徳冨蘆花


 

謀叛論 (草稿)      (1911年2月)


 僕は武蔵野の片隅に住んで居る。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ケ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えた処が見える。此は豪徳寺−−井伊掃部守直弼の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓及び松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互に不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵で、安政の大獄に井伊は吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我等が人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎(じゅんこ)として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼等も、五十年後の今日から歴史の背景に照して見れば、畢竟(ひっきょう)今日の日本を造り出さんが為に、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ。彼等は各々その位置に立ち自信にたって、為るだけの事を存分に為て土に入り、その余沢を明治の今日に享くる百姓等は、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。
 諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千万な社会を知らぬ。この小さな日本を六十幾箇の碁盤に劃(しき)って、一寸隣へ往くにも関所があったり、税が出たり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限(ぶんげん)があり、法度(はっと)でしばって、習慣で固めて、苟くも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆謀叛人(むほんにん)であった時代を想像して御覧なさい。実にたまったものではないではありませんか。幸にして世界を流るる一の大潮流の余波は、暫く鎖(とざ)した日本の水門を乗り越え潜り脱けて滔々と我日本に流れ入って、維新の革命は一挙に六十藩を掃蕩し日本を挙げて統一国家とした。その時の快豁(かいかつ)な気持は、何ものを以てするも比すべきものが無かった。諸君解脱は苦痛である。而して最大愉快である。人間が懺悔して赤裸々として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に素裸で立つ時、その雄大光明な心地は実に何とも言えぬのである。明治初年の日本は実に初々しいこの解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、素裸になって行く明治初年の日本の意気は実に凄まじいもので、五ケ条の誓文が天から下る、藩主が封土を投げ出す、武士が両刀を投出す、穢多が平民になる、自由平等革新の空気は磅ばくとして、その空気に蒸された。日本はまるで筍の様にずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか、寧ろ狂気といおうか、−−狂気でも宜い−−狂気の快は不狂気の知る能わざる所である。誰がその様な気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流である。誰がその潮流を導いたか。我先覚の志士である。いわゆる志士苦心多で、新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の処士にせよ、時の権力から言えば謀叛人であった。彼等が千荊万棘(せんけいばんきょく)を渉った艱難辛苦−−中々一朝夕に説き尽せるものではない。明治の今日に生を享くる我等は十分に彼等が苦心を酌んで感謝しなければならぬ。
 僕は世田ケ谷を通る度に然(しか)思う。吉田も井伊も白骨になってもはや五十年、彼等及び無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を今日の位置に達せしめた。日本も早や明治となって四十何年、維新の立者多くは墓になり、当年の書生青二才も、福々しい元老若くは分別臭い中老になった。彼等は老いた。日本も成長した。子供で無い大分大人になった。明治の初年に狂気の如く駈足で来た日本も、何時の間にか足もとを見て歩く様になり、内観する様になり、回顧もする様になり、内治のきまりも一先づついて、二度の戦争に領土は広がる、新日本の統一ここに一段落を画した観がある。維新前後志士の苦心もいささか酬いられたと言わなければならぬ。然らば新日本史はここに完結を告げたか。これから守成の歴史に移るのか。局面回転の要はないか。もう志士の必要はないか。飛んでもないことである。五十余年前、徳川三百年の封建社会を唯一簸(あふ)りに推流して日本を打って一丸とした世界の大潮流は、倦(う)まず息(やす)まず澎湃(ほうはい)として流れている。其れは人類が一にならんとする傾向である。四海同胞の理想を実現せんとする人類の心である。今日の世界はある意味に於て五六十年前の徳川の日本である。何(ど)の国も何の国も陸海軍を並べ、税関の墻(かき)を押立てて、兄弟どころか敵味方、右で握手して左でポケットの短銃(ピストル)を握る時代である。窮屈と思い馬鹿らしいと思ったら実に片時もたまらぬ時ではないか。然し乍ら人類の大理想は一切の障壁を推倒して一にならなければ止まぬ。一にせん、一にならんともがく。国と国との間もそれである。人種と人種の間も其通りである。階級と階級の間もそれである。性と性の間もそれである。宗教と宗教−−数え立つれば際限がない。部分は部分に於て一になり、全体は全体に於て一とならんとする大渦小渦鳴戸の其れもただならぬ波瀾の最中に我等は立っているのである。其の大回転大軋轢(あつれき)は無際限であろう乎。恰も明治の初年日本の人々が皆感激の高調に上って、解脱に解脱狂気の如く自己を擲(なげう)った如く、我々の世界も何時か王者其冠を投出し、富豪其金庫を投出し、戦士其剣を投出し、智愚強弱一切の差別を忘れて、青天白日の下に抱擁握手抃舞(べんぶ)する刹那は来ぬであろう乎。或は夢であろう。夢でも宜い。人間夢を見ずに生きて居られるものでない。−−其時節は必ず来る。無論其れが終局ではない、あらん限り新局面は開けて止まぬものである。然し乍ら一刹那でも人類の歴史が此詩的高調、此エクスタシイの刹那に達するを得ば、長い長い旅の辛苦も贖(あがな)われて余あるではないか。其時節は必ず来る、着々として来つつある。我等の衷心が然(しか)囁くのだ。然しながら其愉快は必ず我等が汗もて血をもて涙をもて贖わねばならぬ。収穫は短く、準備は長い。ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋を窃(ひそか)に鋸でゴシゴシ切って置く。水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑といわず横坑といわず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、俄然鉱山の敷地が陥没を初めて、建物も人も恐ろしい勢を以て瞬く間に総崩れに陥ち込んで了ったという事が書いてある。旧組織が崩れ出したら案外速(すみや)かにばたばたといってしまうものだ。地下に火が廻る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が要る。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を来す為に幾万の血が流れた乎。彼等は犠牲である。然し乍ら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。−−新式の吉田松陰等は来るに違いない。僕は斯く思いつつ常に世田ケ谷を過ぎていた。思っていたが、実に思いがけなく今明治四十四年の劈頭に於て、我々は早くも茲に十二名の謀叛人を殺すことになった。唯一週間前の事である。
 諸君、僕は幸徳君等と多少立場を異にする者である。僕は臆病者で血を流すのは嫌である。幸徳君等に尽く真剣に大逆を行る意志があったか無かったか僕は知らぬ。彼等の一人大石誠之助君が云ったと云う如く、今度のことは嘘から出た真で、はづみにのせられ、足もとを見る遑(いとま)もなく陥穽(おとしあな)に落ちたのか如何(どう)か。僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂になって、天皇陛下と無理心中を企てたのか、否か。僕は知らぬ。冷厳なる法律の眼から見て、死刑になった十二名悉く死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らぬ。「一無辜(むこ)を殺して天下を取るも不為(なさず)」で其原因事情は何れにもせよ大審院の判決通りに真に大逆の企があったとすれば、僕は甚残念に思うものである。暴力は感心が出来ぬ。自ら犠牲となる共、人を犠牲にはしたくない。然し乍ら大逆罪の企に万不同意であると同時に、其企の失敗を喜ぶと同時に、彼等十二名も殺したくはなかった。生かして置きたかった。彼等は乱臣賊子の名を受けてもただの賊ではない、志士である。自由平等の新天地を夢み身を献げて人類の為に尽さんとする志士である。其行為は仮令(たとえ)狂に近いとも、其志は憐れむべきではないか。彼等は、もとは社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が恐い? 世界の何処にでもある。然るに狭量にして神経質な政府は、ひどく気にさえ出して、殊に社会主義者が日露戦争に非戦論を唱うると俄に圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となって、官権と社会主義者は到頭犬猿の間となって了った。諸君、最上の帽子は頭に乗っていることを忘るる様な帽子である。最上の政府は存在を忘れられる様な政府である。帽子は上に居る積りであまり頭を押付けてはいけぬ。我等の政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君等の頭にひどく重く感ぜられて、到頭彼等は無政府主義者になって了った。無政府主義が何が恐い? 其程無政府主義が恐いなら、事の未だ大ならぬ内に、下僚ではいけぬ、総理大臣なり内務大臣なり自ら幸徳と会見して、膝詰めの懇談をすればいいではないか。然し当局者は其様な不識庵流をやるにはあまりに武田式家康式で、且あまりに高慢である。得意の章魚(たこ)の様に長い手足で、じいとからんで彼等をしめつける。彼等は今や堪え兼ねて鼠は虎に変じた。彼等の或者は最早最後の手段に訴える外ないと覚悟して、幽霊の様な企がふらふらと浮いて来た。短気がいけなかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。然し、誰が彼等をヤケにならしめた乎。法律の眼から何と見ても、天の眼からは彼等は乱臣でもない、賊子でもない、志士である。皇天其志を憐れんで、彼等の企は未だ熟せざるに失敗した。彼等が企の成功は、素志の蹉跌を意味したであろう、皇天皇室を憐れみ、また彼等を憐れんで其の企を失敗せしめた。企は失敗して、彼等は擒(とら)えられ、さばかれ、十二名は政略の為に死減一等せられ、重立(おもだち)たる余の十二名は天の恩寵によって立派に絞台の露と消えた。十二名−−諸君、今一人、土佐で亡くなった多分自殺した幸徳の母君あるを忘れてはならぬ。
 斯くの如くして彼等は死んだ。死は彼等の成功である。パラドックスのようであるが、人事の法則、負くるが勝である。死ぬるが生きるである。彼等は確に其自信があった。死の宣告を受けて法廷を出る時、彼等の或者が「万歳! 万歳!」と叫んだのは其証拠である。彼等は斯くして笑を含んで死んだ。悪僧と云わるる内山愚童の死顔は平和であった。斯くして十二名の無政府主義者は死んだ。数え難き無政府主義の種子は蒔かれた。彼等は立派に犠牲の死を遂げた。然し乍ら犠牲を造れるものは実に禍なるかな。
 諸君、我々の脈管には自然に勤王の血が流れている。僕は天皇陛下が大好きである。・・・・・・・・・・・天皇陛下は剛健質実、実に日本男児の標本たる御方である。「とこしえに民安かれと祈るなる吾代を守れ伊勢の大神」。其誠は天に逼る(せま)るというべきもの。「取る棹の心長くも漕ぎ寄せん蘆分小舟さはりありとも」。国家の元首として堅実の向上心は、三十一文字に看取される。「あさみどり澄み渡りたる大空の広きをおのが心ともがな」。実に立派な御心掛である。諸君、我等は斯の天皇陛下を戴いてい乍ら、仮令親殺しの非望を企てた鬼子にもせよ、何故に其十二名だけが宥(ゆる)されて、余の十二名を殺さなければならなかった乎。陛下に仁慈の御心がなかった乎。御愛憎があった乎。断じて然(そう)ではない−−確に輔弼の責である。若し陛下の御身近く忠義硬骨の臣があって、陛下の赤子に差異は無い、何卒二十四名の者共罪の浅きも深きも一同に御宥し下されて、反省悔悟の機会を御与え下されかしと、身を以て懇願する者があったならば、陛下も御頷きになって、我等は十二名の革命家の墓を建てずに済んだであろう。若し斯様な時にせめて山岡鉄舟が居たならば、−−鉄舟は忠勇無双の男、陛下が御若い時英気にまかせ矢鱈に臣下を投飛ばしたり遊ばすのを憂いて、或時いやという程陛下を投げつけ手剛(てごわ)い意見を申上げたこともあった。若し木戸松菊が居たらば−−明治初年木戸は陛下の御前、三条岩倉以下卿相列坐の中で、面を正して陛下に向い、今後の日本は従来の日本と同じからず、既に外国には君主を廃して共和政治を布(し)きたる国も候、よくよく御注意遊ばさるべくと凛然として言上し、陛下も悚然(しょうぜん)として御容をあらため、列坐の卿相皆色を失ったということである。せめて元田宮中顧問官でも生きて居たらばと思う。元田は真に陛下を敬愛し、君を堯舜に致すを畢生の精神としていた。せめて伊藤さんでも生きて居たら。−−否、若し皇太子殿下が皇后陛下の御実子であったなら、陛下は御考があったかも知れぬ。皇后陛下は実に聡明恐入った御方である。「浅しとてせけばあふるる河水の心や民の心なるらん」。せけばあふるる、実に其通りである。若し当局者が無闇に堰(せ)かなかったならば、数年前の日比谷焼打事件はなかったであろう。若し政府が神経質で依怙地になって社会主義者を堰かなかったならば、今度の事件も無かったであろう。然し乍ら不幸にして皇后陛下は沼津に御出になり、物の役に立つべき面々は皆他界の人になって、廟堂にずらり頭を駢(なら)べて居る連中には誰一人帝王の師たる者もなく、誰一人面を冒して進言する忠臣もなく可惜(あたら)君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇の大切なる機会を見す見す看過し、国家百年の大計から云えば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種子を播いて了うた。忠義立して謀叛人十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣で、不臣の罪で殺された十二名は却って死を以て吾皇室に前途を警告し奉った真忠臣となって了うた。忠君忠義−−忠義顔する者は夥しいが、進退伺を出して恐懼々々と米つきばったの真似をする者はあるが、御歌所に干渉して朝鮮人に愛想をふりまく悧口者はあるが、何処に陛下の人格を敬愛してますます徳に進ませ給う様に希う真の忠臣がある乎。何処に不忠の嫌疑を冒しても陛下を諌め奉り陛下をして敵を愛し不孝の者を宥し給う仁君と為し奉らねば已まぬ忠臣がある乎。諸君、忠臣は孝子の門に出づで、忠孝もと一途である。孔子は孝について何と云った乎。色難、有事弟子服其労、有酒食先生饌、曾以此為孝乎。行儀の好いのが孝ではない。また曰うた今之孝者謂唯能養、到犬馬皆能有養、不敬何以別乎。体ばかり大切にする者が真の忠臣であろう乎。若し玉体大事が第一の忠臣なら、侍医と大膳職と皇宮警手とが大忠臣でなくてはならぬ。今度の事の如きこそ真忠臣が禍を転じて福となすべき千金の機会である。列国も見ている。日本にも無政府党が出て来た。恐ろしい企をした、西洋では皆打殺す、日本では寛仁大度の皇帝陛下が、悉く罪を宥して反省の機会を与えられた−−と云えば、いささか面目が立つではないか。皇室を民の心腹に打込むのに、斯様な機会はまたと得られぬ。然るに彼等閣臣の輩は事前に其企を萌(きざ)すに由なからしむる程の遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機知親切もなく、云わば自身で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と引括って二進の一十(にっちんのいっし)、二進の一十、二進の一十で綺麗に二等分して−−若し二十五人であったら十二人半宛にしたかも知れぬ−−二等分して格別物にもなりそうも無い足の方丈(だけ)死一等を減じて牢屋に追込み、手硬(てごわ)い頭だけ絞殺して地下に追いやり、天晴(あっぱれ)恩威並(ならび)行われて候と陛下を小楯に五千万の見物に向って気取った見得は、何という醜態である乎。ただに政府許(ばか)りでない、議会をはじめ誰も彼も皆大逆の名に恐れをなして、一人として聖明の為に弊事を除かんとする者もない。出家僧侶宗教家などには、一人位は逆徒の命乞する者があって宜いではない乎。然るに管下の末寺から逆徒が出たと云っては大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、恐入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものが無い。何という情ないこと乎。幸徳等の死に関しては、我々五千万人斉(ひと)しく其責を負わねばならぬ。然し尤も責むべきは当局者である。総じて幸徳等に対する政府の遣口(やりくち)は、最初から蛇の蛙を狙う様で、随分陰険冷酷を極めたものである。網を張って置いて、鳥を追立てて、引かかるが最後網をしめる、陥穽(おとしあな)を掘って置いて、其方にぢりぢり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼等は国家の為にする積りかも知れぬが、天の目からは正しく謀殺−−謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を名として何もかも闇中にやってのけて−−諸君、議会に於ける花井弁護士の言を記憶せよ、大逆事件の審判中当路の大臣は一人も唯の一度も傍聴に来なかったのである。−−死の判決で国民を嚇(おど)して、十二名の恩赦で一寸機嫌を取って、余の十二名は殆んど不意打の死刑−−否死刑ではない、暗殺−−暗殺である。せめて死骸になったら一滴の涙位は持っても宜いではない乎。それにあの執念な追窮のしざまは如何(どう)だ。死骸の引取り会葬者の数にも干渉する。秘密、秘密、何もかも一切秘密に押込めて、死体の解剖すら大学ではさせぬ。出来ることならさぞ十二人の霊魂も殺して了いたかったであろう。否、幸徳等の体を殺して無政府主義を殺し得た積りでいる。彼等当局者は無神無霊魂の信者で、無神無霊魂を標榜した幸徳等こそ真の永生の信者である。然し当局者も全く無霊魂を信じ切れぬと見える。彼等も幽霊が恐いと見える。死後の干渉を見れば分る。恐い筈である。幸徳等は死ぬる所か活溌溌地に生きている。現に武蔵野の片隅に寝ていた斯くいう僕を曳きづって来て、此処に永世不滅の証拠を見せている。死んだ者も恐ければ、生きた者も恐い。死減一等の連中を地方監獄に送る途中警護の仰山さ、始終短銃を囚徒の頭に差つけるなぞ、−−其恐がり様もあまりひどいではない乎。幸徳等は嘸(さぞ)笑っているであろう。何十万の陸軍、何万噸の海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府を以てして、数うる程もない、加之(しかも)手も足も出ぬ者共に対する怖(おび)え様も甚だしいではない乎。人間弱味がなければ滅多に恐がるものでない。幸徳等瞑すべし。政府が君等を締め殺した其前後の遽(あわ)てざまに、政府の否君等が所謂権力階級の鼎(かなえ)の軽重は分明に暴露されて了うた。
 斯様な事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日と共に進む向上の心もなく、傲慢にして甚だしく時勢に後れたるの致す所である。諸君、我等は決して不公平ではならぬ。当局者の苦心はもとより察せねばならぬ。地位は人を縛り、歳月は人を老いしむるものである。廟堂の諸君も昔は若かった。書生であった。今は老成人である。残念ながら御ふるい。切棄てても思想は(こうこう)たり。白日の下に駒を駛(は)せて、政治は馬上堤灯の覚束ないあかりにほくほく痩馬を歩ませて行くというのが古来の通則である。廟堂の諸君は頭の禿げた政治家である。所謂責任ある地位に立って、慎重なる態度を以て国政を執る方々である。当路に立てば処士横議は確に厄介なものであろう。仕事をするには邪魔も払いたくなる筈。統一統一と目ざす鼻先に、反対の禁物は知れたことである。老人の胸には、花火線香も爆烈弾の響がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。斉一統一は美観である。小学校の運動会に小さな手足の揃うすら心地好いものである。「一方に靡(なび)きそろいて花すすき、風吹く時ぞ乱れざりける」で、事ある時などに国民の足並の綺麗に揃うのは、まことに余所目立派なものであろう。然しながら当局者はよく記憶しなければならぬ、強制的の一致は自由を殺す、自由を殺すは即ち生命を殺すのである。今度の事件でも彼等は始終皇室の為国家の為と思ったであろう。然し乍ら其結果は皇室に禍し、無政府主義者を殺し得ずして却て夥しい騒動の種子を蒔いた。諸君は謀叛人を容(い)るるの度量と、青書生に聴くの謙遜がなければならぬ。彼等の中には維新志士の腰について、多少先輩当年の苦心を知っている人もある筈。よくは知らぬが、明治の初年に近時評論などで大分政府に窘(いじ)められた経験がある閣臣も居る筈。窘められた嫁が姑になって又嫁を窘める。古今同嘆である。当局者は初心を点検して、書生にならねばならぬ。彼等は幸徳等の事に関しては自信によって涯分を尽したと弁疏(べんそ)するかもしれぬ。冷かな歴史の眼から見れば、彼等は無政府主義者を殺して、却て局面開転の地を作った一種の恩人とも見られよう。吉田に対する井伊をやった積りでいるかも知れぬ。然しながら徳川の末年でもあることか、白日青天、明治昇平の四十四年に十二名という陛下の赤子、加之(しかのみならず)為す所あるべき者共を窘めぬいて激さして謀叛人に仕立てて、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じて之が責任を負わねばならぬ。麻を着、灰を被って不明を陛下に謝し、国民に謝し、死んだ十二名に謝さなければならぬ。死ぬるが生きるのである。殺さるる共殺してはならぬ犠牲となるが奉仕の道である。−−人格を重んぜねばならぬ。負わさるる名は何でもいい。事業の成績は必しも問う所でない。最後の審判は我々が最も奥深いものによって定まるのである。陛下に之を負はし奉る如きは、不忠不臣の甚だしいものである。
 諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るる勿れ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるる如く言い、為せらるる如くふるまい、型から鋳出した人形の如く形式的に生活の安を偸(ぬす)んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、即ち是れ霊魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。古人は云うた如何なる真理にも停滞するな、停滞すれば墓になると。人生は解脱の連続である。如何に愛着する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳等は政治上に謀叛して死んだ。死んで最早復活した。墓は空虚だ。何時迄も墓に縋(すが)りついてはならぬ。「若爾の右眼爾を礙(つまづ)かさば抽出(ぬきだ)して之をすてよ」。愛別、離苦、打克たねばならぬ。我等は苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して曰う、諸君、我々は生きねばならぬ。生きる為に常に謀叛しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
 諸君、幸徳君等は乱臣賊子として絞台の露と消えた。其行動について不満があるとしても、誰か志士として其動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。然し今日となって見れば、逆賊でないこと西郷の如き者がある乎。幸徳等も誤って乱臣賊子となった。然し百年の公論は必其事を惜んで其志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ。 

(明治四十四年二月 一高における講演)


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