大杉 栄 8


 

クロポトキン総序    (1920年5-7月)


 クロポトキンは、いつもこの一大傾向を説いている。彼は、彼が再び西ヨーロッパに旅して、スイスのジュラ同盟にはいり、そこで無政府主義の機関誌『謀叛人』を創めた時のことを語って言う。
 「社会主義の新聞はとかく現存諸制度に対する泣言の年代記に過ぎなくなる傾向がある。鉱山や工場や田園の労働者の圧迫されていることが書かれている。同盟罷工の際の労働者の窮迫や苦痛が目に見えるように語られている。労働者がその雇主と闘争する孤立無援のありさまがくどくどと記されている。そして毎週毎週この孤立無援の努力が続けざまに書かれるということは、その読者をしてはなはだしく意気銷沈させる。そこでその新聞の記者等はそれを防ぐために、主として熱烈燃えるような文字を使って、それによってその読者に元気と信仰とを鼓吹しようとする。しかし私は、それと反対に、革命的新聞は何よりもまず、いたるところに新時代の到来と新社会生活の芽生えと旧制度に対するますます激しくなって来る叛逆とを告げる種々なる兆候の記録でなければならないと考えた。この兆候はよく注意して見て、その間の密接な連絡をつけて分類類集し、そして思想の復活が社会に起きた時に、なお躊躇している多くの人々に、その進歩的思想がいたるところに見出すべき、目に見えないそして往々無意識な論拠を与えるようにしなければならない。かくしてその読者をして全世界の人々の心臓の鼓動と共鳴せしめ、長い間の不正不義に対するその叛逆と共鳴せしめ、新しい生活様式を造り出すその企てに共鳴せしめる、というのが革命的新聞の主とする義務でなければならない。革命を成功させるものは希望であって絶望ではない。
 歴史家は往々われわれに語って、これこれの哲学が人類の思想に、したがってまたその制度に、ある変化を生ぜしめたと言う。しかしこれは本当の歴史ではない。偉大なる社会哲学者等は、ただ来たるべき変化の兆候を捉えて、その間の内的関係を察し、そして帰納と演繹とによって将来を予言したに過ぎないのだ。社会学者はまた若干の原則から出発し、それをあたかも若干の定理から幾何学上の結論を引出すように、その必然の結果にまで推論して、社会組織の設計をつくる。しかしこれも本当の社会学ではない。精確な社会的先見というものは、新生活の幾千の兆候に目をとめて、その一時的事実と有機的の本質的事実とを区分し、そしてこの基礎の上に概括論を建てなければできるものでない。
 私は明晰な分りやすい言葉を使って、読者をしてこの思索方法に親しませ、そのもっとも遠慮がちなものにもなお社会が何処へ進みつつあるかを自ら判断させ、思想家等が誤った結論に達した時には自らそれを矯正させるよう馴れさせようと努めた。」
 かくしてクロポトキンが一八七九年から一八八二年までの間に、『謀叛人』のために書いた幾多の論文は、一八八五年すなわちフランスでの入獄中に、友人エリゼ・ルクリュによって『謀叛人の言葉』という題の下に出版された。もっともその中の大部分は、その以前もしくはその以後に、一つ一つ小冊子となって出版されている。
 クロポトキンはその小冊子について言う。「私は、実際白状するが、自分の思想を述べるのにどれほどのページを使ってもいい人達、すなわちタレイランの有名な『私は短く書くひまがなかった』という言訳けを許される人達が、折々うらやましかった。数ヵ月間の研究の結果を --たとえば法律の起原についての-- 一ペンスの小冊子に縮めて書くには、それを短くするのに非常な時間がかかった。しかし私達は労働者のために書くのだ。そしてこの労働者にとっては、一冊の小冊子に二ペンス払うのでも、高すぎるくらいなのだ。その結果私達の一ペンス半ペンスの小冊子は数万部も売れて、なお各国の国語に翻訳された。」
 なお当時のクロポトキンは、ルクリュの『大地理学』の編纂を助けるために、『謀叛人』の発行所のジュネーブから少し離れたクラランに住んでいた。「そこで私は、妻の助力の下に私が『謀叛人』のために書いた一番いいものを書き上げた。妻はいつも私とあらゆる出来事や問題について議論をし、かつ私の文章の厳格な文学的批評をしてくれた。その中の『青年に訴う』のごときはあらゆる国語に翻訳されて数十万部も拡がった。実際私はその後私の書いたほとんどすべてのものの基礎をそこで築きあげたのであった。」
 この小冊子の中でも、ことに『法律と強権』は、その後に出た『国家論』と『裁判論』(詳しく言えば『裁判と称する復讐制度』)とともに、非国家論の三部作として有名なものだ。
 そしてクロポトキンはこの『謀叛人の言葉』の出版された翌年、すなわち一八八六年に出獄するとすぐ、『監獄論』(詳しく言えば『ロシアとフランスの監獄について』)を書いた。クロポトキンはロシアの旧式監獄とフランスの新式監獄とをいずれも親しく囚人として経験した。『監獄論』はこの経験の結論である。

十一

 やがて『謀叛人』は、その非軍国主義伝道のために発行を禁止され、『謀叛』の名の下にパリでその発行を続けることとなった。
 クロポトキンは出獄後イギリスに行って、二、三の同志と一緒に『自由』という月間新聞を創めた。そして同時に入獄のために中止した無政府主義論の著述に取りかかった。
 『謀叛人の言葉』は主として無政府主義の批評的方面を扱ったものであった。で、こんどは、無政府主義そのものの説明とともに、無政府主義の建設的方面を予想し得る限り画き出すことに努めた。
 その前者は、一八九一年の『無政府主義の道徳』、一八九五年の『無政府主義、その基礎と主張』、一八九五年の『無政府主義、その哲学と理想』等となって現れた。
 そしてその後者は、初め『謀叛』に連載され、後さらに詳述されて、一九○六年の『パンの略取』となって現れた。

 「これらの研究は私をして今日の文明諸国の経済的生活についてのある点をさらに十分に研究させた。従来多くの社会主義者等はこう言っていた。今日の文明社会では、実際われわれはすべての人に十分な幸福を保証するに必要な以上に生産している。ただいけないのは分配だ。で、もし社会革命が起れば、社会は今資本家の手にはいってしまう『剰余価値』や利潤を自分の手に収めることとなるので、各人はただその工場に帰りさえすればいいのだと。しかるに私はそれと反対にこう考えた。今日の私有財産制度の下では、生産そのものが間違った方向に進んで、十分な生活のためにもっとも必要なものの生産を忽ろにしまたは往々妨げている。そのいかなる必要品もすべての人の幸福を保証するに要する以上には生産されていない。よく話に出る生産超過というのは、民衆が今日その相応な生存のために必要だと見做されているものすらも買えないほどに貧乏だ、ということを意味するに過ぎない。あらゆる文明国では、その農工業のいずれの生産もすべての人の充足を保証するようにさらに大いに増さなければならず、また容易に増すことができるのだと。そして、この研究は、近代農業の可能性と、何人にも手工労働と頭脳労働とを同時に行わせるようにする教育の可能性とを考えさせるに至った。私はこの考えを雑誌『十九世紀』に連載した論文の中に詳述し、今それは『田園、工場、製造所』という題で単行本になっている。」
 要するにこの『田園、工場、製造所』(一八九八年)は、現代社会の農工業におけるある傾向を説いて、その傾向の助長の上に無政府主義の経済的可能性を論じたものである。
 「なお、もう一つの大問題が私の注意を集中させた。ダーウィンの『生存競争』という定式が、その多くの祖述者によって、しかもハクスレーのごときその中のもっとも聡明な人によってまでも、どんな結論に導かれているかは、誰でも知っていることである。文明社会におけるどんな醜悪事でも、白人といわゆる劣等人種とのまたは『強者』と『弱者』との関係のどんな醜悪事でもこの定式の中にその口実を見出さないものはない。
 すでに私はクレールヴォー(監獄)滞在中に、動物界における『生存競争』の定式そのものとその人類社会への適用とを全部修正する必要を考えた。この方面についての二、三の社会主義者がやった企てはどうも不十分だと思われた。その時に私は、ロシアの動物学者ケスレル教授の一講演の中に、この生存競争の法則についての本当の説明を見出した。ケスレルはこの講演の中に言う。『相互扶助は相互闘争と等しく自然の一法則である。そして一種の進歩的進化のためには、前者の方が後者よりも遥かに重大である。』この数言--それは不幸にもわずかに二、三の実例で証明されただけで、さきに話したことのある動物学者シェフェルソフがそれに二、三の例証を加えたに過ぎないものであった--が私に取っては全問題の鍵となった。そして一八八八年にハクスレーがその凶暴な論文『一宣言、生存競争論』を公けにした時、私は動物界および人類社会における生存競争についてのその見方に対する駁論と、数年間貯えていた材料とを、人の読めるような形にまとめようと決心した。私はそのことを私の友人等に話した。しかし『弱者は禍なるかな』という喊声の意味に『生存競争』を解釈することが、科学によって啓示された自然の命令のようになって、それがほとんど宗教のように深くこの国に根ざしていた。ただ二人だけが自然事実のこの誤認に対する私の反抗に賛成してくれた。『十九世紀』の主幹ジェームズ・ノールズ氏はその優れた烱眼からすぐに問題の要点を捉えて、本当の若い元気で私にそれを始めるよう勧めてくれた。もう一人は、ダーウィンがその自叙伝の中に彼のかつて会ったもっとも聡明な人の一人だと書いているH・W・ベーテスであった。地学協会の幹事をしていた。それで私も彼を知っていた。私がその話をすると彼は喜んで言った。『そうです、本当にしっかりとお書きなさい。それが本当のダーウィニズムです。“彼等”がダーウィンの思想から造りあげたことは考えるだけでも恥ずかしいことです。お書きなさい。それが発表される時には、あなたが公表してもいいようなふうに手紙を書いて上げましょう。』私にはこれほどいい奨励はなかった。で、すぐに仕事を始めて、『動物界の相互扶助』、『蒙昧人の相互扶助』、『野蛮人の相互扶助』、『中世都市の相互扶助』、『現代の相互扶助』の題で『十九世紀』に発表した。」
 この諸論文は、一九○二年に、『相互扶助論』の名の下に一まとめになって出版された。『相互扶助論』はクロポトキンのいろんな著述の中でも恐らくは彼がもっとも骨を折った、そしてその無政府主義論の科学的根本基礎をつくったものである。
 クロポトキンはこの研究によって、その社会哲学の基調とする自由発意と自由合意とが、動物の相互扶助の中に、また人類史の民衆生活の中に、常にもっとも有力な進化の要素となっていることを見た。無政府主義が人類史を一貫する一大傾向であることを見た。

 「なおこの研究の間に、野蛮時代や中世自由都市の諸制度と親しむための研究が、さらに重要な一問題、すなわち国家がヨーロッパに最近体現されて以来三世紀間歴史の上に勤めた役目の上に私を導いて行った。そしてまた、文明諸国の間の相互扶助的諸制度の研究は、人間の正義感および道徳感の進化論的基礎の研究に私を導いた。」
 この国家の研究は、さきに言った『国家論』(詳しく言えば『国家、その歴史的役目』)および『裁判論』の中に、また人間の正義感および道徳感の研究は、やはりさきに言った『無政府主義の道徳』の中に発表された。(七行削除)

十二

 最後に僕は、クロポトキンが国際労働者協会内の一大傾向から学んだという、その傾向の実際的および理論的方面について、クロポトキン自身が『一革命家の思い出』の中に語るところを取次ごう。

 新しい社会が文明諸国に萌生えつつある。それが旧い社会に代らなければならない。新しい社会とは平等人の社会だ。その平等人は自分の腕や頭を、彼等をいい加減に選んで雇う人間どもに、売らなければならぬようなことはないだろう。すべての人の最大限の幸福を得るために、あらゆる努力を協力させるよう組立てられた組織の中で、自分の知識や能力を生産に応用することができるだろう。そして各人の個人的発意のための広い自由な余地が残されるだろう。
 この社会は、各々の連合の要求するあらゆる目的のために結合した、多くの団体に組織されるだろう。あらゆる種類の--農業上、工業上、知力上、芸術上の、--生産のための連合。住宅や、ガスや、食料や、衛生品などを供給する消費のための自治町村。この自治町村の連合。自治町村と同職団体との連合。および最後に、ある一定の土地に限られていない経済上、知力上、芸術上、道徳上の欲望を満足するために協力する人々より成る、全国内もしくは数カ国内にわたる大団体。そしてこれらすべての団体は、今日ヨーロッパ諸国の鉄道会社や逓信省が、あるいは単なる利己的目的に駆られ、あるいは往々仇敵同士の違った国家に属していながら、中央鉄道政府とか中央逓信政府とかいうものなしに協力しているよう、または気象学者等やアルペン倶楽部やイギリスの水難救済会や小学校教師や自転車乗りなどが、科学上の目的やあるいは単に娯楽上の目的のためにあらゆる仕事を協力しているよう、互いに自由合意の方法で直接に協力するだろう。新しい生産や発明や組織の発達はまったく自由であるだろう。個人的発意は奨励されるだろう。統一や中央集権の傾向は排斥されるだろう。
 それにこの新社会は、変えることのできない一定の様式に結晶することなく、絶えずその光景を変えて行くだろう。生きた、進化して行く、有機体であるだろう。統治団の必要は感じられないだろう。自由合意と連合とは、統治団が今日自分の仕事と見做しているいっさいの仕事を、代ってすることができるだろう。そして各団体間の衝突の原因が著しくその数を減じて、なお生じ得べき衝突は仲裁裁判に附することができるだろう。
 私達の中の誰も、私達が求めているこの変化の大きさや深さを小さくは見なかった。土地や工場や鉱山や住宅などの私有制度が工業の進歩を保証する手段として必要であり、また賃金制度が人間を働かせる手段として必要であるとする今日の学説が、所有権や生産を社会化するというようなもっと高い理想に、すぐに譲歩する気づかいはない、ということは私達も分っていた。私有財産についての今日の思想が変る前に、くどくどしい伝道と、長い間の引続いての闘争と、今日支配する財産制度に対する個人的および集合的の叛逆と、自己犠牲と、社会改造の部分的企図と、部分的革命とを経なければならない、ということも私達は知っていた。また今日われわれがみなそれに養われている強権の必要についての思想は、文明人がみなすぐに棄ててしまうこともあるまいし、またそんなことはできもしない、ということは私達もよく分っていた。本当は自分等の社会的感情や習慣から出たものをその支配者の法律から出たものと思い違えていた、ということが人間に分るまでには、長い年月の伝道や、強権に対する幾度もの叛逆的行為や、今日歴史から引出して来るいろんな教義の全部の修正を経なければならない。私達はそんなことはみなよく知っていた。が、私達はまた、この二つの方面の改造を説きつつ、自分が人類の進歩の潮流にのっているのだ、ということも知っていたのであった。
 私は労働階級の人達やまたそれに同情する知識階級の人達と親しく交わって、その人達が自分の自由をその一身の幸福よりも重く見ているということを、すぐに知った。五十年以前には労働者はその物質的幸福を与えられるという約束と交換に、あらゆる種類の支配者に、専制的暴君にですらも、その一身の自由を売った。しかし、今はもうそんなことはない。選挙された支配者に対する盲目的信仰というようなことも、ラテン諸国の労働者の間には、その支配者が労働運動のもっともいい首領等の中から選挙される時にすらも、だんだんに消滅しつつあった。「われわれが何を要求しているかは、まずわれわれ自身が第一に知らなければならない。そうすればわれわれはわれわれ自身でそれをもっともよく成就することができる。」というのが、彼等の間に広く拡がっている--普通に人の思っているよりも遥かに広く--思想であった。国際労働者協会の規則の中の、「労働者の解放は労働者自らが成就しなければならない」という言葉は、一般に共鳴されてその心の奥深くに根を張っていた。
 一八七一年三月二十五日に選出されたパリ・コミューン政府委員ほどに、あらゆる進歩した政党を明白に代表した政府は、いまだかつてなかった。ブランキー派も、ジャコバン派も、国際労働者協会派も、みなそこにうまく権衡して代表されていた。しかるに労働者自身はまだ、その代表者等に強要するほどの明白な社会改革の思想を持っていなかったので、コミューン政府はこの方向には何にもしなかった。されば社会主義の成功そのもののためにも、個人の自主、自恃、自由発意の思想、すなわち無政府主義の思想が、所有権や生産を社会化する思想と相並んで説かれざるを得なくなった。
 各個人の思想や行為の表現をまったく自由にすれば、主義の多少の誇張が生ずる、ということは私達も確実に予想していた。しかし私達はまた思想や行為の腹蔵のない正直な批評に支持される社会生活そのものがいろんな思想を脱殻させて、避けがたい誇張を免れしめるもっとも有力な方法になると信じていた。そして経験はその正しいことを証拠立てている。実際私達は、自由はその一時的弊害のもっとも賢明な治療法だ、という古い言葉に従って行動していた。
 人間には、まだその本当の値打ちは世間に分っていないが、、無理強いに維持されて来たのではない、そしてその無理強いには屈しない社会的習慣の神髄がある。過去からの遺伝がある。人類のいっさいの進歩はそれにもとづいている。人類が肉体的にも精神的にも堕落し始めない限り、この習慣と遺伝とはどれほど非難されまたどれほど一時的の反抗に出遭っても破滅されることはないだろう。
 それと同時にまた、これほどの変化は一人の天才の臆測から生じ得るものでもなく、一人の人の発見でもあり得ず、民衆の建設的行為から出なければならない、ということも私達は考えていた。ちょうど中世初期にできた訴訟法や、財産共産制度や、ギルドや、自由都市や、国際法の基礎などが、民衆によって創り出されたように。
 多くの先輩は、あるいは強権の原則にもとづく、あるいはごく稀れに無政府の原則にもとづく、理想の社会を画こうとした。ロバート・オウエンとフーリエとは、ローマ帝国やローマ教会に型どったピラミッド式社会の理想に反して、有機的に発達する自由社会の理想を発表した。プルードンはこの事業を続けた。そしてバクーニンは、その歴史哲学についての広い明晰な理解を現社会制度の批評に適用して、いわゆる「破壊しつつ建設した。」しかしこれはみな要するに準備的事業に過ぎなかった。
 しかるに国際労働者協会はこの実際社会学の諸問題を労働者自身に訴えて解決する新方法を始めた。協会に加わっている知識階級の人々は、労働者に世界各国の事情を知らせ、労働者の獲得した結果を分析し、そして後には労働者がその結論をつくるのを助けるだけの仕事をした。私達は「社会はこうでなければならない」というような私達の理論的見解から理想社会を画き出そうとはしなかった。私達はただ労働者に勧告して現在社会の諸弊害の原因を探究し、その討論会や大会でわれわれが今生活している社会よりももっといい社会組織の実際的状況を考察するよう、促しただけだ。国際大会で起った問題はあらゆる労働団体の研究題目として選ばれた。すなわちその年中に、その問題は全ヨーロッパに、各支部の小集会で、各自の職業やその地方の十分な知識をもって討論された。そしてこの各支部の結論が各連合の次の大会に提出された。しこうして最後に、それがさらに緻密なものとなって、次の国際大会の討議に附せられた。
 私達の憧れている新社会の構造というのは、かくして理論においても実際においても、上からではなく下から造り出されたのだ。
 私自身は、こうした都合のいい事情の下に置かれてあったので、この無政府主義が自由社会の単なる概念や単なる行動方法よりもより以上のものを含んでいる、ということがだんだん分るようになった。無政府主義は、人類社会についての諸科学に用いられて来た形而上的もしくは弁証法的方法とはまったく違った方法で進まなければならない、自然哲学および社会哲学の一部分である。すなわちそれは諸自然科学と同じ方法で取扱われなければならない。しかしそれは、ハーバート・スペンサーがやった単なる類推法の瓢箪鯰のような基礎の上にではなく、帰納法を人類社会の諸制度の上に適用した、健全な基礎の上にでなければならない。そして私はこの方面に私のできるだけの最善を尽した。


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