中里介山


  乱調激韵

鍬投げて、我今日出立つ故山の圃。
籬に凭りて我を送る老たる母。
白髪愁長くして老賑涙あふる。
慇懃、袖を引く、我がうない子。
無心、彼は知ず、父が死出の旅。
我が腸断つと云わんや、
国の為なり、君の為なり、
さらばよ、我が鍬とりし畑。
さらばよ、我が鋤洗いし小川。
我を送る郷関の人、
願ば、暫し其『万歳』の声を止よ。
静けき山、清き河。
其の異様なる叫びに汚れん。
万歳の名に依りて、死出の人を送る。
我豈憤らんや、
国の為なり、君の為なり。
渺渺煙波三千里、
東、郷関を顧みて我が腹断つ。
西、前途を望めば夏雲累々。
泣かんか、笑わんか、叫ばんか。
一夜、舷を叩いて月に対す、
あー我、怯なりき、
懐わ黄槊高吟の英雄に飛ばず。
家郷を憶うて涙雨の如し。
我豈泣かんや、
国の為なり、君の為なり。
落日斜なる荒原の夕べ、
満目に横う伏屍を見よ、
夕陽を受けて色暗澹。
夏草の闇を縫うて流る
其腥き人の子の血を見よ。
敵、味方、彼も人なり、我も人也。
人、人を殺さしむるの権威ありや。
人、人を殺すべきの義務ありや。
あー言ふこと勿れ。
国の為なり、君の為なり。

※発禁本『社会主義の詩』(堺利彦編 由分社 1906年)所収
原文は「平民新聞第39号所載」

【注】
激韵(げきいん)→激しい響き。韵は韻と同字
圃(ほ)→畑
籬(まがき)→柴、竹等で作られた垣
凭りて(もた)→よりかかって
渺渺(びょうびょう)→果てしなく遠い
煙波(えんば)→広い河、湖、海等で遠くの水面に
もやがかかったようにかすんで見える
舷(ふなばた)→ふなべり
黄槊(おうさく)→鉾を横たえる
高吟(こうぎん)→高い声で節を付け詩歌をうたう
黄槊高吟→戦場で詩歌を作りうたうという故事
満目(まんもく)→見渡す限り
腥き(なまぐさ)


 [図書室目次に戻る]