Delo Truda


アナキスト総同盟組織綱領(案)


 このパンフレットは、1926年6月20日に、アルシーノフ・マフノ・イダ=メット・ヴァレフスキー・リンスキーといったパリに亡命中のロシア人アナキストのグループによって「デロ=トルーダ(労働者の大義)」誌に発表された。発表当時からマラテスタを筆頭に多くのアナキストから批判されてきたが、綱領主義アナキズム基本文献であるにも関わらず、テキスト全体の邦訳は今だにされておらず、テキストの検証をせずに批判だけをもって論じられていることが多い。このパンフレットの序文・その背景・綱領主義全般については、アナキズム誌第二号で日和佐隆氏が解説しているため、参照していただきたい。
 本邦訳は、英訳からの重訳であり、英文の原文はネストル=マフノ アーカイヴで読むことができる。これまでの英訳は仏語のテキストからの翻訳だったが、この英訳は露語から直接翻訳されており、翻訳に際しては仏語のテキストと露語のテキストを比較したものだという。(訳者)

総論1(General Part)


1.階級闘争、その役割と価値

人類は一つではない。
人類は階級でできている:
その階級とは、奴隷と主人である。

 これまでのあらゆる社会と同様に、現代のブルジョア資本主義社会は一体化していない。二つの異なる陣営に分かれており、それぞれの社会的立場と社会的役割も全く違う。それは、プロレタリア階級(最も広い意味での)とブルジョア階級である。

 プロレタリア階級の宿命は、数世紀にわたり、厳しい肉体労働の重荷を背負うことであった。だが、その果実は、自分自身が手にするのではなく、もう一つの特権的階級に譲渡されている。この特権階級は、財産・権威・精神文化(科学・教育・芸術)の産物を享受する−−これがブルジョア階級である。

 労働者大衆の社会的奴隷化と搾取とが、近代社会が立脚する基盤を形成した。それなくして近代社会は存在し得ない。

 この事実は、数世紀にわたる階級闘争を勃興させた。時にはあからさまで嵐のような形で、時には人知れず停滞した形で、それでも常に、既存社会を労働者のニーズ・要求物・正義の観念を満足させるような社会に変革する方向に根本的に向かっていた。

 社会的表現では、人間の歴史全体は、自身の権利・自由・より良い生活を求めて労働者大衆が行った絶え間ない闘争の連鎖である。人間社会の歴史を通じて常に、階級闘争は社会の形態と構造を決定する主要要因であった。

 いかなる国であれ、その社会−政治システムは、主として階級闘争の産物である。社会の構造は、階級闘争がどの段階に到達しているのかを示している。階級闘争の潮流と敵対し合う諸階級の相対的強さとに僅かばかりの変化があれば、それは、すぐさま、階級社会の骨組みと構造に変化を引き起こす。

 これが、階級社会の生活において階級闘争が持つ一般的・不変的意味なのだ。

2.暴力的社会革命の必要性

 近代社会の根元には、暴力を使った大衆の奴隷化と搾取という原理がある。社会のあらゆる領域−−経済・政治・社会関係−−が、階級暴力に依存している。その公式的機関が、国家の諸機構・警察・軍隊・裁判所である。この社会にある全ては、個々の工場から国家の全政治システムまで、資本の要塞に過ぎない。労働者はその中で永久に監視される。そして、特殊部隊が、現在の社会の基盤を脅かしたり、その平穏を妨げたりしかねないあらゆる労働者の運動を破壊すべく、常に警戒している。

 同時に、現在の社会が持つ構造は、自動的に、労働者大衆を無知と精神的停滞状態にあり続けるようにする。教育と啓蒙を強制的に阻害することで、大衆は管理されやすくなる。

 現代社会の進歩−−資本の技術的発展と政治システムの完成−−は、支配階級の力を強め、支配階級に対する闘争を次第に困難にし、そのことで、労働者が自己の解放を達成する重大な局面を遅らせている。

 現代社会の分析が示していることは、資本主義社会を自由労働者社会へと変換することを達成するためには、徹底的な暴力的社会革命以外に道はない、ということである。

3.アナキズムと無政府共産主義

 階級闘争は、長年にわたる労働者階級の自由の希求から生じた暴力の中で生まれ、抑圧された人々の中にアナキズムの思想を生じさせた。アナキズムは、階級と国家に基づく社会システムを完全に否定し、このシステムを自由で国家なき労働者自治社会によって置き換えるという思想である。

 従って、アナキズムは、科学者や哲学者の抽象的思索から発達したのではない。資本に対して労働者が行った直接闘争から、労働者のニーズと要求から、労働者の心理・自由と平等を求めた労働者の願望・労働者大衆の生活と闘争の最も英雄的な段階に特に強烈になる大志から発達したのだ。

 アナキズムの著名な思索者−−バクーニンやクロポトキンなど−−は、アナキズム思想を発明したのではなく、大衆の中にそれを発見し、単に、自分の考えと知識の力を通じて、その発展と宣伝を手助けしただけである。

 アナキズムは個人的な創造物ではないし、個人的な実験研究の対象でもない。

 同様に、アナキズムは一般的な人道主義的熱望の産物などでもない。人類は「一つ」ではない。現在のように、アナキズムを人類全体の属性にしようと試みたり、アナキズムは一様に人道主義的な特徴を持っていると考えようとしたりしたところで、それは歴史的・社会的欺瞞であり、必ずや、現行秩序の正当化と新しい搾取をもたらすであろう。

 アナキズムが広く人道主義的だというのは、労働者大衆の理想が万人の生活を改善し、現在や将来の人類の運命が、奴隷化されている労働者の運命と深く関係している、という意味に過ぎない。労働者大衆が勝利していると判明すれば、全人類は生まれ変わるであろう。労働者大衆が負けていれば、暴力・搾取・奴隷・抑圧が以前同様に世界に蔓延するであろう。

 アナキズムの理想の始まり・展開・実現は、労働者大衆の生活と闘争にその起源を持ち、労働者大衆の全般的運命と分かち難く結び付いている。

 アナキズムの目的は、今日のブルジョア資本主義社会を、労働者が自分の労働・自由・自立・社会的政治的平等の果実を手にできるように保証する社会へと転換することである。この社会が無政府共産主義である。無政府共産主義において、社会連帯だけでなく、自由な個性という考えも十全に表明される。これら二つは、完全に調和して共に密接に発展するであろう。

 無政府共産主義は、あらゆる社会財産を創り出しているのは労働者−−肉体労働者と精神労働者−−だけであり、その結果、労働者だけが経済と公的生活全体を管理する資格を持っている、と確信している。だからこそ、無政府共産主義は、労働しない階級の存在の正当化や黙認をしないのである。

 こうした階級が無政府共産主義と共に存続し、共存するとすれば、無政府共産主義は、そうした人々に対していかなる責任も負わないことを認めるであろう。労働しない階級が生産的になることを決め、他の人々と対等に無政府共産主義社会システムの中で生活したいと望んで初めて、そこでの立場を得ることになろう−−つまり、他の人々と同じ、社会の自由なメンバーであり、この社会の同じ権利を享受し、同じ一般的責任を持つという立場を得ることになろう。

 無政府共産主義は、個人に対するものであれ、労働者大衆に対するものであれ、あらゆる搾取と暴力の根絶を求める。この目的に対して、無政府共産主義は、国の経済社会生活を調和的全体へと融合し、個々の等価性を万人に保証し、最大の福祉を万人が手にできるような経済的社会的基盤を創り出す。この基盤は共有であり、生産手段と生産用具(産業・交通・土地・原料など)の万人の社会化、そして、労働者階級の平等と自主管理に基づいた全国規模の経済機構の構築という形態をとる。

 この労働者自主管理社会の範囲内で、無政府共産主義は、すべての個人の(「抽象的な」個性でも、「神秘的個性」でも、「観念としての個性」でもない)等価と同権という原則を規定するのである。

 この全ての個人の等価と同権の原則から、そして、個々人が提供する労働の価値は測定したり規定したりすることができないという事実から、無政府共産主義の根本的な経済的・社会的・司法的原則は次のようになる:「個々人からは能力に応じて、個々人へは必要に応じて」

4.民主主義の否定

 民主主義は、様々な形態を持つブルジョア資本主義社会の一つである。

 民主主義の基本は、現代社会の二つの対立する階級−−労働者と資本家−−の保持であり、資本主義的私有財産を基盤とする協調の保持である。議会と国家の代議制政府とは、この協調の現れである。

 形式的には、民主主義は、法の下での普遍的平等と言論・出版・結社の自由を宣言している。

 現実には、こうした自由は全て非常に相対的な性質を持っている。支配階級、つまりブルジョア階級の利益に反しない限り、こうした自由は許容されるのである。

 民主主義は、資本主義的私有財産の原則を手つかずのまま保持する。そのようにすることで、ブルジョア階級が国の全経済・報道・教育・科学・芸術を統制する権利を保存している。このことで、実際には、ブルジョア階級を国の絶対的主人にしているのである。ブルジョア階級は、国の経済問題の領域を独占しているが故に、政治的領域における完全かつ無制限の権力を自由に確立できる。事実、民主主義において、議会と代議制政府は、ブルジョアの執行機関に過ぎないのだ。

 その結果、民主主義はブルジョア独裁の一種に過ぎず、その虚偽の政治的自由と民主的保証は、その正体を覆い隠すように創られた煙幕なのである。

5.国家と権威の否定

 ブルジョアのイデオローグによる国家の定義は次のようなものである。現代社会の中で民衆の複雑な社会政治関係・市民的関係・社会的関係を規定し、この社会の法と秩序を保護する機関。アナキストはこの定義に完全に同意するが、次のことを付け加える。この社会が基盤としている法と秩序は、取るに足らない少数者による莫大な数の人々の奴隷化を隠蔽しており、近代国家はこの奴隷化を維持する役目を果たしている。

 国家は、労働者に対するブルジョア階級の組織的暴力であり、かつ、その執行機関システムである。

 左翼社会主義者も、特にボルシェヴィキも、ブルジョア権力とブルジョア国家を資本の道具として見なしている。しかし、彼等が信じているのは、社会主義政党の手中で、国家権力は、プロレタリア階級解放を求めた闘争において強力な武器になり得る、ということである。だから、彼等は、社会主義権力とプロレタリア国家を支持している。彼等の中には、議会という平和的手段によって権威者の立場に到達したいと思っている者(社会民主党)もいれば、革命的手段で権力を掌握したいと思っている者(共産党、社会革命党左派)もいる。

 アナキズムは、これらどちらの立場も根本的に間違っており、労働者の解放に有害であると考える。

 国家権力は、常に、大衆の搾取と奴隷化と一体になる。国家権力は搾取から生じたり、搾取のために創り出されたりする。暴力と搾取がなければ、国家権力は全ての存在理由を失ってしまう。

 国家と権威は、大衆から発意を強奪し、自立的活動の精神を殺し、卑屈な服従精神・支配者とボスへの期待と信頼を養う。従って、労働者の解放は、資本主義システムに反対する労働者大衆とその階級組織による直接的革命闘争というプロセスを通じてのみ可能なのだ。

 議会という方法を使った現行システムの枠組み内で、社会民主主義政党が権威を奪取したところで、労働者の解放はわずかばかりも進まない。その理由は単純である。本物の権力、従って、本物の権威は、国の経済と政治を完全に統制しているブルジョア階級にあり続けるからだ。社会主義当局の役割は、この場合、改良に、この同じブルジョアシステムを改善することに、限定される(ラムゼイ=マクドナルドや、資本主義システム下で国家権力を獲得したドイツ・スェーデン・ベルギーの社会民主政党の例を見れば分かるだろう)。

 社会革命による権力奪取といわゆるプロレタリア国家組織も、労働者の真の解放を推進できはしない。国家は、革命を防衛する目的で当初創られたが、必然的に、国家自身の特別なニーズを蓄積し、国家自体が目的となり、国家が依存する特権的社会カーストを発生させ、国家のニーズと特権的カーストのニーズに大衆を強制的に隷属させ、そのことで、資本主義権威と資本主義国家の基盤−−暴力による大衆の奴隷化と搾取−−を保持するのである(ボルシェヴィキの「労働者・農民」国家がその一例である)。


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