マレイ・ブクチン


社会的アナキズムかライフスタイル=アナキズムか その2

=== 掛け橋不可能な亀裂 ===

カオスとしてのアナキズム

ブラウン自身の好みがいかなるものであれ、彼女の本は、社会的アナキズムを離れ、個人主義つまりライフスタイル=アナキズムへと向っている欧米アナキストの転換の前提を反映し、かつ、その前提を提示してもいる。実際、今日のライフスタイル=アナキズムはその主要表現を、スプレー落書き・ポストモダニストのニヒリズム・反理性主義・新原始人主義・反テクノロジー主義・新シチュアシオニズムの「文化的テロリズム」・神秘主義・フーコー主義の「私的暴動」を演じる「実践」に見出している。

これらのトレンディな姿勢は、全て現在のヤッピーファッションを追従しており、真面目な組織の構築・急進主義政治運動・社会運動へのコミットメント・理論的一貫性・実行プログラムの適切さに対するアンチテーゼであるという重大な意味で個人主義的なのである。根本的な社会変革を確立することよりも自分自身の「自己実現」を確立することに向かうライフスタイル=アナキストのこの傾向は、カティンカ=マトソンが「内面に向っている」と呼んだことを政治運動だと主張する場合に、特に有害なのである−−R=D=レインの「経験の政治学」に似てはいるものの。ウクライナとスペインにおける叛乱闘争で革命的社会的アナキスト達が掲げた黒旗は、現在では、粋なプチブルご用達の馬鹿騒ぎ用腰布となり果てたのだ。

ライフスタイル=アナキズムの最も不愉快な例の一つは、ハキム=ベイ(別名、ピーター=ランボーン=ウィルソン)の「TAZ:一時的自律ゾーン(The Temporary Autonomous Zone)、存在論的アナキズム、詩的テロリズム」新自律シリーズの一宝石(ここでの語選びは偶然ではない)であり、ブルックリンのひどくポストモダニスト的なSemiotext(e)/Autonomediaグループから出版されている(*8)。「マルクス主義−シュチルナー主義」の賞賛は言うまでもなく、「カオス」・「狂気の愛」・「野生の子供達」・「異教信仰」・「アート=サボタージュ」・「海賊のユートピア」・「革命行為としての黒魔術」・「犯罪」・「魔法」の賛歌の中でなされる自律の要求は、余りにも馬鹿げたほどの長さを取っているため、自己没頭(self-absorbed)し、自己同化(self-absorbing)しているイデオロギーをパロディーにしているように思えるほどである。

TAZは、それ自体を心の状態、激しい反理性的・反文明的ムードであるとしており、そこでは、混乱は一つの芸術形態と見なされ、落書きが行動プログラムに取って替わるのである。ベイ(このペンネームは、トルコ語の「首領」や「王子」を意味する:訳注参照)は、社会革命に対する軽蔑について率直に次のように述べている。『なぜ、既にすべての意義を失い、全くの「シミュレーション」と化している「権力」に立ち向かうのに思い悩むのか?このような対峙は、すべての武器貯蔵庫と監獄の鍵を受け継いでいる空っぽ頭に糞が詰まった者たちによる、危険で醜い暴力の衝動へと帰するだけであろう。』(TAZ、邦訳書、246ページ)「権力」に疑問符?単なる「シミュレーション」?銃火器を使ってボスニアに起こっていることが単なる「シミュレーション」ならば、我々は非常に安全で居心地の良い世界に住んでいるわけだ、全く!近代生活で一貫して倍増している社会病理について不安になっている読者はベイ様の『要するにリアリズムは、我々が「あの革命」を待ち望むことをあきらめるだけではなく、我々がそれを欲することを断念することも求める。 』(TAZ、邦訳書、197ページ)というオリンポスの神々のような思考に安堵するかもしれない。この一節は、涅槃の平穏を享受するよう我々に合図しているのだろうか?それとも、新たなボードリヤール的「シミュレーション」なのだろうか?それとも、多分新たなカストリアディス的「想念」なのだろうか?

(訳注:これ以降の「ベイ」は、原文では「the Bey」と表記されている。このことについて原著者に尋ねたところ、以下のような回答であった。「私は、彼の余りにもひどいペンネームを馬鹿にしているのです。アナキストが自身をベイだと名乗ることは、マルクス主義者が自分をブルジョアだと名乗っているようなものです。これは、彼が明言しているリバータリアニズムへの傾倒と全く矛盾しているのです。」この後、the Beyはベイ様と訳出してある。)

社会を変えるという革命の伝統的目的を無視しながら、ベイ様は一度はその目的のために全ての危険を犯した人々を恩着せがましくあざけっている。『民主主義者、社会主義者、理性的なイデオローグたちは(中略)音楽を聞く耳を持たず、リズムのセンスをまったく欠いている』(TAZ、邦訳書、134ページ)。本当だろうか?ベイ様と彼の侍者達自身は、「ラ=マルセーイエーズ」の詩と音楽に熟達し、グリエールの「ロシア水夫のダンス」のリズムに恍惚として踊ったことがあるのだろうか?過去数世紀にわたり革命家達が作り上げた、実際、ロックンロール以前・ウッドストック世代以前の普通の労働者が作り上げた豊潤な文化をベイ様が忘却していることには、うんざりするほどの傲慢さがある。

真に、ベイ様の夢の世界に入った人々が、社会的コミットメントに関するナンセンス全てを放棄するようにしてあげなければなるまい。『民主主義的な夢?社会主義的な夢?あり得ないことだ。』ベイ様は横柄なほどの確信を持って詠唱している。『夢の中では、我々は愛、あるいは魔術師以外によっては統治されていない』(TAZ、邦訳書、131ページ)。このようにして、何世紀にもわたる偉大なる諸革命で理想主義者達が喚起していた新世界という夢は、ベイ様によって高圧的に、彼の熱にうかされた夢の世界の知恵へと還元されてしまっているのだ。

アナキズムについては、それは『「倫理的ヒューマニズム」や「自由思想」、「筋肉的無神論」、「生硬な根本主義者的デカルト派論理」といったものが引っかかった蜘蛛の巣だらけのものをでっちあげ』(TAZ、邦訳書、106ページ)るというのだ−−ほっとけ!ベイ様は、一挙に、アナキズム・社会主義・革命運動が以前はその根幹としていた啓蒙の伝統をやっつけているだけでなく、あたかも、それらが入れ替え可能だったり、お互い必然的に前提条件となっているかのように、「根本主義者的デカルト派論理」というリンゴを「自由思想」と「筋肉的人道主義」のようなミカンと混ぜ合わせているのである。

ベイ様ご自身はオリンポスの神々宣言を行い、気難しい論証法を行うことに何の躊躇もしていないのだが、彼は『アナーキズムと自由意志論の口先だけのイデオローグたち』(TAZ、邦訳書、96ページ)には我慢できないのだ。『アナーキーはドグマを知らず』(TAZ、邦訳書、107ページ)と主張しながらも、粗野なドグマというものがあるとするなら、ベイ様は自分の読者をその一つの粗野なドグマに陥らせている。『アナーキイズムは、本源的にはアナーキーを内包している。−−そして、アナーキーとはカオスである。』(TAZ、邦訳書、130ページ)。まるで、主曰く、「私は「ここにいる」だから私は存在する」だ−−そして、モーゼは宣言の前に震えたのであった!

実際、病的ナルシシズムの発作の最中、ベイ様は、主権者は、全てのものを所有している自己、そびえたっている「我(I)」、巨大な「私(me)」であると定めている。『我々の一人一人は我々自身の肉体の、我々自身の産物の統治者なのだ−−何物であっても、我々は掴み、保持することができるのである。』(TAZ、邦訳書、135ページ)ベイ様にとって、アナキストと王−−そしてベイ様達−−は皆、絶対主権者である以上、区別できないものとなっているのである。

『我々の行動は自分勝手な布告により正当化され、そして我々の利害関係は他の専制君主との条約によって形作られる。我々は自身の行動圏のために法を制定する−−そしてその法の鎖は、既に断ち切られているのである。現在では、恐らく我々は単なる「王位請求者」として生き延びているに過ぎない−−しかし、そうであっても我々は、我々の絶対的意志を強制するリアリティのほんの一瞬を、一握りの面積を奪い取るだろうが、それがわれわれの「王国」なのである。「朕は国家なり」。(中略)もし我々が、倫理あるいは道徳に縛られているとすれば、それらは我々自身が想像していたものでなければならない。』(TAZ、邦訳書、135-136ページ)

朕は国家なり? ベイ様達に従えば、今世紀にこれらの徹底的な特権を楽しんでいた二人の人間を少なくとも思い浮かべることが出来る。ヨセフ=スターリンとアドルフ=ヒットラーである。残りの我々死ぬべき人間の大部分は、金持ちも貧乏人も同様に皆、アナトール=フランスがかつて述べたように、セーヌ川の橋の下で寝ることを禁じられているのである。実際、フリードリッヒ=エンゲルスの「権威論」が、ヒエラルキーの弁護と共に、ブルジョア形態社会主義を示しているとすれば、TAZとその傍系はブルジョア形態のアナキズムを示しているのである。ベイ様は我々に語っている。『生成は存在せず、革命も、闘争も、指針も存在しない。であれば既に、あなたはあなた自身の生命の君主である。−−あなたの侵すことのできない自由は、ただ別の君主たちの愛によって完成されるのを待ちうけている。それは夢のポリティックスであり、空の青さのように渇望されているものなのだ。』−−ニューヨーク株式取引所に、エゴイズムと社会的無関心の信条表明として銘記されてもよさそうな言葉である(TAZ、邦訳書、16ページ)。

確かにこの観点が、長髪・髭・ジーンズが高級ファッションの興行的世界を撃退しているほどにも、資本主義「文化」のブティックを撃退することなどないであろう。不幸にして、この世界−−「シミュレーション」でもなく、「夢」でもない−−にいるはるかに多くの人々は、刑務所で一つなぎにされている囚人達が最も具体的な服役期間中に証言できるほどにも、自身の表皮さえも持ってはい「ない」のだ。特権を持ったプチブルを除き、地上的な貧困王国の外で、「夢のポリティックス」を漂っている人などこれまでいなかった。そうしたプチブルどもは、特に退屈している時に、ベイ様の宣言を受け入れるであろう。

ベイ様にとっては、実際、伝統的な革命的暴動が示していることでさえも、フーコーの「限定経験」の香り漂う私的陶酔状態と同じなのである。『この意味で反乱とは、「通常の」意識や経験の基準とは反対の「至高体験」のようなものだ。』と彼は我々に確信させている(TAZ、邦訳書、194ページ)。歴史的に、『アナーキストたちのあるものは、(中略)それが共産主義的あるいは社会主義的なものであったとしてもあらゆる反乱や革命に参加したのであるが、それは彼らが、蜂起の瞬間それ自体の中に彼らが探し求めていた種類の自由を見いだしたからだ。それゆえ、ユートピア主義がこれまで常に失敗してきた一方で、個人主義者や実存主義者のアナーキストたちは、(それが短期間であっても)戦時において彼らの力への意志の実現を達成する程度には成功をおさめてきたのである。』(TAZ、邦訳書、p.174)オーストリア労働者の1934年二月革命の叛乱と1936年のスペイン戦争は、全てが審美的顕現日などではなく、乱ちき騒ぎ的「叛乱の瞬間」以上の、死物狂いの真剣さと壮大な魂と共に行われた苦闘だった、と私は証言出来る。

それでもなお、暴動はベイ様にとってサイケデリック=「トリップ」と同じであり、ベイ様お気に入りのニーチェ主義的超人は『自由な精神』なのである。その超人は、『改革の扇動、抗議、非現実的な夢、あらゆる種類の「革命的殉教」といったものに−−要するに、最も今風のアナーキストの活動に−−時間を浪費することを潔しとはしない』であろう。多分、夢は、それが『非現実的』(社会的にコミットした、とも読める)でない限りオーケーなのである。むしろ、ベイ様は『酒を飲み』、『個人的な直感的知覚』を持っていることだろう(TAZ、邦訳書、176ページ)。このことは、デカルト主義論理の拘束から確実に自由になるための精神的自慰に他ならないことを示唆している。

ベイ様が、『形而上学には関わっていないが、それでもなお、「唯一者」にある種の絶対性を与えている』(TAZ、邦訳書、137ページ)マックス=シュチルナーの考えを好んでいるということを知っても何ら驚くべきことではない。確かに、ベイ様は、『シュティルナーに欠けている要素(ニーチェはより近くまで到達している)とは、「通常ではない意識」についての実行概念である。』(TAZ、邦訳書、138ページ)と見出している。明らかに、シュチルナーはベイ様にとっては余りにも理性主義過ぎるのである。『東洋の、オカルトの、そして部族の文化は、真のアナーキストのファッションにおいて「ふさわしい」ものとなり得るテクニックを備えている。(中略)酩酊しておとなしくなってしまっているシャーマニズムを民主化することなのだ。』(TAZ、邦訳書、128ページ)そこで、ベイ様は彼の使徒を「魔法使い」となるように召喚し、使徒に「黒マレー霊魔の呪い」を使うように示唆しているのである。

結局のところ、「一時的自律ゾーン」とは何なのだろう?『TAZは、国家とは直接交戦しない反乱のようなものであり、(国土の、時間の、あるいはイマジネーションの)ある領域を解放するゲリラ作戦であり、それから、「国家」がそれを押しつぶすことができる<前に>、それは、何処か他の場所で/他の時に再び立ち現れるために、自ら消滅するのである。』(TAZ、邦訳書、196ページ)。一つのTAZにおいて、我々は『自ら多くの「真実の欲望」を理解できることだろう。その欲望が、ただ一時期の、短い「海賊のユートピア」の、つまり古い「空間/時間」の連続体の中で捻じ曲げられたフリーゾーンのためだけであったとしても。』(TAZ、邦訳書、126ページ)『潜在的なTAZ』には、『60年代風の「部族集会」、エコタージュする者たちが森で開く秘密会議、ネオ多神教徒の牧歌的ベルテーン祝祭、アナーキスト会議、同性愛の人たちの夢幻郷のようなサークル』があり、『ナイトクラブ、晩餐会』、『古の自由主義者たちのピクニック』−−まさか!−−は言うまでもない(TAZ、邦訳書、205ページ(訳注:TAZの邦訳者はリバータリアンを自由主義者と訳している))。1960年代のリバータリアン同盟の一員だった者として、私は『古の自由主義者たちのピクニック』でベイ様とその使徒の外面を見てみたかったものだ!

恐るべき安定性を持った国家とブルジョアとは逆に、TAZは余りにも短期間で、余りにもはかなく、全く曖昧なため、『TAZが名付けられる(表現される、あるいはメディアによって媒介される)や否や、(中略)それは消滅しなければならないし、消滅する(だろう)が、それは単にどこか他の場で再び飛び上がる』(TAZ、邦訳書、197ページ)。結局、一つのTAZは、一つの叛乱ではなく、一つのシミュレーションなのであり、未熟な脳味噌の想像の中に生きている暴動なのであり、空想への安全な退却なのである。実際、ベイ様は次のように熱弁を奮っている。『我々がそれを推奨するのは、それが、暴力と殉教へ導かれる必要のない(!)反乱と一体になった高揚の質を与えてくれるからである。』(TAZ、邦訳書、196ページ)もっと正確に言えば、丁度アンディ=ウォーホールの「ハプニング」のように、TAZは束の間の出来事なのであり、一瞬の絶頂感なのであり、「力への意志」の束の間の表現なのであり、それは、実際には、個人の人格・主観性・自己形成にさえも何らかの痕跡をも残すほどの能力も全くなく、ましてや出来事と現実を形成することなどないのである。

TAZのはかない性質があれば、ベイ様の使徒は「放浪の存在」を生きるという束の間の特権を享受することが出来る。なぜなら、『「家を持たないこと」(ホームレス)は、ある意味である種の美徳、冒険ともなり得る』(TAZ、邦訳書、250ページ)からである。あぁ悲しいかな、ホームレスであることは、その人が帰る心地よい家があるからこそ「冒険」となり得るのであり、放浪生活は自分の生計の糧を得ることなく生活出来る人々の明らかな贅沢なのである。「放浪生活をしている」浮浪者の大部分について、空腹・病気・冷遇という絶望的生活と、普通に見られた未熟死とを被ってきた大恐慌時代から、私は非常に鮮明に思い出す−−北米都市の街路では現在でも同じなのだ。「路上の生活」を享受しているように見えたジプシー系の人々は、良くて特異体質であり、悪くて悲劇的に神経症的であった。さらに、私は、ベイ様が注目に値するほど打ち出している別な「暴動」、『自発的な無(識)字』(TAZ、邦訳書、248ページ)を無視することも出来ない。彼はこのことを教育システムに対する叛乱として打ち出しているが、そのさらに望まんとしている効果は、彼の読者に接触不可能なベイ様の様々な権威による命令を示すことなのかもしれないのだ。

多分、「地球全土評論(Whole Earth Review)」誌に載ったものよりもTAZのメッセージをうまく記述したものはないであろう。その評論者は、ベイ様の小冊子は『急速に、1990年代のカウンターカルチャーの聖書となっている(中略)ベイの概念の多くが、アナキズムの主義と近縁関係にあるが』、「評論」誌はそのヤッピー常連読者を次のように再保証しているのである。ベイは、

『政府の転覆についてお決まりの「レトリック」を明らかに避けている。その代わり、彼は「叛乱」の機敏な性質を好んでおり、それは「人生全体に形を与え意味を与える(ことが出来る)厳しさの瞬間」を提示すると彼が信じていることなのである。これらの自由のポケット空間、つまり一時的自律ゾーンは、「個人が」大きな政府という図式的鉄格子を避け、「短期間」「完全な」自由を経験できる王国内で時折生活できるようにするのである。』(強調は筆者)(*9)

このこと全てに関する翻訳不可能なイディッシュ語がある:nebbich!1960年代には、近縁グループ「壁に立ち向かう糞ども(Up Against the Wall Motherfuckers)」は、同様の混乱・組織破壊・「文化的テロリズム」を蔓延させていたが、結局その後すぐに政治シーンから消えうせた。実際、そのメンバーの中には、彼らが軽蔑すると公式に主張していた商業的・専門的・中産階級的な世界へ入ったものもいた。こうした行動は米国人に独自のものではない。1968年の5月−6月革命のフランス「老兵」が皮肉っぽく述べていた。「俺達は68年に楽しんだんだ。今はもう大人になるときさ。」サークルAと共に、同じ弱体サイクルは、1984年のチューリッヒにおける非常に個人主義的な青年の叛乱にも繰り返され、結局、悪名高いコカイン・クラック常習者のたまり場、ニードル=パークを造っただけで終わってしまった。それは市当局が麻薬中毒の青年達を合法的に自滅させるために造られたのだった。

ブルジョアがこうしたライフスタイル攻撃を怖がる理由など全くない。制度や大衆型組織の嫌悪・大規模なサブカルチャー志向・道徳的退廃・一時性の称賛と共に、この種のナルシシスティックなアナキズムは社会的に無害であり、優勢な社会秩序に対する不満の単なる安全弁となっているだけのことも多い。ベイ様と共に、ライフスタイル=アナキズムは、スリル・ポストモダンのニヒリズム・目もくらむようなニーチェ主義的意味のエリート主義優越感へと解消することで、全ての意味ある社会活動主義と永続的で創造的な計画への不動のコミットメントから逃避しているのである。

もしこのガラクタを初期のリバータリアンの理想に取って代わるものだとしてしまえば、アナキズムが払うことになる代価は莫大なものとなるであろう。ベイ様のエゴ中心主義的アナキズムは、個人主義的「自律」、フーコー主義的「限界経験」、新シチュアシオニズムの「恍惚」へのポストモダニズム的撤退とともに、アナキズムという正にその言葉を政治的にも社会的にも無害なもの−−全年齢のプチブルの興味をそそる単なる流行−−にしてしまう恐れがあるのだ。

神秘主義的・非理性主義的アナキズム

ベイ様のTAZは、魔法に、さらには神秘主義に対するアピールという点で独自に存在しているわけではない。多くのライフスタイル=アナキストは、人類が転落する前のメンタリティを持っているため、その最も先祖返りした形態の反理性主義へと向い易い。「第五権力(Fifth Estate)」誌の最近号(1989年夏号)の背表紙全体を占めている「アナーキーのアピール」について考えてみよう。そこでは、「アナーキーは、「完全な解放の切迫」」を認識しており(まさか!)、「君の自由の証として君の儀式の中で裸になれ」というのだ。「歌い、踊り、笑い、祝宴をし、遊ぶこと」に従事せよ、と我々は命じられている−−ミイラになったやかまし屋がいない人々は、これらラブレー風の楽しみに反論することが出来るだろうか?

しかし残念ながら、差し支えが一つある。「第五権力」誌が張り合っているように見えるラブレーの「テレームの僧院」は、召使・料理人・馬丁・職人で満ち足りていたのだ(訳注)。彼らの一生懸命の働きがなければ、その明らかな上級階級ユートピアという自己耽溺の貴族主義者は、寺院の別な冷たい大広間で餓死し、裸のままで積み上げられたことであろう。確かに、「第五権力」誌の「アナーキーのアピール」はテレームの僧院を物質的にもっと単純化したバージョンを念頭に置いているのだろう。そして、その「祝宴」とは、詰め物入りのヤマウズラと美味なトリュフではなく、豆腐と米のことを差しているのであろう。しかし「それでも」−−テーブルの上の豆腐と米を得るためにさえも必要な、民衆を苦労から解放してくれる主要テクノロジーの進歩抜きで、どのようにして、この種のアナーキーに基づいた社会が、「全ての権力を放棄する」ことを、「全てのものを共有する」ことを、祝宴をあげることを、踊り・歌いながら裸で走り回ることを出来るようになるのだろうか?

(訳注:ラブレーの『第一之書ガルガンチュワ物語』(制作年から言えば『第二之書パンタグリュエル物語』が先行する)の「第52章 ガルガンチュワが修道士ジャン・デ・ザントムールのためにテレームの僧院を建立させたこと」が初出である。テレームの僧院のくだりは、以下58章まで(つまり第一之書の終り)描写される。アナーキー大王のガルガンチュワが、配下の修道士に、戦争の褒賞として与えたのが、「テレームの僧院」であり、一種のユートピアが緻密な描写で語られている。第57章には、その基本コンセブトが語られている。
「彼らの生活はすべて、法令や定款或いは規則に従って送られたのではなく、皆の希望と自由意思とによって行われた。起きるのがよかろうと思われた時に、起床したし、そうしたいと思った時に、飲み、喰い、働き、眠った。誰に眼を醒まされることもなく、飲むにせよ食べるにせよ、その他何事を行うにつけても、誰かに強いられるということはなかった。そのようにガルガンチュワがきめたのである。一同の規則は、ただ、次の一項目だけだった。「欲することをなせ」
 もっともこれには、条件があり、教養も人格も兼ね備えた高貴な人々に限られるわけだ。訳者の渡辺一夫氏によると、「極めて理想主義的な性善説に立脚した貴族的な自然主義の主張」で、16世紀フランスへ、イタリアから流入してきた「ネオ・プラトニスム」の影響で、ラブレーのオリジナルとは言えないようだとのこと。)

この疑問は「第五権力」誌グループに特に関連している。その雑誌に捕まっていることは、その諸論文の中核に横たわっている原始人主義的・反テクノロジー的・反文化的なカルト宗教である。そして、「第五権力」誌の「アピール」は、アナキストが『魔法円を投げ、恍惚のトランス状態に入り、全ての権力を追い払う魔術を大いに楽しむ』ように勧誘しているのである−−正確には、もう少し進歩した社会における僧侶どもは言うまでもなく、部族社会におけるシャーマンが、教主としての自分の立場を高めるために長年使い、自ら作りだした神秘から人間の精神を解き放つために理性が長く戦わなければならなかった魔術テクニックのことだ。『「全ての」権力を追い払う』?ここでもまた、フーコーの手ざわりがある。資本主義とヒエラルキーという正に現実の権力に対抗して、明確に権能を持った自己管理型制度を確立する必要性を−−確かに、情欲と恍惚が真のリバータリアン共産主義で本当の達成を見出すことが出来るような社会の実現の必要性を−−常に無視しているのである。

「第五権力」誌の「アナーキー」に対するごまかしの「恍惚的」賛歌は、余りにも社会的内容を欠いており−−その技巧的雄弁の華やかな表現は全ておいておくとして−−、粋なブティックの壁に張られたり、挨拶状の裏にプリントされるポスターとして簡単に現れうる。実際、最近ニューヨークを訪れた友人達が私に教えてくれたのだが、ローワー=イースト=サイドのセント=マークス=プレイスにある、リンネルでカバーされたテーブルがあり、メニューが結構高く、ヤッピーの常連客がいるレストラン−−1960年代には闘争の場であった−−はアナーキーという名前だったそうだ。この都市のプチブル飼育場は、有名なイタリア壁画「第四権力」のプリントを見せびらかしている。この壁画は、そこに描かれていないボスや多分警察署に対する暴動的な19世紀末の労働者の武装行進を示したものだ。ライフスタイル=アナキズムは優良消費者のひ弱さとなり得易いようだ。先に述べたレストランには警備員もいるという。多分、壁画に描かれている地域の最下層民を締め出しているのだろう。

安全で、私事中心主義的で、快楽主義的で、心地よくさえある、ライフスタイル=アナキズムは、臆病なラブレー主義者の陳腐なブルジョア生活様式を刺激するための巧妙な無駄口をたやすく与えてしまっているのかもしれない。MITが数年前に前衛プチブルを楽しませるために展示した「シチュアシオニストの芸術」のように、恐ろしく「邪悪な」アナキストのイメージ−−多分、幻影−−と同じ物を提示しているのである。丁度、アメリカの太平洋沿岸にそって繁栄している人々のように、東方を示しているのだ。一方、「恍惚産業」は、近代資本主義下で非常にうまくやっており、売り物になるお下劣イメージを大きくしようとライフスタイル=アナキストのテクニックをたやすく吸収できるだろう。その昔、長髪・髭・服装・性の自由・芸術とともにプチブルにショックを与えたカウンターカルチャーは、長い間、ブルジョア興行主に盗まれてきた。ブルジョア興行主のブティック・カフェ・クラブ・ヌーディスト=キャンプさえも、「ヴィレッジ=ヴォイス」誌などのような雑誌の新たな「恍惚」に対する多くの湯気の立つような広告を目撃して、華やかなビジネスを行っているのである。

実際、「第五権力」誌の粗暴な反理性主義的見解は、非常に問題のある示唆を含んでいる。想像力・恍惚・「原始性」に対するその感情的な称賛は、理性主義的効率性だけでなく、理性そのものをも明らかに攻撃している。1993年秋冬号の表紙は、フランシスコ=ゴヤの有名な誤解されている「カプリチョスNo.43」、「Il sueno de la razon produce monstros」(「理性の眠りは怪物を生み出す」)を使っている。ゴヤの寝ている絵は、アップル=コンピュータの前にある机の上に横倒しになって示されている。ゴヤの碑文の「第五権力」誌の英訳は「理性の夢は怪物を生み出す」であり、怪物は理性そのものの産物だということを意味している。事実はといえば、ゴヤは、彼自身のメモが示しているように、彫刻にあるモンスターは、理性の眠りによって生み出されたのであって、夢によってではない、ということをはっきりと意味していたのだった。彼自身のコメントに書いてあるように、『理性に見放された想像力は途方もない怪物を生み出す。理性と結合すれば、想像力は全ての芸術の母であり、芸術の驚異の源泉となる。』(*10)理性を軽視することで、この断続的なアナキスト雑誌は、今日の新ハイデッガー主義的反動の最も気味の悪い側面の幾つかとの共謀に参入しているのである。

反テクノロジー・反文明

さらに問題なのが、ジョージ=ブラッドフォード(別名デヴィッド=ワトソン)である。彼は、テクノロジー−−明らかにテクノロジーそれ自体−−の恐怖に関する、「第五権力」誌の主要理論家の一人である。社会関係がテクノロジーを決定するのではなく、テクノロジーが社会関係を決定するように思えるのだろう。社会生態学ではなく通俗的なマルクス主義に非常に近い概念である。『テクノロジーは孤立したプロジェクトでもなければ、技術的知識の集積ですらない』とブラッドフォードは「産業ヒドラの阻止」(Stopping the Industrial Hydra: SIH)の中で述べている。『「社会関係」の中の何らかの形で独立しているもっと根本的な領域が決定しているである。大規模技術は、ラングドン=ウィナーの言葉を借りれば、「その環境の」、従って大規模技術をもたらした正にその社会関係の、「再構成を、その操作条件が必要としている機構」となっている。大規模技術−−初期の社会形態と古代の階級制度の産物−−は現在、自己充足的生命を保ちながら、その技術を作り出していた諸条件よりも肥大化している。(中略)それらは、総論的にも各論的にも、一種の完全環境と社会システムを提供して、もしくは、そのものになってきているのである。(中略)こうした機械化されたピラミッドの中では(中略)道具の関係と社会の関係は同一なのだ。』(*11)

この表層的な概念体系は、「どのように」テクノロジーが使われることになるのかを強硬に決定している資本主義の諸関係を回避し、テクノロジーがどう「ある」べきだと仮定されているのかに焦点を当てている。テクノロジーが「使われて」いる全く重要な生産プロセスを強調するのではなく、社会関係と根本ではない何かとを関連付けることでブラッドフォードは、機械と「大規模技術」に、テクノロジーに関するスターリン主義的仮説のように、最終的には反動の目的を果たすことになる神秘的自治権を与えているのである。テクノロジーがそれ自身の生命を持っているという考えは、ナチが自分たちの支離滅裂な反テクノロジー的イデオロギーをどれほど褒め称えていたにせよ、前世紀の保守的なドイツロマン主義と、国家社会主義イデオロギーに組み込まれたマルティン=ハイデッガーとフリードリッヒ=ゲオルグ=イェンガーの著作に深く根ざしているのである。

我々の時代の近代イデオロギーという観点で見れば、このイデオロギー上の手荷物は、現在ではよく見られる次のような主張に象徴されている。それは、新しく開発された自動機械が民衆に仕事を様々なやり方で課したり、民衆の搾取を強くしたりしているのだ、というものである。どちらも疑う余地のない事実だが、それはテクノロジーの進歩にではなく、「正確には資本主義の搾取という社会関係に」根を下ろしているのである。荒っぽく述べてみよう。「ダウンサイジング」は今日、機械によって行われているのではなく、労働に取って代わったり、もっと集中的に労働を搾取するために機械を「使ったり」している貪欲なブルジョアによってなされているのだ(原注)。実際、ブルジョアが「労働コスト」を削減するために使っている正にその機械こそが、理性的社会においては、もっと創造的で個人的に行う甲斐のある活動をするために必要な、情け容赦ない労苦から人間を解放してくれるであろう。

(原注:資本主義を機械と置き換えてしまうことは、つまり読者の注目をテクノロジーの使用を決定している全く重要な社会関係からテクノロジーそれ自体へと移すことは、前世紀と今世紀の反テクノロジー文献のほぼ全てに見られる。イェンガーが、『技術の進歩は一貫して仕事の総量を増加させ、これが、これまでのところ、何故失業が増大するのが、いつも機械労働の組織を危機や不安が脅かしている時なのか、の理由なのである。』と吟味している時、彼はこのジャンルのほぼ全ての著者を代弁しているのである。フリードリッヒ=ゲオルグ=イェンガー著、「テクノロジーの失敗」(シカゴ:Henry Regnery Company、1956)、7ページ参照。)

ブラッドフォードがハイデッガーやイェンガーに親しんでいるという証拠はないが、むしろ、彼のインスピレーションは、ラングドン=ウィナーとジャック=エリュールから引き出されているようだ。後者についてブラッドフォードは賛同的に引用している。『今日、社会の一貫性を作りだしているのは、テクノロジーの一貫性である(中略)テクノロジーはそれ自体で一手段であるだけでなく、諸手段の小宇宙−−排他的かつ総合的という、Universumの元来の意味での−−なのである。』(SIH、10ページより引用)

その最も有名な著書「テクノロジー社会」において、エリュールは、世界と世界に関する我々の思考方法とは道具と機械(「la technique」)を手本にしている、という粗雑なテーゼを打ち出していた。この「テクノロジー社会」がどのようにして出現したのかについていかなる社会的説明もなく、エリュールの本はいかなる希望も提供せずに終わっている。ましてや、「la technique」に完全に吸収されてしまうことから人間性を回復するためのいかなるアプローチも示していないのだ。実際、人間の欲求を満たすためにテクノロジーを利用しようとしている人道主義でさえも、彼の観点では、『テクノロジーの進化に影響を与える機会などを全く持たない偽善的な希望』へと還元されているのである(*12)。そして、それほど決定論的だとすれば、まさしくそうなのであり、世界観はその論理的帰結に従っていることになる。

だが、うれしいことにブラッドフォードは、我々に解決策を示している。『すぐにも機械を完全撤廃し始めるのだ』(SIH、10ページ)。そして、彼は文明との一切の妥協を許さずに、ある種のニューエイジ環境保護カルトによく見られる擬似神秘的・反文明的・反テクノロジー的決まり文句全てを基本的に繰り返している。近代文明は『諸力の母体』であり、そこには『商品関係・大規模コミュニケーション・都市化・大規模技術に加え、(中略)それらと連動し、それらに匹敵している原子力−サイバネティックスの状態』があり、これら全ては『地球規模のメガマシーン』へと一極集中しているというのである(SIH、20ページ)。彼は別なエッセイ「肥大した文明」(Civilization In Bulk: CIB)で、次のように述べている。『商品関係は』単なるこの『諸力の母体』の『一部』でしかない。文明は、『当初から労働者収容所』であり、『分厚く積み重なっているヒエラルキーの厳格なピラミッド』であり、『無機物の領域の莫大な拡大』であり、『火を盗んだプロメテウスから国際金融基金への直線的進展』であった『一機械』なのだ(*13)。したがって、ブラッドフォードは、モニカ=スジョー(Monica Sjoo)とバーバラ=モー(Barbara Mor)の馬鹿げた本「偉大なる宇宙の母:地球宗教の再発見」を批判しているのだが、それはその先祖返り主義的で回帰的な有神論のためではなく、著者らが「文明」という言葉に引用符をつけているからなのだ。つまり、『文明の条件全てに挑戦するのではなく、文明に対する代替観点や逆の観点の存在を仮定しているこの素晴らしい(!)本の傾向を反映している』(CIB、注23)実践だからなのだ。その文明との妥協にも関わらず、冥界の神々に基づく自分の領域が『素晴らしい』ということを拒否しようとしているのは、多分、これら二人の地球の母達ではなく、プロメテウスであろう。

メガマシーンの社会的効果に関するルイス=マンフォードの悲しみを引用せずに、メガマシーンについて述べることは、確実に、いかなるものであれ完全なものとはなり得ないだろう。実際、こうしたコメントが通常マンフォードの意図を誤って解釈しているということは注目に値する。マンフォードは、ブラッドフォードなどが我々に信じ込ませようとしているような反テクノロジー主義者ではなかったし、いかなる言葉の意味でも、彼の好みとして、ブラッドフォードの反文明的原始人主義に見出せるような神秘主義者ではなかった。この点について、私は、1972年頃にペンシルベニア大学で開かれた会議に参加して、一定時間、マンフォードの見解について本人と話をしたときの直接の私的知識から述べることが出来る。

しかし、マンフォードが『機械的手段』を『潜在的に理性的で人間的な目的達成の手段』(*14)だと心の底から好ましく記述しているのを見るためには、「技術と文明」(Technics and Civilization: TAC)のような彼の著作をひもとくだけで良い。ブラッドフォード自身もそこから引用している。マンフォードは、読者に機械は人間から生じていることを繰り返し思い起こさせながら、機械は「人格の特定側面の投影」である、と強調している(TAC、317ページ)。実際、機械の最も重要な機能は、人身に及ぼす迷信のインパクトを払拭することなのだ。従って、

『過去、不合理で悪魔的な人生の側面が、それらが属していなかった領域をも侵食していた。ブラウニーではなくバクテリアが牛乳を腐らしめているということが発見され、空気冷却型モーターは魔女の帚よりも効果的な高速長距離移動法だと発見されたのは、一歩前進だった。(中略)科学と技術は我々の道徳心を強固にした。科学と技術は、その正なる厳しさと自制によって、(中略)子供じみた恐怖、子供っぽい推論、同様に子供っぽい主張に対する侮蔑を投げかけているのである。』(TAC、324ページ)

マンフォードの著作にあるこの主たるテーマは、我々の中の原始人主義者達によって頑なに無視されつづけている−−特に、機械は、『共同思考と共同行為のテクニック』を促すという『莫大な貢献』をなしてきたという彼の信念が無視されているのだ。マンフォードは『機械の美的素晴らしさは、(中略)結局のところ、多分、この新しい社会的道具とのより繊細で理解しやすい交流を通じて、また、機械の慎重な文化的同化を通じて存在するに至るもっと客観的な人格を形成するであろう』(TAC、324ページ)とほめたたえることを躊躇してはいなかった。実際、『直接経験という生のデータとは区別して事実という中立的世界を創造するテクニックは、近代の分析科学の偉大なる総体的貢献だったのである』(TAC、361ページ)。

ブラッドフォードの明らかな原始人主義を共有することからは程遠く、マンフォードは、機械を完全に拒否している人々を鋭く批判し、彼は『絶対的な原始人への回帰』をメガマシーン自体の『神経症作用』と見なしていた(TAC、302ページ)。実際、大災害なのだ。『野蛮人による機械の単なる物理的破壊よりももっと破滅的なことは、我々の主要技術を達成せしめた共同思考プロセスと公正な研究を抑圧することで、人間の動機を無にしたり屈折させたりする野蛮人の脅威なのである』、と彼は非常に鋭い言葉で述べていた(TAC、302ページ)。そして、彼は次のように命じていた。『我々は、未開時代への逆戻りを馬鹿げているように見せることで、機械に抵抗するための無益で哀れな我々の誤魔化しを放棄しなければならない。』(TAC、319ページ)

彼の後年の著作も、彼がこの観点を緩めていたといういかなる証拠も示してはいない。皮肉なことに、彼は生活劇場のパフォーマンスと暴走族の『無法地帯』というヴィジョンを『野蛮な状態だ』と示し、『現在の俗物的で、規格化された、無個性の文化は何も恐れることはない』という観点から、ウッドストックを『大規模な学徒動員だ』と批判していたのだ(原注)。

(原注:ルイス=マンフォードは、「権力のペンタゴン」第二巻(ニューヨーク:Harcourt Brace Jovanovich、1970)で、挿絵13と26にこの説明を付けている。この二巻の書は、常に、テクノロジー・理性・科学に対する攻撃として読み誤られて来た。実際は、そのプロローグが示しているように、この書物は人間の労働力を−−そう、社会関係をも−−組織する一形態としてのメガマシーンを、科学とテクノロジーが達成したことと対比させているのである。マンフォードは通常科学とテクノロジーを賛美し、ブラッドフォードが見下しているまさにその社会文脈の中に科学とテクノロジーを置いていたのである。)

マンフォードは、彼自身の観点では、メガマシーンにも原始人主義(「有機的な」)にも賛成しておらず、それよりも、民主的で人間サイズの方向にそったテクノロジーの洗練を好ましいとしていた。『機械を「超える」(そして新たな統合へと向かう)我々の能力は、機械を「消化する」我々の力に依存している。』と彼は「技術と文明」の中で示していた。『我々が客観性・非人間性・中立性の教訓、つまり機械領域の教訓を「吸収する」まで、我々はもっと豊潤に有機的で、もっと深遠なる人間への発達をさらに押し進めることなど出来はしない』(TAC、363ページ、強調は筆者)。

テクノロジーと文明を、先天的に人間性の抑圧であると非難することは、実際、ある種の社会関係をベールで隠すことになる。その社会関係は、搾取される側に及ぼす特権を搾取者に与え、服従者に及ぼす特権を支配者に与えていることが多い。過去のいかなる抑圧的社会よりも、資本主義は、マルクスの「資本論」における用語を使えば「物神崇拝」の覆面の下にその搾取を覆い隠しているのである。結局、多種多様に−−そして表面的に−−シチュアシオニストによって「スペクタクル」へとそしてボードリヤールによって「幻影」へと編み込まれている「商品崇拝」なのである。ブルジョアが剰余価値を獲得することが、表向きにのみ平等な労働力の契約的賃金交換によって覆い隠されているように、商品崇拝とその運動は、資本主義の経済的社会的関係の優越性を覆い隠しているのである。

ここで、重要な、確かに重大な、ポイントを指摘しておかねばならない。こうした隠蔽工作は、民衆の目から、我々の時代の危機を生み出している資本主義競争の因果的役割を隠しているのだ。これらの神秘化に対して、反テクノロジー主義者と反文明主義者達は、テクノロジーと文明の神話を先天的に抑圧的だと付け加え、そこで、社会的関係を媒介し、我々の時代の技術−都市の風景を生み出している資本主義に特有の社会的関係−−特に、物(商品、交換価値、モノ−−お好みの言葉を使えばよかろう)の使用方法−−を覆い隠しているのである。丁度、資本主義の「産業社会」というフレーズを使った言い換えが、近代社会を形作っている資本と商品の関係の特定的で一次的な役割を覆い隠しているように、社会関係の技術−都市文化という言い換えが、ブラッドフォードが明らかに従事しているところの、近代文化を形成している市場と競争の主要な役割を隠しているのである。

ライフスタイル=アナキズムは、主としてそれが社会ではなく「スタイル」に関わっているために、そのルーツを競争市場に持ち、生態破壊の源泉としての、資本主義の蓄積から目を背け、あたかも立ちすくんでいるかのようにして、「自然」と人間性の「神聖なる」もしくは「恍惚的な」統合の前提となる破壊を、そして科学・唯物論・「理性中心性(logocentricity)」による「世界の脱魔術化」を凝視しているのだ。

従って、今日の社会病理と私的病理の源泉を公開する代わりに、反テクノロジー主義は、我々が資本主義をテクノロジーともっともらしく挿げ替えることが出来るようにしているのである。それは基本的に成長と生態破壊の根底にある原因としての資本の蓄積と労働の搾取を「促している」のである。文明は、文化センターとしての都市に組み込まれているために、その理性的側面を剥奪されている。部族生活や村落生活の偏狭な制約とは全く正反対の位置に置かれることで、都市は、あたかも、人間の交際範囲を普遍化するための潜在的地域ではなく、弱まることのない癌となってしまったかのようだ。資本主義の搾取と支配という基本的社会関係は、社会的生態的危機の基本原因への民衆の洞察−−権力・産業・富の大企業ブローカーを生み出している商品関係−−をぼやかしながら、エゴと「la technique」に関する形而上学的な一般化によって隠されているのである。

だからといって、多くのテクノロジーが先天的に支配的で生態学的に危険であるということを否定したり、文明は純然たる天恵だと主張したりしているわけではない。核融合炉、大規模ダム、高度に中央集権化された産業複合体、工場システム、軍需産業は−−官僚制度・都市の荒廃・近代メディアのように−−ほぼそれらの始まりから非常に破滅的である。しかし、18世紀と19世紀には、北米の巨大エリアを氷解したり、その原住民族を実質的に滅亡させたり、全領域の土壌を破壊したりするために、スチームエンジンも、製造業も、また、このことに関して言えば、巨大都市と手の届かない官僚制度も必要なかったのだ。逆に、鉄道がその土地全体にしかれる前でさえ、この破壊の多くは単純な斧、黒色火薬のマスケット銃、馬車、すきの刃を使って既になされていたのだった。

ブルジョア事業−−前世紀の文明の野蛮な側面−−が、オハイオ川流域の多くを投機的な不動産へと切り開くのに使ったのは、これらの単純なテクノロジーであった。南米では、プランテーション所有者は、綿を植えたり摘んだりする機械が存在していなかったため、奴隷の「手」を数多く必要としていた。実際、アメリカの小作農業は過去二世代で消滅してしまった。それは、新しい機械が導入され、「自由にされた」黒人小作人の労働に取って代わったことに大きく依っていたのだった。19世紀には、半封建的な欧州から農夫が、川と運河を通って、アメリカの原生地帯へと流入し、抜きんでた反生態調和的方法を使って、穀物を生産し始め、結果的に北米資本主義を世界の経済的指導者へと押し進めたのだった。

乱暴に言ってしまおう。現代の爆発的な環境危機を生み出したのは資本主義−−その歴史全体へと拡大した「商品」関係−−だったのである。それは、エンジンではなく、風をその動力源としていた航海船に乗って全世界へと持ちこまれた初期の家内工業商品に始まったのだ。今日最も大きな不名誉に達している機械は、大規模手工業がその歴史的突破口をなしていた英国の織物村落や街から離れ、欧州と北米の多くの場所で資本主義が支配力を獲得してから長いことたった「後に」作りだされたのだ。

しかし、欧州文明の賛美からその大規模な中傷へと現在振り子が移っているにもかかわらず、我々は近代世俗主義・科学知識・普遍救済説(ユニヴァーサリズム)・理性・テクノロジーの勃興の重要性を思い起こすことがうまく出来るだろう。これらは「潜在的に」、社会の出来事の理性的で解放的な摂理という希望を提供しているのだ。実際、ラブレーのテレーム僧院で「ましな」貴族の食欲につけ込んだ多くの召使と職人達を抜きにして、情欲と恍惚とを十全に実現するためなのだ。皮肉なことに、今日の文明を侮蔑している「反」文明のアナキスト達は、それらを可能にした欧州の歴史における骨の折れる発展という感覚を持たずに、その文化的果実を享受し、リバティという拡大しやすく非常に個人主義的な専門分野を作り出している人々の仲間なのである。少なくともクロポトキンは、『近代技術の発展、それは生活必需品全ての生産を素晴らしく単純にしているのだ』(*15)と明確に強調していた。歴史文脈の感覚を失った人々に対して、傲慢な後知恵はた易くやってくるのだ。

[つづく]



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