マレイ・ブクチン


  

社会的アナキズムかライフスタイル=アナキズムか その4

=== 掛け橋不可能な亀裂 ===

ライフスタイル=アナキズムの評価

今日のライフスタイル=アナキズムにおいて最も強く目を引くことは、精神と現実との素朴な一対一関係に対する思索ではなく、「即時性」への貪欲さである。この即時性は、微妙なニュアンスを持つ媒介された思索の要求をリバータリアン思想から引きはがしているだけでなく、理性的分析と、このことに関して言えば、理性それ自体を排除しているのである。人間性を非時間的・非空間的・非歴史的なこと−−「自然」の「永遠な」サイクルに基づいた一時性という「原始的」概念−−に委ねながら、それによって、精神からその創造的唯一性と、自然界に介入するその自由とを剥ぎ取ってしまっているのだ。

原始人主義ライフスタイル=アナキズムの立場では、人間が最善の状態にいるのは、非人間的自然に介入するのではなく適応している時か、理性・テクノロジー・文明・話言葉さえからも解放されて、直感的で本質的に無分別な「恍惚的」条件において、多分「自然の権利」を付与されながら、既存の現実との穏やかな「調和」の中で生活しているときなのである。「TAZ」・「第五権力」・「アナーキー:武装した欲望」・マイケル=ウィリアムズのシュチルナー主義「デモリション=ダービー」のようなルンペン的「ファンジン」−−これら全ては、媒介がなく、歴史を無視し、我々がそこから「転落し」てしまった反文明的な「原始性」、つまり、「自然の領域」、「自然法」、もしくは我々の激烈なエゴによって様々な形で導かれていた完全性と「確実性」の状態、に焦点を当てている。歴史と文明は、「産業社会」という不確実性への転落以外の何物でもないというわけだ。

すでに示した様に、「確実性からの転落」というこの神話は、反動的浪漫主義にその根を持っている。最近では、volkisch(民族的)な「観念論」というマルティン=ハイデッガーの哲学に見られ、その著書「存在と時間」には潜在的で、その後のファシスト的著作に顕在している。現在ではこの観点は、ディープ=エコロジストが提起しているエコロジー観念論と「自己達成」の非政治的探求の中で、「グリーン=アドルフ」による「救済」へのむき出しの欺瞞的なアピールと共に、ルドルフ=バーロの反民主主義的著作にたっぷりと描かれている寂静主義的神秘主義を育んでいるのだ。

最終的に、個人のエゴは、歴史と生成・民主主義と責任を排除することで、現実性の最高寺院となる。確かに、社会それ自体との生身の接触は、ナルシシズムによって希薄なものにされている。そのナルシシズムは、余りにも全てのものを包容しすぎて、多極共存関係(コンソシエーション)を、それ自身の満足を求めて金切り声の要求と主張でしかない幼児化されたエゴへとしなびさせているのだ。解放の究極的充足として具象化されると、文明は単にエゴの欲望の恍惚的自己実現を妨害しているだけだというのだ。あたかも、恍惚と欲望とは教養と歴史的発展の産物ではなく、社会を剥奪された世界でab novoとして現われている単なる内的衝動であるかのように 。

プチブルのシュチルナー主義エゴ同様、原始人主義ライフスタイル=アナキズムは、社会制度・政治組織・革命プログラムの余地を許していない。我々が検証してきた著者たちが皆自動的に治国策と公的領域を同一視していることも言うまでもなかろう。「ファンジン」やパンフレットを発行すること−−もしくは、ゴミ箱に火をつけること−−は別として、散発的・非体系的・支離滅裂・断続的・直感的なものが、一貫した・目的的・体系的・理性的なものに、実際、持続的で焦点の定まったいかなる形態の活動にも、取って代わっているのだ。想像力は、理性と理論的一貫性への願望に対立させられる。まるでお互いにラジカルな矛盾にあるかのようだ。理性のない想像力は怪物を生み出すというゴヤの警告は、想像力が、微妙なニュアンスを持たない「一体性」との媒介のない経験で、よりよく活躍するかのような印象を残すように変えられる。つまり、社会的自然が生物学的自然へ、革新的人間性が適応的動物性へ、一時性が前文明的永遠性へ、歴史が古臭い周期性へと抜本的に解消されているのである。

その経済的荒っぽさが一日毎に硬直し愚鈍になっているブルジョアの現実性は、ライフスタイル=アナキズムによって、放縦・未完成・無秩序・支離滅裂へと抜け目なく突然変異させられている。1960年代には、シチュアシオニストは、「スペクタクル理論」という名の下に、実際に、理論の具現化されたスペクタクルを生み出していたが、彼等は少なくとも、労働者評議会のような組織的調整策を提示し、自分達の審美主義に何かしらの重みを与えていた。ライフスタイル=アナキズムは、組織・実行プログラムとの関与・真面目な社会分析を攻撃することで、運動を起す計画に執着することなく、シチュアシオニズム的審美主義の最悪の側面を猿真似しているのだ。1960年代の破片として、エゴの領域(ザーザンによって「自然の領域」と名前を変えられた)の中で目的もなくうろうろし、ボヘミアン的支離滅裂さを美徳としているのである。

最も問題なのは、ライフスタイル=アナキズムの放縦で審美的な気まぐれが、以前は、社会的関連性を主張し、解放への非妥協的コミットメント−−主観の領域で、歴史の「外」ではなく、客観の領域で、歴史の「中」で−−に正確に重きをおいていた左翼−リバータリアン=イデオロギーの社会主義的中核を重大に蝕んでいるということだ。第一インターナショナルの偉大なる叫び−−それはマルクスとその支持者がそれを放棄した後でもアナルコサンジカリズムと無政府共産主義が維持し続けていた−−は次の要求だった:「義務のない権利はなく、権利のない義務もない。」数世代にわたって、このスローガンは我々が今では回顧的に「社会的」アナキズム雑誌と呼ばねばならなくなってしまったものの発行人欄を飾っていた。今日、それは、基本的にエゴ中心的な「武装された欲望」の要求・道教の瞑想・仏教の涅槃と対立関係にあるとされている。社会的アナキズムが民衆に革命を惹起し、「社会」の再構築を求めるように呼びかけていた場所で、現在では、ライフスタイル=アナキズムのサブカルチャー世界の住人である怒れるプチブルが、一時的な叛乱と、ドゥルーズとガタリの専門用語を使えば「欲望機械」の満足を要求しているのである。

社会闘争に対する古典的アナキズムの歴史的コミットメント(単に本能的なものだけではなく、全ての次元における自己実現と願望充足が達成不可能だとすることのない)から一貫して退却すれば、必ずや経験と現実の破滅的神話化が伴うことになる。ほとんど物神崇拝的に解放の所在地と同一視されたエゴは、明らかに、自由競争主義的個人主義の「主権者の個人」と同じだと判明する。その社会的拠り所から切り離されることで、エゴは自律ではなく、プチブル事業の他律的「自己性」を確立するのである。

実際、自由であることから程遠く、その主権者の自己性のエゴは、酷く拘束され、見た目では何の特徴もないような市場法則−−競争と搾取の法則−−に手足を拘束されているのだ。その市場法則は、個人の自由という神話をもう一つの物神崇拝にし、資本の蓄積という執念深い法則を覆い隠しているのである。その従者は株式市場の動きほども、価格変動やブルジョア貿易の世俗的事実ほどにも「自律して」はいない。誰もが自律を主張しているにも関わらず、この中流階級の「反抗」は、投石用の煉瓦を手にしていようといまいと、食物共同組合から地方の共同体まで、「近代社会生活の中で「自由だ」とされている領域全てを支配している秘密市場の力に完全にとらわれているのだ。」

資本主義は我々の周りに−−物質的だけでなく文化的にもー−渦巻いている。ザーザンというテクノロジー敵対者の家にテレビがあることに困惑したインタビュアーが彼に質問したところ、彼が次のように答えたことは忘れがたい。『皆と同じ様に、私も麻痺させられなければならないのさ。』(*37)

ライフスタイル=アナキズムそれ自体が「麻痺している」自己欺瞞であることを最も良く見ることができるのは、マックス=シュチルナーの「唯一者とその所有」である。そこでは、神聖犯すべからずの「自己」という神殿の中にあるエゴの「唯一性」の要求は、ジョン=スチュワート=ミルの自由主義的忠誠心よりも遥かに上位にある。実際、シュチルナーにとって、エゴイズムは認識論の問題になっている。「唯一者とその所有」を満たしている矛盾と酷く不完全な言質の迷路を切りひらくと、シュチルナーの「唯一の」エゴは神話なのだと分かる。何故ならエゴの根源はその見せかけの「他者」−−社会それ自体−−にあるからなのである。実際、シュチルナーはエゴイストを次のように扱っている。『君の行いと共に真実が前進することは出来ない、動くことも変化することも発達することも出来ない。真実は待ち、「君」から全てを補給し、そしてそれ自体は単に君を通り過ぎるだけなのだ。何故ならそれは単に−−「君の頭の中にある」だけだからだ。』(*38)シュチルナー主義エゴイストは、実際、客観的現実に、社会の事実性に、従って根本的な社会変革と、ブルジョア市場の隠れた悪魔の一つである自己満足を越えた全ての倫理基準と理想とに、別れを告げている。この媒介の欠如が、具体物のまさにその存在を破壊しているのだ。シュチルナー主義エゴそれ自体の権威−−自己の社会的根源とその歴史的形成を排除するほど全てを包含している主張−−を破壊していることは言うまでもない。

ニーチェは、シュチルナーとは全く別個に、真実それ自体の事実性と現実性を消滅させることで、真実に関するこの見解をその論理帰結へと導いていた。『ならば、真実とはなんぞや?』彼は問うていた。『隠喩・換喩・擬人観−−とどのつまりは、それは詩的にも修辞学的にも高められ・転置され・潤色されてきた人間関係の要約なのである。』(*39)シュチルナーよりも率直に、ニーチェは事実は単なる解釈なのだと論じていた。実際、彼は『諸解釈の背後にいる解釈者を断定する必要があろうか?』と問うていた。明らかにその必要はない。なぜなら『これさえも作り出されたものであり、仮説である』からだ(*40)。ニーチェの無情な論理に従えば、本質的にそれ自身の現実を創り出すだけでなく、単なる解釈以上のものとしてそれ「自身の」存在を正当化しなければならない自己と共に、我々は取り残されているのである。従って、このエゴイズムは、シュチルナー自身は述べていない諸前提の霞の中へ姿を消しているエゴそれ自体を徹底的に破壊しているのである。

同様に、自身の「メタファー」を越えた歴史・社会・事実性をはぎ取ることで、ライフスタイル=アナキズムは非社会的領域に生活している。そこではエゴはその秘密の欲望と共に論理的抽象へと蒸発する。だが、エゴを直感的即時性に還元する−−単なる動物性や「自然の領域」、「自然の法則」に固定する−−ことは、エゴは常に発展し続ける歴史の産物である、という事実を無視するも同然であろう。実際、歴史が単なるエピソード以上のもので構成されているのであれば、歴史は、進歩と退歩・必然と自由・善と悪・そして−−そう!−−文明と野蛮の基準に対する指針として理性を利用しなければならないのだ。実際、一方では薄っぺらな唯我論の落とし穴を、他方では単なる「解釈」としての「自己」の喪失を避けようとしているアナキズムは、明らかに社会主義的なものか集産主義的なものにならざるをえないのだ。つまり、アナキズムは、社会生活の前提条件を避けている空虚な放浪のエゴを通じてではなく、構造と相互責任を通じた自由を追求する「社会的」アナキズムでなければならないのだ。

乱暴に述べてみよう。アナルコサンジカリズムと無政府共産主義(これらが、自己実現の重要性と欲望の充足を否定したことは一度もなかった)の社会主義の系譜、ライフスタイル=アナキズム(これは、徹底的な社会否定ではないにせよ、社会の無用性を助長している)の基本的に自由主義的で個人主義的系譜の間には、我々が双方の全く異なる目標・方法・それらを区別している根本的哲学を完全に無視しない限り、掛け橋不可能な対立が存在するのである。シュチルナー自身の計画は、実際に、ウィルヘルム=ワイトリング(19世紀末のドイツの国家共産主義者)とモーゼス=へス(19世紀末のドイツのプルードン主義的社会主義者)の社会主義との議論の中で生じ、そこでシュチルナーは社会主義に完全対峙するためにエゴイズムを呼び出したのである。『全般的革命ではなく私的暴動が(シュチルナーの)メッセージだった』とジェームズ=J=マーチンは感嘆しながら述べている(*41)。それは、歴史主義・個性の社会基盤・理性社会へのコミットメントにその根源を持つ社会的アナキズムとは別の、今日、ライフスタイル=アナキズムとそのヤッピー的分派の厄介になって何とか生きのびている反対勢力なのである。

これらの本質的に混乱したメッセージが持つ正にその不調和は、ライフスタイル=「ファンジン」の全ページに同時に存在しており、苦しみもがいているプチブルの熱狂的声に表れている。もしアナキズムがその社会主義的中核と集産主義的目標を失えば、もしアナキズムがリバータリアン的プログラム・政治・組織の代案として、審美主義・恍惚・欲望へと、そしてつじつまのあわないことだが、道教的瞑想主義と仏教的自己謙遜へと押し流されてしまえば、アナキズムは社会の再生と革命的ヴィジョンではなく、社会の腐敗と短気でエゴイスティックな反抗を代表するものとなるであろう。さらに悪い場合、アナキズムは現在10代と20代の裕福な成員を既に席巻している神秘主義の波を肥え太らせることとなろう。恍惚に対するライフスタイル=アナキズムの賞賛は、「ラジカルな社会基盤において確かに賞賛すべき」ものなのに、ここではあつかましくも「妖術」と混ざり、理性的で弁証法的な世界の意識とではなく、魂・幽霊・ユング的元型とのおぼろげな併合を生み出しているのである。

特徴的なことだが、広く読まれている米国の野生的なアナキズム雑誌、「反体制報道評論」(Alternative Press Review)の最近号(1994年秋号)の表紙は、渦を巻いている銀河系星雲群とニューエイジ的装備という何か宇宙的なものを背景として、穏やかな涅槃の平安の中にいる三つの頭を持った仏教の神で飾られている−−ニューエイジ的ブティックにある「第五権力」の「アナーキー」ポスターにた易く結び付けることができるだろう。表紙の裏では、グラフィックスが叫んでいる。「自由を開拓し始めると、人生は魔術になり得る」(魔術(Magic)のAは円で囲まれている)−−ならば、次のことを問わねばなるまい。「どうやって?」「何を」使って?この雑誌それ自体にはグレン=パートンによるディープエコロジーのエッセイが載っている。そのタイトルは、デイヴ=フォアマンの雑誌「野生の地球」(Wild Earth)をもじった、「野生の自己:何故私は原始人主義者なのか」で、我々の『第一の課題』を、その『生活様式が、前もって存在する自然界に適合している』『原始的諸民族』を誉めそやし、新石器時代の革命を嘆き、『文明を「構築せずに」原生地帯を復元する』ことであると特定している。この雑誌のアートワークは野卑な状態を賞賛している−−人間の頭蓋骨と破滅のイメージがそれを明らかに証明している。その最もくどくどしい寄稿論文、「デカダンス」は、「ブラック=アイ」誌からの再録なのだが、ルンペンと空想的なこととを混ぜあわせており、狂喜して次のように結論づけている。『本物のローマンホリデイだ、さぁ野蛮人どもを出せ!』

あぁ悲しいかな、野蛮人どもは既にここにいるのだ。今日の米国諸都市における「ローマンホリデイ」は、クラック・暴行・無神経・愚鈍・原始人主義・反文明主義・反理性主義・カオスとして理解されている相当量の「アナーキー」で飾りたてられているのだ。ライフスタイル=アナキズムは、堕落した黒人ゲットーと反動的な白人の郊外だけでなく、「原始性」の表面上の中心地であるインディアン保護居住地という現在の社会文脈でも、見られるはずである。インディアンの若者ギャングたちはお互いに銃で撃ち合い、ドラッグ売買が蔓延し、『神聖なるウィンドウロック記念碑でさえもギャングの落書きが観光客を出迎える』、とセス=マイダンズが「ニューヨーク=タイムズ」誌(1995年3月3日号)で報告している。

つまり、蔓延している文化的堕落は、1960年代新左翼のポストモダニズムへの退化、そしてそのカウンターカルチャー世代のニューエイジ観念論への退化の後に生じたのだ。臆病なライフスタイル=アナキストに対して、ハロウィーンのアートワークと扇動的な諸論文が、現実の理解と希望とをどんどん遠くへと押しやってくれているのである。「文化的テロリズム」と仏教修行所の魅惑によって引き裂かれながらも、ライフスタイル=アナキストは実際に、ウォールストリートとニューヨークで社会の頂点にいる野蛮人達と、欧米都市の陰鬱なゲットーの底辺にいる人々との間の激しいやりとりの只中に自身がいるということに気がついている。悲しいかな、そのルンペン的生活方法(大企業の野蛮人どもも今日では同類だ)を賛美しているが故に、彼等が陥っている葛藤は、自由社会を創り出す必要性と関連してはいないのだ。まだ、ドラッグ・人体・法外な貸付の売りつけ−−そしてがらくた証文と国際通貨も忘れてはなるまい−−から得た戦利品を分け合おうとしている人々間の残忍な戦争の方が関係しているぐらいだ。

単なる動物性−−いや、「脱文明」と呼ぶべきだろうか?−−への逆戻りは、「自由への回帰ではなく、本能への回帰なのである」。脳よりも遺伝子によって導かれている「確実さ」の領域への回帰なのである。過去の偉大なる革命によって常に発展する形で明確に示されていた自由の諸理念ほど進歩したものはない。そして、DNAなどのような生化学的至上命令への完全服従以上に残酷な物などないのだ。それは、文化と、理性的文明を求めた闘争とが扉を開けた創造力・倫理・相互依存とは全く異なるものなのだ。全くの野生ということで、我々が単なる動物性を形成する生得的行動パターンの命令を意味しているのであれば、「原生地帯」には自由などない。「自己意識した」自由−−感情と同様に理性によっても、願望と同様に洞察によっても、詩と同様に散文によっても与えられる自由−−の莫大な潜在可能性に対するしかるべき認識なしで文明を中傷することは、思考がぼんやりし、知性形成(intellectuation)が単なる進化の約束事であった時代の獣性という影の多い世界に退却することなのである。

民主主義的コミューン連合論(Democratic Communalism)に向けて

私のライフスタイル=アナキズム像は完全なものではない。このイデオロギーという粘土に対する個人主義的攻撃は、「想像力・神聖の・直感的・恍惚的・原始的」といった言葉がその表面を飾り立てている限り、その粘土をどの様な形にもこねることができる様にしている。

私の観点では、社会的アナキズムは根本的に異なるものからなり立っており、その伝統の限界と不完全さにしかるべき敬意を払いながらも、啓蒙運動の伝統の後継者なのだ。理性をどの様に定義するかにもよるが、社会的アナキズムは、情熱・恍惚・想像力・遊び・アートを無視せずに、思考する人間精神を賞賛しているのである。ただ、それらを曖昧なカテゴリーの中に具象化するのではなく、それらを日常生活に組み込もうとしているのである。社会的アナキズムは、経験の理屈づけに反対しながら理性に関与し、「メガマシーン」に反対しながらテクノロジーに関与し、階級支配とヒエラルキーに反対しながら社会制度に関与し、議会政治と国家に反対しながら、顔の見える直接民主主義において民衆が行う自治体や共同体の連合調整に基づく本物の政治運動に関与しているのである。

初期の諸革命が持っていた伝統的スローガンを使えば、この「共同体群からなる共同体」(Commune of communes)は、「コミューン連合論」(Communalism)として適切に呼ぶことができる。民主主義を「支配」だとする反対者とは全く逆に、コミューン連合論は、アナキズムの「民主主義的」側面を、公的領域に関する多数決行政として描いている。従って、コミューン連合論は、私がこれまで対峙させて来た意味において、自律よりも自由を追求するのだ。それは、個性は生まれた時から「自然の権利」を身にまとったab novoとして生じたのではないと主張することで、独立した主権者としての心理的−私的なシュチルナー主義的・自由主義的・ボヘミアン的エゴときっぱりたもとを分かち、個性の大部分を、歴史と社会の発展という常に変化し続ける活動として、生物学主義に硬直させられたり一時的で偏狭なドグマに捕われたりすることのない自己形成のプロセスとして見なすのである。

主権者、つまり自己充足的「個人」は、左翼リバータリアンの見解を定着させるためにはいつも不安定な基盤であった。マックス=ホルクハイマーは以前次のように述べていた。『個々人が独りでやっていくと決めると、個性は損なわれてしまう。(中略)絶対的に孤立した個人というのはいつでも単なる幻想であった。自律・自由への意思・共感・正義の感覚のような最も尊重される私的資質は、個人的美徳であると同時に社会の美徳でもあるのだ。十全に発達した個人とは十全に発達した社会の極致なのである。』(*42)

もし、未来社会に関する左翼リバータリアンのヴィジョンが、ボヘミアン的でルンペン的な花柳会に消えうせてしまっていないのなら、社会問題に対する解決策を提供しなければならない。下手な詩と下品なグラフィックスで理性から自身を覆い隠してしまいながら、スローガンからスローガンへと尊大に飛びまわっていてはならないのである。民主主義は、アナキズムに対するアンチテーゼなどではない。ましてや、多数派裁定や非コンセンサス意思決定がリバータリアン社会にふさわしくないというわけでもない。

いかなる社会であれ全くの制度構造なしには存在し得ないということは、シュチルナーやその類の人々によって無感覚にされていない人には透通って見えるほど明白である。諸制度と民主主義を否定することにより、ライフスタイル=アナキズムは社会的現実から絶縁している。そのことで、無駄な激情を持ってますます激高できるようになり、結果、お人好しの青年と、黒服と恍惚的ポスターを買っている退屈した消費者にとってのサブカルチャー的悪ふざけであり続けているのだ。それが「たった一人の少数派」のものであったとしても、その意思に対するいかなる妨害も私的自律の冒涜となるため、民主主義とアナキズムは両立しないと主張することは、自由社会ではなく、ブラウンの言う「個人の集積」−−つまり、群れ−−を擁護することになる。「想像力」はもはや「権力」に至りはしないだろう。権力は、「いつでも存在する」が、明確に制度化された顔の見える民主主義を使っている集産集団に属すことにもなるかもしれないし、「構造のない専制政治」を生み出す可能性のある寡頭政治為政者数名のエゴに属すことになるかもしれない。

クロポトキンが「エンサイクロペディア=ブリタニカ」論文で、シュチルナー主義的エゴをエリート主義だと見なし、ヒエラルキー的だと非難していたことはもっともだった。彼はV=バッシの批判を賛同的に引用していた。バッシはシュチルナーの個人的アナキズムを、『全ての優れた文明の目的は、地域の「全」成員が普通に発達できるようにすることではなく、多くの人間の幸福とその存在を犠牲にしても、より恵まれた個々人が「十全に発達する」ことができる様にすることだ』という立場を維持しているエリート主義の一形態だとしていたのだ。アナキズムにおいて、このことは実際に逆戻りを生み出す。

『超越的少数者になろうとしている人々が皆擁護している最も俗悪な個人主義への逆戻りである。実際、人間がその歴史の中で、これら個人主義者達が戦っている正にその国家などを持つようになったのは、超越的少数者の御陰なのだ。彼等の個人主義は、自身の出発点の否定に終わることにさえなる−−言うまでもなく、「美しき貴族政治」によって大衆を抑圧している状態で、個人が真に十全な発達を手に入れることなど出来はしないのだ。』(*43)

その無道徳主義という点で、このエリート主義は、究極的に大衆を「唯一者達」の保護下に置いてしまうことで、「大衆」に不自由をもたらすきっかけとなり易い。これは、ファシストのイデオロギーに特徴的な指導原理を生み出す可能性のある論理なのだ(*44)。

合州国と欧州の大部分で、国家に対する民衆の幻滅が空前の規模に達している正にこの現在、アナキズムは退却状態にある。政府それ自体への不満は大西洋の両岸で高くなっている。新しい政治を、安全と倫理的意味を考慮した方向性の感覚を民衆に与えることができる新しい社会秩序さえをも求める民衆の強力な情念は近年これほどまでに見られることはなかった。アナキズムがこの状況を扱えていない理由を何らかの単一源泉に帰して構わないなら、常に縮小し続けている公的領域に潜在的左翼リバータリアン運動を参与出来なくさせているという理由で、ライフスタイルアナキズムとその個人主義的土台が持つ島国根性を抜擢せねばなるまい。

その名誉のために言っておくが、アナルコサンジカリズムはその最盛期には労働者階級の中で−−ライフスタイルアナキズムとは全く異なり−−生活実践に従事し、組織的運動を創り出そうとしていた。その主たる問題は、構造と参画への欲求やプログラムと社会運用への欲求にあるのではなく、革命の主体としての労働者階級の衰退、特にスペイン革命後のそれにある。しかし、元々のギリシャ語の意味における地域の自主管理−−歴史的に有名な「共同体群からなる共同体」−−において理解されているように、アナキズムには政治などないと言うことは、いかなる共和制にも内在している民主主義を急進化し、国家に対抗するための自治体連合の力を造りだそうとしている歴史的で「変形可能な」実践を拒絶することなのである。(原注)

(原注:拙著「都市化の勃興と市民権の没落」(今では「都市のない都市化」と題が変更されている(訳注:さらに「都市化から諸都市へ」と変わった)の嫌らしい「レビュー」の中で、ジョン=ザーザンは、古代アテネが「近代政治の復興に関するブクチンのモデルであり続けている」といういいかげんな戯言を繰り返している。実際、私はアテネの「都市国家(ポリス)」の失敗(奴隷制度・家父長制度・階級対立・戦争)を示そうと大いに骨を折っていたのだ。私のスローガン「共和国の民主化、(共和国に潜在的に存在する)民主主義の急進化」−−明らかに二重の権力を創り出すことを目的としている−−は、皮肉にも不完全に読まれているのである。『我々はゆっくりと、「既存制度」を拡大し、「共和国を民主化しようと」しなければならない、と(ブクチンは)忠告しているのだ。』こうした理念の表面的操作は、「アナーキー:武装した欲望」と「反体制報道評論」のレヴ=チャーニイ(別名ジェイソン=マックゥイン)によって、ザーザンの「未来の原始人」の忠告めいた前書きで賞賛されている(11ページ、164ページ、165ページを参照)。)

伝統的アナキズムの最も創造的な特徴は次の四つの基本的信条に対するコミットメントである。それは、権力分散型自治体連合・国権主義に対する確固たる反対・直接民主主義に対する信念・リバータリアン共産主義社会というヴィジョンである。左翼リバータリアニズム−−アナキズムに他ならないリバータリアン社会主義−−が今日直面している最も重要な問題は次のことである。これら四つの強力な信条を持って何を「行う」のか?どの様にしてそれらの信条に社会的「形態」と社会的「内容」を与えるのか?どの様な「方向」に、そしてどの様な「手段」を用いて、それらの信条を我々の時代に関連づけ、権能と自由を求める組織された民衆運動の助力となるようにそれらの信条を導くのか?

アナキズムは、十六世紀の原始人主義的な裸体主義者(アダムの子孫)が行ったような放縦な行動に消散してしまってはならない。ケネス=レクスロスが軽蔑して述べているように、裸体主義者達は「森の中を裸で歌い踊りながらさまよって」おり、ジャン=ジズカによって追い詰められ、根絶させられる−−自分の土地を彼等に略奪されることに憤慨していた農夫を安堵させるためであることが多かった−−まで、「自身の時間を不断の乱交パーティー」で過ごしていたのだった(*45)。アナキズムは、ジョン=ザーザンとジョージ=ブラッドフォードの原始人主義的花柳会へと退却してはならない。私は、アナキストは日常生活において−−社会的にも私的にも、実際的にも美学的にも−−出来る以上に自身のアナキズムを生きてはならない、と主張するつもりはない。しかし、アナキストは、運動として・実践として・プログラムとしてのアナキズムを国家社会主義とは区別している最も重要な特徴を減少させ、かき消してさえいるアナキズムを生きてはならないのだ。今日、アナキズムは「社会」運動−−活動主義的であると同時に「実行プログラムを持った」社会運動−−としてのその特徴を断固として保有していなければならない。それは、リバータリアン共産主義社会というその戦闘的ヴィジョンを「産業社会」のような名前によってはっきりと示されている資本主義に対する率直な批判と融合している運動なのだ。

結局、社会的アナキズムはライフスタイル=アナキズムとの違いをはっきりと断言しなければならないのだ。もし社会的アナキスト運動がその四つの信条−−自治体連合論・反国権主義・直接民主主義・究極的にはリバータリアン共産主義−−を新たな公的領域における生活実践に翻訳できなければ、もしこれらの信条が公式的宣言と公式的会議に関する過去の闘争の思い出のようにしなびてしまえば、さらに悪いことに、それらの信条が「リバータリアン」恍惚産業と寂静主義的なアジアの有神論によって破壊されてしまえば、その革命的社会主義の中核は新しい名前の下に復元されなければならなくなってしまうだろう。

確かに、私の観点では、ライフスタイル=アナキストと区別する修飾形容詞を付け加えなければ自身をアナキストと呼ぶことなどできはしない。最低限、社会的アナキズムは、ライフスタイル・恍惚に対する新シチュアシオニズム賛歌・常に矮小し続けているプチブルエゴの主権性に焦点を当てたアナキズムとはラジカルに反目しているのである。これら二つはそれらの規定的諸原理−−社会主義か個人主義か−−において完全に分離しているのである。諸理念と実践を持ってコミットした革命的組織体と、私的恍惚と自己実現への気まぐれな憧憬との間には、共通特徴などありえない。国家に対する単なる反対が、シュチルナー主義的ルンペンとファシスト的ルンペンを団結させるのは当然である。この現象には歴史的前例が幾つもあるのだ。

1995年6月1日

付記

私の研究仲間であり友人でもあるジャネット=ビールに対し、このエッセイに使う資料を捜し、編集するときに貴重な援助をしてくれたことについて感謝したい。

(本邦訳を快く承諾して下さった原著者及び電子メールにて原著者とのやりとりを仲介して下さったジャネット=ビール氏に感謝申し上げたい。なお、本邦訳は、Murray Bookchin著、「Social Anarchism or Lifestyle Anarchism: An Unbridgeable Chasm」(San Francisco, CA.: A. K. Press, 1995)を元にしたものだが、原注を除き、Social Anarchism or Lifestyle Anarchismにて読むことができる。−−訳者)

1. 「The Political Philosophy of Bakunin」, G. P. Maximoff編 (Glencoe, Ill.: Free Press, 1953), p. 144.

2. 「Political Philosophy of Bakunin」, p. 158.

3. Peter Kropotkin著, 'Anarchism,' the Encyclopaedia Britannica article, in 「Kropotkin's Revolutionary Pamphlets」, Roger N. Baldwin編 (New York: Dover Publications, 1970), pp. 285-87.

4. Katinka Matson著, 'Preface,' 「The Psychology Today Omnibook of Personal Development」 (New York: William Morrow & Co., 1977), n.p.

5. ミシェル=フーコー著、「性の歴史T 知への意志」、渡辺守章 訳(新潮社、1986年)、123ページ。素晴らしいことに、フーコーから率直な公式を得ることが出来、その観点は矛盾していることが多いという理解を得ることができる日がやってきそうだ。

6. Paul Goodman著, 'Politics Within Limits,' in 「Crazy Hope and Finite Experience: Final Essays of Paul Goodman」, Taylor Stoehr編 (San Francisco: Jossey-Bass, 1994), p. 56.

7. L. Susan Brown著, 「The Politics of Individualism」 (Montreal: Black Rose Books, 1993). 無政府共産主義に対するブラウンの曖昧なコミットメントは、分析からよりも直感的好みから引き出されているように思える。

8. ハキム=ベイ著、「T.A.Z. 一時的自律ゾーン」、箕輪裕 訳(インパクト出版会、1997年)。ベイの個人主義は、TAZが『ハイテクに基づいた「心理的旧石器時代主義」』(邦訳書、90ページ) を混乱しながら主張していることを除けば、後期フレディ=パールマンとその反文明論的従者、そしてデトロイトの「第五権力」の原始人主義者達のそれとよく似ているように思える。

9. 'T.A.Z.,' 「The Whole Earth Review」 (Spring 1994), p. 61.

10. Jose Lopez-Reyに引用されている, 「Goya's Capriccios: Beauty, Reason and Caricature, vol. 1」 (Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1953), pp. 80-81.

11. George Bradford著, 'Stopping the Industrial Hydra: Revolution Against the Megamachine,' 「The Fifth Estate」, vol. 24, no. 3 (Winter 1990), p. 10.

12. Jacques Ellul著, 「The Technological Society」 (New York: Vintage Books, 1964), p. 430.

13. Bradford著, 'Civilization in Bulk, 「Fifth Estate」 (Spring 1991), p. 12.

14. Lewis Mumford著, 「Technics and Civilization」 (New York and Burlingame: Harcourt Brace & World, 1963), p. 301. 本エッセイにあるページナンバーは、この版による。

15. Kropotkin著, 'Anarchism,' 「Revolutionary Pamphlets」, p. 285.

16. 会議の諸論文は次の本として出版された。Richard B. Lee and Irven DeVore編著, 「Man the Hunter」 (Chicago: Aldine Publishing Co., 1968).

17. 'What Hunters Do for a Living, or, How to Make Out in Scarce Resources,' in Lee and Devore編著, 「Man the Hunter」, p. 43.

18. Paul Radin著, 「The World of Primitive Man」 (New York: Grove Press, 1953), pp. 139-150.を特に参照のこと。

19. John Zerzan著, 「Future Primitive and Other Essays」 (Brooklyn, NY: Autonomedia, 1994), p. 16. ザーザンの研究を信頼している読者は、その参考文献に載っている"Cohen (1974)"と"Clark (1979)"(それぞれ、24ページと29ページに引用されている)のような重要な資料を捜して見てはいかがだろうか−−これらやその他の論文は完全に消えうせてしまっているのだ。

20. 有史以前の生活のこれらの側面に関する論文は非常に多い。Anthony Legge and Peter A. Rowly著、 'Gazelle Killing in Stone Age Syria,' 「Scientific American」, vol. 257 (Aug. 1987), pp. 88-95、では移動している動物を、捕獲用の柵を使って全滅させるほどの効果を持って大量に殺すことができていたことが示されている。アニミズムの実践的側面に関する古典的研究は、Bronislaw Malinowski著、「Myth, Science and Religion」 (Garden City, N.Y.: Doubleday, 1954)を参照して欲しい。Kaj Arhem著、 'Dance of the Water People,' 「Natural History」 (Jan. 1992)において報告されているマクナ族の神話にあるように、擬人化操作は、シャーマンによって主張されている人間世界から非人間的世界への生まれ変わりに関する多くの説明の中に明らかである。

21. ピグミー族に関しては、Colin M. Turnbull著、「The Forest People: A Study of the Pygmies of the Congo」 (New York: Clarion/Simon and Schuster, 1961), pp. 101-102.を参照。エスキモー族に関しては、その他多くの伝統的エスキモー文化に関する著作と同様、Gontran de Montaigne Poncins著、「Kabloona: A White Man in the Arctic Among the Eskimos」 (New York: Reynal & Hitchcock, 1941), pp. 208-9を参照。

22. 世界中の多くの牧草地帯が、多分「Homo erectus」の時代まで遡れるだろうが、火によって作り出されたということは、人類学論文のあちこちに見られる仮説である。Stephen J. Pyne著、 「Fire in America」 (Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1982)は優れた研究である。また、William K. Stevens著、'An Eden in Ancient America? Not Really,' 「The New York Times」 (March 30, 1993), p. C1 で引用されている、Annals of the American Association of Geographers (Sept. 1992)に載っているWilliam M. Denevanの論文も参照して欲しい。

23. 「過剰殺傷」という激しい議論を引き起こしている問題については、「Pleistocene Extinctions: The Search for a Cause」, P. S. Martin and H. E. Wright, Jr.編著を参照。気候的要因と人的「過剰殺傷」双方が氷河紀ほ乳類の大量絶滅をもたらしたのか、どちらか一方がもたらしたのかに関する議論は、余りにも複雑すぎてここで取り扱うことはできない。Paul S. Martin著, 'Prehistoric Overkill,' in 「Pleistocene Extinctions: The Search for a Cause」, P. S. Martin and H. E. Wright, Jr.編著 (New Haven: Yale University Press, 1967)を参照。拙著「The Ecology of Freedom」 (Montreal: Black Rose Books)の1991年版のイントロダクションでこの議論の幾つかについて探求してみた。その証明は未だに議論の渦中にある。マストドンは、生息環境が制限された動物として見なされていたが、現在では、生態学的により柔軟だったと知られるようになり、氷河紀の狩人によって、多分ロマンティックな環境保護主義者達が信じたいと思っているほどには良心の呵責も感じずに、絶滅させられたのだろうとされている。私は狩りだけが、こうした巨大ほ乳類を絶滅させたと主張するものではない−−大量数の畜殺で充分だったであろう。通常は水のない狭い水路におけるバイソンのかり立てについては、Brian Fagan著, 'Bison Hunters of the Northern Plains,' 「Archaeology」 (May-June 1994), p. 38.で見ることができる。

24. Karl W. Butzer著, 'No Eden in the New World,' 「Nature」, vol. 82 (March 4, 1993), pp. 15-17.

25. 以下の著作を参照。T. Patrick Cuthbert著, 'The Collapse of Classic Maya Civilization,' in 「The Collapse of Ancient States and Civilizations」, Norman Yoffee and George L. Cowgill編著 (Tucson, Ariz.: University of Arizona Press, 1988); and Joseph A. Tainter著, 「The Collapse of Complex Societies」 (Cambridge: Cambridge University Press, 1988), esp. chapter 5.

26. Clifford Geertz著, 'Life on the Edge,' 「The New York Review of Books」, April 7, 1994, p. 3.

27. ウィリアム=パワーズが述べているように、『「ブラック=エルク語る」は1932年に出版されたが、そこにはブラック=エルクのキリスト教徒としての生活が記録されてはいなかった。』ブラック=エルクの逸話に関する現在の熱狂ぶりの正体を徹底的に暴いているものとしては、次の本を参照。William Powers著、'When Black Elk Speaks, Everybody Listens,' 「Social Text」, vol. 8, no. 2 (1991), pp. 43-56.

28. Edwin N. Wilmsen著, 「Land Filled With Flies」 (Chicago: University of Chicago Press, 1989), p. 127.

29. Wilmsen著, 「Land Filled with Flies」, p. 3.

30. Allyn Maclean Stearman著, 「Yuqui: Forest Nomads in a Changing World」 (Fort Worth and Chicago: Holt, Rinehart and Winston, 1989), p. 23.

31. Stearman著, 「Yuqui」, pp. 80-81.

32. Wilmsen著, 「Land Filled with Flies」, pp. 235-39 and 303-15.

33. 例えば、Robert J. Blumenschine and John A. Cavallo著, 'Scavenging and Human Evolution,' 「Scientific American」 (October 1992), pp. 90-96.を参照。

34. Paul A. Janssens著, 「Paleopathology: Diseases and Injuries of Prehistoric Man」 (London: John Baker, 1970).

35. Wood著, 「Human Sickness」, p. 20.

36. E. B. Maple著, 'The Fifth Estate Enters the 20th Century. We Get a Computer and Hate It!' 「The Fifth Estate」, vol. 28, no. 2 (Summer 1993), pp. 6-7.

37. 「The New York Times」, May 7, 1995.から引用。ザーザンほど信心ぶっていない人の中には、テレビを持たないようにして、上品な音楽・ラジオ放送・本などで愉しみを得ている人達がいる。彼等は単にテレビを買わないだけなのだ!

38. Max Stirner著, 「The Ego and His Own」, James J. Martin編, Steven T. Byington訳 (New York: Libertarian Book Club, 1963), part 2, chap. 4, sec. C, 'My Self-Engagement,' p. 352, 強調は筆者。

39. Friedrich Nietzsche著, 'On Truth and Lie in an Extra-Moral Sense' (1873; fragment), in 「The Portable Nietzsche」, Walter Kaufmann編訳 (New York: Viking Portable Library, 1959), pp. 46-47.

40. Friedrich Nietzsche著, fragment 481 (1883-1888), 「The Will to Power」, Walter Kaufmann and R. J. Hollingdale訳 (New York: Random House, 1967), p. 267.

41. James J. Martin著, editor's introduction to Stirner, 「Ego and His Own」, p. xviii.

42. Max Horkheimer著, 「The Eclipse of Reason」 (New York: Oxford University Press, 1947), p. 135.

43. Kropotkin著, 'Anarchism,' 「Revolutionary Pamphlets」, pp. 287, 293.

44. Kropotkin著, 'Anarchism,' 「Revolutionary Pamphlets」, pp. 292-93.

45. Kenneth Rexroth著, 「Communalism」 (New York: Seabury Press, 1974), p. 89.



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