「アナキズム」(玉川信明、現代書館 1986年)
- FOR BEGINNERSシリーズの1冊。わかりやすい良書。入門用には最適。 (T)
「アナキズム1、2」(G・ウドコック、紀ノ国屋書店 1974年)
- 体系的にアナキズムについて語られている。1ではゴドウイン、シュティルナー、プルードン、バクーニン、クロポトキン、トルストイなどの古典的アナキストの紹介、2ではフランス、イタリア、スペインなどのアナキズム運動が紹介されている、これからアナキストになる人には(そんな奴はいないと思うが?)うってつけの本である。 (K)
「日本のダダ」(神谷忠考、響文社 1987年)
- 高橋新吉や辻潤など日本のダダイストを網羅している、辻は高橋にダダをおしえられたそうだが、辻はダダでもニヒリズムでも老荘でもこだわりはなかったようだ。アナーキズム系の雑誌一覧もあり資料としても役に立つ。 (K)
「世界の名著 第42巻 プルードン・バクーニン・クロポトキン」(猪木正道・勝田吉太郎/編 中央公論社 1967年)
- ハードカバー版は大都市の古書店街では大抵あります。図書館に入ってることも多いです。
アナキズム思想の三大巨人の代表著作、プルードン『十九世紀における革命の一般理念』、バクーニン『神と国家』『鞭のドイツ帝国と社会革命』、クロポトキン『近代科学とアナーキズム』などをコンパクトにまとめた、手に入りやすい古典的入門書。
三者の思想には相互矛盾もあれば発想が根本から異なる点もある。しかし、つまみ食い的に興味の持てる部分だけ読み進めるのも悪くないだろう。
社会主義がしょせんは文化人サロンの空想的なおしゃべりだった時代に、本物の勤労者の立場から自治の理念を唱えたプルードン、人間の根元的な自由への本能(反逆本能?)に着目したバクーニンらの姿勢は、経済的な社会改革が制度によってひとまず落着した(ことになっている)今日に置いてこそ、読み返される価値があるかも知れない? (佐藤<人民の敵>賢二)
「近代個人主義とは何かー現代のソクラテス哲人アン・リネルの個人主義ー」 (松尾邦之助著 黒色戦線社 1984年)
- アン・リネル。本名、ジャック・エリ・アンリ・アンブロワーズ、マティユー・エルネスト・ネル。1861年アルジェリア生れ。一才の時にフランス移住。作家・哲学者である。
著者松尾邦之助は、日本における唯一の友人とのこと。「パリの辻潤」として日本に紹介したジャーナリストである。著書が多数存在し、当時のフランスで、その文学的哲学書が、多くの人々に愛されたにもかかわらず、日本ではまともに紹介されたこともないそうで、本書が唯一のものとなるそうだ。つまり、良いも悪いもアン・リネルのことを知りたくば、本書を一読してもらうしかないのだ。「態々(さまざま)な個人主義」という、アン・リネルの講演も所収されており、アウト・ラインはつかめる。
「彼は、もちろん個人主義的アナーキストであるが、系統はストア派で、大いにディオゲネスに私淑している・・ストイックの精神をぬきにしては彼の諸説を論ずることは出来ない。」と、そして自分の考えとも似ていると辻潤は言う。しかしアン・リネルは、厳格なモラルを要求するストイックなストア派の唯物論者であったわけではない。快楽主義者でもあり、「論理」に対しても批判的であった。それは、主観主義を説きつつも、個人がドグマに陥る危険を実践的に熟知していたからにほかならない。したがって「個人主義とはいかなることか」という定義づけすら否定したのである。「個人」を概念として一般化普遍化する作業ではなく、現実に今生きている自分、アン・リネル自身から導き出されてたのが、彼の主張する個人主義である。「アン・リネル個人主義」のすすめではなく、自らの方法/現実を呈示することを以って、各々の個人主義/現実を追求することを、我々に示唆しているのである。 (N)
「意識の形而上学 -「大乗起信論」の哲学」(井筒俊彦、中央公論社 1993年)
- どういう言葉でどういう作者が書いたのかも不明な「大乗起信論」は、仏教思想史的には、大乗仏教屈指の論書である。それをまた、明晰なる著者が、見事に言語哲学として再生させたのが本書だ。さほどの予備知識なくとも、これが読めるという快感は読者は味わえ、ソシュール言語学にふれずとも、親しき東洋において、言語の果てに立ち合えるのだ。言葉/意識をバラされるすがすがしさを味わいたまえ。 (N)
「シーシュポスの神話」(アルベール・カミュ、新潮文庫 1969年)
- ちょっと読みづらいけど、人間の不条理について大いに教えられる本。 (T)
「唯一者とその所有 上・下」(シュティルナー、現代思潮社 1977年)
- シュティルナーの思想を語る事は大変むずかしい、いたる所にパラドックスの罠は仕掛けてあるわ、どう解釈していいのか解らない事象がたくさんあるわで、この本を読みとくのは一筋なわではいかない。
だが、はっきりしている事もたくさんある、それは「唯一者」が何者にもよらない思想であるということだ。自我(EGO)が唯一であり自我(EGO)こそ生きていく指針なのだということだ。
それは国家、法律、宗教などの制度(システム)とは一切無縁で、それを徹底的に拒否し、そこから自我の脱構築をはかるためのニヒリスティク、エゴイスト思想である。
が、シュティルナーの思想はエンゲルスが「唯一者」を読んで考えた利己主義的なものではない。
シュティルナーの思想からは革命は生まれないし、また革命を肯定もしていない、そこには反逆しかないのだ、シュティルナーは言う「革命は新しい体制を目的とするが、反逆は、もはや僕らが整理されることなく、自分自身で自らを整理できるようにしてくれる。そして「制度」にはなんらの輝かし希望をも置かないのである。」
また、シュティルナーは「自由」や「平等」という概念にも猜疑の目をむける、「ある特定の自由に対する熱望は、常に新しい支配に対する意図を含むものである」「平等はまさに、市民階級あるいは中産階級によってていき提起された、かの革命の産物である。」
ヘーゲル左派が生み出した「狂気」は、ぼくにはもっとも極北に位置する思想であると同時に、かけがえのない思想である。 (K)
「個人主義 シュティルナーの思想と生涯」(大沢正道、青土社 1988年)
- シュティルナーにとどまらず、アンリネル、辻潤など思想も、「唯一者」の思想を理解するにはこの本がいいかも。 (K)
「嘲笑するエゴイスト マックス・シュティルナーの近代合理主義批判」(住吉雅美、風行社 1997年)
- 「唯一者」をより深く理解するための書、研究書なのでとっつきにくいが読みだすと止まらない。 (K)
「「無」の思想 ー老荘思想の系譜ー」(森三樹三郎 講談社現代新書 1969年)
- 「無の思想」とか老荘思想とか言っても、ビジネス書まで出ている昨今陳腐にすら感じるかも知れない。しかし、逆に我々日本の土地に住まう者の文化には、気付かずともそれらはしっかりと埋め込まれているのだと言える。それを、本書のような格好の入門書で、再確認しておくのも無駄ではない。
まず「自然」を「他者の力を借りないで、それ自身の内にある働きによって、そうなること」と定義した上で、この「他者」こそ、人為もしくは、意識的な作為であり、自然の対立者と見る「無為自然」、いきなり老荘思想の確信に入る。人間の産出する人為、換言すれば文化自体が無秩の因なのだ。社会に混乱が起った時、道徳や法律を厳しくすることは、ますます混乱を大きくするとある。昨今の保守系政治家たちに聞かせたいような話しである。まあ素朴な自然回帰であると言える。ここまでが老子で、荘子になると、認識論の立場から、その人為を哲学する。人為以前に何が有った/無かったのかということである。荘子は老子のように「無があった」とするのではなく、元来、人為がなければ有無それ自体を分節することはなかったのだとする。自然は超価値的なまま自然で、それが「無差別自然」「万物斉同」である。さらにこの無差別自然の世界の受容を、「運命自然」として展開する。「人力ではどうしようもできないことと悟った時、運命のままに従うことこそ、至上の徳」というわけである。これら老荘のエッセンスを踏まえた上で、今度は逆に、老荘思想形成の源流を考察する。儒教や陰陽五行。そして中国仏教、禅、浄土教の二大潮流である。後者の浄土教の重要概念がやはり「自然」(じねん)であり、最近五木寛之のベストセラーのタイトルともなった「他力」の思想である。親鸞が後に「自然法爾」として完成させることになる。江戸に入っては、伊藤仁斎や荻生徂徠らの儒学古学派が、ひたすら「公」への服従を説く(何やらよしりん大先生みたいだが)朱子学のライバルとなっていた。古学派は、芸術や文化、私生活のレベルではあったが、私欲や私情や、人情の自然を認めた。徂徠学は、その後、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長へと展開する。その主張の強弱硬軟については、それぞれ差異はあるものの、老荘の影響や流れは否定すべくもない。そして最後は芭蕉と荘子の関わりを述べている。冒頭でも述べたが、老荘思想は存外身近なのである。 (N)
「平民新聞論説集」(林茂・西田長寿編、岩波文庫)
- ご存知、平民新聞やその関係新聞(直言・新紀元・光・社会新聞・東京社会新聞)に載った論文を集めたものである。片山潜・木下尚江・幸徳秋水・石川三四郎・堺利彦・安部磯雄・山川均・田添鉄二など代表的な明治社会主義者の論説が読める。やはり圧巻は、幸徳・田添・堺の「直接行動か、議会政策か」の議論だろう。この時点で、田添が「無政府主義思想混入せしこと」(p.229)と述べているように、議会政策論者は既に排除・占め出しの論理を使い、現在の各種共産主義団体の傾向を示していたのだった。
私は、岩波文庫が大好きだ。それは、重要文献を安く読めるからで、この文庫も\660と安価に手に入れられる。唯一の難点は、文章が現代文になっていないため、読みにくいことだが、これも、慣れれば、メリハリがあって現代文よりも気持ちよく読める。 (M)
「麺麭の略取」(クロポトキン著、幸徳秋水訳、岩波文庫)
- 絶版だ!なんてこった!お願いだから、現代文にして、出版してくれ! (M)
「ドイツ・アナーキズムの成立−「フライハイト」派とその思想−」(田中ひかる著、御茶の水書房 2002年)
- ドイツのアナーキズムについて、何か知っていることといえば、マックス・シュティルナーがバイロイト生まれでというくらいで、後は特にドイツのアナーキズムなど意識したことはなかったが、本書を読んでドイツの大まかなアナーキズムについて知ることができた。
本書で取り上げられている「フライハイト派」とは19世紀、ドイツのヨハン・モストという人が編集したフライハイト紙とそのフライハイト紙を支持した人たちのことだそうです。
例にもれずフライハイト派もまた、いろいろ思想転換や対立などを生むわけですが、ぼくは本書で語られている個人主義的アナーキズムと共産主義的アナキーズムとの対立を興味深く読みましたが、これもまた、アナキズムという思想が多様な側面を有し、決して一元化された思想としては捉えられないのでしょう。
ただ、本書の註で語られているようにアナーキズムは「支配したくもなくされたくもない」という一点さえ思考していえば、個人主義的アナーキズムも共産主義的アナーキズムの相違も、さほど問題にしなくってもいいのではないかと、考えさせられました。
(梅田のんきち)
- 1880年代のドイツ・アナーキズム、とりわけヨハン・モストと、彼が編集した『フライハイト』紙によって展開された『フライハイト』派についての研究書である。 著者によると、戦後ドイツの様々な反権威主義的な思想や運動の起源の一つとして、『フライハイト』派が挙げられるそうだ。ところが、今まで「再評価」の機会が与えられなかったのは、モスト自身が、爆弾製造マニュアル『革命兵学』の出版者であるばかりか、所謂アナ名物「行動によるプロパガンダ」が『フライハイト』の一つの柱でもあったことにもよるようだ。
現に、モストに先行して、『フライハイト』に掲載されたガンツの「革命兵学」は、革命のためのあらゆる暴力を肯定し、とりわけ爆発物や毒ガスによる多様で大量殺戮可能な兵器の使用をも主張したものだ。ガンツは言う、「ブルジョワの倫理」にこだわるな。「圧政者殺し」こそが、「人類の文化の実現」に貢献する真に倫理的なものだ、と。
もちろんそれらは単に主張されただけではない。「メアシュタリンガー事件」に代表されるような強盗即ち「私有財産に対する攻撃」や、「フランクフルト警察爆破事件」「(警察職員)フルーベック暗殺事件」「ニーダヴァルト皇帝暗殺未遂事件」等、直接権力をターゲットにしたものまで、陸続と「フライハイト」派やその影響下にあったアナーキストたちによる「行動」が実現を見る。
しかし、『フライハイト』自体は、当初からこれら過激なアナーキズムを主張していたのではないらしい。『フライハイト』は、社会民主主義派の亡命機関紙として刊行されていたのだ。当時のドイツにおいては、圧倒的多数派が、社会民主主義だったが、ビスマルクによる労働運動弾圧が猖獗をきわめるに至って、多数派形成は限界となり、それがかえって運動の先鋭化、革命化をもたらすようになって行く。そこにダーヴやラインスドルフたちアナーキストたちが触媒として作用、モストや『フライハイト』をアナーキズム化していくのである。アナーキズム化と言ってもそこに何がしかの「組織」や「指導」が介在したわけではない。アナーキズムのメインストリームたるジュラ連合、バクーニン派の影響も間接的なものに留まっていた。そこに一つの疑問が沸き起こる。
「彼らはなぜアナーキストと名乗ったか」 これが本書の要諦である。換言すると「人は如何にしてアナーキストになるのか」である。
この問いかけは、実は120年前にも発せられていた。社会民主党の前身、社会労働者党党大会における、党指導者ヴィルムヘルム・リーブネクトの言。「情熱的で、不正に対する憤りによって他の人間の感情を支配し、すべての熟慮を押し流す、狂信的で、力強く、大胆な人々」社会民主主義者からアナーキストが始めて定義、弁別されたのだ。
本書は、『フライハイト』という一つの機関紙の成り立ちを実証的に追いかけつつ、アナーキストたちの作られ方を明らかにするものである。
私見としては、「組織」とか「指導者」「体系」を持たないことをあたかも無文字社会の「未開人」の如く否定的に言挙げされるアナーキズムが、実は、人間の身体性に根差した動きではないのかと。その「行動」についても、さほどの効果もなく今やアナーキストたちですら顔を背けてさえも、なおかつまだ魅了するものが残っているのは、そこのあたりに秘密があるのではと、おそらく著者の意図とは無関係に妄想してしまった次第。
様々な刺激を与えてくれる好著である。
(乱乱)
「アメリカが本当に望んでいること」(ノーム・チョムスキー、現代企画室 1994年)
- ここまで徹底的にアメリカを糾弾した本だとは思わなかったので驚いた。日本では言語学者としてしか知られていないが、アメリカではアナキストとしても有名らしい。 (T)
「脱学校の社会」(イヴァン・イリイチ、東京創元社 1978年)
- 学校の役割は終わったと、最近つくづく考えさせられる。脱学校化は、理念の段階から実践の段階に移りつつあるのではないか。 (T)
「T,A,Z 一時的自律ゾーン」(ハキム・ベイ、インパクション出版会 1997年)
- まとはずれなシュティルナー観やイスラム好きにはあきれるが、それでも銀行のフロアでうんこをしろという、「うんこテロ」など読むべきところ満載。 (K)
「For Beginners 戸籍」(佐藤文明 著 貝原浩 画、現代書館、1981年)
- 少々古い本だが、この日本国に置いて個人が自由になるためには、戸籍との関係を断ち切らねばならないということを押しえてくれる一冊。以下の文章は卓越している。
『子供に許された唯一の反抗が家出。自由が圧殺されている社会じゃ健全な選択かも知れない。ところが、戸籍による見張りの網が子供の自立を許さない。住民票がとれないから行政サービスは一切受けられず、個人の尊厳などどこにもないことを思い知らされる。頭を下げて家庭に戻るか、裏組織の世話になって“非行”に走るか。第三の道はまずないのが現実だ。』(76ページ)
二十歳の分籍、分籍したら、即転籍だ。 (M)
「放送禁止歌」(森達也著 デーブ・スペクター監修、解放出版社、2000年)
- 「竹田の子守唄」が放送禁止とはちっとも知らなかった。
昔、テレビやラジオで聞いた記憶かあるから、はじめから禁止だったわけではない。いったい誰が、どのような理由で、どのような経緯で禁止になったのか?放送禁止に関する関心は、皆昔から持っていたようで、噂ではいろんな話も聞いた。いわく、
「民放連の自主規制なので、NHKには適用されないらしい」とか、
「泉谷が生放送でいきなり歌い出し、担当ディレクターが飛ばされたらしい 」とか。
しかし、真実は誰一人として知らなかった。真正面からこの問題に取り組んだのは、おそらくこの筆者が初めてだろう。
この本で明かされるのは、
「放送禁止歌は存在しない」ということ、しかも、存在しないはずの「放送禁止歌」がどんどん増殖している、という驚くべき事実である。
どういうことなのか知りたい人は、ぜひ読んでみてほしい。 (T)