たない自由交換』(アレクサンダー=バークマン著、アナキズムのABC、69ページ)という形態を取ることになる。

従って、アナキズム経済は、労働者が相互扶助と自由提携を実践するに伴い、自発的秩序を基盤とすることになるであろう。アナキズム経済は、『上からではなく下から始まる。有機体同様、この自由社会は、単純なユニットから複雑な構造へと成長する。個々の生存競争の(中略)必要性は(中略)複雑な社会機構全体を動かすに足る。社会は個人の生存競争の結果である。多くの人々が仮定しているように、敵対してはいないのだ。』(ジョージ=バーレト著、前掲書、18ページ)

言い換えれば、『我々の工場は、最大限その業務特徴と十全に一致している。工場自体の生産経営を管理しながらも、新しい様式や製品を開発するために、新しい方法についての興味が満足するまで自由に実験を行う自治ユニットなのである。(中略)工場のこうした自律は、(中略)活気のない平凡さに対する(中略)安全装置である。以前は、競争動機が多様性を刺激すると仮定されていたが、工場の自律はそれに対する適切な代案以上のものであり、活気を保証し、個人の仕事と技量を保証してくれるのだ。』(G=D=H=コール著、ギルド社会主義再論、59ページ)

このことから、シンジケート間の第二の関係形態が導かれる。つまり、シンジケートの諸連邦である。個人やシンジケートの活動が、当初の地域性を越えて広がる場合、それは、連邦を構成しなければならないほどの規模に到達するだろう。この規模では、広い地域に向けて生産を行っている仕事場間のコミュニケーションを支援するために産業シンジケート諸連邦が必要となる。いかなるシンジケートも孤立して存在することはできない。だからこそ、共通の利益について論じ、その利益に基づいて行動するために、シンジケートが顔を合わせることを可能にする手段が極めて必要とされるのである。つまり、連邦は自由合意を補完するのだ。ここに、バクーニンの以下のコメントが全く当てはまる。

真の民衆組織は、下から、協会から、コミューンから始まる。つまり、基底部の中核組織で始まり、上に向かって進みながら、連合主義は社会主義の政治制度となり、自由で自発的な民衆生活組織となるのだ。(バクーニンの政治哲学、273ページ〜274ページ)

多くのアナキスト同様、バクーニンが『全労働者協会の連合的同盟は(中略)コミューンとなる(であろう)』と見なしていたことを考えれば、アナーキーの政治的諸制度は、経済的諸制度に類似したものになるであろう。実際、バクーニンは『下から上へと組織された(中略)農業・工業諸協会の自由連合』が革命の基盤となることに賛同していた(記しておかねばならないが、革命的労働者と農民は、1905年と1917年の革命中にソヴィエト(評議会のロシア語)を創造したとき、正にこのことを行ったのだ)。つまり、『政治的』諸制度と連合主義に関するバクーニンのコメントは、経済的諸制度の議論にも当てはまるのである。(ミハイル=バクーニン選集、170ページと172ページ)

シンジケートの連邦(これを「ギルド」と呼ぶリバータリアン社会主義者もおり、「産業組合」と呼ぶ者もいる)は、二つのレベルで活動を行う。産業内と産業間である。こうした連邦の基本的運営原理は、シンジケートそれ自体と同じである−−共通のニーズを満たすための平等者間の自発的協働である。つまり、連邦内の個々のシンジケートは、他のシンジケートとの水平的合意によって結びついており、グループの上にある別個の団体に対する義務など全く負っていないのである(アナキストの連邦の性質に関しては、セクションA.2.11「何故、アナキストは直接民主主義を望ましいとしているのか?」を参照)。

コミューン間の連邦に関するクロポトキンのコメントがこのこと(シンジケートを生産者コミューンと見なすことができるということ)を示している。

未来のコミューンは理解しているだろう。いかなる高次の権力も認めることはできない、ということを。コミューンの上にあるのは、自分のコミューンが他のコミューンと共に自由に受け入れた、連合の利益だけである。(叛逆者の言葉、83ページ)

個々のメンバーがその守備範囲内で広範な行動の自由を持っているため、連合は自律性と矛盾することもない。

コミューンは、それが望むあらゆる制度を採用し、それが必要だと見なすあらゆる改革・革命を行う絶対的自由を持つだろう。(前掲書、83ページ)

それ以上に、こうした連合は、多様で機能的なものになる。経済的連合は、諸協会と諸連合間の複雑なネットワーク間連携を生み出すであろう。クロポトキンは次のように述べている。

実際、我々の欲望は非常に多様であり、非常に急速に出現するため、すぐさま、全ての欲望を満たすために一つの連合では不充分になるだろう。そして、コミューンは、他の諸同盟と接触し、他の連合に参入する必要を感じるであろう。食糧供給を得るために一つのグループに属しながら、金属などの他の物品を手に入れるために第二のグループに属さねばならず、さらに、繊維製品のために第三の、芸術作品のために第四のグループに属さねばならないだろう。(前掲書、87ページ)

このように、連邦は、実際のニーズへの配慮だけでなく、自由提携・分権型組織というアナキズム思想を反映する。

アナキストは、権威主義的で中央集権的な精神に激しく敵対する。(中略)従って、連帯と自由合意に基づいて、個人から自治体へコミューンへ地方へ国へ万国への連合主義を基盤にした未来の社会生活を描くのである。そして、自然なことだが、分権型の組織をできうる限り好ましいとしながら、この理想は生産組織にも反映されねばならない。だが、これをあらゆる事例に適用される絶対的ルールだと受け取ってはならない。逆に、リバータリアン秩序は、それ自体で、そうした一方的解決策が押しつけられる可能性を妨げるであろう。(ルイジ=ファブリ著、『アナーキーと「科学的」共産主義』、13ページ〜49ページ、アルバート=メルツァー編、国家主義の貧困、23ページ)

つまり、シンジケート連邦は、そのメンバーの欲望に対して順応することになるのである。トム=ブラウンは次のように論じている。『サンジカリスト型組織は極度に融通が利く。その点が主たる長所である。そして、地方連邦は、地元の諸条件と変化する諸情況に応じて、形成され、修正され、付け加えられ、改良され得るのである。』(サンジカリズム、58ページ)

想像できるだろうが、こうした諸連邦は自発的諸協会なのだ。『ギルドシステムを生き生きとさせ、活発にし続けるためには、工場自治が極めて重要である。同様に、全国ギルドとは独立して、多様な民主主義形式を持つ工場群が存在することは、個々人の精神が貴重な実験を行い、実り豊かな発意を示す手段となるであろう。理論をその「論理的」最終帰結に持ち込むことをあくまで拒絶しているという点で、ギルドの人々(とアナキスト)は、自由と様々な社会事業への自分の愛に忠実なのである。』(G=D=H=コール著、前掲書、65ページ)

前セクションで述べたように、仕事場間連合は、無政府集産主義・アナルコサンジカリズム・無政府共産主義に限定されてはいない。例えば、プルードンは、自主管理型協同組合システムに対する構造的支援組織として「農工連合」を示していた。多くの孤立した協同組合の実例が示しているとおり、支援ネットワークは協同組合が資本主義の下で生き残るためには必須である。スペインのバスク地方にあるモンドラゴン協同組合複合施設に、信用組合があり、その諸協同組合間で相互支援ネットワークがあり、現在のところ、モンドラゴンが世界で最も成功した協同組合システムであるのは偶然ではない。

ある仕事場が連邦への加盟に同意すると、連邦が持つ資源を共有することになり、そのことで、相互扶助の恩典を得る。連邦協同組合の恩典に対する見返りとして、シンジケートの生産道具は、社会の「財産」になり、そこで働く人々に所有されずに、使用されることになる。だからといって、トップからの中央集権型管理があるわけではない。なぜなら、『我々は、工場それ自体を含めた生産器具の所有は事業(つまり、連邦)に戻さねばならない、と述べる。だが、それは、個々の仕事場にいる労働者が、個々の仕事場を満足させることを行う権力を持った何らかの産業政府によって命令される、という意味ではない。(中略)それは違う。労働者は(中略)やっと手に入れた自分達の管理を(中略)上位の権力に手渡しはしない。(中略)労働者が行うのは(中略)生産器具の相互使用を保証し、連帯協定を結んだ他の工場の労働者仲間が自分達の設備を共有する(その逆も同様である)権利を認めることである。』(ジェームズ=ギョーム著、バクーニンのアナキズム、363ページ〜364ページ)

この種の協働を促すことが産業間連邦の主たる役割である。産業間連邦では、シンジケートのメンバーが仕事を変え、他の(同じでも構わないが)産業部門の別なシンジケートに移るとき、そのメンバーは新しいシンジケートのメンバーとして以前と同様の権利を持つことを保証している。つまり、連邦の一部になることで、労働者は、いかなる仕事場に参加しようとも、自分が同じ権利と同じ発言権を持ち続けることを確実にしているのである。これは、協同組合社会が協同組合的であることを保証するために必須であり、このシステムが労働プロセスに参加している全ての人々による「一人一票」の原理に基づいているのだ。

この相互共有以上に、いかなる役割を連邦は果たすのだろうか?基本的に二つある。まず第一は、シンジケートが生産する情報の共有と調整であり、第二は、その情報によって示される生産と消費の変化への対応を決定することである。シンジケート間の「縦の」繋がりが非ヒエラルキー的であるため、それぞれのシンジケートは自治的であり続ける。このことで、権力集中の排除と、仕事を行っている人々による直接管理・発意・実験を確実なものにしている。従って、『(一つのシンジケートの)内部機構は(中略)(他のシンジケートと)同じである必要はない。組織形態と手続きは、提携した労働者の好みによって大きく異なるだろう。』(前掲書、361ページ)現実には、多分、それぞれのシンジケートが、それ自体の秩序を手に入れ、自分達を満足させる最良の方法(つまり、それ自体の仕事と労働条件を管理する)を決定するであろう。

上述したように、自由合意は、消費者が自身の納入業者を選ぶことができることを確実にする。生産ユニットは、消費者が求めているものを自分達が生み出しているのかどうか、つまり、需要を通じて表現される社会的欲望を満たしているのかどうか、を分かるのである。満たしていなければ、消費者は同じ生産部門内部にある他の生産ユニットを利用するだろう。強調しなければならないが、この負のチェック(つまり、消費者の「退場」)に加え、コミューンだけでなく消費者グループと協同組合を通じて、仕事場は、それが生み出しているものに対する肯定的なチェックの対象にもなる可能性もあるのだ。生産者グループに対してニーズを策定し、そのニーズを伝達することで、消費者グループは、生産と商品の品質を保証する重要な役割を持つことになり、そのことで、自分達のニーズを満たすのである(詳細はセクションI.4.7を参照)。

だが、生産が自律的ネットワーク形成に基づくことになる一方で、消費者行動に対する投資の反応は、ある程度まで、その生産部門のシンジケート連邦によって調整されるだろう。そうした手段によって、連邦は、個々のシンジケートが商品を過剰生産したり、生産変化に対して過剰に投資したりすることで資源が無駄に使われないように保証できるのである(次のセクションを参照)。

I.3.5 シンジケートの諸連邦は何を行うのだろうか?

シンジケート間の自発的連邦が必要なのは、シンジケート間の諸関係を規定する諸政策を決定するためであり、また、様々なシンジケートの諸活動を調整するためでもある。そこには基本的に二種類の連邦が存在する。特定業種の職場全ての連邦と、経済全体の連邦(全シンジケートの連合)である。どちらも、様々なレベルで運営される。つまり、産業諸協会の連邦と産業間諸協会の連邦は、地域レベル・地方レベル、そしてそれ以上のレベルで存在することになるのである。産業間ネットワークと産業横断ネットワーク作りの基本的目的は、関連情報が経済の様々な基本的部署に確実に行き渡り、そのことで、それぞれの部署が他の部署とその計画を効果的に調整できるようにすることである。市場システムには計画を調整するときに障害物がある(セクションC.7.2を参照)が、仕事場間でコミュニケーションを取ることで、その障害物を克服でき、その結果、資本主義と関連する経済的・社会的崩壊を回避できるのである。

だが、連邦内の個々のシンジケートは自律的であるということを思い起こすことが大切である。諸連邦は協同出資に関わる諸活動(特に、新工場建設の投資決定と、需要の減少を踏まえた既存工場の合理化)を調整しようとする。諸連邦は、一つのシンジケートがどのような活動を行うのか、もしくは、どのようにその活動を行うのかを決定することはない。クロポトキンは(レーニン下のロシアでの直接経験に基づいて)次のように論じている。

労働者自身が自分達の組合を通じて産業の各部門における生産を組織しなかったならば、いかなる政府も生産を組織することはできないだろう。なぜなら、あらゆる生産において、いかなる政府も解決・予見できない数千に及ぶ問題が日常的に生じるからだ。全ての物事を予見することなど確実に不可能だ。そうした諸問題に取り組む数千の知性の活動だけが、新しい社会システムの発展に協力でき、数千という現地のニーズに対して最良の解決策を見いだすことができるのである。(クロポトキンの革命的パンフレット、76ページ〜77ページ)

だから、コールは次のように述べているのである。

このようにして主として独自の事業を行っている工場があるとすれば、より大きなギルド組織(つまり、連邦)の職務は、主として、調整や調節であり、対外関係においてそのギルドを代表するというものである。ギルド組織は、必要ならば、様々な工場の生産を調整し、需要と供給を一致させる。(中略)ギルド組織は、調査研究を組織する。(中略)この大規模ギルド組織は(中略)ギルドに参加する様々な工場に直接基づかねばならない。(ギルド社会主義再論、59ページ〜60ページ)

注目しなければならない大切なことは、連邦の最下部ユニット−−労働者評議会−−が、より高次の連邦ユニットの会議に出席する(委任され、リコール可能な)代理人を選ぶ権限を通じて、より高次のレベルを管理することになる、ということである。「委任」とは、代理人が、より高次の連邦組織に出席するときに、特定の問題に対してどのように投票するのかについてはっきり限定された命令をされ、その命令通りに投票しなかった場合には、リコールされ、その投票結果は無効にされる、という意味である。有給の代表者や組合指導者ではなく、一般の労働者が代理人となる。そして、自分が選出されることとなった委任を実行するとすぐに、通常の仕事に戻るのである。このようにして、意志決定の権限は労働者評議会に残り続け、専門的行政官や組合指導者といったエリート階級の官僚主義的ヒエラルキーの頂点に集中することにはならない。労働者評議会は、あらゆる政策決定の最終決定権を持つため、代理型意志決定権を持った人々が決めた政策決定を破棄し、破棄すべき政策を作った人々をリコールできる。

生産に関わる物質的・技術的方法となると、アナキストは、前もって考えられた解決策や絶対的な処方箋といったものを全く持たない。自由社会における経験と諸条件が推薦し、処方するものに従うのである。大切なことは、どのようなタイプの生産が採用されようとも、それは生産者自身の自由選択であるべきであって、他者の労働を搾取する可能性を持ったあらゆる形態同様に(any more than)、生産のタイプを押しつけることなど出来はしないのである。(中略)アナキストは、いかなる実際的解決策も先験的に排除しない。同様に、時期に応じて数多くの異なる解決策が存在してもかまわない、と認めているのである。(ルイジ=ファブリ著、『アナーキーと「科学的」共産主義』、22ページ、アルバート=メルツァー編、国家主義の貧困、13ページ〜49ページに掲載)

従って、連邦(協議調整組織)は、明確に定義された生産諸部門に対して責任を持ち、そして、各生産ユニットは、一般に、一つの生産部門だけを運営する。こうした連邦は、他の連邦や、シンジケートに意志決定の指針を与える関連コミューン諸連邦と直接の繋がりを持つことになる(この点については、セクションI.4.4で論じる)。そして、共通の諸問題に確実に焦点を当て、それらを論じることを保証するのである。こうした諸連邦が存在するのは、仕事場間で情報が広まることを確実にし、産業が社会的需要の変化に確実に対応できるようにするためである。言い換えれば、こうした諸連邦が存在するのは、主要な新投資決定(つまり、需要が供給を上回った場合)を調整し、超過キャパシティがある場合(つまり、供給が需要を上回った場合)にどのように対応するかを決めるためなのである。

指摘しておかねばならないが、こうした連邦型投資決定は、シンジケート内部の投資決定だけでなく、新しいシンジケートの創造に関わる投資とも共存することになる。だが、あらゆる投資決定を諸連邦が行う、と述べているのではない。(そのようなことは、新しい産業については特に不可能となろう。連邦が存在していないのだから!)従って、生産調整ユニットに加え、アナキスト社会には、数多くの小規模で局所的な諸活動が存在することになり、それが、創造性・多様性・柔軟性を保証することになるであろう。こうした活動が社会に蔓延して初めて、連邦的調整が必要となるのである。

このように、主要な投資決定は、その産業の諸シンジケートの会議と総会において、水平的で協議型の調整プロセスによって決められる。このモデルは、分権化と「計画立案」とを組み合わせている。主要な投資決定は適正レベルで調整され、社会的需要を満たすためにそのユニット自身の生産能力をどのようにするべきなのかを決定するという点において、連邦にいる個々のユニットは自律的である。このように、諸連邦(水平的協議)によって調整された自治的生産ユニットが、地元地域のイニシアティブ(柔軟性・創造性・多様性の極めて重要な源泉)と社会的需要の変化に応じた合理的対応を確実なものにするのである。

記しておかねばならないが、スペイン革命の最中、シンジケートは街規模の産業シンジケート諸連邦として非常に上手く組織されていた。そうした諸連邦は、その産業製品の注文を受け、個々の仕事場間に仕事を割り振る街レベルの産業連邦に基づいていた(個々のシンジケートがそれぞれで受注するやり方とは対照的であった)。ガストン=レヴァルは、次のように記して、この組織形態(連邦の責任の増大を伴う)が、アナキズムの自主管理が持つリバータリアン性質を損なうことはなかった、と述べている。

全ての物事を諸シンジケートが管理していた。しかし、だからといって、全てのことが、一般組合員の意見なしに、高見にいる少数の官僚主義的委員会によって決定されていた、と考えてはならない。ここにリバータリアン民主主義が実践されていたのである。C.N.T.の場合のように、相互的二重構造があったのだ。底辺の草の根から(中略)上に、そして、もう一つの方向では、あらゆるレベルのこうした同じ地元ユニットの連合から下への相互的影響がある。源泉から源泉に戻るのである。(アナキストのコレクティブ、105ページ)

こうした解決策や、これと同様の解決策は、ある種の情況では、個々のシンジケートが各々で注文を受けるよりももっと実践的になるだろう。このようにアナキストはそうした連邦的責任を手に負えないものだとして拒絶することはない(分権化に対する一般的偏見にも関わらず)。その理由は次の通りである。我々は『分権型管理を好ましく思っている。しかし、究極的に、実際的諸問題や技術的諸問題については自由な経験に従うのである。』(ルイジ=ファブリ著、前掲書、24ページ)産業毎に、そして地域毎に、必要とされる組織形態が異なるのは明らかである。しかし、自主管理と自由提携という根本的思想は同じものとなろう。それ以上に、G=D=H=コールが述べているように、『本質的なことは(中略)その(連邦やギルドの)機能はそれぞれの産業でできる限り最小限に抑制されるべきだ、ということなのだ。』(前掲書、61ページ)

このようにすれば、過剰投資と過剰生産(その後に不況が続く)に基づく資本主義の周期的危機と、それが生み出す社会的諸問題は、避けることができるものであり、資源も効率よく効果的に利用できる。さらに、生産(そして生産者)は、資本主義ヒエラルキーと国家ヒエラルキー双方の中央集権型管理から自由になり得るのである。

シンジケート間諸連合のもう一つの重要な役割は、自然な不平等を均等にすることである。結局、それぞれのコミューンは天然資源・土地質・事情・交通の便の良さなどについて全く同じではないのだ。単純に言って、社会的アナキストは『土壌の肥沃さ・健全さ・位置に自然な違いがあるために、全ての個人が平等な仕事諸条件を享受することを保証するのは不可能だ、と信じている。』そうした状況下では、『最初から平等な状態を達成するのは不可能』となろう。従って、『公正と平等は、自然な理由から達成不可能であり(中略)従って、自由も達成できないであろう。』(マラテスタ著、アナキスト革命、16ページと21ページ)共に連合することによって、労働者は『地球が(中略)万人に利用可能な経済的領域、あらゆる人間が享受する富に(中略)なる』(マラテスタ著、人生と思想、93ページ)ことを保証できるのだ。原材料の局所的不足・土地の質の悪さ・その結果としての供給の欠乏、これらは、生産と消費の社会化によって、外部から補われることになろう。このことで、万人が経済活動を共有し、経済活動から利益を得ることができるようにし、その結果、万人の福祉が確実に可能になるのである。

連合は、裕福なコレクティブやシンジケートと貧困なコレクティブやシンジケートとが、同じ環境に共存する可能性を排除するだろう。クロポトキンは次のように論じている。『生産に必要なものを共有することは、共同生産の果実を共に享受することを意味する。(中略)誰もが、共通の福祉のために自分の能力を十全に寄与しながら、自分の欲望を最大限十全なまでに共通の社会的蓄えから享受するであろう。』(クロポトキンの革命的パンフレット、59ページ)

故に、CNTは、、リバータリアン共産主義に関する1936年の決議において次のように主張したのだ。『コミューン間で産物を交換するために、コミューン評議会は、コミューン地方連合、そして、生産と分配に関する連邦評議会と連絡を取り、不足のものを問い合わせ、余剰の蓄えを提供するであろう。』(ホセ=ペイラツ著、スペイン革命におけるCNT、第1巻、107ページで引用されている)これは、明らかにクロポトキンの次のコメントに従っていたのだ。『生産・消費・交換の社会化』は、『連合コミューンに属する』様々な仕事場を基礎とするであろう(麺麭の略取、136ページ)。

金持ちの地域や仕事場と貧困な地域や仕事場という資本主義の遺産は、いかなる革命もが直面する問題となる。数世紀にわたって生み出された不平等を変えるためには時間がかかるであろう。これが、連合の課題の一つである。生産と消費の社会化を確実にし、そのことで、民衆が歴史の諸事件のために罰せられないように、そして、個々のコミューンが適切なレベルに発展できるようにするのである。スペイン革命中のCNTの言葉を使えば次のようになる:

社会化という考えに反対する多くの議論がなされている。その一つ−−最も愉快なもの−−は次の通りである。産業の社会化とは、その産業を乗っ取り、二種類の結果と共に産業を運営する、というものだ。二種類の結果とは、労働者が特権を持った裕福な産業と、労働者がそれほど利益を恩恵を手にしていないが他の場所よりも一生懸命働かねばならない不幸な産業、ということである。(中略)裕福な産業にいる労働者と殆ど生き残れない産業にいる労働者とには格差がある。(中略)この偏差が社会化の試みのためだと言われるのである。そうした偏差を我々は否定はしない。我々は、逆のことが真実だと断固として主張するのである。そうした偏差は、社会化が欠如しているが故の論理帰結なのだ。

我々が企図している社会化は、社会化を攻撃するために使われている諸問題を解決するであろう。カタランの産業が社会化されれば、あらゆること−−工業・農業・労働組合諸組織−−が、経済評議会に則して有機的に結び付くであろう。諸産業は正常化され、仕事日はもっと平等になるか、全く同じになるかし、様々な活動をしている労働者間の格差は終わるであろう。

社会化は−−中傷者に聞かせてやろう−−本物のれっきとした経済組織なのだ。疑いもなく、経済は組織されねばならない。だが、正に我々が破壊している古い方法に従うのではなく、我が民衆が世界のプロレタリア階級に対して手本となるような新しい規準に従って、である。(労働者の連帯、1937年4月30日、12ページ)

しかし、こうした諸連邦がなおも中央集権的で、労働者がなおも上からの命令に従おうとする、ということはやはりあり得る。これは正しくない。なぜなら、産業や工場に関するいかなる決定も、そこに含まれる人々の直接管理下におかれるからだ。例えば、鉄鋼産業連邦は、その会議の一つでその連邦自体を合理化することに決めるかも知れない。マレイ=ブクチンは、この情況に対する対応を次のようにスケッチしている。

大きな権限を与えられた技術者からなる委員会が、鉄鋼産業の諸変革を企図すべく(この会議によって)確立されたと仮定しよう。この委員会は(中略)幾つかの工場を閉鎖し、他の工場の操業を拡大することで、産業を合理化する計画を推し進める。(中略)これは「中央集権的」機関なのだろうか、そうではないのだろうか?答えはイエスでもあり、ノーでもある。イエス、というのは、委員会が、全体としての国に関わる諸問題を扱っているという意味でのみである。ノー、というのは、委員会は、全体としての国のために実行されねばならない決定を下すことなどできないからだ。委員会の計画は、(影響を受ける)工場の全労働者が吟味しなければならない。(中略)委員会それ自体は、「決定」を実施するいかなる権限も持っていない。単に推薦をするだけなのだ。さらに、その委員は自分が働いている工場と自分が生活している地域の管理下にあるのだ。(欲望充足のアナキズム、267ページ)

従って、諸連邦は、個々のシンジケートに権力を及ぼす立場にはないのである。ブクチンは次のように指摘している。『それらは、意志決定の権限を持ってはいない。その計画を採用するか、修正するか、拒絶するかは、完全に、参画する地域社会次第となろう。』(前掲書、267ページ)どの工場が、どの消費者に対して、どの方法で、どの鋼鉄を生産するのかを決定する計画が決められることはない。従って、シンジケート諸連邦は、資本主義のネガティブな副作用(つまり、企業内部や市場における権力の集中、周期的な危機など)なしに、分権型で自発的な経済秩序を保証するのである。

こうした連邦型投資決定は、新しいシンジケートの創造に関わる投資やシンジケート内部の投資決定と共存することになろう。これは、全ての投資決定が諸連邦によってなされることになる、などと述べているのではない。(このようなことは、新しい産業については不可能であろう。というのも、連邦が存在していないのだから!)従って、調整型生産ユニットに加え、アナキスト社会では、数多くの小規模地元地域活動を見ることになろう。このことが、創造性・多様性・柔軟性を保証することになる。こうした活動が社会に蔓延して初めて、連邦的調整が必要となるのである。

想像できるだろうが、こうした諸連邦の本質的特徴は、ある産業がどのように発展するのかを決定するための情報収集と情報処理である。だからといって、官僚制度やトップの中央集権型管理など意味してはいない。中央集権の問題を最初に取り上げながら、連邦は、代理人の諸集会によって運営される。つまり、会議で選ばれた委員は、関連シンジケートの代理人が決めた決定を実行するだけなのである。例えば、新しい投資決定が、連邦会議と総会で決められたとしよう。思い起こさねばならない大切なポイントは、連邦は、純粋に、共同行動と情報共有を調整するために存在する、ということである。一つの仕事場がどのように運営されるのか、とか、消費者からのどの注文に応じるのか、といったことには関心を持たないのである(もちろん、他のシンジケートが承認しない政策を、あるシンジケートが導入した場合には、そのシンジケートが除名されることはあり得る)。こうした会議や総会に出席する代理人が委任され、その決定がそれぞれの生産ユニットからの拒否と修正の対象となる以上、連邦は中央集権化されないのである。

官僚制に関して言えば、情報収集と情報処理の仕事を行う行政スタッフが確かに必要となる。だが、この問題は資本主義企業にも同様に影響している。シンジケートがボトムアップの意志決定に基づいている以上、中央集権型資本主義企業とは異なり、行政はもっと小さなものになるであろう。

実際、固定した連邦行政スタッフなど初めから存在しない見込みが高いのだ!定例会議において、連邦の情報処理を行うために特定のシンジケートが選ばれ、この仕事は定期的に様々なシンジケート間で持ち回りとなるであろう。このようにして、特定の行政団体と特定設備とは回避され、情報収集の仕事は通常の労働者の手に直接おくことができる。さらに、全ての参加者が情報処理手続きに熟達するように保証することで、官僚主義エリートの発達を疎外するのである。

最後になるが、どの情報が収集されることになるのだろうか?それは文脈に応じて異なる。個々のシンジケートはインプットとアウトプットを記録し、情報の要約書を作る。例えば、キロワットと種類という点でのエネルギー総投入量・原材料の投入量・費やされた労働時間・注文の受け取り・注文の受け入れ・生産高などである。生産がどれほど効率的で、どのように経時変化しているのかを分かるために、この情報を、(例えば)生産物毎のエネルギー使用量と労働時間で処理することができよう。さらに、需要の変化をこの集約プロセスによって特定でき、投資が必要となる時や、工場を閉鎖する時を特定するために使うことができる。このようにして、資本主義が持つ周期的な不況と好況は、資本主義以上に中央集権型のシステムを創造せずとも、回避できるのである。

I.3.6 シンジケート間の競争についてはどうなのか?

これの質問はよく耳にする。特に資本主義の擁護者達が口にする質問である。強制されない限り、シンジケートが協力し合うことなどなく、原材料や熟練労働者などをめぐってお互いに競争するだろう、と論じられる。そして、このプロセスの結果、金持ちのシンジケートと貧乏なシンジケートが存在するようになり、社会内部と仕事場内部に不平等ができ、成功したシンジケートに雇われる失敗したシンジケートの失業者階級が存在することになる(だろう)、と主張される。言い換えれば、リバータリアン社会主義は競争を防ぐために権威主義的にならざるを得ず、権威主義的にならなければ、すぐさま資本主義になるだろう、と論じられているのである。

個人主義アナキストや相互主義者にとって、競争は問題視されない。協同組合と相互銀行に基づいた競争は経済的不平等を最小限にする、と彼等は考えている。自由クレジットと協働に基づいた新しい経済構造は、利潤・利子・家賃といった不労(つまり働かずに得た)所得を削減し、搾取を排除するのに充分な交渉力を労働者に与える、と考えているためである。こうしたアナキストにとって、問題なのは、競争を悪用している資本主義である。競争それ自体には敵対しないのだ(例えば、プルードンの革命の一般概念の50ページ〜51ページを参照)。他のアナキストは、競争からいかなる利益が生じようとも(実際に何かあればの話だが)、セクションI.1.3で概略されている競争の負の効果を相殺することはない、と考えている。この質問は、通常、こうしたアナキストに対して向けられるものである。

話を続ける前に、次のことを指摘しておきたい。個々人が自分の人生の運命を改善しようとすることは、アナキズム諸原理に反してはいない。反することなどあり得るだろうか?アナキズム諸原理に反しているのは、中央集権型権力・抑圧・搾取であり、これらは全て、所得の大きな不平等から生まれているのである。これが、平等に関するアナキストの懸念の源である−−「嫉妬の政治学」といった類に基づいた懸念ではない。アナキストが不平等に反対するのは、それがすぐに多数を抑圧する少数を導くからなのである(この関係が、抑圧されている人々の健康と正にその生だけでなく、そこに巻き込まれている全ての人々の個性と自由を歪めるのだ)。

アナキストは、そうした諸関係が不可能になる社会を創造したいと思っている。それを行う最も効果的な方法は、万人に権能を与え、自主管理を促す社会組織を発達させることだ、と信じている。個々人が自分の運命を改善しようとすることについて言えば、アナキストは、競争ではなく、協働こそが運命を改善する最良手段であると主張する。この主張を支持する充分な証拠も存在しているのである(例えば、アルフィー=コーン著、競争社会を越えてを参照)。

ロバート=アクセルロッドは、その著書協働の進化において、この主張に同意し、協働は長期的な利益になるという豊富な証拠を示している(つまり、協働は、短期間の競争よりもより良い結果を示しているのである)。このことは、クロポトキンが論じていたように、相互闘争ではなく、相互扶助が個人の自己利益になり、従って、自由で良識ある社会での競争は最小限に押さえられ、スポーツなどの個人的娯楽に還元される、ということを示している。シュチルナーが論じていたように、協働は競争と同じぐらいエゴイスティックなのだ(協働が明らかに倫理的に優れているため、多くの人々が時として見失っている事実だ)。

しかし、協調的活動の方が孤立よりももっと有益だと認められることで、競争がいつの日に過消え失せねばならないものだとすれば、連合にいる個々人皆が平等にエゴイストになり、自分自身の利益を求めるのではないだろうか?(神もなく、主人もなく、第一巻、22ページ)

さて、「競争」という反論だが、手始めに、それが幾つかの重要なポイントを無視していると記すことでそれに応えよう。まず第一に、リバータリアン社会主義が国家のない「資本主義になる」という前提は明らかに誤っている。競争が集団の間で生じ、莫大な富の不平等が導かれたなら、新興金持ち集団は、自分たちの私有財産(生産手段)を財産を持たない人たちから保護するために、国家を創造しなければならなくなる。つまり、平等ではなく不平等が国家の創造を導くのだ。数千年にわたって存在していたアナーキーな地域社会が、同時に、平等主義的なものだったことは偶然ではない。

第二に、セクションA.2.5で記したように、アナキストは「平等」を「同じ」という意味では考えていない。賃金格差は不平等を意味する、という主張は、「平等」とは万人が全く同じ均等な分け前を得るという意味だ、と考えて初めて意味をなす。アナキストがそのような考えを持っていない以上、アナキズム的に別なやり方で組織されたシンジケートでの賃金格差は、平等の欠如を示しはしない。シンジケートがどのように運営されるのか、の方が遙かに重要である。なぜなら、アナキズムの観点からすれば、最も有害な不平等は、権力の不平等、つまり、政治的・経済的意志決定に及ぼす不公平な影響力だからである。

資本主義の下では、富の不平等は権力の不平等に形を変える。逆もまた同じである。なぜなら、富は私有財産(そして、国家による私有財産の保護)を買うことができ、その結果、所有者が、その財産と、財産を生み出すために雇われた人々とに対して権威を及ぼすからである。だが、リバータリアン社会主義の下では、労働者は別のやり方で平等となり、労働者間で軽微な収入格差や中程度の収入格差すらがあったとしても、この種の権力不平等を導くことはない。なぜなら、直接民主主義・資本の社会所有・国家の欠如が、富と権力との連結を断ち切っているからである(詳細は以下を参照して欲しい)。協働の方が、それに相当する資本主義企業よりも、もっと平等主義的な賃金構造を持つ、というアナキストの主張を支持する経験的証拠もあるのだ。

第三に、アナキストはアナキスト社会が「完全」なものになる、などと偽りはしない。従って、特に、資本主義が自主管理に置き換えられた直後の作業技能などに違いがある時期には、少数の人々が仲間の労働者を搾取し、より多くの賃金、より良い労働時間や労働条件などを手にする可能性もある。この問題は、スペイン革命における産業コレクティブにも存在していた。クロポトキンは次のように指摘している。『しかし、全てが語られ、実行されたときにも、何らかの不平等、何らかの避けられない不公正は残り続けるだろう。いかなる大きな危機がこようとも、自分がはまっている深いエゴイズムの泥沼から抜け出すことができない人はいる。しかし、問題は、不公正があるかないかではない。どのようにしてその数を制限するのかである。』(麺麭の略取、94ページ)

言い換えれば、こうした問題は存在するだろうが、問題の影響力を最小限にするためにアナキストができることは数多くあるのである。そもそも、アナキスト社会誕生の前には「懐胎期間」があるはずである。その期間で、社会闘争・教育と子育ての新しい方法・意識を高める他の方法によって、アナキストの数が増加し、権威主義者の数が減るのである。

この懐胎期間で最も重要な要素は、社会闘争である。そうした自己活動はそこに参加する人々に大きな影響を与える(セクションJ.2を参照)。直接行動と連帯によって、参画している人々は、友人関係の範囲と他者との支援の範囲を発展させ、新しい形態の倫理と新しい思想や理想を発達させる。この急進化プロセスが、教育やスキルの差異がアナキスト社会における権力の差異へと確実に発展しない手助けをするのである。

さらに、アナキスト運動内部での教育の目的は、何よりも、そのメンバーが技術的スキルに精通するようになることでなければならない。そのことで、メンバーが「専門家」に依存することがなくなり、自由と平等の条件下で幸せに働く熟練労働者を増やすことができるのである。このことで、労働者間の格差を確実に最小限にすることができるであろう。

しかし、長期的に見れば、非権威主義的子育て・教育方法がポピュラーになることが特に重要である。なぜなら、これまで見てきたように、貪欲や、他者に権力を行使したいという願望といった二次性の欲求は、罰と恐怖に基づいた権威主義的躾の産物だからだ(セクションB.1.5 「権威主義的文明の大衆心理学的基盤は何か?」とセクションJ.6 「アナキストが主唱する子育ての方法は何か?」を参照)。そうした欲求の蔓延が一般住民の間で減少したときにのみ、我々は、アナキスト革命は新しい支配と搾取の形態に堕落しない、と確信できるのである。

資本主義よりも、アナキスト社会(それがいかなる形態であろうとも)の方が、経済的不平等−−例えば「より良い」労働者を求めた競争から生じる収入レベルや労働条件の格差−−は遙かに深刻ではなくなるが、この理由は他にも幾つかある。まず第一に、シンジケートは民主主義的に管理される、ということが挙げられる。このことで、賃金格差は遙かに小さくなるのである。自分自身の利益になるように賃金レベルを設定する金持ち重役会などなく、ヒエラルキーやエリートの存在を何とも思わない人たちもいないからだ。アナキスト社会における権力の集中排除こそが、お互いに莫大な金を支払い合う金持ちエリートがいなくなることを確実にするであろう。これは過去のモンドラゴン協同組合の経験から見ることができる。そこでは、最高給与労働者と最低給与労働者の賃金格差は4対1であった。格差が広がったのは、大規模資本主義企業と競争しなければならなくなった近年のことである。そのときであっても、新しい格差の比率は9対1であり、米国や英国の企業での賃金格差率よりは遙かに小さいのである(例えば、米国では、この率は200対1かそれ以上ですらあるのだ!)。従って、資本主義の下でさえも『労働者自主管理企業が選択する分配方法は、市場の指針に従った分配よりも平等主義的だという証拠がある。』(クリストファー=イートン=ガン著、米国における労働者自主管理、45ページ)市場の指針は権力格差を考慮していないのだから、これは驚くに当たらない。つまり、十全な自主管理経済は公正なものになるか、そうではなかったにしても、権力格差が減少するとともに、もっと平等主義的になる、と予測できるのである。これは、失業についても同じことが言える(ジェームズ=ガルブレイスは、その著書創られた不平等の中で多くの証拠を提示し、予想通り、失業は不平等を増加させると示している)。

経営者やエグゼクティブなどが「厳格な個人」で、その特異な能力のためにそれほどまで高い給料をもらっている、などというのはよくある神話である。実際には、彼等は大きなヒエラルキー諸機関を指揮している官僚だから、それ程まで高い給料をもらっているのだ。優れた技能ではなく、不平等を保証することこそ、資本主義企業のヒエラルキー性質なのである。資本主義の熱烈な支持者であっても、この主張を支持する証拠を提示している。ピーター=ドラッカーは、著書企業コンセプト(Concept of the Corportation)の中で、次のように書いて、企業組織が優れた能力を持った経営者をトップにするという主張を追い払っている。『天才やスーパーマンが経営しなければならないというのであれば、いかなる機関も存続することはできない。平均的人間の指導力の下で仕事がうまくいくことができるようなやり方で組織されねばならないのである。』(35ページ)ドラッカーにとって、『本当に考えねばならないのは、個々の社員ではなく、社員の間での指揮と責任の関係なのである。』(34ページ)

アナキストは次のように主張する。高い賃金格差は、資本主義が組織されるやり方の結果である。資本主義経済が存在しているのはこの結果を正当化するためである。その結果を正当化するために、企業ヒエラルキーと資本主義所有権は自然に進化したのであって、国家の活動と国家の保護が創り出したのではない、と仮定しているのだ。資本主義ヒエラルキーが終焉すれば、莫大な収入格差も終わる。なぜなら、意志決定権力が分散され、決定に影響される人々の手に戻るからだ。

第二は、企業は存在しなくなる、ということである。連邦委員会が調整する仕事場ネットワークは、途方もない賃金を支払えるほどの財源を持たない。資本主義企業とは異なり、権力は諸シンジケートの連邦に分散され、富がトップに集まることはない。つまり、その企業の労働者が生み出す剰余金を管理し、その剰余金を使って、自分達の活動(もしくは自分達の給料)を疑問視しないだけの充分高い配当を主要株主が確実に入手できるようにしながら、自分達自身にも高い給料を支払うことができるようにしているエグゼクティブエリートなどいないのである。

第三に、管理職がローテーションになるため、誰もがその仕事の経験を確実にすることになり、結果として、分業が創り出す人工的希少性が減少する。同時に、教育が拡大されることで、エンジニアや医者といった熟練労働者が、金銭的報酬のためではなく、自分が楽しいからその仕事を行うことを確実にする。そして最後に指摘しておかねばならないが、人は多くの理由があって働くのであって、高い賃金のためだけではない。仲間の労働者との連帯・共感・友情という感情も、労働者のためにシンジケート間の競争を減少させる手助けをしてくれるだろう。当然、不労所得(家賃や利子のような)など存在しないため、社会的アナキズムは収入格差をさらに減じるであろう。

もちろん、「競争」側の反論が持つ前提は、諸シンジケートとそのメンバーは資金面の検討事項を何よりも優先して考える、というものである。しかし、これは間違いだ。個人は、資本主義のドグマで前提とされている経済的ロボットなどではない。事実、協同組合が示している証拠がそうした主張を論駁している(自分自身の感覚が示す莫大な証拠と、資本主義経済イデオロギーのキチガイじみた「経済的人間」とではなく、現実の人間との経験が示す莫大な証拠とは、当座は無視したとしても)。新古典主義経済理論は、その基本的諸前提から演繹しながら、次のように主張している。協同組合のメンバーは、労働者あたりの利潤を最大のものにしようとしているため、邪悪なことに、好景気の時にメンバーを解雇するのである、と。だが、現実はこの主張と矛盾しているのだ。『モンドラゴンであろうと(旧)ユーゴスラビアであろうと、好景気の時に、労働者が仕事仲間を解雇する傾向などない。不景気であっても、解雇は希である。』(デヴィッド=シュワイカート著、反資本主義、92ページ)ということを示した「実証的証拠」があるのだ。スペイン革命時の自主管理型コレクティブの経験もこのことを支持しており、市民戦争が引き起こした厳しい経済条件下でも解雇を避けるために、様々なコレクティブは公平に仕事をシェアしていた。つまり、人々が経済ロボットだという根本的な前提を堅持することなどできないのだ−−多様な社会組織諸形態は、多様な思索を生み出し、多様な思索によって動機付けられた人々を生み出すという事実を示す多くの証拠が存在するのだ。

同時に思い起こさねばならないが、シンジケートが市場占有率をめぐって競争することはない。つまり、新しい技術は仕事場間で共有されることになり、熟練労働者は、社会の一般的スキルレベルが上がるまで、自分の労働時間を最大限有効に使うためにシンジケート間で自分の仕事を持ち回ることに決めることもできるのである。

従って、アナキストは次のように考えている。熟練労働者の競争が存在する可能性は認めるものの、数多くの理由から、莫大な経済的不平等が創り出され、その結果として国家が再構築されるかもしれないなどと心配せずともよいのである。このような主張を提示している資本主義護教論者は忘れているのだ。私利私欲の追求は普遍的なことである、つまり、万人は自分の自由を最大限にすることに関心を持っているため、その自由を脅かす不平等が発達しにくいようになるのである。

希少資源をめぐる競争に関しては、その資源に高い値段を付ける代わりに、他者と共有することにした方が、明らかに、コミューンとシンジケートの利益になる。これには二つの理由がある。まず第一に、高い値段を付ければ、他者がボイコットするかもしれず、そのために、社会協力が持つ利益を奪われることになるからだ。第二に、将来、自分自身がそうした活動に左右されることになりかねず、そのために、『自分が同様の状況下にいる時に扱って欲しいように、他者を扱え』ということを思い出す方が賢明だからだ。民衆が望まない限り、自分の生活を自分で計画し始めない限り、アナキズムは実現しないのだから、アナキスト社会はこの倫理原理に従った個々人が住むことになるのは明らかなのである。

よって、アナキズム思想に影響を受けた人々がお互いに高値を付け合い始めることなど疑わしい。特に、シンジケートと地域集会が、正にこの問題を回避し、利潤ではなく使用のために生産が行われることを確実にするために、幅広い剰余分配基準を投票で決める可能性が高いのだから(セクションI.4.10「幅広い剰余分配基準の利点は何か?」を参照)。さらに、他のコミュニティとシンジケートは、非協同的なやり方で振る舞っているシンジケートやコミューンをボイコットする見込みが高いため、他者を搾取しようとしている人々が自分の立場を考え直すように社会的圧力が働くであろう。協同とは、自分を好きなように利用しようとしている人々を快く我慢することではないのだ。

それ以上に、1960年代〜1990年代の時期の経験(成長の減少・賃金伸び率の下降・失業の増加・経済的不安定の増大に特徴付けられる不平等の増大を伴う)を考えれば、増加する競争と不平等の影響は大多数の人々に悪影響を与えている。こうした諸傾向(そして、セクションF.3で論じたように、不平等社会における「自由交換」は不平等を減少させるのではなく、増大させることが多いということ)を意識している人々が、そのような体制を創造するなど疑わしいのだ。

アナキズムを実行している諸実例が示しているが、商品を原価で売ろうとし、また、協働することで孤立と競争の危険を少なくしようとする自発的傾向が頻繁にある。思い出さねばならないが、アナーキーは「一夜にして」創造されはしない。つまり、潜在的諸問題はゆっくり時間をかけて解決されるのである。この種の反論の根底には、そこに参加する万人にとって協働は、競争よりも、利益を生まないだろう、という前提がある。しかし、生活の質という点では、協働は、最も高い給料をもらっている労働者さえもが、すぐにより良いシステムだと分かるだろう。給料袋の大きさよりも生活に対してより多くのことがあるのだ。一週間、単調でつまらない仕事をし、人間より利益を大切にする生活様式が創り出した「魂の空洞」を埋めようと、数時間のうちに大慌てで消費活動を行う。アナキズムの存在理由は、生をこのようなもの以上にすることなのである。

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