大杉 栄 1



 

僕は精神が好きだ     (1918年 2月)


 

 僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されるとたいがいはいやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
 精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。

 この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくともかわいい。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
 社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々いやになる。
 僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。

 思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ。


 

法律と道徳     (1912年12月)


 

 法律は人を呼んで国民という。道徳は人を指して臣下という。
 法律が軽罪人を罰するのは、わずかに数か月かあるいは数か年に過ぎない。けれども道徳はそのうえに、さらにその人の生涯を呪う。
 法律は着物のことなどにあまり頓着しないが、道徳はどうしてもある一定した着物を着させる。
 法律はなにかの規定のある税金の外は認めもせず払わせもしないが、しかし道徳はなんでもかでもお構いなしに税を取り立てる。
 法律はずいぶん女を侮蔑してもいるが、それでもともかく子供扱いだけはしてくれる。道徳は女を奴隷扱いにする。
 法律は、少なくとも直接には、女の知識的発達をさまたげはしない。ところが道徳は女を無知でいるように、しからざればそう装うように無理強いする。
 法律は父なし児を認める。道徳は父なし児を生んだ女を排斥し、罵詈し、讒訴する。
 法律は折々圧政をやる。けれども道徳はのべつ幕なしだ。


 

社会か監獄か     (1913年 4月)


 

 お互いに
 君と僕と恐れている。

 お互いに
 君は僕に対して、僕は君にに対して、
 自分を保護するために、
 ここに社会という組織を作った。

 君は僕の敵だ。
 僕は君の敵だ。

 君は僕がやるに違いないと思い、
 僕は君がやるに違いないと思う、
 あらゆる悪意と暴行に対して、
 民法や刑法の幾千箇条を定めた。

 これが
 君と僕の社会だ。
 君と僕の監獄だ。


 

秩序紊乱     (1914年11月)


 僕らは、すでに幾度か、いわゆる「秩序」を「紊乱」した。また幾度かいわゆる「朝憲」を「紊乱」した。そして今また、本紙(平民新聞)の第一号によっていわゆる「安寧秩序」を「紊乱」した。
 「秩序」とは何ぞや。またその「紊乱」とは何ぞや。僕らはただ、僕ら自身の苦き生活の経験によって、その真実を知る。
 人類の多数が、少数怠惰者の飽くなき貪婪と驕慢と痴情とを満足せしめんがために、刻苦して労働する。これすなわち「秩序」である。
 人類の多数が、物質的生活と精神的生活との合理的発達に必要なるあらゆる条件を奪われ、科学的研究や芸術的創造によって得られた享楽を夢にだも知らざる、その日稼ぎの駄獣的生活に堕す。これすなわち「秩序」である。
 人類の多数が、あらゆる奢侈品や必要品の堆く積みこまれたる倉庫の前に、あるいは餓死せんとし、あるいは凍死せんとする。これすなわち「秩序」である。
 人類の多数が、男は機械のごとく働き、女は大道に淫をひさぎ、子は栄養不良のために斃る。これすなわち「秩序」である。
 雇主の貪欲なる怠慢のために、あるいは機械の破裂や、あるいはガスの爆発や、あるいはまた土崩れや岩崩れの下に、毎年数千数万の生命を失う。これすなわち「秩序」である。
 人と人との、国と国との、絶えざる戦争。海に、山に、空に、轟く鉄砲。田園の荒廃。幾世紀かの間の幾多の膏血の累積より成る富の破壊。数万、数十万、もしくは数百万の若き生命の犠牲。これすなわち「秩序」である。
 しかしてついに、鉄と鞭とによって維持さるる、動機と感情と思想と行為との束縛。したがってその屈従。これすなわち「秩序」である。
 しからば「秩序」の「紊乱」とは何ぞや。
 あらゆる鉄鎖と障害物とを破毀しつつ、さらによき現在と将来とを獲得せんがために、この堪うべからざる「秩序」に反逆する。これすなわち「秩序」の「紊乱」である。
 過去一切の祝聖されたる価値の転覆。新しき思想と新しき事実との大胆なる創造。これすなわち「秩序」の「紊乱」である。
 かの「秩序」のためにほとんど死せんとしあるいはほとんど死すべかりし生命を、この新しき思想と事実とに献げて、まさに来たらんとする社会的大革命への道を拓く。これすなわち「秩序」の「紊乱」である。
 真に自己のためなると同時に、また他の同類のためなる、もっとも美わしき激情の爆発。もっとも大いなる献身。もっとも崇高なる人類愛の発現。これすなわち「秩序」の「紊乱」である。
 ああ、僕らはついに、生涯を通じてこの「秩序」の下に蠢動しつつ、その「紊乱」に従わなければならぬ。「秩序」は僕らの死であり、その「紊乱」は僕らの真の生である。


 

個人的思索  (1916年 1月)


 何学問でもそうだが、その最初からの研究方法を教えずに、ちゃんとできあがった学説を真最初から覚えこますのが、今日の学校教育である。だからその研究方法といえば、学ぶべき学説の順序正しき排列である。参考書の羅列である。なるべく自分で頭を使わずに、しかも無駄のないように、多くの書物を読むことである。
 したがって今日の学者の書物は、すべてきわめてわかりやすく書かれてある。読んでさえゆけば、たいして考えずとも、またたいした疑いも挟まずに、ひとりでに合点のゆくように書かれてある。これはちょっと見にははなはだ結構なことのようにも思われるが、しかしその実際をよくよく考えてみれば、はなはだ怪しからぬことなのである。すなわちかくのごとき書物の書き方は、教育を官営する国家にとって、次のごとき二重の利益がある。まず第一には将来国家のために有用な人物となるべき生徒に、短い時間にいろいろなことを覚えこませることができる。そして第二には、国家のためには常に有害な個人的思索の能力を、早くから減殺させてしまうことができる。
 この個人的思索の能力を発達さすということが、実をいえば、教育の本当の目的でなければならぬのだ。またいっさいの学問の研究方法というのも、そこにもとづかなければならぬのだ。けれども各個人のこの能力の発達は、今日の組織の国家や社会にとっては、その存亡に関するゆゆしき一大事である。各個人はただ、国家の教えるとおりを、そのままに覚えこんでいなければいけないのだ。ことに政治学とか、法律学とか、経済学とか、史学とかの社会科学においては、国家の教える範囲以外に、決して個人的思索を許さない。
 そこでこの社会科学の範囲内における本当の研究は、何よりもまず、政府的思想によるいっさいの学者と書籍とを斥けて、みずからの眼をもって社会的事物を観察し、自分の頭をもってそれを判断しうる力を造ることになければならぬ。

 僕はよく、読者諸君から、社会主義や無政府主義や、または広く社会問題の研究をするのに、どんな書物をどんな順序で読めばいいか、という質問を受ける。そしてまた、多くの人々から、日本文で書かれた書物のはなはだ乏しいことについてしばしば訴えられる。前者の質問は外国語を読みうる、きわめて少数の人の要求である。しかし後者の訴えは、ほとんどすべての読者諸君に共通する、一般の要求であろうと思う。そこでまずこの後者の人々に向かって、社会問題研究法の大体を説こうと思う。
 僕はまず、何よりもさきに、諸君の身辺の事実によって、諸君の研究を始められんことを望む。どんな小さな事実でもいい。あるいは小さいほど、その研究が便宜であり、かつ有効であろうとも思う。またいかに小さな事実といえども、その関係する範囲はきわめて広い。本誌(「近代思想」)に「僕らの生活」の一欄を設けて読者諸君の奇書を募っているのも、要するにこの研究の奨励にすぎない。読者諸君が、もし日記の形式によって、日々身辺に起こる一小事実の観察と、それに対する感想と批評とを蒐集してゆくならば、その日記は社会問題研究の貴重な好材料となるにちがいない。
 また、事は少し大きくなるが、地方にあるあまたの友人に、このごろ僕の勧告しかつ依頼しているはなはだ興味深い社会問題研究法がある。それは村の歴史、ことに経済史を作ることだ。一村でなくてもそのなかの一大字だけでもいい。あるいは一農家だけについてでもいい。
 まず諸君みずから、諸君の村の個々の家の現在における経済状態を調査して、その詳細の統計表を作ってみる。たとえば、大地主、中地主、小地主、自分自身の田畑を耕す農夫、他人の田畑を耕す小作人というように。そしてさらに十年以前の統計表を作って、それと今日のそれとを比較してみる。そこには、家ならずなんらかの差を見いだすにちがいない。次に、その差の一つ一つについて、できるだけ詳細にその原因を調べてみる。かくして諸君は、地主と農夫と小作人との関係について、諸君みずからの確固たる観察と考察とをなしうることになる。また、農業と工業、農業と商業、農家と高利貸、農家と租税、その他種々なる興味深い関係が、おのずから諸君の前に展開してくる。
 かくして諸君はね単なる一村落の十年、二十年、三十年、四十年、もしくは五十年間の歴史を調べてみるだけで、ほとんど社会問題の全部に触れることができる。そしてそれらのあらゆる問題に対して、諸君みずからの断乎たる判断を下すことができるようになる。

 これは農村についての一例にすぎないが、その他何事にもあれ、諸君の興味をひいた一社会的事実について、その事実の内容の詳細と、それに関連する諸事実とを、それからそれへと調査してゆくだけでも、優に五冊や十冊の書物を読むよりも、有益かつ確実な社会的知識が得られる。かつかくしてはじめて自己の個人的思索の能力を本当に発達させてゆくことができる。
 いいかげんな嘘っぱちを、馬鹿でも金さえあればはいれる大学の学生らに読ますように、いかにも本当らしく巧みに書き上げた、社会学や、政治学や、法律学や、経済学の書物なぞは、その嘘つき具合を研究するほかには何の用もないのだ。また、政府的思想から脱け出た自由主義者の学者や、社会主義者や、無政府主義者の書物を読むにしても、ただこの個人的思索を進める補助にさえ役立てればいいのだ。
 研究や思索は遊戯ではない。僕らは僕らの日々の生活において、必ず何事かを考え、またその考えをあくまでも進ませてゆかなければならぬ、ある要求に当面する。どうしても放ってはおけないなんらかの事実にぶつかる。僕らの思索や研究は、この事実に対する、僕ら自身のやむにやまれぬ内的要求であるのだ。僕らは、僕ら自身のこの内的要求を、なによりもまず他人の著書によって、すなわち他人の観察と、他人の実験と、他人の判断とによって、満足さすというような怠けものであってはいけない。よしすでに受け入れているある判断があったところで、さらにみずからの観察と実験とによって、再び判断し正さなければいけない。本当にみずから刻苦して、骨身にまでも徹する、僕ら自身の判断を造り上げてゆかなければいけない。
 この個人的思索の成就があって、はじめてわれわれは自由なる人間となるのだ。いかに自由主義をふり回したところで、その自由主義そのものが他人の判断から借りてきたものであれば、その人はあるいはマルクスの、あるいはクロポトキンの、思想上の奴隷である。社会運動は、一種の宗教的狂熱を伴うとともに、とかくにかくのごとき奴隷を製造したがるものである。僕らはいかなる場合にあっても、奴隷であってはならない。
 書物を読んでいないことをもって無学であると自卑するがごとき風習は、僕らの間からまったく一掃し去らなければいけない。僕らは、他人のいろいろな判断を机の上に並べ立てて、一種の論理的遊戯をもって、それをさまざまに混交し排列する、いわゆる学者のまねをする要はない。むしろかくのごとき方法を侮蔑し排斥して、初めて個人的思索の端緒につくことができるのだ。
 書物を読むよりもまず、みずからの身辺の生きている事実に眼を転ぜよ。そしてその事実に対して、いたずらに頭の中で理屈をこね回さずに、ただそのありのままを注視せよ。その事実そのものに対してはあくまでも深く、またその事実と関連する諸事実に対してはあくまでも広く、できるだけの観察と調査とを遂げよ。また必要の場合には、この必要ははなはだしばしば起こることであるが、みずからその事実の中に身を投じてみよ。すなわちみずからを実験に供してみよ。かくのごとき観察と実験との度重なるにしたがって、はじめて僕らは、僕ら自身の、動かすべからざる思想を築き上げてゆくのだ。
 この個人的思索を欲しない輩は、いわゆる衆愚である、永遠の奴隷である。歴史を創ることなくして、歴史に引きずられてゆく、有象無象である。僕らとはまったくの他人である。


 

僕らの主義     (1919年 8月)


 自分のことは自分でする。
 これが僕らの主義だ。僕ら労働者の、日常生活の上から自然にできた、処世哲学だ。
 僕らには、それで食ってゆくという、親の財産はない。またかじるべき親の脛もない。僕らは小学校を終えるか終えないうちから、自分で働いて自分で食ってきた。自分の身のまわりのいっさいの世話も、親や兄姉の忙しい僕らの家庭では、子供の時からすべて自分でやってきた。自分で自分のことをするのはいい気持だ。何事にでもわがままがきく。勝手でいい。威張られることもなし。恩に着ることもなし、よけいなおせっかいを言われることもない。
 少し大きくなって、世間とのいろいろな交渉ができ始めてからも、やはり自分のことはたいがい自分でしなければならなかった。そして、やはり自分でやるのがいつでも一番気持がよかった。自分のことは自分が一番よく知っている。自分のことは自分が一番熱心にやる。しくじればしくじるであきらめもつき、また新しい方法の見当もすぐにつく。人にやってもらったんでは、不足があっても、ありがとうとお礼を言って満足していなければならない。よしまたうまくやってくれたところで、自分でしなかったことが僕らには不足になる。
 世間はますます複雑にかつますますめんどうになった。敵と味方の区別すらもちょっとはわからない。人に頼んでは馬鹿ばかりみる。ことになにか甘そうなことをやってやろうという先生などにたのむと、いつもかならず大馬鹿をみる。
 労働運動でもやはりそうだ。


 

なぜ進行中の革命を擁護しないのか  (1922年 9月)


 生死生の僕に対する非難は、それを具体的に言えば、要するになぜ僕がロシアのボルシェヴィキ政府を攻撃するのか、ということにあるらしい。
 そして、それについての生死生の根拠は、一つの無政府主義の社会へゆくにはボルシェヴィズムを通過しなければならないということと、もう一つは共同の敵に対しては共同して当たらなければならないということから、無産階級の手に初めて移されたロシアの政権を支持することこそ、よかれあしかれ、共同目的を有するものの現在の任務であり、当然の義務であると考えられたものらしい。
 一足飛びに天国に行けるかどうかは僕も疑う。しかし無政府主義へ行くにはまず社会主義を通過しなければならぬとか、ボルシェヴィズムを通過しなければならぬとかいうことは、僕は無政府主義の敵が考え出した詭弁だと思っている。
 ロシア革命の最初のころには、レーニンをはじめボルシェヴィキどもはよくそんなことを言った。日本でも共産主義の最初の宣伝時代にはよくそんなことを聞いた。が、ひととおりその効果を見たあとでの、彼らの無政府主義者に対する態度はどうか。彼らはまるで資本家の次はこんどは無政府主義者だというような具合じゃないか。「全生産力の不十分な現在から一足飛びに」などというもっともらしい経済論も、僕はちっとも信用しない。が、そんな議論は、こんな雑誌の一ページや二ページで尽きることではない。詳しいことはいずれまた論ずるとして、とにかく僕は無政府主義の即時実現を信ずるものであるということだけを明らかにしておく。
 次には、共同の敵には共同して当たらなければならないということだ。これには、一応僕は賛成する。共同の敵、すなわち一言にして資本家制度と闘う時には、僕は労資協調論者から個人主義的無政府主義者にいたるあらゆるものとの共同をあえて辞せない。ただ僕がその間に保留しておきたいのは、僕の批評の自由である。互いに協定した戦線の内外における、僕の行動の自由である。それが許されさえすれば、僕はどんないやなやつとでも、共同の戦線に立つことくらいはがまんする。
 実際問題にはいってこの話を進めてみよう。今日本の労働運動界ではヨーロッパのいわゆる「共同戦線」の問題とはほとんどまったく独立して、一種の共同戦線問題、すなわち労働組合総連合の問題が起きている。労働者でない、したがってどこの組合にも属していない僕は、組合員として直接この問題にあずかることはできないが、この問題については、第三者というよりももっと近い態度で、多少その促進に努めているつもりだ。
 が、僕と他のいろんな社会運動者との間はどうかというと、最近僕は同じ主義以外のほとんどどの方面からも共同を望まれたことがない。僕のほうからそれを望んで、ことに日本のボルシェヴィキにそれを申し込んだことは数回あるが、いつも僕は、体よくかあるいはこっぴどく跳ねつけられてばかりいる。そしてまれにいっしょになっても、その結果はカマラードシップをも友情をも手ひどく裏切られるのが落ちだった。
 しかし、僕は今ここで僕の愚痴を述べたくはない。ただ最初僕は誤ってボルシェヴィキとの共同の可能を信じて、それを主張しそれを実行して、そして見事に彼らから背負投げを食わされたという僕の愚を明らかにして、後にくる人たちの戒めにしておけばいいのだ。
 僕は今、日本のボルシェヴィキの連中を、たとえば山川にしろ、堺にしろ、伊井敬にしろ、荒畑にしろ、みなゴマのハイのようなやつらだと心得ている。ゴマのハイなどとの共同はまっぴらご免こうむる。が、ここにまだ付け加えて言っておきたいのは、やつらが本当に資本家階級と闘う時には、ぼくだってやはりやつらと同じ戦線の上に立って、共同の敵と闘うことを辞するものでないことだ。
 ボルシェヴィキ政府に対する批評! 僕はそれをずいぶん長い間遠慮していた。僕ばかりではない。世界の無政府主義者の大半はそうだった。また、革命の最初にはみずから進んで共産主義者らの共同戦線に立ったものも少なくはなかった。ロシアの無政府主義者らは、ほとんどみなそうだと言ってよかろう。
 ロシア以外の国での無政府主義者は、一つにはロシアの真相がよくわからなかった。そしてもう一つには、実際反革命がいやだった。そして彼らは十分な同情をもって、ロシア革命の進行を見ていたのだ。
 が、真相はだんだんに知れてきた。労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも有力な反革命的要素であることすらがわかった。
 ロシアの革命は誰でも助ける。が、そんなボルシェヴィキ政府を誰が助けるもんか。


 

そんなことはどうだっていい問題じゃないか  (1922年10月)


 労農ロシアの承認だって! どうせ日本の政府にそれを承認させるほうがいいか、させないほうがいいかという問題なんだろう。そんなことは、ことにおいらにはどうだっていい問題じゃないか。
 いったい、労農政府が、無産階級の新国家がだね、ほかの資本家政府に承認を求めるなんて、あんまり矛とんな意気地がなさすぎる話じゃないか。もともと誰が国交を断絶させたんだい。ツァーの帝国を倒しさらにケレンスキーの民主国を倒して、そのあとに今のロシアの社会主義連邦共和国を起こしたレーニンの労農政府が、ツァーやケレンスキーの各国に対する借金を踏み倒したことに始まるんじゃないか。もっとも労農政府は、当時、すぐにも他のヨーロッパ諸国に、ロシアと同じような革命が勃発するものと予想してもいたろう。が、それがちょっと見こみが立たないとなって、そして自分の国でもどうも思わくどおりうまくゆかないとなって、自分までもこのとおり国家資本主義にまで後戻りしてみせて、どうです、よそどおりまたつき合いをしてくれませんか、古い借金は幾分か証文で返しますからもう少し現なまを貸してくれませんか、それでないと、とても私のところの資本主義は復興してゆけませんからなんて、よくも言えたもんじゃないか。そんなふうだから、どこでどう威張ってみせたって、資本主義に降伏だなんて言われるんだ。
 もっともリト何とかのロシアとドイツとの講和のロシアのいわゆる屈辱条約を見るがいい、今はどんなに頭を下げたって、またどんな証文を書いたりどんな金を借りたって、遠くない将来にはきっと各国に革命が起こるんだから、その時にまたうんと寝返りを打ってやるさという腹があったところでだ、実際また公然とそう言ってはばかりもしていないんだがね。そのロシアの国家資本主義への後戻りのさまはどうだい。なんだって? ロシアではまだ共産主義を実行するだけに資本主義が成熟していないんだって? そんな生はんかの唯物史観論なんかよせやい。え? まだなにか言ってるのかい。前進の前の後戻りだって? そんな屁理屈はどうでもいいやい。それよりか、労農ロシアすなわち労働者と農民とのロシアの足もとをもっとよく見ろよ。新経済政策のロシアの労働者と農民とが、どんなになっているか見ろよ。そしてその労働者と農民とが、しかも共産党のなかの労働者と農民とが、レーニンはじめその首領らを革命の裏切者として、革命のやりなおしを叫んでいるのを見ろよ。なに? そいつらは精神錯乱だって! 馬鹿! どこの国で、本当の革命家らが、その国の権力者から気違いだって言われなかったことがあるかい。労農政府は、そんな七面倒臭い唯物史観論だの妙な屁理屈を言っている間に、そのいわゆる資本主義の成熟だの後戻りのあとの前進だの、始まらない前に、この気違いどもにぶっ倒されるんだ。そして革命のやり直しが始まるんだ。どうだい、これも唯物史観論の必然かい。
 ボルシェヴィキ革命などという革命のにせ物に驚かされて、封鎖だの武力干渉だのとさんざんに手を焼いたあげくに、とうとうその正体のわかったため、資本主義の各国は、さっそくこの新資本主義の労農ロシアと手を握るがいいじゃないか。そしてまた新しく資本を貸してやって、その新しい儲け口をつくるがいいじゃないか。お仲間だよ。なんの遠慮があるものかい。そしてこの新資本主義国家を助けて、それと一緒になって、本物の革命のくるのを防ぐがいいじゃないか。
 おいらにはそんなことはどうだっていいんだ。おいらはおいらで別にやらなければならない仕事があるんだ。


 

国泥棒の見本


 南北アメリカの間の、大西洋に面して、メキシコ湾の口から東に延びた、西インド諸島というのがある。アメリカ、デンマーク、イギリスなどに属する群島であるが、その中にひとつ、ハイチという独立国がある。それが、最近、欧州戦争のさ中に、火事泥的に、アメリカに泥棒された。
 ハイチは建国百十一年の、西半球ではアメリカに次ぐ、古い共和国である。そしてその建国と同時に奴隷を廃止した。ある意味ではアメリカよりも五十年古い自由の国である。どこの国にも何の害をするんでもない。小さな、平和な国だったのだ。それが、何のもっともらしい理由もなしに、勝手極まる、残忍な、武力的征服の犠牲になってしまったのだ。

 一九一○年、と言えば、十一年前のことだ。アメリカはハイチの国立銀行に投資して、そろそろとこの国の財政的支配を謀りはじめた。
 それはまず、何か事のあるたびに、この銀行から政府に、いろいろと難題を持ちかけさせて、その財政をくずして行くことであった。そしていい加減その財政を乱れさせて置いて、やれ関税同盟を結ぼうの、攻守同盟を結ぼうのと言って、ていよく保護国にしてしまうさんだんであった。
 一九一四年十二月には、ある条約を迫って来る前日、白昼国立銀行の金庫を持ち出して、紙幣償還基金の五十万ドルをアメリカの軍艦に運びこんだりさえした。こうして財源を奪い取って置いて、言うことを聞かせようというんだ。
 が、それもうまくは行かなかった。

 一九一五年七月二十七日、ある革命団体によって大統領の官邸が夜襲された。その革命団体というのは、一言で言えば、ハイチ共和国の独立擁護団だ。その翌日、大統領は傷ついて、官邸を棄てて、フランス公使館に逃れた。
 その日の朝、この夜襲の間に首府ポルト・オ・プレンスの獄中にある政治犯人等が死刑になった、といううわさが町じゅうに拡がった。それに憤慨した犠牲者等の親戚は、すぐにフランス公使館を襲うて大統領を引きずり出して殺してしまった。
 こうした混乱した場面が行われている間、一時は、それを防ぐに足る何の団体も政府もなかった。しかしその間に、掠奪も放火も、また故大統領の外には一人の殺戮も行われなかった。そしてこの革命が済むと、すぐに平和は恢復されて、公安委員会が秩序維持の任に当たることとなった。

 するとやはりその晩のことだ。アメリカの水兵がどんどん町に上陸して来た。そして驚き呆れているハイチアンどもの武器を取り上げて、何の抵抗もなしに町を占領してしまった。
 二週間過ぎた。上陸軍はポルト・オ・プレンスとその附近を完全に占領し、なお他の水兵等は北部カプ・ハイチアン市を占領した。
 そしてこうして置いて、八月の十二日に、新しい大統領を選挙させて、それにまたある条約を「修正なし」に受け入れることを迫った。
 しかしこの強迫も立派に斥けられてしまった。そしてアメリカ軍は、全国のあらゆる税関を占領してそこのハイチアン官吏を放逐するとともに、ついに九月三日、海軍少将ケパアトンは自らハイチ政府を統御し、かつポルト・オ・プレンスおよびその附近に戒厳令を布くという宣言を出した。
 かくしてついにハイチはアメリカに泥棒されてしまったのだ。

 この事実は、五カ年間厳重な軍政の下に緘口されていたハイチアン自身によって、ついに発表された。すなわち、最近、ハイチ愛国者同盟のアメリカ派遣員によって、三万語の報告文となって国務省および元老院外交委員会に呈出された。
 そしてその間アメリカの軍政のいかに残忍を極めたかは、次のただ一事だけによっても十分に推察される。
 アメリカの占領以前には、カプ・ハイチエン監獄の囚人の数は、平均して一年五十人を超えることはなかった。そしてその死亡率は滅多に一年四人に達することはなかった。
 しかるに、このカプ・ハイチエンの監獄で、一九一九年に、毎日八人の死骸が井戸の中に棄てられた。そして一九一八、一九、二○の三年間に、四千人あまりの囚人が死んでいる。
 なおこれと同じような数字が、他のあちこちの監獄にも見出される。
 そしてなおその外に、女や子供の殺戮、赤熱した鉄の棒での拷問、水攻め、放火、掠奪、その他あらゆる暴行が駐屯軍の犯罪として数えられている。
 これが、正義と自由との権化であるウィルソンの国が、そう言って讚めたたえられていた真最中にやってのけた、国泥棒の立派な見本の一つである。

 
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