ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第四章
ドゥルティの友の起源:軍隊化への反対とジャーナリストとしてのバリウスの経歴

ドゥルティの友グループは1937年3月17日に正式に発足した。だが、その起源は1936年10月に遡ることができる。このグループは二つの大きな潮流の結合だった。ドゥルティ縦隊(そして、「鉄の縦隊」(原註1))のアナキスト闘士の一部による人民義勇軍の軍隊化への反対、そして、政府主導主義に対する反対である。政府主導主義への反対を最も上手く公言していたのはハイメ=バリウス(彼だけではないが)の著作であり、1936年7月から11月の「労働者の連帯」、1936年12月から1937年4月の「思想」、1937年3月から5月の「」に掲載されている。

パブロ=ルイスに代表される人民義勇軍の軍隊化を拒否する「民兵」潮流と、ハイメ=バリウスが先頭にたっていたCNT−FAIの政府協力への「ジャーナリスト的」批判、どちらの潮流も、程度は様々だが、特にフェデリカ=モンセニー・ガルシア=オリベル・アバド=デ=サンティリャン・ヒュアン=ペイロに具現化されていたCNTの状況主義的(circumstantialist)イデオロギー(これは、アナキズムの本質的・根本的特徴を放棄したことに対するアリバイとなっていた)に反対していた。

人民義勇軍軍隊化の拒絶は、幾つかのアナキスト民兵部隊で大きな困惑を引き起こし、1937年2月5日から8日にバレンシアで行われた連合とアナキスト縦隊の総会でハッキリ述べられた。(原註2)パブロ=ルイスは軍隊化に抵抗していたヘルサ支部のドゥルティ縦隊闘士の代理人として出席し、フランシスコ=ペリィセルは「鉄の縦隊」の闘士を代表して出席した。(原註3)ヘルサ支部はCNTとFAIの地方委員会から受けた軍隊化を受け入れるようにという命令に従うことを反抗的に拒絶した。軍隊化を受け入れたドゥルティ縦隊の闘士達とそれを拒絶した闘士達との間の峻烈な関係は、重大な問題を引き起こし、最終的には、マンサーナを長とするこの縦隊の委員会を形成することになり、これが地方委員会と問題を引き起こした。こうした論議の結末は、全ての闘士が二週間の内に次の二つの行動方針の内一つを選ぶ、という決定だった。つまり、共和党政府が課した軍隊化を受け入れるか、前線を離れるか、である。(原註4)

1936年7月から内戦の終わりまでのバリウスのジャーナリストとしての軌跡は、非常に多くを物語っている。彼は、永久革命を擁護する政治的立場を取っており、これが本質的に変わることはなかった。その一方で、彼の職業的・個人的名声は、来るべき反革命の波と共に急速に変化していった。

1936年7月から11月初頭まで、バリウスは、友人であるヒラベルト以外の手助けを借りることなく、「労働者の連帯」紙が7月20日に登場するよう手配し(原註5)、CNTの主要機関紙であるこの紙面に多くの記事を載せた。記事の中には性質上純粋に情報提供を行うだけのものもあり(原註6)、これらはジャーナリズムの報道記事にふさわしいものだった。だが、多くの記事は、そして疑いもなく最も興味深い記事は、政治的見解の表明だった。これらの記事は「労働者の連帯」紙のレギュラーコラムを埋め(原註7)、時として、この新聞の論説と称して第一面に掲載された。(原註8)労働者の連帯」紙の政策方針の表現として署名なしに書かれた(原註9)幾つかの論説の著者がバリウスだった(1936年9月から10月に)ことはほぼ確実である。しかし、こうした論説の起草に彼がどれほど関わっていようとも、バリウスが、リベルト=カリェハスが編集長だった時代の1936年9月〜10月にカタロニアでCNT機関紙の紙面を通じて、CNTの主要日刊紙の政治的立場を形成するという非常に重要なイデオロギー上の役割を果たした事は全く疑う余地がないと断言できる。彼が記事の中で絶えず提示した強い主張は、7月の革命的利益の防衛、そして、そのために彼が強く要請した妥協を許さぬ断固たる鎮圧政策を徹底的に行う必要だった。後者について、彼は、フランス革命を思い起こしながら、ブルジョア階級からの反革命の脅威に対する「治安」対策と呼んでいた。(原註10)

1936年11月初頭に、リベルト=カリェハスは「労働者の連帯」の編集長から身を引いた。ハシント=トリオが代わって編集長に任命された。(原註11)11月初めに、ドゥルティがマドリー戦線に行き、四人の連合大臣が共和党政府に参加したことを念頭に置いて欲しい。トリオの指名は、「労働者の連帯」の編集長がCNTの状況主義・協調主義政策の断固たる推進派でならねばならなかったためであった。12月の終わりに、トリオは、バリウス・ミンゴ・アレハンドロ=ヒラベルト・ピンタド・ガリピエンソ・ボラス・ガモンなどからなる古いリベルト=カリェハスの編集チーム(公式的CNT政策に反対していた)をまんまと排除した。(原註12)古いチームの座は、ペイロ・モンセニー・アバド=デ=サンティリャンといった主要なアナルコサンジカリスト指導者や、レアンドロ=ブランコ(以前は君主制主義新聞の編集者だった)のようなトリオの忠実な友人からの寄稿、そしてカノバス=セルバンテスとサマコイスのような高名なる「革新主義者」の署名記事に取って代わられた。(原註13)

バリウスが「労働者の連帯」に発表した最後の記事の一つ(1936年12月6日)は、「ドゥルティの遺言」という題であり、ここで詳述する価値がある。この記事は、ドゥルティが11月5日にマドリーから行ったラジオ放送(原註14)に対する解説である。それからわずか数日の内に彼は死んだ。多くのアナキストに挑発的やり方で訴え掛けるように書かれたこの記事は、将来のドゥルティの友グループの基本的イデオロギー的支柱の一つとなるべきことを暗示している。つまり、あらゆるプロレタリア革命の全体主義的性格を、暗示しているのだ。

ドゥルティは単刀直入に述べていた。我々アナキストに必要なのは、革命が全体主義的性格を持つようにすることである。そして、ファシズムに対して戦場で粘り強く敢然と立ち向かう同志達は、この現在時が持つ革命的・解放的重要性を誰かに改竄させるつもりなどない。

(中略)ドゥルティの遺言は生きている。彼が我々に熱弁を振るった夜よりももっと大きな力と共に残っている。我々には、彼の最後の望みを現実にする責任があるのだ。

1936年12月29日、バホ=リョブレガト地方のCNT連合機関紙「思想」の第一号が出現した。バリウスは、実質的に「思想」の毎号に記事を掲載した。彼の記事は、反革命の進展をしつこく非難していた。(原註15)中でも、カタロニア自治政府大統領のルイス=コンパニイスに対する攻撃は突出していた。これは、1937年4月8日の「思想」第15号に、「革命を起こそう」という題で掲載された。(原註16)

思想」は「民衆の友」に直接先行していた。「思想」の全ての寄稿者(原註17)がドゥルティの友のメンバーだったわけではないが、レリダの「アクラシア」(無政府)(原註18)と共に、「思想」は5月に先行するアナキスト革命潮流の最も傑出した機関紙だった。

バリウスは地元労働組合連合から1937年1月26日に「」の編集者に指名された。「」は夕刊紙であり、労働者協同組合が運営していた。協同組合の労働者の大部分はCNTに属していたものの、これはCNTの組織的出版物ではなかった。

「ドゥルティの友グループ」という名を掲げた新しいアナキスト集団の目的とメンバー条件が初めて報告されたのは、1937年3月2日の「」においてだった。193月初頭から5月の出来事まで、「」は、このグループの公式機関紙にはならなかったものの、CNTの組織新聞ではないおかげで、ドゥルティの友がCNTの公式政策を自由に批判できる新聞となった。

最も傑出した記事は、疑いもなく、バリウスのものだったが、自治体と労働組合による経済管理という主題については、ミンゴの署名記事に勝るものはない。これらははドゥルティの友の政治理論において非常に重要な要素となっているからである。

1937年3月2日号において、バリウスは「注意せよ、労働者。一歩も後退するな。」と題された記事を発表した。この記事は、ニンの目に留まり、ニンは「戦闘」の3月4日号で、バリウスが示した見解を熱烈に歓迎した。また、ドゥルティの友グループの設立が同じ号で発表されたことに対しても、アナキスト指導者によって非常に愚かで非常に近視眼的な改良主義の道へと転落させられているCNT大衆に革命的刺激を与えることができる機会だという理由で、同様に歓迎していた。

幾つかのアナキスト集団で、戦争に勝つためには、革命を捨てねばならないという見解が次第に広がっていた。この記事で、バリウスはこの見解を激しく非難した。そして、有名な三〇人派の闘士ヒュアン=ペイロが署名した記事を露骨に引用した。反革命の襲来を記し、反革命が今や統制パトロールの解散を要求していることを記した後で、彼は、この原因はCNTが追求している継続的融和政策にある、と非難した。この記事は、この政策の修正を呼びかけていた。後衛で革命が前進している場合にのみ、前線で戦争に勝つことができるからだ。従って、この記事の題「一歩も後退するな!」は多くを物語っているのである。

1937年3月6日、バリウスは「」に「反革命の事態。中立的立場が要求されている。」と題された記事を発表した。この記事で、バリウスは、カタロニア自治政府が設定した新しい治安部隊の特徴をリストし、この部隊が資本主義国家に仕えるブルジョア部隊と同じだと見なし、労働者の最も基本的利益にとって有害だと述べた。

1937年3月8日に、バリウスの典型的スタイルの記事が「」に掲載された。ニュースと意見を抜け目なく織り交ぜて、バルセロナ住民ですし詰めとなった列車が食料を求めて田舎に出発する光景を記録していた。客車に群がる人々を記述することで、バリウスは、生活必需品の提供について新しく採用されたアプローチを激しく非難した。このアプローチは、スターリン主義の指導者コモレラが導入したものだった。

1937年3月11日号の「」は、ドゥルティという人物を哀悼する記事を掲載した。バリウスは、ドゥルティが死ぬ数日前にマドリー戦線からラジオを通じて行った演説を思い起こした。この演説で、ドゥルティは、後衛が戦争をその核心にまで持ち込めなかったと非難した。ドゥルティが考えたように、解決策は、適切に攻撃し、ブルジョアを守備隊へと入隊させ、全ての労働者を戦時体制下に置くことである。バリウスによれば、ドゥルティの死後、王にふさわしい葬儀が行われたが、誰も彼の論法を真剣に考えはしなかった。その結果、内戦は独立戦争であり、ドゥルティが呼びかけた階級戦争ではないという主張が聞かれ始めた。これがこのジャーナリストの結論だった。バリウスは、ドゥルティはこれまで以上に今日的意味を帯びており、彼の思想に同意しなければ、彼の記憶に誠実ではあり得ない、と主張してこの記事を終えていた。

次の日、3月12日に、バリウスは「ラルゴ=カバリェロによるコメント:反革命進行中」と題する一編を「」に掲載した。その中で、彼はこのUGT指導者の様々な声明を批判し、それらを反革命だと述べた。それらの声明は、戦争に勝つとすぐに企業の集産化と社会化を廃止し、7月19日以前の状況に戻そうという意図を認めていたからである。

1937年3月13日の「」において、バリウスは「戦争をしなければならない。未来は戦争を必要としている。」と題された記事を掲載し、戦争経済を要求し、カタロニア自治政府の経済政策を批判した。

バリウスの記事「ファシストの蛮行。我々は武力を行使せよ。」(1937年3月16日「」)は、バルセロナの空襲に言及し、大使館を経由した難民の交換を攻撃し、第五縦隊を一掃するよう要求した。彼は、自警団委員会の設立さえも勧めた。この著者の結論は、後衛の即時的浄化が緊急を要し、戦争に勝つために必要な前提条件だ、というものであった。

後衛では全く浄化が行われていない。(中略)ファシストは莫大な数で未だ健在である。(中略)我々の敵は一網打尽にし、抹殺されねばならない。(中略)民衆正義の火を弱めようとする人は、誰であれ革命の敵である。最大の勢力を尽くして行動しよう。我々の優しい心を顧みず、腕力を示そうではないか。

」の3月18日号には、ドゥルティの友の正式な発足を報告する折り込み広告が入っていた。フェリクス=マルティン(マルティネス)がこのグループの書記として、ハイメ=バリウスが副書記として、ホセ=パニアガ・アントニオ=プイグ・フランシスコ=カレーニョ・パブロ=ルイス・アントニオ=ロメロ・セラフィン=ソビアス・エドュアルド=セルベラが運営委員のメンバーとしてリストされていた。

1937年3月23日、バリウスは「」に「具体的になる時だ:スペイン革命におけるカタロニアの役割」と題された記事を発表した。その中で、彼はカタロニアのプロレタリア階級の役割を、マドリーなどスペインの他の地方のように即座の戦争ニーズに妨害されていない、徹底的社会革命の原動力だと擁護した。

3月24日号で、この新聞は、ドゥルティの友グループのメンバーであり、縦隊の軍隊化に反対するヘルサ義勇軍のスポークスマンであるパブロ=ルイスの非常に長いインタビューを掲載した。パブロ=ルイスについて、私達が知る限りの、短いが興味深い略伝をここで紹介しよう。1933年1月8日、彼はフィゴルス革命委員会のメンバーだった。7月の出来事の際にはラス=ロンダスとパラレロにおいて40人を率いて戦った。アタラサナス兵舎の包囲と突入にドゥルティとアスカソと共に関わり、ドゥルティ縦隊に参加してアラゴン戦線へと出発した。それ以来、ヘルサ地区で現地任務に就いていた。アラゴンのアナキスト農民集産体の長所と利点を賛美した後、このインタビュアーは、軍隊化に関する彼の意見を尋ねた。彼の答えは、熟考され、慎重で、微妙な意味合いを持っていた。だが、同時に、全く一貫しており先鋭的だった。あたかも、アナキズム思想と、ブルジョア階級と共和党国家に指揮された戦争との間にある両立不可能性を強調していたかのようだった。

軍隊を再編する事に対して、我々も異論はない。一つの共通指揮を真っ先に呼びかけていたのは我々だったことを思い出して欲しい。(中略)様々な縦隊からの代理人を通じて、縦隊全ての行動に均質性を確保する。再編を進めていこう。だが、人民軍をカタロニア自治政府や中央政府の奴隷にならないようにしよう。人民軍は連合の管理下になければならないのだ。

このインタビューで、パブロ=ルイスは、7月の革命的利益から一貫して退却していること、そしてドゥルティの友が始まることをほのめかしている。

我々が前線を離れたとき、革命が、アナキズム的意味での勝利に向けて確実に行進するようにすることを、同志たちに任せた。だが、この革命を念入りに作り上げる中で、革命に何の愛情も抱いていないブルジョア諸政党に一つの役割が与えられてきた。つまり、そうした諸政党の課題は、プチブルジョア階級の利益と、我々と比べてカタロニアでは非常に少数の支持者しかいないUGTの利益とを擁護することだった。(中略)彼らと同盟を結ぶことで、我々は革命に対する主導権を失い、日を追う毎に妥協しなければならなくなった。その結果、当初の革命的利益が少しずつ削られていくに連れ、革命は損なわれてしまっている。

このことから抜け出すために、ドゥルティの友が形成された。つまり、この新しい組織は、CNT−FAIの前提条件を無傷のまま保持することを第一の目的としているのである。

パブロ=ルイスは、革命を正しい軌道に戻す方法について自身の見解を示してこのインタビューを締め括っている。第一に、CNT内部で、暴力に訴えずに、プロパガンダを行わねばならない。第二に、労働組合(CNT)による経済の方向付けを働きかけねばならない。第三に、政治的諸政党を無視しなければならない。第四に、反革命を心に抱く勢力−−つまり、PSUCとUGT−−とは同盟も妥協もしてはならない。

経済と社会の方向性は、労働組合組織(CNT)に委ねられねばならない。政治政党の出る幕ではない。何故なら、政治政党は革新的だと見なされる基準を満たしていないからである。こうしたことは一つとして武力を通じた強制を意味しているのではない。むしろ、CNT集団内部でのプロパガンダを通じて課すことなのである。(中略)私は政治政党の関与には反対である。政党の関与は、革命の敗北を伴うことになると確信している。政党の関与は、革命に何の愛情もない少数派のグループと妥協することなく、あらゆる手段を使って告発しなければならない。

バリウスは「革命には要件がある。全ての権力を組合へ。」と題された記事を発表した(「」1937年3月27日号)。その中で、彼はカタロニア自治政府の長期化した危機を扱った。革命機関としての労働組合という彼の見解は非常に興味深い。カタロニア自治政府の危機を二重権力状況を特徴付けている緊張関係の産物として類別した。カタロニア自治政府は法律を作り判決を下したが、組合はカタロニア自治政府の決定に取り合わなかった。バリウスの見解では、革命を前進させ、確固たるものにするためには、権力が労働者階級に移動しなければならず、これが次のスローガンに要約されたのであった。「全ての権力を組合へ」

バリウスは「歴史的瞬間。絶対的ジレンマ。」(「」1937年4月5日号)と題された興味深い記事を書いた。この中で、彼はカタロニア自治政府の危機の重大性を精査した。バリウスの考えでは、カタロニア自治政府は過去の遺物であり、新しい革命的ニーズと調和しない。

カタロニア自治政府は過去の遺物である。あらゆる不一致・動揺・偽善を伴うプチブルジョア体制の遺物である。

つまり、バリウスによれば、カタロニア自治政府の危機を解決するにはただ一つの方法しかなかった。政府職員の変更は何も達成しない。バリウスはCNTに対して、カタロニア自治政府を労働者権力で置き換え、反革命諸政党を消滅させるという訴えを暗に行いさえしたのだった。

我々は悲観論者ではないが、この挑戦に対応できなかった、と誠実に信じている。

このジレンマを回避することはできない。プロレタリア階級の未来には英雄的決定が必要である。革命を窒息させようという組織が存在するなら、我々は歴史的瞬間の責任を負う用意ができていなければならない。この責任は、まさにその壮大さ故に、現在時と調和する一連の方策と決定を前提とする。

革命と共にあるか、革命に反対するか。中間点などあり得ないのだ。

4月7日号の「」に、バリウスは「この重大なときに。主権を民衆に。」と題された記事を書いた。この中で、彼は、4月5日号の記事で詳述した観点を改めて表明し、コンパニイスに対する攻撃を繰り返した。

」にはミンゴによる幾つかの記事が掲載された。(原註20)驚くほどの情熱を持って、反革命の進展について警鐘を鳴らし、アナキズムの革命的精神(これは、政府の協調主義とは絶対に相容れず、協調主義は直ちに止めるべきだった)を褒め称え、連合を常に中傷していたUGT・PSUC・コモレラ・コンパニイスを攻撃し、カタロニア自治政府を廃止する決定的必要性(バリウスが詳述したように)があることに同意し、民衆の間で成長しつつあるイライラを反響していた。ただ、こうした記事の中で最も興味深いのは、自治体に託した記事だった。彼の思考は(ここではその要点を述べるに留める)5月以降の「民衆の友」でドゥルティの友が示した綱領に十全に詳述されることとなる。この記事(原註21)の中で、ミンゴは次のように述べている。

自治体こそが、正真正銘の革命政府である。

ミンゴによれば、1936年7月19日以来ずっと、カタロニア自治政府は不要であった。今や政策といえば、経済政策だけであり、これは労働組合の分野であった。従って、ミンゴによれば、労働者が運営する自治体こそが、労働者によって管理された経済政策と共に、国家の後を引き継ぐことができるのであり、引き継がねばならなかった。

日刊紙「」の1937年4月14日号で、バリウスは、共和国宣言の一周年を記念して、「歴史的日付。4月14日。」という記事を発表した。この中で、共和国が宣言された日のプチブルジョア的性格を強調し、右翼であろうと左翼であろうと、マシアであろうとカンボ(二人とも、カタロニアのプロレタリア階級による脅威に直面して国粋主義をやめると誓った)であろうと、カタロニア独立主義を攻撃した。

こうしたバリウスの記事(そして、ドゥルティの友の他のメンバーによる記事)こそが、非常に多岐にわたるトピックス−−一般的には政治的見解−−だけでなく新しい内容にも触れ、CNTの強調主義政策に反対する重要な潮流を一つにまとめる漆喰だった。このことは疑う余地がない。バリウスは単独の批判者ではなく、最も傑出した批判者の一人であり、そしてもちろん最も一貫し、理路整然とし、急進的な批判者であった。バリウスの長所は、義勇軍の軍隊化に反対する多くの闘士グループの支持を得ていたことにある。こうした闘士達の結合は、CNTの強調主義政策に反対する他のアナルコサンジカリストと共にパブロ=ルイスが主導した。この結合の政治的見解は、バリウスの記事と批評において理論的に明言されたのである。こうした見解は、1937年4月後半を端緒とするポスターに示された綱領に結晶することとなり、5月の事件以後に出版された「民衆の友」紙にもっと詳細に説明されることになる。

要約しよう。ドゥルティの友グループの形成は、公式的には1937年3月17日に着手されたが、その起源は、人民義勇軍の軍隊化に関するカタロニア自治政府の布告によって民兵集団に創り出された深刻な苛立ちに遡ることができる。つまり、ドゥルティがまだ生きていた1936年10月後半に遡ることができるのである。その反面、バリウスはジャーナリスト・アナキズムのイデオローグとして1935年には突出するようになっていた。国粋主義に関する興味深い理論的寄稿・カタロニアのブルジョア階級の政治活動に対する激しい批判・マシアとコンパニイスに対する攻撃・デンカスとバディアに具体化されたカタロニア独立主義ファシズムの暴露・カタロニアで起きた1936年10月の出来事のCNTの観点からの分析によって有名だった。ハイメ=バリウスとパブロ=ルイスの協力には何ら新しいものはなかった。彼らは、既に共同でパンフレット(原註22)を書いており、二人とも同じアナキスト親和グループ「レナセル」に属していたからである。この親和グループの名前は、1936年7月以前にバリウスのパンフレットを発行した出版社の名前であった。(原註23)ハイメ=バリウスとパブロ=ルイスに加え、「レナセル」にはフランシスコ=ペリィセル(内戦中に「鉄の縦隊」の代理人となる)とブルーノ=リャド(内戦中にサバデル市議となり、カタロニア自治政府経済省の地方代理人となる)もいた。(原註24)


第四章の原註

1. 「鉄の縦隊」についてはアベル=パスの素晴らしい研究「Cro'nica de la Columna de Ferro」(Hacer, Barcelona, 1984)を参照。1936年9月と10月に、「鉄の縦隊」は後衛(バレンシア市)の浄化に関わる衝撃的事件に参加した。国家に仕えている武装兵団の武装解除と解散、そして現場へのメンバーの派遣という要求に応えるべく前線からバレンシアへ移動したのである。義勇軍軍隊化の拒否は、他の全ての連合縦隊同様、「鉄の縦隊」内部でも論議された。結局、この縦隊の集会は軍隊化を承認した。そうしなければ、武器・給料・食糧をもらえなくなるからだった。しかしまた、縦隊が解散した場合には、民兵が他の既に軍隊化された部隊に入隊しかねない危険もあった。

2. フランク=ミンツ著「La autogestio'n en la Espan~a revolucionaria」(La Piqueta, Madrid, 1977)295ページ〜308ページ。アベル=パス著、前掲書、275ページ〜294ページ。ポール=シャーキー著「The Friends of Durruti: A Chronology」(Editorial Crisol, Tokyo, May 1984)。

3. ハイメ=バリウス・パブロ=ルイス・フランシスコ=ペリィセルは、1937年4月19日(日)にポリオラマ劇場でドゥルティの友が開催した会議を裏で仕掛けた主導的オルガナイザーであった。

4.」紙3545号(1937年3月24日)のハイメ=バリウスによるパブロ=ルイスのインタビュー;「民衆の友」第5号(1937年7月21日);ポール=シャーキー著、前掲書を参照。

5. "Ponencia que a la Asamblea del Sindicato presenta la seccio'n de periodistas para que sea tomada en consideracio'n y elevada al Pleno y pueda servir de controversia al informe que presente el director interino de Solidaridad Obrera" 1937年2月21日と22日、バルセロナ、ジャーナリスト部門の集会を代表して。[Archivo Histo'rico Municipal de Barcelona(AHMB)に保管されている文書]

6.労働者の連帯」に掲載された新しい記事の幾つかを参照。
"La ciudad de Barcelona" (August 18, 1936),
"En el nuevo local del Comite de Milicias Antifascistas" (August 23, 1936),
"Ha caido en el cumplimiento de su deber" (October 3, 1936),
"Los galeotos de la retaguardia" (October 4, 1936),
"Solidaridad con los caidos. . ." (October 9, 1936),
"Los pa'jaros de la revolucio'n" (October 16, 1936).

また、「労働者の連帯」の1936年9月号と10月号に、ミンゴ・フロレアル=オカニャ・ヒルベルトなどの署名で掲載された、バリウスの記事と同様の記事も参照。

7. バリウスのレギュラーコラムは "Como en la guerra" という見出しで、時として記事に署名がないこともあった。他にもコラム執筆者がいたが、エンデリスもレギュラーコラムを書いていた。

8. 一面に載ったバリウスの署名がされた記事の幾つかを参照。
"No podemos olvidar. 6 de octubre" (October 6, 1936),
"la revolucio'n no ha de frenarse. El le'xico de la prensa burguesa es de un sabor contrarevolucionario" (October 15, 1936),
"Como en la guerra. En los frentes de combate no han de faltar prendas que son indispensables para sobrellevar la campan~a de invierno" (October 16, 1936).

9.労働者の連帯」(1936年10月11日)に匿名で載った論説(バリウスが書いたものであろうとなかろうと)を強調しないわけにはいかない。この論説は、"Ha de constituirse el Consejo Nacional de Defensa" と題されていた。後に「民衆の友」に掲載され、ドゥルティの友の革命綱領の最も独創的点の一つ、すなわち、革命フンタもしくは全国防衛評議会の形成に言及していたからである。

10. 上記に加え、こうした記事の中で政治的なものを参照。
"Ha de imponerse un tributo de guerra" (September 8, 1936),
"Once de septiembre" (September 11, 1936),
"Como en la guerra. Es de inmediata necesidad el racionamiento del consumo" (September 16, 1936),
"Han triunfado las tacticas revolucionarias" (September 23, 1936),
"Como en la guerra. La justicia ha de ser inflexible" (October 11, 1936),
"Seamos conscientes. Por una moral revolucionaria" (October 18, 1936),
"Problemas fundamentales de la revolucio'n. La descentralizacio'n es la garantia que ha de recabar la clase trabajadora en defensa de la prerrogativas que se debaten en las lineas de fuego" (October 24, 1936),
"Como en la guerra. Los agiotistas tienen pena de la vida"(署名はないが、バリウスが書いたと思われる)(October 31, 1936),
"Como en la guerra. La justicia ha de ser fulminante e intachable"(バリウスによるものだと思われる)(November 1, 1936),
"Como en la guerra. Se ha de establecer un control riguroso de la poblacio'n" (November 3, 1936),
"La cuestio'n catalana" (December 2, 1936),
"El testamento de Durruti" (December 6, 1936),
"La revolucio'n de julio ha de cellal el paso a los arribislas" (December 17, 1936).

11. AHMBに保管されている "Ponencia. . ." を参照。

12. AHMBに保管されている "Ponencia. . ." を参照。

13. ハシント=トリオがリベルト=カリェハスに代わって、CNTの有力紙「労働者の連帯」の編集長になったことに対するバリウスのコメントを参照。「アレハンドロ=ヒルベルトと共に(労働者の連帯の)編集者だった私には、リベルト=カリェハスの編集による労働者の連帯紙とハシント=トリオの編集によるものとの区別がなされねばならないことをハッキリ示す義務がある。カリェハスが編集長である限り、CNTが7月に得た利益は常に防衛され、アナキズム諸原則は賛美され、宣伝されていた。だが、委員会に身を隠した反革命家によって、つまり、本物のCNTを片付ける以外に目標を持たぬ陰謀団によって、ハシント=トリオが労働者の連帯の編集長として押し付けられると、単に軍隊化が支持されただけでなく、フェデリカ=モンセニーがほのめかしているように、別な問題もあった。日を追う毎に、労働者の連帯で、プリエト同志とネグリン同志についての記事を目にするようになった。全てを明るみに出してしまおう。カノバス=セルバンテスやエル=デバテの前編集者だったレアンドロ=ブランコのような胡散臭い評判の男達が、労働者の連帯の編集チームに参加したのだ。労働者の連帯での暮らしは不可能となった。私は辞めた。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、Le Combat Syndicaliste 1971年9月2日号)

"Ponencia. . ." も参照。

14.労働者の連帯」(1936年11月6日)に転載されたラジオ放送。この号の「労働者の連帯」は、以下の言葉をドゥルティのものだと示している。「カタロニア自治政府によるこの軍隊化布告が我々を怖がらせ、鉄の規律を押し付けようと意図されたものだとすれば、彼らは間違いを犯したのだ。我々は、この布告を発明した人々を前線に行くようお勧めする。(中略)そうすれば、後衛の士気と規律と比較できるだろう。心配するな。前線には、混乱もなく、無秩序もない。」

15.思想」に掲載されたバリウスの最も優れた記事は以下の通り。
"La pequera burguesia es impotente para reconstruir Espan~a destruida por el fascismo" (No. 1, December 29, 1936),
"La Revolucio'n ha de seguir avanzando" (No. 3, January 14, 1937),
"El fracaso de la democracia burguesa" (No. 4, January 21, 1937),
"La Revolucio'n exige un supremo esfuerzo" (No. 7, February 11, 1937),
"Despues del 19 de julio" (No. 14, April 1, 1937),
"Hagamos la revolucio'n" (No. 15, April 8, 1937).

思想」の第11号(1937年3月11日)には、"!Destitucio'n inmediata de Aiguade'!" と題された無署名記事が掲載されている。この記事は、カタロニア自治政府の治安評議員の反革命活動を非難している。この評議員は、5月事件の2ヶ月前に、偽の文書を使ってCNTから12台の戦車を盗み、カタロニア自治政府の治安部隊に君主制主義者とファシストの職員を組織的に採用した。

16. バリウスは次のように述べている。「仕事場からの支持がほんの少しもない個人が、労働者だけに属している権力を主張しようとするなど、耐え難い。このことそれ自体が、彼が自分の思いのままになる相当数の人々を手に入れれば、この政治家は労働者階級を再び資本家の馬具へと戻してしまうことを充分伝えてくれる。(中略)革命が労働者階級の敵を一蹴できなくした罪を犯した人々に対して、我々は、労働者集団に頼らねばならない。労働者は、初期の段階で断固たる決意がなかったが故に、これほどまでに反革命勢力の成長を許してしまった。反革命勢力をしかるべき場所に置くことは非常にコストのかかる仕事になるであろう。

17.思想」の第一号には、「バホ=リョブレガトのリバータリアン運動の機関紙」の編集者と寄稿者のリストが掲載されている。編集者は、リベルト=カリェハス(「労働者の連帯」の前編集者)・エベリオ=G=フォンタウラ・フロレアル=オカニャ・ホセ=アベリャ・ヒネス=アロンソだった。役員はセネン=フェリクスだった。寄稿者は、ハイメ=バリウス・ニエベス=ヌニェス・エリアス=ガルシア・セベリノ=カンポス・ホセ=ペイラツ(レリダの「無政府」の編集長で、後にスペインのアナキズム運動史家となる)・フラテルノ=アルバ・アンパロ=ポチェ・リカルド=リセッティ・ラモン=カロパ・ルスベル=ルイス・ビセンテ=マルセト・マヌエル=ビニュアレス・アントニオ=オカニャ・トマス=ルイス・ベンハミン=カノ=ルイス・フランシスコ=カレニョ(ドゥルティ縦隊のメンバーで、その代理人としてモスクワに行き、後にドゥルティの友の主導的闘士となる)アントリィオ=ビダル・フェリペ=アライス(著名なアナキズム理論家)・アクラシオ=プログレソ・マニュエル=ペレス・ホセ=アルベロラ・ミゲル=ヒメネスだった。漫画家には、ホアキン=カデナ・E=バディア・E=ボネットが含まれていた。

18. レリダの「無政府」とその編集長であるペイラツについては、ペイラツの回顧録を参照すると興味深い。特に、多くのアナキスト闘士はCNT−FAIが政府と強調したことに甚だしく幻滅していたという明確な記述を参照して欲しい。ホセ=ペイラツ=バリェス著、"Memorias"、「Suplementos Anthropos」第18号(Barcelona, January 1990)を参照。

オスピラレトの「思想」とレリダの「無政府」に加え、CNTの強調主義に批判的なアナルコサンジカリスト反対派の主要新聞は以下の通り:トルトサの「シウダー=イ=カンポ」(都市と田園)、バレンシアの「ノソトロス」(我ら)。カタロニアのリバータリアン青年の機関紙である「道程」と「エスフエルソ」(努力)にも言及しておく。

19.」(1937年3月2日)に掲載された通告は次のように述べている。

彼個人の軌跡全体を特徴付けている解放への熱望を持ちながら、自分の人生をどのように終わらせるのかを知っていたアナキストのブエナベントゥラ=ドゥルティ。その数名の同志の扇動で、一つのグループを発足させ、この男の記憶を生きさせ続けようとするのは、適切だと考えられる。この男は、誠実さと勇敢さによって、7月中旬に始まった革命時代の全くの象徴であった。我々は、ドゥルティが生きているときに彼を大切に思い、この巨人の死後にこの偉大なる戦士の記憶を懐かしんでいる全ての同志に呼びかける。「ドゥルティの友」に参加しよう。

「ドゥルティの友」は単なる新しいクラブではない。我々の目的は、スペイン革命をドゥルティの革命的精神で満たすことである。ドゥルティの友は、この同志がバルセロナのただ中で発した最後の言葉に忠実であり続ける。反革命活動を糾弾し、雄々しい手で我々が取るべき道を辿るのである。

我々の結社に入会するためには、まずCNTのメンバーでなければならない。また、闘争の記録証明と、思想革命への愛情の証拠とを提示しなければならない。当面、申込書は、ランブラ=デ=カタルーニャ、15、プリンシパル(CNTのジャーナリスト部門)で、朝5時から夜7時の間に受け付ける。

−−運営委員会

20. ミンゴの署名が入った「」紙の記事は以下の通り。
"Nuestra labor. La Revolucio'n ha de seguir avallzando" (April 2, 1937),
"Al pueblo se le ha de hablar claro"(April 8, 1937),
"La Revolucio'n exige una labor depuradora" (April 9, 1937),
"Una labor revolucionaria. La revalorizacio'n de los Municipios" (April 13, 1937).

21. ミンゴ著、"Una labor revolucionaria. La revalorizacio'n de los Municipios," La Noche (April 13, 1937).

22. ハイメ=バリウスとパブロ=ルイスが共同で署名したパンフレット(このパンフレットを私達は閲覧できなかった)は、「Figols, 8 de enero, 8 de diciembre, y Octubre」と題され、エディトリアル=レナセルから出版された。

23. 日付はないものの、バリウスによるこれらのパンフレットは、1934年10月〜1936年7月までの間に出されている。出版の順番は次の通り。
Jaime Balius De Jaca a Octubre Editorial Renacer, [Barcelona] undated;
Jaime Balius Octubre catalan Editorial Renacer,[Barcelona] undated;
Jaime Balius El nacionalisrno y el proletariado Editorial Renacer, [Barcelona] undated.

24. 1978年6月1日のポール=シャーキー宛の手紙でバリウスは次のように述べている。「私は、FAIのレナセルグループにパブロ=ルイス・フランシスコ=ペリィセル(その後、亡くなったが)といった同志達と共に属していた。ブルーノ=リャドもそうだったが、彼も死んでしまった。」(ポール=シャーキーが示してくれた手紙より。情報提供に謝意を表す。)


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