つい先ほど、太陽が山の稜線にかかり始めたはずなのだが、今はもうすでに半分ほど隠れてしまっていた。
箱根の日没は早い。
周囲を取り囲む外輪山が早々に暁光を遮断し、一足早く夜の帳を迎えさせる。もう半時もすると陽光の庇護がなくなった人里に山の冷気が下り始め、家屋の外で一晩過ごそうものならば、風邪を引くこと間違いない。しかし、その寒さも日一日と弱まり、確実に春の息吹を感じさせるようになっていた。
アスカは、浴室の窓から覗くその茜光に、瑞々しい肢体を照らされていた。成熟するのにあと数年を要するその身体は、幼いながらも女性を主張し始めている。膨らみ始めた胸や、くびれ始めた腰は、服の上からではわからない成長を物語っていた。
彼女は浴室に入ると、湯船から手桶に湯を汲み取り、そろそろと身体にかける。先ほどまで、早春の渓流にその身体を沈めていたので、すっかり冷えてしまっていた。湯船から汲み上げた湯をかけるたび、手足がじんじんと痺れるが、逆にその感覚が心地よい。やがて、そろそろと足先から湯船に入り、熱さをこらえながら肩までつかる。彼女の体積の分だけ湯船から追い出された暖かい液体が音をたてて溢れ出し、冷たい床に触れもうもうとした水蒸気を発生させた。
「ふぅ〜」
アスカは、冷えた身体に湯の温度がじわりと染み込むのを感じ、思わずため息を漏らす。入れ替わりに、疲労が身体の外に染み出していくのが感じられて心地よかった。
ふと浴室の窓に目をやると、丁度最後の暁光が山の端に消えるところだった。
脱衣所の扉を開ける音がすると同時に女性の声がした。
「アスカちゃん。着替え、ここに置いておくわね」
声の主は、この家の女主人ユイのものだった。
「は、はぁ〜い」
「私のだから大きいかもしれないけど、我慢してね」
「ありがとうございます」
「そうそう、お風呂の湯加減はどう?先ほど沸かしたばかりなの。ぬるかったら云ってね」
「そ、そうですね。少し低く感じます」
実は先ほどから湯の温度にも慣れたアスカは、湯の温度に物足りなさを感じていたのだった。
「わかったわ。ちょっと待っててね」
そういって、ユイは脱衣所を後にした。
アスカは自分が知らず身構えているのに気づき、意識的に緊張を解き身体を湯船に開放した。刀は脱衣所に置いてある。普段だったらとうてい考えられない失態であった。身を守るための道具であり、今では身体の一部でもあると感じている大刀は、常に肌身離さず持っていた。記憶を辿るまでもなく、今までこのようなことは一度もないはずである。
それも、自分と同じ年位のあの能天気な顔をしたやつのせいだと思い悪態をつきかけたが、外にユイがいることを思い出して、アスカは湯船に半分顔を埋めごぼごぼと意味不明のあぶくを出した。
ユイは裏手の引き戸を開け、庭に下りてゲンドウを探した。
ゲンドウは、風呂の焚き窯の前でふいごをもって座っていた。
風呂釜の火がめらめらと燃えているのが、ゲンドウのいかめしい顔の真中に鎮座してる色眼鏡に反射し、異様な雰囲気をかもし出している。ただでさえ、ゲンドウの顔はフレンドリーとは言いがたいつくりをしているので、風呂窯の火をじっと見ている様は、ますます近寄りがたいものがあった。見ようによっては、復讐に燃える暗黒魔獣の帝王にも見えないことはない。
「あなた」
ユイは夫に声をかけた。この状況でゲンドウに声をかけることができるのは、世界広し言えども配偶者であるユイだけであろう。
「な、なんだいおまえ」
ゲンドウはユイを見止めると、とたんにだらしない顔つきになった。これが先ほど、全世界を呪っていた同一人物とは思えないほどの変わり様だった。
「お手がお休みのご様子ですね」
ユイの目がきらりと光った。
「い、いや、な、何をいっているんだい。ほら、こんなにがんばっているではないか。ふーふー」
ゲンドウは、急いで風呂釜に薪をくべ、ふいごを吹き出した。
「その調子でお願いしますよ」
ユイは、それを見ると家屋の中に戻った。
「わかってるよ。おまえ」
ゲンドウは答えたが内心穏やかではない。
なんで、わしがあんな小娘の風呂番などしなければならんのだ。わしはこの家の主だぞ。こんな仕事はシンジにでもやらせておけばいいのだ。いったいあの馬鹿息子はどこへ行きおったのだ。
「あなた」
「な、なんだいおまえ。さ、さぼってなんかいないよ。ふーふー」
「アスカちゃんがお風呂から上がったら、お夕飯にしますからね」
ユイはにっこりと笑いかけた。
ゲンドウはその菩薩のような微笑のなかに、悪魔がちらりと覗いているような気がした。
あれは夢だったのだろうか?
目を閉じると、顎を開けて襲い掛かってくるあの化け物の恐ろしい顔が浮かんでくる。
でも、いまいち現実感がわかない。
ただ、今も残る不快な感覚、自分の影がいつのまにか何者かに変わってゆく感覚だけははっきりと残っていた。
夢ではないというもうひとつ証拠に、あのアスカという女の子の存在があった。
自分の身体に不釣合いなほど大きな得物を振り回し、恐ろしい怪物を一撃で倒してしまった。狼や熊ではない。どう考えても現実でないものを。
あの、女の子は一体何者なんだろう。
彼女 − アスカが云ってた。なんだったっけ?
「バランスが狂っている」とか「染み出している」とかなんとか。
いったい何のことなんだろうか?
到底自分の理解の及ぶ範囲の出来事ではない。
ただ、彼女が持っていた大きな刀からは何かを感じる。あの刀は、そこいら辺にある普通の刀とは違うように思えた。なんと言っても「化け物を切れる刀」なんだから。
シンジらしからぬ洞察力で、核心を突いたかのように思えた。
現実。
現実と言えば、レイはどうなるんだろう。
リツコさんの話だと、妖精というものの存在は、現在でも確認されていないような感じだ。
しかし、レイは現実に存在している。
その証拠に僕だけではなく、父さんや母さんそれにリツコさんまでレイを見ることができる。
話は出来ないけれど、僕とふれあい、分かり合うことができる。
レイの笑顔を見ると、暖かい気持ちになる。
でも、もしかしてこれは夢で、現実の僕は布団でぐっすりと眠っているんじゃないのかな?
シンジが昔読んだ本の中にそういうのがあった。いわゆる夢オチというやつだ。
とたんに、シンジは不安になった。
これはホントに現実なのだろうか?
実は夢なんじゃないか。
目覚めて見ると、レイはいなくなっているんじゃないのかな?
そのことを思うとすごい悲しくなった。
ふと、シンジは夢と現実を区別する、あるひとつの方法を思い出しそれを実行することにした。
「いった〜!」
思いっきり自分の頬をつねればそれは痛いだろう。普通は手加減するものである。
ユイが夕食の支度を終え居間に戻るとアスカが髪を拭いているところだった。
「あら、もう出たの?」
「はい、十分温まりました」
「ふふっ。カラスの行水、風邪を引くわよ。気をつけてね」
「はい」
「よかった。そんなにおかしくはないわね」
ユイはアスカが着ている服を見ると安堵のため息を漏らした。
「はい。ありがとうございます」
やはりユイの服はアスカには一回り大きかったが、それでもなんとかおかしくない具合におさまっていた。
「もう日も暮れたし、今日はここに泊まっていきなさいね」
「えっ、でも」
「大丈夫よ。部屋は余っているし、一人や二人なら大丈夫」
「でも、ご迷惑では ……」
「アスカちゃん」
「は、はい」
「アスカちゃんはここら辺の子ではないわよね。それに、まだまだ大人と言うには無理があるわ。もし、宿に泊まるとしても、貸してくれるところはあるかしら」
アスカは、自分の考えを言おうとしたが、ユイの言葉に遮られた。
「外で寝るにはまだ寒いわ。それに最近、ここらへんで変な事件が起こっているらしいの。ね、物騒でしょ。泊まって行きなさい」
ユイが言うと全然物騒な様子は感じられないが、ユイの言わんとしていることは理解できた。確かに今の自分では、宿に泊まるのは難しい。金銭的に不自由しているわけではないが、それは今までの経験で十分わかっていた。アスカにとってはどんなところでも、夜露をしのげるだけ野宿よりはましだった。
でも、得体の知れない人を泊めていいのかしら。
アスカは他人事ながらユイの配慮に少し心配をした。
「 ……はい。では、よろしくお願いします」
「すぐ夕食よ。ちょっと待っていてね」
ユイは自分の考え通りになったことで上機嫌になった。
「ところで、アスカちゃん。あなたはどこに行こうとしていたのかしら。差し支えなかったら教えて欲しいのだけれども」
アスカは一瞬うつむいたが、顔を上げ答えた。
「箱根の …… 六文儀ゲンドウさんという方を訪ねるところだったんです」
「あら、あら」
ユイは大げさに驚いた。
「ご存知なのですか?」
「六文儀ゲンドウは、わたしの夫なの。今は、碇と言う姓なんだけどね」
ユイはころころと笑い出した。
同じ箱根である。知っている確立は高いと思っていたが、目の前にいるユイが、目的の人物の直接の知人と知ってアスカは驚いた。
「それで、アスカちゃんのご用事は何かしら」
アスカは、ゆっくりと切り出した。
「手紙を、預かっているんです」
今日の碇家の夕食はいつもとは違っていた。
アスカという女の子がいた為でもあるが、それだけではないような気がする。ゲンドウはいつも無口で、今日も相変わらず無口だったが、ユイまでなにやら暗かった。
アスカは、食事中は一言も話さずに、シンジの隣でただ黙々と食べつづけている。シンジとしては、今日の出来事をアスカに色々と聞いてみたい気もしたが、話し出すきっかけもなく、結果として今夜の碇家の食事は非常に静かなものとなった。
レイはいつもと変わらず、ニコニコとご飯を食べていた。
そういえば、アスカはレイを見ても驚きもせず、一瞥をくれただけだったのが気になった。
シンジは暗い縁側の廊下を歩いていた。
その後から、レイがついてくる。
「レイ。これからおふろだからついてきちゃだめだよ」
レイは小さいとはいえ、さすがにシンジと一緒だと問題がありそうなので、ユイと一緒にお風呂に入ることになっていた。しかし、シンジが風呂に入るときはいつもついて来る。そして、シンジが脱衣所の扉を閉めると、悲しそうな顔をするのだった。
シンジは、そんなレイを見てかわいそうだと思ったが、かといってレイと一緒に入るわけにもいかない。
今日も、レイはシンジの後をついて来ている。
シンジは脱衣所に入ると片手で扉を締め、手早く服を脱いだ。レイがいるのは気配でわかる。
もう少し大人だったら、レイを悲しませない方法がわかるかもしれない。シンジはそう思い、ため息をついて風呂場のドアを開けた。
と、目の前にキラリと光る刀の鋭い切っ先が飛び込んできた。
「ひっ」
「やっぱりあんたね」
風呂場にはすでに先客がいて、侵入者であるシンジを睨みつけ刀を突き立てていた。それは誰であろう、アスカであった。アスカは先ほどの教訓を胸に、今度はしっかり浴室に刀を持ち込んでいたのである。
ちなみに何故アスカが風呂に入っているのかというと
「女性は、寝る前に入るものよ」
だそうである。決しておやくそくではげふんごほん。
「覗こうったって、そうはいかないわよ」
「そ、そんな」
つもりではない、と言い訳をしようとしたとき、風呂場の椅子に座っているアスカの身体がシンジの目に飛び込んできた。見ると体を洗っていたところらしく、全身石鹸の泡に包まれていて、刀を突きつけている反対側の手で胸のあたりを隠していた。しかし、片手では到底全身を隠しきれるものではなく、身体の形をはっきりと認識することが出来る。また、所々泡の切れ間から白い肌が隠れ見えていた。すべてさらけ出している場合より、ある程度隠されることにより想像力が喚起されるという。シンジの中で、自分の意志では制御できないもやもやとしたものがもたげてきて、知らず体の一部分が変化していた。
「きゃ〜! 変なもの見せないでよ!」
アスカはシンジの変化に気づき、真っ赤になって悲鳴を上げ、手当たり次第に手につかんだものをシンジに投げつけた。手に持った大刀を投げつけないだけまだ冷静と言えたが。
「う、うわ。ちょっと待って……」
必死で防戦するシンジだが、すべて避けきれるものではない。
ごいん。
鈍い音がして何かがシンジの顔に命中した。それは風呂桶だった。朦朧(もうろう)とする意識の中でシンジはなんとか浴室の壁に掴まり、倒れないように足に力を入れた。そのとき丁度、先ほどアスカが投げた石鹸がシンジの足の下に滑り込んで、ものの見事に踏んでしまった。
「うわっ!」
「ちょ、ちょっと!」
どすん。
バランスを崩したシンジは大きな音を立てて倒れこんだ。
ユイとゲンドウが浴室の騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたのはその直後だった。
「あ、あなたたち……」
彼らがそこで見たものは、浴室の床で仲良く生まれたままの姿で抱き合っている二人の姿だった。
次の日。アスカは碇家に住むことになった。
「さて、これから忙しくなるわね」
ユイは一人で張り切っていた。
「アスカちゃんはまだ14歳でしょ。中学校にいかなきゃ」
「いいです、そんなの」
そうは云ったものの、アスカは嬉しそうだった。
ゲンドウは、生意気な小娘が来たと思っていた。
そのまた次の日。
シンジの部屋は、庭にある離れの建物に移された。
「いつか、シンジが大きくなったら、と思っていたのよ」
ユイは、苦笑しながらシンジにそう云った。
なんでその「いつか」が今日なんだよ、とシンジはため息をついて思った。
それ以外、特に変わったこともなかった。
レイは相変わらず、シンジの頭の周りを飛んでいるし、川で拾ったペンギンは何故かいついてしまっている。
穏やかな春の日だった。
Fine Storia 3b
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