シンディ=ミルスタイン


もう一つの世界は確かに可能だ....
だが、それはどのような種類で、誰が創り出すのか?


本論分は、昨今の反グローバリゼーション運動のあり方に対して、アナキストの側からの論点を明示していると思う。本論分の中に「二重権力」という言葉が出てくるが、これは「Dual Power」の訳であり、大ざっぱにいえば、既存社会内部で、別個の社会体制を構築する戦略のことである。関心のある方は、An Introduction to Dual Power Strategyを参照していただきたい。
原文は、Another World Is Possible . . . But What Kind, and Shaped By Whom?で読むことができる。また、シンディはInstitute for Social Ecologyの講師の一人でもあり、その論文はInstitute for Social Ecology Online Libraryで読むことができる。(訳者)

1月31日から2月4日にニューヨークで行われた世界経済フォーラム(WEF)ミーティングと関連デモの最中、ヴィレッジ=ヴォイス誌は、政治的風向きが変わっていることをはっきりと指摘していた。その週の表紙のヘッドラインは、『聖火を手渡す:進歩主義者が止まった場所でアナキストが拾い上げる』だった。それに付随した絵は、中年の白人男性がビジネススーツを着て走っており、その後ろを走っている「アナキスト的」服装をした若い白人男性にアメフトよろしくモロトフ=カクテルを投げ渡そうとしているという図であった。この表紙はその中傷的なステレオタイプ−−全てのアナキストは若く、暴力的で、白人の男だという−−のために批判されてしかるべきものだが、中の記事は、『アナキストの急進分子が早くも運動の中心になっている』と同情的に認めていた。アナキストは、実際、進歩主義者を追い越しているのである。それはアナキストが時代に言及した主張と変換の一形態−−世界の権力を持ったエリートに対するあからさまな敵対を示した形態だが、それは同時に多くの社会正義活動家の側では不安の種にもなっているものだ−−を提供しているからだ。

このことが特に明らかなのは、WEFをその批判者−−ブラジルのポルト=アレグレで同時期に集まった世界社会フォーラム(WSF)とニューヨーク市の街路で行われた反資本主義集中行動−−と比較したときによく分かる。

WSFは、そのスローガン、「もう一つの世界は可能だ」を主張している。実際、構図を書き換えているものが数多くある中で、グローバリゼーションとして知られるプロセスが根本的に権力関係の構図を再編成しているということを考えれば、このことは可能であるばかりではなく、確かにありそうなことなのである。安定することからはほど遠く、多国籍企業だけでなく国民国家、グローバリゼーションのプロセスに被害を被っている何百万人の人々だけでなくNPO、その他多くのものが、世界を(再)形成する能力をオープンにも秘密裏にも勝ち取ろうとしているのである。潜在的な諸世界像の中には、もちろん、今日よりも酷い暗黒郷も有り得る−−例えば、あらゆる信条のファンダメンタリストによって神や予言者の聖なる言葉だと主張されているものもあるのだ。だが、WSFのヴィジョンのようなもっと人情的なヴィジョンでさえも、それは究極的には誰の世界になるのか、という質問を問わねばならない。社会的・経済的・政治的・文化的決定は誰が、そして、どのようにして行うのだろうか?様々な答えがあるが、それらは全て、相反する二極の統治方法のどちらかに由来する。中央集権主義か権力分散主義か、もっとあらっぽく言えば、権威主義か反権威主義か、である。

新しい権威主義モデル全ての中で、WEFのモデルは最も前衛的だと言えるだろう。WEFは、グローバリゼーションの時代に流行している世界支配を可能にする組織文化と組織構造を探索しているという点で、時代に先んじている。限られた少数のために「経済成長と社会進歩を押し進める」−−経済成長によって評価される社会進歩−−というその探求は、確かにWEFだけが行っているのではない。世界銀行から欧州連合から合州国政府にいたるまでの諸制度は、同じことを追求している。WEFをこれらと区別していることは、その革新的手段であり、潜在的にもっと危険なものになる可能性を持っている。WEF自身の言葉を借りれば、WEFのメンバーは、「ユニークなクラブ的雰囲気」でミーティングをし、いつも贅沢で、「世界規模のアジェンダを創り出し」、社会政治的−経済的プロセスをそれ自体の利益のために管理することを目的として「解決策を造り出す」のである。

こうした策動は、過去数年間、スイスのダヴォスにおけるWEF年次会議で戦闘的に挑戦されてきた。WEFがその隔離型隠遁場所からはじめて冒険をした推定理由の一部には、こうした抵抗が増大することを避けることもあっただろう。社会的コスト、特にスイスの権威者にとってのそれは、あまりにも高くつきすぎるようになっていたのである。WEFの指導者たちは、9月11日以後あまりにもすぐに、ニューヨーク市で会議を開くことにすることで、そうした反対側の信用を一気に失墜させようともしていたのである。指導者たちは、豪勢なウォルドーフ−アストリア=ホテルで会議を開くことで、犠牲者を哀悼すると共に、ニューヨーク市再建のためにちょっとしたことをやっただけだと主張するかも知れない。だが、逆に、WEFがそのように仮定していたからこそ、抗議者たちは葬儀の破壊者、財産や礼儀に対する配慮もなく今だに悲しみに明け暮れている都市の街路を乱暴に走り回ることで死者を侮蔑している、と見なされたのではないだろうか。抵抗行動は取り消すことができないほど汚され、その結果、WEFのような諸機関が、あるWEFメンバーの言葉を使えば「反グローバリスト辺境者」(anti-globalist marginals)から全く厄介な妨害を受けずに、資本主義社会を支配するという高慢な使命に尽力することができるようになったのである。

だが、こうした思索をさらに進めれば、マンハッタンに集まった一群の最大の理由は、この比較的小規模で若い組織が持つ世界規模の影響力の増大を強調することだったと言える。9月11日とその後の炭素菌恐怖が明らかにしているように、固定した、目に見える権力の中心は、標的にされ、攻撃されうるのだ。冷戦後(ポストウォー)の世界経済(ニューヨーク株式市場のような)と、地政学(ワシントンDCの国会議事堂のような)を決定する時に大きな役割を持っていた諸機関の物理的家屋は、一時閉鎖される危険があるのである。自身の優越性を過信して得意になっていた合州国政府は、自国と外国で暴力的に叩きのめす力を今だに持っている。だが、あらゆる膨れ上がった帝国と同様に、その痩せ細った競争相手が地球規模の権力ブローカーの外套を身につけようと新しい戦略を夢想していたとしても、いつもと同じおきまりのやり方でその権威を保持しようとしている。したがって、WEFがニューヨーク市にやってきたのは、正に、9月11日が北米超権力のひ弱さを露呈するためであり、そのことで、WEFがウォールストリートと国民国家のような諸制度の後継者として自身を見せびらかすことができるようになったと論じることすらできるであろう。少なくとも、潜在的にもっと弾力性のある−−柔軟で、実践的ノウハウを持ち、固定的な場を持たない−−支配形態としてそれ自身が出現することができるようになった、と論じることはできるであろう。

WEFは、流行製造者であることを誇りに思っている。事実、流行を作っている。1971年に非政府組織(NGO)として始まり、最高のそして最も聡明な世界的権力エリートを一堂に集めている。1000人のビジネスリーダー、20人の政治指導者、250人のアカデミックリーダー、250人のメディアリーダーが、少数の労働・社会正義・エンターテイメントのリーダーと共に集まっているのである。彼らは、有権者や大衆が指導者だと言ったから指導者なのではない。その富・影響力・権力、そして、これら三つを維持できるようにしている先見の明という点で、指導者なのだ。このことが、地球規模化している世界がどこに向かっているのかを予見することに最も熟達し、したがって、その方向性の舵とりを最もよくできる人々が、WEFの流動的で、必要ならば、簡単に再構成できるメンバー(エンロンのケン=レイが即決で招待されないことになったことを目にしている人もいる)を構成するであろう、ということを保証しているのである。こうした特権を持った少数者は、空間も場所も、地理も国民国家にも限定されてはいない。彼らは自分自身にのみ説明責任を持ち、それが自己利益に役立つときにはお互いに対して説明責任を持っているだけなのだ。WEF自身の言葉を使えば、このNGOは『政治的、党派的、国家的利益とは無関係である』−−もっとも、『恩義を受けていない』という言葉の方がもっとよくこの団体を記述しているのだろうが。これこそ、この団体が促している資本主義と同じぐらい多国籍で融通を持っているのである。その極端に排他的で、私的地球規模クラブハウスの中で、WEFメンバーのゴージャスな飲み仲間たちが、現実世界の経済的・社会的政策を法的に定めているのだ。

一人の偶像的WEFメンバーを例に取ってみよう。ビル=ゲイツである。彼の目的はお金だけではない。8年間、彼は既に世界で最も金持ちの個人だったのだ。さらにあからさまなことに、人間がどのようにして電子的にコミュニケーションを取るかを決定する権力をほぼ独占主義的に確立しながら、今やゲイツは博愛家のような方向転換をした。彼は、幸福に関する自分のヴィジョンに資金をつけることで万国と全大陸に対してさえもヘルスケア政策を決定しようと忙しくしている。この大がかりなジェスチャーには、自分の大企業仲間の薬剤デザイナーの健康的投薬に大衆を依存させよう、特に自分の寄付がなくなった後にはその投薬に依存させよう、という意図が含まれている。彼が慈悲深き動機を持っていたとしても、何百万という人々の体について何が最も良いかなど誰が分かるというのだろうか?急進的フェミニストが以前から主張していたように、人の体に及ぼす制御は、健康だけでなく、自己決定と社会的自由とも関係しているのである。

多くの国民国家の「代議制」民主主義は、少なくともWEFを食い止める方法としては、比較的良いものに見え始めている。だが、そうした同じ民主的だと言われている国々は、厚かましくも非民主的な多くの国々と共に、WEFそれ自体の活動とのパートナーであり、また、その活動下にいることが多いのである。弱々しい最初の三年間でさえも、WEFは、1973年に、『質素に始まり』、『世界規模のビジネス・政府のやり取りに対する指導的共有領域へと成長』することを既に主張できたのだった。そのヤッピー的全盛期である現在、このNGOは諸国−−ラテンアメリカ・中東・アフリカ諸国から東欧・欧州中部・アジア・北米にすら−−を統合することで、その筋力を制度的枠組みへと発展させ、いわゆる国際共同体に充分先んじていることが多かったのである。『ビジネス・政府・市民社会の世界的指導者の初めての会合』として、WEFのような自律的超国家団体は、国民国家の権力を制限することを期待していたのであって、その逆ではなく、そして、次第にそれを行うための影響力を持つようになっている。これが、ぼんやりとはしてはいるが、永続的に鮮明になる組織的輪郭なのである。その組織は、一つの世界・非政治的統治という潜在的形態に向かい、そこでは、有権者だけでなく、倫理的考察・文化的制約・反資本主義集中行動にさえも妨げられずに、少数の個々人が、売買関係という最優先事項で善悪を判断するのである。

この文脈で、WSFが、WEFとより良い世界キャンペーンに反対している一つの有望な候補者として開催された。WEFに対して社会的に志向した平衡力として8つのNGOが協力することで、WEFのダボス会議中に、WSFが昨年初めて開催されたのだった。今年も、このブラジル会議はWEFに意図的にぶつけて開催された。『新自由主義モデルに対する代替案』を求めている全ての人々に対する『議論のフォーラム』として、WSFは『その国民からの委任を受け、これらの議論から生まれたコミットメントに参加することを決めた政治的な責任のある立場にいる人々』とともに『世界の全ての国々から市民社会の組織と運動を(中略)一堂に会し、連結する』。確かに、WSFと、この代替フォーラムに参加した人々は、再びWSFの言葉を引用すれば、『社会は、人々のニーズを満たし、自然を尊重する経済活動と政治活動を中心に構築されているということ全てに特別な価値』を置いている。そして、多く必要とされている社会正義活動は、WSFの比較的(他の地球規模集会と比べて)オープンな会議から出現しており、今後も出現するであろう。

だが、意図的かどうかに関わらず、その代替案としてWEF会議に対応させようとするときに、WSFはそのヒエラルキー構造をも模倣してしまっている。WSFも、その日常生活に影響を受けている人々に対していかなる説明責任もなく、そうした人々からかけ離れた、地球規模のアジェンダを創り出そうとしている超国家的・非政府的団体なのである。WEF同様、WSFも地球規模で影響を持つために−−この場合は、「非営利」や「運動」の諸派閥にいる人々の−−インフォーマルで流動的で中央集権的なネットワーク環境を提供しているのである。こうした世界舞台における影響力は、WEFについて良く知られているように、すぐに、国民国家の影響力に匹敵する、もしくはそれを越えた権力へと変形する可能性があるのだ。

二年という短い期間で既に明らかになっているが、一旦、WSFの年次会議が社会的な関心を持った指導者の初演舞台集会として見なされると、その声明は異常なほどの政治的重要性を持つようになり、その「議論」は公的政策に関する計画を詳細に立てるようになる。大規模で官僚主義的なNGOが、永続的にその数を増やしながら、WSFに群がり続ける。活動家や零細資金で運営されている地域に根差した組織とは異なり、大規模なNGOは、毎年会議を開催でき、その合間には、組織編成の評議会メンバーとしての機能を果たすことができる。そして、こうしたNGOが、草の根グループと急進主義運動の関心事を当初から制限しながら、WSFで議論されるテーマと戦略をほとんど設定するようになる。それ以上に、こうしたNGOは、自分たちの社会変革の概念を実施するために、最低限、政府と大企業−−政府と大企業は、こうしたNGOに参加していたり、金銭的に支援していたりするものだ−−に対するロビー活動の資金的・組織的リソースを持っているのであり、その結果、現状とうまく調和する「変革」を確実にできるようにしているのである。もしくは、ビル=ゲイツ風に、NGOは、WSFの年次会議で自分たち自身が発達させた考えを、地球規模の社会サービス計画を通じて、直接実施しようとすることもできるであろう。こうしたNGOは自身のアジェンダを持っているため、その計画は、いつも、政治的・社会的・文化的値札を持つことになる。私的な非政府団体として、NGOは、参加型プロセス・説明責任・透明性について心配する必要はないという事実がなかったとしたら、このことは問題ではないかも知れない。代議制民主主義などこの程度であり、地域管理も、公的精査すらないのである。

既に今年そうだったのだが、その正なる実体によって招かれてさえいる世界規模の影響力をWSFが増加させるにつれ、WSFはWEFに対する挑戦に着手している。WSFは、多分、残りの我々とよりも、WEFと充分類似した精神を認めることができるであろう。このことは、WSFの使命それ自体と何らかの関わりがあると思われる。WSFの使命の中では、WEFの使命が巧みに逆さまにされているのである。WEFが全てを経済的レンズを通して見ており、したがって経済成長を妨げている場合にのみ社会問題に関心を示す一方で、WSFは全てを社会的レンズを通じて見ており、したがって社会正義を妨げている場合にのみ経済的問題に関心を示す。例えば、WEFは、様々な国々での飲料水・教育・移動手段の欠如を問題視しているが、それは、こうした基本的必要物が経済的拡大に必要不可欠なインフラストラクチャーとしての役割を果たしているからなのである。(さらに、全くの貧窮が、非常に精力的な市場を創り出すことはなく、始末に負えなくしさえする可能性があるからである。)逆に、WSFは経済搾取を減少させようと努力しているが、それは、経済搾取が仕事・食べ物・住宅といった生活の基本への民衆のアクセスを制限しているからである。したがって、社会経済学、もっと正確に言えば資本主義は、相反する二つの目的に使われうるのである。WEFの目には、それはビジネスにとって良いことであり、WSFの目には、逆に社会正義をもたらす手助けをしうるわけだ。WSFは様々な目的の中でも最良のもの−−公正なやり方で人間の欲望を満たすこと−−を示している。だが、それは資本主義社会内部で獲得できる可能性(例えば、高賃金)を受け入れているのであって、今日の社会的諸関係が生み出しうる可能性やその諸関係を取り除く可能性(賃金システムを終焉させるといった)ではない以上、可能なはずのもう一つの世界は制限され、既に傷つけられてしまっているのである。

このように考えれば、WSFは、国民国家と国際諸機関と連携を取ることで、社会的平等を確保しようとしているのである。例えば、WSFは、今年、地域当局フォーラム(Forum of Local Authorities、ここには、大都市の市長と行政関係者が参加している)と世界議会フォーラム(World Parliamentary Forum)に参加した。こうした政治指導者たちは、WEFに参加者を送り込んだ同じ国々からやってきている。大部分の政治指導者は、投資・コンサルティング・役員の座を通じて軍部−企業複合体と、親密ではないにせよ、友好的な関係を持っているのである。そして、それらは、社会的不公正を犯す手助けをしている同じ政治実体を代表しているのである。真に、WSFは「民主主義的」(代議制の)諸国家と国際諸団体への市民参加を高めたいと思っており、このことは多くの人々にとって改善となるであろうが、それにも関わらず、さらなるインプットがあったところでそれは現実の力などではないのだ。「参加」など、民衆に、権威を持った立場にいる人々に耳を傾けてもらう立場をついに持ったと感じさせることで、民衆運動をグシャグシャに潰す上品なやり方に過ぎないのだ。権威を持った人々が注意深く耳を傾けるのは、民衆の不満を中和するのに充分なだけその関心事を取り込むためでしかないのである。だが、トップにいる人々がそれでも最終決定権を持つようになる。この戦略は、WSFの国際会議(International Council)に垣間見ることができる。『年次の中央集権化されたWSFイベント』を継続して開催するが、『WSFは世界的な性格を帯び、さらなるサポート(つまり、権力)を獲得している』以上、『全ての大陸からより多くの参加を促すために地域におけるより多くの動員がなければならない』と、2002年1月28日〜29日に決議されたのである。

もし、WEFとWSFのような説明責任を持たず、言質に縛られない超国家的団体が、民主的共和国で選ばれたいわゆる公僕よりも「公的な」政策をうまく決定できるのだと証明されるなら、参加はさらに意味のないものになる(国民国家を強力にすべきだという回帰的要求をするように人々を導きながら)。影響力を持った少数は、人間性にとって何が良いことなのかを、世界の諸民族の大多数よりも良く知ることができる、完全無欠の「指導者」として自分を設定するであろう。大多数の人々は、自分が住みたいと思う社会を形成することから完全に閉め出されてしまうのである。実際、申し立てによればより良い社会に投票すると言われているWEFの「大企業市民権」(corporate citizenship)という概念に不気味なほど似ているのだが、WSFは、「惑星的市民権」(planetary citizenship)を企図しているのである。どうか教えてほしい。誰が、この世界規模の市民性を統治するのだろうか?

それがいかに高貴なものであろうとも、社会正義をもたらすというWSFの使命に失われていることは、自由それ自体・自己決定・自己統治という正なる概念である。それらなくしては、いかなる社会正義も有り得ないのだ。確かに、WSFの有り得べき世界は、WEFのそれよりも遙かに望ましいものであろう。だが、WEFに敵対しようとする中で、WSFは比較的優しく穏やかなトップダウン型意志決定を提供することができているに過ぎず、したがって、本物の代替案を全く提供してはいないのである。

このことが、上記したヴォイス誌の記事で探求されていた反権威主義的『激情の保持者』に我々を引き戻す。この文章で、著者エスター=カプランは次のように述べている。アナキストは、『単にその政策が貧困者を搾取するからではなく、その権力が不合理だから、WEFに』敵対している。『(アナキストは)富と権力が分配し直された、国民国家のない平等主義的社会を心に描いており、この傾向の下でその諸制度を設計しようと大きな努力をしている。』デヴィッド=グレーバーもIn These Times誌に掲載された一編で次のように述べている。WEF会議中の反資本主義集中行動が示したことは、『そのイデオロギー(として)急進的に権力分散された直接民主主義の新しい諸形態である。他に取り柄はないけれども、「悪い」抗議者たちは、(ヒエラルキー型)NGOや労働組合ができることを、自分たちが多分もっとうまくできることを証明しようとしていたのだ。』

NGOと社会正義活動家が、ポスト9.11の雰囲気にある恐怖・ブラジルでのもっと知名度が高く安全なWSFの一部になりたいという願望からWEFデモを救い出したように、様々な反権威主義者たちはシアトルで(再び)生じた合州国直接行動運動の統治権を手渡されていたのである。彼らは、要となるニューヨーク市集中行動の主たる組織者であり代弁者になったのだった。だからこそ、メインストリームのメディアですら、この集中行動をレポートしようとすれば、アナキストの信念とヴィジョン−−もちろん、これらはずっと昔から存在し続けていたわけだが−−をカバーしなければならないことにさえなったのだ。そして、大企業プレスが通常悪魔的に扱っている(「拳の法」と題されたヴォイス誌の記事もそうであり、この記事は基本的にアナキストを「アルカイーダのような」とレッテル貼りしていた)にも関わらず、アナキズムは公に資本主義に敵対し、同様に、公に直接民主主義を求めていた、という充分一般的な主張となったのである。このことは、参加者自身の中で特にそうであった。反権威主義者にとって直接民主主義には、コレクティブと親和グループから、労働者評議会や隣近所評議会までの全てを含むことができ、権力を草の根に保持し、自己統治は未来の社会組織だけでなく現在の社会組織の重要部分にならねばならない、ということに大部分が一致しているネットワークや連邦の中で活動するのである。過去数年間の北米集中行動のどこにも、今回ほど、このことが明白で、公のものとなっているものなどなかったのだ。

抵抗と再構築が失われる兆候を示す代わりに、ニューヨークのデモは、その人がアナキストかどうかに関わらず、社会的・政治的論争に関する反権威主義者の諸概念を「ノーマル」にしたのかも知れない。WEF集中行動以前とその最中における本質的に参加型の意志決定プロセスの使用は、完全ではないにせよ、それでもなお、9月11日、特にニューヨーク市が生み出した感情に対して敏感な、したがって、思慮深く地味で控えめな街路戦術を決定することができたのである。メディアと警察は言うまでもなく、デモ参加者にとっても比較的退屈だったが、この明らかに反資本主義イベントは、抵抗行動が9月11日の悲劇後に再び許されるものであるというだけでなく、新しく、急速に結合している地球規模の権威主義という点でますます必要かつ勇敢なものである、ということも再び主張したのだった。もっと重要なことに、この集中行動は、解放的代替案の正しさを立証し、妥当なものにする手助けをしたのだった。

こうした代替案は、最近、反資本主義集中行動と局所的なアナキストプロジェクトだけでなく、9月11日の直後にユニオン=スクエアへの様々なニューヨーク市民の自発的集まりから、アルゼンチンの中産階級による抗議行動で鍋とフライパンを叩くことまで、瞬間的だが鮮やかに明滅していた。だが、自己組織の願望を触媒するだけでは不充分である。世界のWEFとWSFが、自分たちで中央集権化された権力を獲得しようと決闘しているように、アナキストは、二重権力としての民衆自主統治を求めて闘争せねばならず、同様に行動している人々を支援しなければならないのだ。

サパティスタは、それ以前の革命家と同様、「民主主義・自由・正義」の諸宣言が共鳴していることを示してきた。だが、彼らは、同時に、地域的・地球規模の連帯と相互扶助の連結を維持しながら、自治体が治国策と資本から自律的になり、人間と生態系の重要事を第一に置くことにつとめることができることを証明したのだ。こうしたことは、反権威主義者の社会変革ヴィジョンに由来している二重権力形態の一つなのである。まだ生まれたばかりだが、他の兆候もある。欧州社会コンサルタ(European Social Consulta: ESC)とアルゼンチンの隣近所集会である。ESCは自分自身を急進的だと既に見なしている人々が意図的に組織し、隣近所集会はそれ以前には自分を政治的だとは見なしたことがなかった人々が有機的に確立してきたものだが、どちらも、全ての人が、善い社会を自分で規定し、自分で管理し、自分で裁くことができるということを示しているのである。

ESCは、このことを地域と地方のグループや社会運動を『水平で権力分散型』で連結する共通のミーティング空間を創造しようとすることで、明確にこのことを行っている。ESCが計画したホールマークが述べているように、このことには、『社会変換の諸道具として、批判的熟慮・議論・直接行動・現行システムに対する代替案の開発の要求』を必要としている。資本主義の拒絶だけでなく、『あらゆる支配と差別の形態とシステム』を拒絶することが必要なのである。重要なことだが、その内部構造と、全体としての社会に関係しようと期待している方法の二つにおいて、ESCは、『直接的で参加型の民主主義と、自分が住みたいと思う世界を創り出し、自分に最も影響を与える決定に積極的に参加する全ての人間の能力』を肯定している。まだ形成段階にあるが、ESCは、それ自身の熱望に従っていきることができなくなるかも知れないし、ましてや急進主義者の小さなサークルを越えて広がることができなくなるかも知れない。だが、当分、ESCは、もう一つの可能な世界を作り上げることを目的とした予示的努力の刺激的な実例なのである。例えば、ESCの提案の一つは、2004年の欧州選挙で、欧州レベルの社会コンサルタに、地域諸集会であげられた諸問題をひとまとめに持ち込み、そのことで、直接民主主義を疑似代議制民主主義と劇的に対比し、このプロセスにおける二重権力諸制度を露わにすることなのである。

アルゼンチンの隣近所集会運動は、既にそれだけで自己を主張している。絶望と無力感の渦巻いた感覚が結合して、人々を、街路に出て大声でデモを行うようにさせただけでなく、次に−−地域・国家・地球レベルで−−行うことについて自分の隣近所に権能を与えながら対話するようにしたのである。2001年12月後半以来、50の隣近所が、毎週会議を持ち、隣近所間全体調整集会に毎週日曜日代表者を送っている。アナキズムの「アルゼンチン=リバータリアン連合地域評議会」に依れば、集会は、『失業者・不完全雇用者・資本主義社会から排除され社会から疎外されている人々が作ってきた。そこには専門職・労働者・小売業者・アーティスト・職人がおり、それらは皆隣人同士でもある。』「リバータリアン連合」が書いているように、『会議はオープンで、希望する人なら誰もが参加できる』そして、全ての集会に共通していることは、『権力の非代理化・自主管理・水平構造』である。これらの集会が、昔ながらのいつもの政府構造の改良版に向かう参加型踏み石として機能するのか、それとも、アルゼンチン人に公的政策を、いつでも、共に形成する自身の能力の一端を供給するのかを言うのはあまりにも時期が早すぎて難しい。だが、現在のところ、「リバータリアン連合」は、『我々の社会における恐怖は、勇気へと変わってきた(中略)全てのアルゼンチン人は、現在、自分の自由を妨害してきたのは誰なのかをはっきりと分かっていると期待できるだけの理由があるのだ。』

最悪の場合、こうした壊れやすい実験は、社会・経済・政治・文化に関する反権威主義的な決定方法は確実な代替案であるということを、将来の世代に思い起こさせる役割を果たすことになるだけかも知れない。最も良い場合、古い形態の支配だけでなく、新しい形態のものとも争い、多分それらに置き換わりさえできる二重権力へと拡大するであろう。アナキストとアナキスト的精神を持った人々は、今日可能なことを越え、途方もなく素晴らしい明日を示す聖火を手渡されてきたのだ。今、我々は、それを手にどれだけ遠くまで走ることができるだろうか?

Sources:

1. Esther Kaplan, "Keepers of the Flame," Village Voice, 5 Feb. 2002 (www.villagevoice.com/issues/0205/kaplan.php).

2. World Economic Forum (www.worldeconomicforum.com).

3. World Social Forum (www.forumsocialmundial.org).

4. David Graeber, "Reinventing Democracy," In These Times, 20 Feb. 2002 (www.inthesetimes.com/issue/26/08/feature3.shtml).

5. Richard Esposito, "Law of the Fist," Village Voice, 22 Jan. 2002 (www.villagevoice.com/issues/0204/esposito.php).

6. European Social Consulta (www.consultaeuropea.org).

7. Argentine Libertarian Federation Local Council, "Argentina: Between Poverty and Protest," trans. Robby Barnes and Sylvie Kashdan (www.ainfos.ca/en/ainfos08566.html).

Thanks to Rob Augman for his helpful comments. Cindy is a faculty member at the Institute for Social Ecology (www.social-ecology.org), a board member for the Institute for Anarchist Studies (flag.blackened.net/ias), and a columnist for Arsenal: A Magazine of Anarchist Strategy and Culture (www.azone.org/arsenal). She can be reached at cbmilstein@aol.com. (March 2002)


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