命の洗濯  (問題無い学校編)
 
 

 時に西暦2015年、人類は 「使徒」 という名の正体不明の怪物の襲来により、

 滅亡の危機に晒されていた。

 勿論人間は、使徒を撃滅するためのありとあらゆる方策を試みてみたのだが、

 仮にその持てる兵力全てを、同じ人間どうしの争いに仕向けたとしたら、

 世界が100回滅んでもお釣りがくる程である。という兵器ですらも、

 残念ながらこの使徒という存在には、何の役にもたたず、

 人類がその種としての終末の時を迎えるのも、もう後わずかと思われた。
 

 だが、座して死を待つのを潔しとしない人々・・・

 いや、これは彼らに対してあまりにも失礼な表現であろう。

 例え神の使いである使徒に逆らってでも、何とか生き延びようと懸命に抗い奔走した人々は、

 エヴァンゲリオンという使徒のコピーを生み出し、それを駆使する事によって、

 神によって既に沈められている筈の、 

「明日」 という日を自らの手で掴み取るために雄々しく立ち上がったのである。
 

 そんな人々の中に、「葛城 ミサト」 という女性が居た。

 彼女は、「対 使徒」 の専門機関、ネルフ本部の作戦部長に、

 30の声を聞かずして就任した非常に優秀な人材であり、

 人類の命運は、実際の使徒との戦闘において指揮を執る彼女の双肩にかかっている、

 と言っても過言では無かった。
 

 これだけでも大変なのに、彼女にはもう一つ、やらなくてはならない非常に重要な事があった。

 それは彼女の上司にあたるネルフ総司令の 「碇 ゲンドウ」 の息子であり、

 自分の部下にあたるエヴァ初号機のパイロット 「碇 シンジ」 の保護者となり、

 中学生という気難しい年代の少年の面倒を見なくてはならない、というものだった。

 本来であれば親子であるゲンドウとシンジが、

 その暮らしを共にするのが望ましい関係と言えるのだろうが、母親が居なくなって10年、

 2人の間に生じた様々な軋轢はそう簡単には解消出来る物では無かったのである。
 

 これからお話しする事は、何にでも一生懸命に取り組む葛城ミサトという女性が、

 様々な経緯から彼女と同居する事になった碇シンジという少年によって、

 玩弄され、擾乱される、彼女にとってはトラジディー(悲劇)であるのだが、

 シンジにとってはコメディー(喜劇)となる、心温まるハートフルな物語である。(どこがじゃ!?)

ちょっと待ちなさいよ! 私はこんなのイヤ〜〜
 
 
 
 
 

第1話 ミサト 出向
 
 

「英語教師・・ だと?」

「うん、そうなの困っちゃってるみたい」

「どういう事だ? 詳しく話してくれ!」

 ここは第三新東京市立第一中学校、その校庭の傍らにある芝の植えられた木陰で、

 シンジとレイとヒカリ、おまけでトウジとケンスケの5人が昼食を取っている。

 シンジとレイ、勿論ヒカリ自身のもそうだが、

 今この3人が食べているお弁当は、全てヒカリのお手製である。

 それに対してトウジとケンスケがどうかというと、2人共購買のパンという侘びしい物だった。
 

 シンジとレイ、この2人が何故ヒカリの作ったお弁当を食べているのかというと、

 シンジを通じてレイと友達になったヒカリが、薬漬けとも言うべきレイの食事を見かねて、

 彼女のお弁当を作ってくれる事になった時に、材料の関係でどうせならとシンジの分も、

(どうやらヒカリにとってはこっちが本命だったらしいが)

 併せて作る事を申し出てくれたのである。

 レイはともかくとしてシンジ自身の料理の腕前は、ヒカリに負けず劣らず、鉄人級なのであるが、

 何分にもエヴァ初号機のパイロットとしての役割や、

 リツコやミサトのサポート(何の?)で色々忙しかったので、それじゃあせっかくだからと、

 彼女の好意に甘える事にしたのである。
 
 

 お昼休み、車座になって楽しい食事とお喋りに興じていた5人の中でも、

 やはり中心的な存在となっていたのはシンジなのだが、それは”精神的な”という意味で有り、

 具体的な話題の提供元は、やはり普通の女の子らしくヒカリの役目であった。

 シンジは核心をズバッと突く、議長的な役割としては最適なのであるが、

 逆にその分、他人の意見をじっくりと聞き吟味する傾向があり、

 べらべらと余計な事を喋るタイプでは無い。

 一方ケンスケはというと、シンジとは正反対に喋り過ぎるきらいがある。

 いや、例えそれでもちゃんと話題に沿って話してくれるのならば良いのだが、彼の場合、

 すぐ話しがマニアックな自己チューなものへと脱線していき、結局話しがそれてしまう。

 後は朴念仁男(トウジ)と無反応女(レイ)だが、

(それぞれのファンの方ご免なさい。作者は決してこの2人の事が嫌いな訳ではありません)

 この2人は期待する方が間違いというものだろう。
 

 そんな役割を果たしていたヒカリが何の気無しに投じた小石は、委員長らしく、

 自分達の授業を受け持っている教師の事だったのだが、彼女の話しによると、

 次回の、予定では明後日から、英語の先生がいなくなってしまうというものだった。

 今迄自分達の英語を受け持っていたのは、30そこそこの、

 既に2人の子供を持っている女性だったのだが、

 彼女にとって3人目の子供となる筈の大きなお腹を抱え、

 今日の授業を最後に産休に入る事が既に決まっていたのである。 
 

 当然これは予定されていた行動だったので、彼女の後を受けてしばらくの間、

 自分達の授業を担当してくれる筈の代理も決まっていたのだが、

 ヒカリの話しによれば、それがキャンセルされてしまったというのである。

 意外な事に何故かこの事がシンジの注意を引く事となり、

 ヒカリはシンジの要請に従って、そこらへんの事情を詳しく話し始めた。
 

「何でも代理としてうち(一中)にやってくる予定だった先生が、
 交通事故に遭ってこれなくなってしまったらしいの。代理の代理ってのもかなり難しいらしく・・・」

 成る程、理由を聞いてみれば別段特に不可思議な物でも無い。

 要するに産休代理として赴任する予定だった人物が不慮の事故に遭ってしまい、

 それが不可能になってしまったという事らしい。

 それに教師という職業に限らず、15年前に発生したセカンドインパクトによって、

 多くの、などという言葉では到底表現しきれない程の膨大な、

 そして貴重な人命が失われた事によって、全ての分野での人材が不足していたのである。

 そのため、更にその代理を探すといっても、それが事実上不可能である事は、

 生徒のヒカリであっても簡単に理解しうる出来事だったのである。
 

 中学2年生。

 皮肉な事に人口が激減した事によって、高校・大学の門戸はかなり広いものとはなっていたが、

 それでも彼らや彼女達は、その関門をくぐり抜けられるだけのものを、

 これから身につけて行かなくてはならないのだ。

 そんな生徒達にとって、例え1教科とはいえ、主要科目である英語の教師が、

 当面の間不在になるという事実は、かなりのハンデになる事は間違いなく、

 本来彼女が気にする事では無いのだが、やはり委員長としてクラスの事を憂いていたヒカリは、

 ついついその事を口にしてしまったのである。
 

「いや〜、でもそれやったらしばらくの間は、授業は自習になるって事やろ?
 ワイはむしろその方が嬉しいけどな」

「そうそう、その方が楽で良いじゃない」

 詳しくとはいっても、やはりヒカリらしく簡潔に、それでいてわかりやすい説明がなされた後、

 トウジの脳天気な言葉が響き、その脇に座っていたケンスケもしっかりと相づちを行うのだが、

 ヒカリはちょっとムッとした表情を浮かべ、そんな2人を諫めにかかる。

「2人共、何馬鹿な事言ってるのよ!
 何ヶ月間も自習が続いたりしたら受験の時困るのは私達自身でしょう!!」

 ヒカリの迫力に思わずウッと詰まるトウジとケンスケ。

 彼らの事だから当然そんな深い考えが有った訳では無いのだが、

 確かにヒカリの言い分が正しい事は間違いの無い所なので、思わず引いてしまう。

 まあそうは言っても、普通の生徒であれば、授業が自習になれば喜ぶのが当たり前であるので、

 彼らの事をそう厳しく責めるのは酷というものだろう。

 そこらへんの事を理解しているシンジは、

 トウジとケンスケに対し、救いの手を差し伸べてやる事にした。
 

「まあ、確かにトウジとケンスケの言い分もわからんでもない」

「そうでっしゃろ! いや〜さすがセンセはわかってらっしゃる」

 自分をフォローするようなシンジの言葉に調子に乗りかけたトウジに対し、

 ヒカリは再びそれを諫めるために口を開きかけるのだが、

 シンジはそれより早く、トウジの頭を抑えにかかる。

「しかし! ヒカリの言うようにいずれそのしわ寄せが僕達自身に跳ね返ってくるのも確かだ」

 伸ばしかけた頭をピコピコハンマーで叩かれたモグラのように途端にシュンとなるトウジ。

 その様子を見ていたヒカリは、取り出しかけた100tハンマーを慌てて背中に隠すと、

 シンジの方に向き直ったのだが、いつもの場合、

 更にこの後に結論となる言葉を吐き出し、キッチリと場を締めくくるシンジにしては珍しく、

 それが出てくる事は無く、何か考え込んでしまっているようで有った。
 
 

「わかった! 何とかしよう」

「「「え?」」」

 ほんのちょっとの間だけ考え込んでいたシンジからの突然の言葉に面食らったのだろう、

 驚きの言葉をあげた3人に対して、シンジは自分の台詞の意味の説明を開始した。

「1人英語がペラペラな奴に心当たりが有るんでな、そいつを引っ張ってくる事にするよ」

「え、でもシンジさん。その人って英語の先生なの?」

「多分、そうじゃないだろう。だが急場を凌ぐという事を考えれば止むを得ないと思うんだが」

 顔を見合わせるヒカリ、トウジ、ケンスケの3人。

 だが、やがて3人共納得したようで、それぞれ軽く頷きを交わした後に、

 3人を代表してヒカリがその事をシンジに告げた。
 

「そうね、シンジさんの言う通りだわ。もしその人にお願い出来るので有れば、
 是非ともお願いしたい所だけど・・・ その人の都合の方はどうなのかしら?」

問題無い。どうせ普段は暇を持て余しているのに違いないんだ」

「それじゃあシンジさん。せっかくだからその人にお願いしてみてくれるかしら?」

「わかった。早ければ明日、遅くても明後日の僕達の授業には間に合うように連れてくる」

「お願いします」

 慌てている校長や教頭、第三新東京市の教育委員会をよそに、

 一中の代理英語教師の件はカタがついてしまったようであるのだが、

 果たしてシンジの心当たりの人物とはいったい誰の事なのであろうか?

(見え見えだって)
 

 お昼休みも間もなく終わりを告げ、これから5人の戦士は午後の授業の1番の強敵、

 睡魔との戦いに赴かなくてはならないのだが、とりあえず1つの懸念が解消された事で、

 4人の顔は実に晴れ晴れとしたものになっていた。

 4人? あれ、そういえば・・・ 

 この場に居合わせた筈のレイが一言も発しなかったが、いったいどうしたのであろうか?
 

 はむはむはむはむ。

『ヒカリのお弁当は美味しい。ヒカリのお弁当は美味しい。ヒカリのお弁当は美味しい。・・・・』

 心の中でそんな言葉を何回も繰り返しつつ、ヒカリの特製のお弁当をじっくりと噛み締めながら、

 さすがにそれに涙するような事こそ無かったが、

 最近ようやく味覚に目覚め始めてきたレイは、彼女にとって最も幸福な時間を過ごしていた。
 
 
 
 
 

ぶえっくしょい! ちくしょ〜

「汚いわね!」

 ネルフ本部内の赤木リツコ博士の研究室に、どこのオヤジだと思われるくしゃみの音が響く。

 シンジの言う 「どうせ普段は暇を持て余しているのに違いない」

 筈のその人物は、やはり今日も例外では無かったようで、

 いつもの如く同じ部長で有り、親友でも有るリツコの所にたむろっていたのだが、

 どうした訳か突然大きなくしゃみをリツコに向けてかます事になったのである。
 

 皆さんにも何度か経験が有るのではないだろうか?

 人というのは何故かくしゃみが出そうになると、その動きが停止してしまい、

 口元を押さえようとする動作が出来なくなってしまう、

 いや押さえようとした時には、既にそれを発してしまった後だったという事が。

 今の彼女の場合も、典型的なそのパターンのようである。

 何しろ突然の事だったので、つい手が間に合わず、リツコは大量の唾の飛沫を浴びる事になり、

 顔をしかめた後、ハンカチでそれを拭き取るという行為に及ばなくてはならなくなったのである。
 

 言う迄も無いが、ネルフの頭脳とも言うべき存在の、”文”のトップ、赤木リツコ技術部長に対し、

 唾の飛沫を吐きかけるという暴挙に出たこの女性こそが、

 そう”武”のトップ、葛城ミサト作戦部長である。

 確かにシンジの言う通りで、彼女が部長を務める作戦部という部署は、

 使徒が来ない限り、まるっきり仕事が無いのである。

 そのため彼女は以前ここ(ネルフ本部)に来た当初こそ、『本部内の状況を把握する』

 という名目(こじつけ)の元に、いろんな場所をいつもうろうろしていたのだが、

うるさい!

 何分方向音痴・味音痴(それはこの際関係無いだろ)な彼女の事、

 何度か行方不明になりかけ、遂には本当にそうなってしまい捜索隊が結成されるに至って、

 とうとう探索を途中で断念せざるを得ない事態に追い込まれたのである。
 

 そのために彼女は、以降監視役も兼ねたリツコの研究室に幽閉される事となったのだが、

(確か、そうだったよね!?)

 その役目を任されたリツコの方こそ、たまったものではなかった。

 べらべらと、のべつまくなし喋り立てて、研究の能率を下げるのはまだマシな方で、

 貴重な資料や研究機材をひっくり返された事は数え切れない程である。

 また、それだけならば片づければ済む事で、その場限りの事として処理出来るのだが、

 1度、それ迄の研究の成果をパーにされた時には、いくら親友とはいえ、

親友? とんでもない! 腐れ縁て言うのよ!

 さすがのリツコも堪忍袋の緒が切れた。
 

 しかも最悪な事に、その事でちょっちは責任感を感じていたミサトが、

 せめてものお詫びの印としてコーヒーを入れてやったのだが、

 そうとは知らずマヤと2人してそれに口をつけた所が、

 マヤが入院寸前の状態に陥る、という悲劇にも見舞われる事になってしまったのである。

(リツコ自身は、大学時代から何度となく被害に有っていたため、

 既に体内に免疫が生成されており、殆ど被害らしい被害は無かった)

 遂には研究室への出入り禁止がお達しされたミサトだったが、

 今度は行く先々で似たような被害を繰り返して発生させ、

 設備的・人的に多大な損害が相次いだため、遂には実務の責任者である冬月が音を上げて、

 リツコに泣きつく形で出入り禁止を解除して貰うという、ドタバタ劇が有ったのである。
 

 再び戻ってきたミサトをどうやって抑え込むか頭を悩ませていたリツコだったが、

 さすがにミサトも反省したようで、おとなしくしてくれていたため、

 しばらくの間、あの惨劇は勿論の事、全く被害が発生する事は無かったのである。

 リツコとしては嬉しい反面、そのうちまた派手な花火を打ち上げるんじゃないかと、

 不気味さも感じていたのだった。
 

 ところがそうこうしているうちに、ミサトはシンジと同居する事になったのだが、

 何とかミスを犯さずにはいたのだが、常に不安がつきまとっていたそれ迄とは異なり、

 どうした訳かそれ以降、腰がどっしりと落ち着き、

 以前のミサトとはまるで別人のようになってしまったのである。

 どうもそれ迄は、盛りのついた雌猫が欲求不満を覚えていたため、

 落ち着こうとしても、落ち着けなかった。という所らしい。

ちょっと、随分な言いぐさじゃない!

 そうなると今度は、シンジと同居しているミサトを妬ましく思うリツコであった。
 
 

 まあそうは言っても、10年間つきあって来た仲だし、被害が出ないのに越した事はないので、

 こうしてつきあってやっているのだが、たまに思い出したように、

 このようなハプニングを引き起こしてくれる。

 しかしこの場合の被害は、ハンカチと白衣だけで、それも洗濯すれば済む話しである。

 やがて被害の処置を完了したリツコは、ハンカチをポケットにしまい込んで、

 ミサトに今回の災害を発生させた原因を尋ねる事にした。
 

「いったいどうしたの? まさかあなたが風邪を引く、何て事は万が一にも有り得ないと思うけど」

「うーん、何かわかんないけど、急に鼻がムズムズしちゃってね・・・・
 ちょっとリツコ! 今の台詞はどういう意味よ!?」

「別に、アナタは体が丈夫だから、風邪なんか引く事は無いと思ったのよ」

「本当に?」

「本当よ! それとも何かアナタ自身に思い当たる事でもあるの?」

 リツコの台詞には、何か含む所が有るのではないかと疑ったミサトは、

 その事で逆にリツコを問いつめるのだが、平然とそれを否定されてしまい、

 それどころか再度のツッコミを許してしまう。
 

「別に・・・・ 何も無いわよ・・ ある訳無いでしょう!」

「だったら良いじゃないの。大体今の日本は年中夏なんだから、
 その意味からいったら、アナタがずーっと風邪を引いてないっていうのはおかしいでしょう?」

「確かに! その通りよね・・・ 待ちなさいよリツコ。やっぱりそれってそういう意味なんじゃないの」

「アラ、今頃気づいたの?」

「リツコ〜〜」

「や〜ね、アナタと私の仲でしょう、冗談に決まってるじゃないの」

 とてもそうとは思えなかったのだが、リツコがそう言ってミサトを受け流すと、

 ミサトの方は渋々とではあったが、それを受け入れざるを得なかった。
 

「冗談はさておき、本当の所はどうなの?
 次の使徒がやって来た時に、作戦部長が風邪でダウンしてましたじゃ、シャレにならないわよ」

「ぜ〜んぜん、平気平気。多分華奢でしなやかな私好みの美少年が、私の事を噂してたのよ」

 あまりにも脳天気なミサトの言葉にリツコは心の中で、『そんな事、ある訳ないでしょ!』

 と、毒づいたのだが、意外や意外、

 ミサトのこの言葉は彼女にしてはそれこそ非常に珍しく、正鵠を得ていたのである。

 尤も、その美少年がまさかシンジの事だとは、露程も思っていないミサトであった。
 
 
 
 
 

 この日シンジは、訓練が休みの予定で有ったのにも関わらず、

 学校が終わるとまっすぐネルフ本部へと向かったのである。

 レイやヒカリには昼休みの案件を片づけるためにネルフに足を運ぶ事は伝えてあり、

 美少女2人は、珍しくシンジ抜きで帰宅の途につく事になった。

 シンジの方はというと、ネルフに到着するなり、全く迷う事無く、

 副司令である冬月の部屋へと向かっていた。

 これは既に昼休みの間に司令であるゲンドウの不在を確認して、

 代わりに副司令である冬月と交渉を行うため、アポイントメントを確保していたからで有り、

 彼が副司令室の入り口の所迄来ると、自分が到着した事をまだ告げていないのにも関わらず、

 圧縮空気音を伴って、文字通りその扉が自動で開いていった。
 

「失礼します」

 定番の挨拶をして部屋の中へと入っていくシンジ。

 これが彼の父親であり、司令であるゲンドウが相手だったならば、

 このような素直な態度は取らなかっただろうが、

 シンジは冬月の事を信頼に値する人物だと認識しており、

 そういった人物との応対方法を、しっかりとわきまえてもいるのだった。
 

「私に相談が有るという事だったが、いったいどういう事かね?」

 執務机に腰掛けたままではあるが、冬月は脇に山と積んである書類にも全く気を移す事無く、

 早速シンジの用件を尋ねようとする。

 本当はそれらの書類を一刻も早く決裁しなくてはならなかったのだが、

 冬月の方でもシンジの能力は高く評価していて、その彼が直接自分の所に来るのだから、

 余程重大か、あるいわ緊急性を要する事だと思っていたので、その作業に一時ストップをかけ、

 シンジが到着するのを今や遅しと待っていたのである。
 

「まずは簡潔に用件を伝えます。
 副司令、葛城作戦部長を僕達の通う第一中学の英語教師として派遣して欲しいのです」

「・・・・・・・・・・・・・・・・どういう事かね? 理由を言ってみたまえ」

 本当に簡潔なシンジの依頼の内容そのものについては理解出来た冬月であったが、

 そこに至る迄の経緯が全く不明瞭であったため、シンジの言葉が終了した瞬間には、

 何と言ってよいやらわからなくなってしまったのだが、まずはその背景を知る事が、

 全体像を把握する近道だと思い至り、その事をシンジに問い質す。
 

「実は明日から僕達の学校に産休代理としてやって来る予定だった先生が事故に遭いまして、
 その結果、僕達の英語を担当してくれる筈の先生が居なくなってしまう事になったんです。
 それでその代理の代理という事で葛城作戦部長が最適と判断したのです」

「成る程! シンジ君、君達の学校で英語教師を必要としている事は理解出来た。
 だが何故葛城君なのだね? 彼女は教師の資格などは所持していなかったと思ったが」

「まず第一に葛城部長は英語が闊達である事。
 第二に作戦部長とチルドレンである僕やレイが行動を共にする事になり、
 ガードの面は勿論の事、作戦遂行がしやすくなるというメリットが生じる事。そして・・・」

 そこ迄話した時点で、シンジはそれ迄の格式張った口調を改め、

 多少、いやかなり呆れたような物へと変化させていく。

「作戦”部長”なのに暇を持て余しているからですよ、副司令」
 

 くだけたようなシンジの表情とは裏腹に、冬月は難しい表情へと変わっていた。

 ミサトは決してサボっている訳ではなく、

 使徒が来ない限り全然仕事が無い、というのが本当の所なのだが、

 それでも部長という要職にある物が、例え直属では無くても階級的に下の位置に居る者達に、

 仕事もせずぶらぶらしているのを見せつけるのは決して良い事ではないので、

 普段の彼女の扱いには苦慮していた所なのである。

 最近はリツコの所でおとなしくしてくれている様子だったので、

 ひとまず冬月はホッと胸をなで降ろしていたのだが、またいつ寝た子が起きて来るとも限らず、

 決して安心は出来ない状況にあるのだ。
 

 その意味からいうと、シンジの提案はまさに、「渡りに船」 といった物だった。

 ミサトを本部外に連れ出す事が出来る上に、

 しかも先程シンジが理由として上げたようなメリットが期待出来、

 それを理由にすればちゃんとした格好も付く。

 しかし、いくら何でも作戦部長を学校の先生にするのはどうか思える冬月には、

 シンジの実に魅力的なこの提案にも、すぐさま飛びつく事は出来なかった。
 

 大学と中学。

 レベルはそれこそ天と地程も違うが、そこで教鞭を取っていた経験のある冬月には、

 教育とは真摯で、そして崇高な物であるという理念があった。

 そこに大人達の勝手な都合で、(勿論シンジはまだ少年だが)

 ましてや教員の資格を持たない者を送り込むなど・・・・
 

「どうでしょうか? 冬・月・先・生」

 そんな冬月の心の葛藤をまるで見透かしてでもいるように、

 彼に対してシンジの決断の催促が飛ぶ。

 だがシンジにとって、ここで冬月の事を、「先生」 と呼んだのは彼の誤算だった。

 彼は冬月の決断を促す意味でわざと 「先生」 という呼称を使ったのだが、

 逆にこれが、既にその世界から遠ざかって久しかった彼の、

”教育者”としての理念を再び呼び覚ます事になり、シンジからの提案を却下するために、

 ようやく口を開きかけたその時、

 機先を制するようにまたしてもシンジの言葉が冬月に浴びせられる。

 しかもその内容はというと、いかにも魔界より遣わされし少年であるシンジにふさわしい、

 誘惑と醜悪に満ちた邪なる物であった。
 

「冬月先生! ここ、ネルフ本部内の修繕費ですが、
 僕が来る前と、僕が来た後とで、随分と変化していますよね」

 ハッとして冬月がシンジの表情を覗き込むと、

 そこには例によって『碇スマイル』が浮かんでいる。

 この少年の言わんとしている事を即座に理解した冬月は、

 無念そうに両の手の拳を1回ギュッと握り締めた後、

 自身の下した結論とは全く正反対の結果をシンジに通知した。
 

「わかったよシンジ君。君の言う事は尤もだ。早速明日づけで葛城君を出向させる事にしよう」

「ありがとうございます。副司令なら必ずやそう言ってくれると思っていました」

 ゲンドウと共に同じ道を歩んできた冬月ではあったが、彼のゲンドウに対する印象は、

 最初に会った時から全く変わっておらず、『イヤな男』 のままなのである。

 わざと慇懃な様子で応対するシンジは、まるで父親のゲンドウを彷彿、

 いやそれ以上の物を感じとっていた冬月であったが、

 父親の場合と違って彼がシンジの事を嫌悪するような事は無かった。

 本当は小心者である事を、その外見と口調で誤魔化しているゲンドウとは違い、

 シンジには本当の意味でのスケールの大きさという物が感じ取れるのである。

 頼もしくも末恐ろしいこの少年がどこ迄行くのか? どれ程大きくなるのか?

 その行く末を見極めたいというのが、冬月にとって今最も心引かれるものであったのだが、

 シンジの4倍にも匹敵する年齢を歩んできた冬月は、

 最後に一つシンジに対して釘を刺す事を忘れなかった。
 

「ただしこの処置は、あくまで平時に限った時のものであって、一旦事が発生した際には、
 その瞬間から本来の職務に復帰するものである。という事を決して忘れぬように」

「わかりました!」

 冬月の言葉に感じ取るものが有ったのだろう。

 シンジはその表情を、それ迄とは違う緊張感漂うものへと一変させ、それでも尚、

 口調は相変わらず抑揚の無いものでは有ったが、冬月の確認をしっかりと肯定した。

「それでは後の手続きは私の方で進めておくから、下がりたまえ」

「よろしくお願いします。では、失礼します」

「ウム!」

 シュッ

 圧縮空気音だけを残し、副司令室を出て行くシンジ。

 この瞬間、可哀想に・・・・・

 第一中においてシンジ達の英語を担当する事が決定したミサトであった。
 
 
 
 
 

 迷○の迷○の○猫ちゃん〜♪ アナ○のお○ちはど○ですか?

「はい、赤木です」

 まるでミサトの事を指してでもいるかのようなコール音がリツコの研究室になり響き、

 リツコは手慣れた仕草でそれに応答する。

 実際の所ミサトは、本部に着任する早々、行方不明になりかける騒ぎを起こしており、

 リツコの猫好きは昔っから知っていたのだが、初めてこのコールを聞いた時には憤慨し、

 リツコに対して、自分に対する皮肉かと食ってかかった程なのである。

 勿論それは誤解であって、リツコがこのコール音を以前から良く好んで使っていた事を、

 後にマヤから教えられてようやく納得したのであるが、

 それでも出来れば別なコール音に変えて欲しいと思っているミサトであった。
 

「ミサト!」

「な〜に?」

「副司令が大至急来て欲しいって言ってるんだけど」

 リツコの話しの様子だと、彼女に電話をかけてきた相手は冬月だったらしいが、

 どうやら用が有ったのはリツコでは無く、ミサトの方だったらしい。

 元々ミサトの事をリツコにお願いしたのは冬月なので、

 彼女がいつもここに居る事を知っていて当然なのであるが、

 副司令が作戦部長を大至急呼び出すなど、いったい何が起こったのであろうか?

(バレバレだ!)
 

「え! 大至急ってまさか?」

「多分そうじゃ無いとは思うけど・・・ もしそうだったら何かしらの体制変更が発令されるでしょうし」

 もしや使徒が襲来したのかと色めき立ったミサトであったが、

 リツコの言う通り、少なくとも警戒体制は発令される筈で、

 それが無いという事は、その心配は無いという事であろう。

「確かにその通りよね、いったい何の用事かしら?」

「悩んでるよりさっさと副司令の部屋に向かった方が早いと思うけど?」

 多少呆れたようなリツコの言葉に、ミサトは自らの考えを中途で打ち切ると、

 助言に従って冬月の所へ向かう事にする。

「わかったわよ! それじゃ行ってくるわねリツコ」

 シュッ

 そう行って部屋を出ていったミサトに対して、

 リツコが最後にかけてやった言葉は、生憎ミサトの耳に届く事は無かった。

「迷子にならないでね、子猫ちゃん!」

 ミサトが本部にやって来る前から使用されていたという状況を見る限り、

 元々はそのつもりは無かったのかもかもしれないが、やっぱりあのコール音には、

 現状では、ミサトに対する皮肉が込められるようになってしまったらしい。
 
 
 
 
 

 リツコの研究室を出た後、途中の経路を2・3個所間違えそうにはなったが、

 何とか寸前で踏みとどまり、

 それ程時間をロスする事無く副司令室迄到着する事が出来たミサトであったが、

 中に入る早々、副司令である冬月の口から語られたその言葉に思わず自分の耳を疑っていた。
 

「葛城ミサト一尉、出頭致しました」

「うむ。思ったより早かったね」

「・・・恐縮です」

 それ迄椅子に座っていた冬月であったが、ミサトがそこまで返答した所で立ち上がり、

 彼女の事を真正面に見据えると、重大な決定事項を伝え始めた。

「さて葛城一尉、実は明日づけで君に特命の辞令が出る事になってね。
 ある所へ出向してもらう事になったんだ」

「!?」

 何を・・・ 副司令はいったい何を言っているのだろう? 辞令? 出向? いったい何の事だ?

 思考のループへと入り込み、そこから自力では抜け出せなくなってしまうミサト。

 確かに彼女がこれ迄行ってきた、「対 使徒戦」 では、満足な指揮が出来たとは言い難い。

 しかし最終的には、シンジの力量に救われる形であったが、使徒の殲滅には成功しているのだ。

 まさか左遷される程の事では無いと彼女は思っていたのだが、

 どうやら彼女の認識は甘かった・・・ 訳で無い事はもうみなさんおわかりであろう。
 

 だが、てっきり左遷だと思い込んでしまったミサトの表情は、

 深淵の闇の中へとどんどん埋もれていく。

 喜怒哀楽がはっきりし過ぎている彼女らしい、と言えばらしいのかもしれないが、

 戦闘を指揮する作戦部長としては如何なものか?

(何か、ミサトとレイを足して2で割ると丁度良いと思いませんか? みなさん)
 

 余りにも激しいミサトの落ち込みように慌てた冬月は、彼女を救うための言葉を急いで口にする。

「落ち着きたまえ葛城一尉! これは決して左遷などでは無い、特命だと言った筈だ」

「!!」

 それ迄黒く縁取られていたミサトの表情が、たちまちのうちにパアッと明るいものとなる。

(なんちゅーわかりやすい奴じゃ)

 冬月はひとまずホッと胸をなで下ろすと、辞令の内容を伝える事にした。
 

「実は、レイやシンジ君達の事なんだが」

「はい」

「使徒との数度の戦いを経て、チルドレン達の重要性が増したのは今更説明する迄も無いが、
 その一方であの2人をガードする環境は実にお寒い状況と言わざるを得ない」

「え! ですが?」

 反論しかけたミサトを冬月は左の手を挙げて抑えると、彼女の言いたい事を補足する。

「わかっている! そのために君や赤木君には2人と同居して貰う事になったのだから。
 だが、我々が全く手出しの出来ない場所が有るという事は君もわかるだろう?」

「学校! ですね」

「そうだ! あそこだけは一種の治外法権地域で、我々は直接手を出す事は出来ない。
 しかし、仮に我々に敵対するものが居たとして、2人を狙うのにあれ程絶好の場所も無い」

 カンの悪いミサトでもだんだんと冬月の言いたい事がわかってきた。

 いわゆるVIP、司令であるゲンドウを始め、部長であるミサトやリツコ、

 そしてチルドレンたるシンジとレイにも保安部のガードはついているのだが、

 さすがに中学校の中迄には入っていけない。

 もし2人を狙う存在が有ったとしたならば、これ程狙いやすい場所は無いのである。

 となれば、何らかの合法的な手段を用いて内部に潜入するしか無いと思うのだが、

 恐らく冬月はその事を言おうとしているのだろう。
 

「そこでだ、君には第一中学の教師として潜入して貰ってだな、
 レイやシンジ君のガードを受け持って欲しいのだが、如何なものかね?」

「了承致しました! やらせて頂きます。いえ、是非やらせて下さい」

 決意も新たに、冬月の伺いにキッパリと承諾の意志を伝えるミサトだが、

 この件を裏で糸を引いていたのがシンジだと知るのはしばらく後の話しであり、

 その時点においては既に糸が複雑に絡め取られており、

 最早解きほぐすのは不可能な状態になっていたのである。

 もし事前にその事が察知出来ていたならば、また違った結果になっていたと思うが。
 

 とにかく任務を引き受けたミサトであったが、2点程大きな疑問が有った。まず一つは、

『何故、わざわざ部長である自分がやらなくてはならないのか?』

 という事である。

 先程も述べた通り、ミサト自身がVIPの待遇を受ける身分で有り、

 彼女自身にもガードはついているのだ。

 誰か、もっと代わりの人材でも良いように思われたのだが・・・

 しかし冬月は、そこらへんの事もお見通しなのか、その点も含めて説明を継続する。
 

「君を選んだ理由だが、まず君がそういった術に優れている事、
 チルドレンと作戦部長が行動を共にする事で様々なメリットが期待出来る事、」
 そして・・ 情けない事だが人材が絶対的に不足している事だ」

 結局はそれに尽きるのだろう。

 元々シンジとレイの同居も、こういう背景が有って実現したのである。

 そういった事もあって、今回の任務はまさにミサトにピッタリのはまり役といえ、

 そこ迄読み切っていた碇シンジという少年の凄さ、恐ろしさにはただただ震撼を禁じ得ない。
 

「成る程、良く理解出来ました。ありがとうございます」

「君の辞令だが、正式には明日、第三新東京市教育委員会への出向、という形で発令され、
 教育委員会の方で改めて第一中学への赴任が発令される筈だ。
 私からは以上だが、他に何か質問は有るかね?」

「はい、平時の場合はともかく、緊急時に私はどのように対処すれば良いのでしょうか?」

「ああ、すまん。大事な事を忘れていたな。
 その場合、君にはその瞬間から本来の職務である部長職に復帰してもらい、
 作戦の指揮を執って貰う。と、こんな所だが・・ 他にもまだ何かあるかね?」

「いえ、特に有りません」

「うむ、では下がりたまえ」

「は、失礼致します」

 シュッ

 ミサトが出て行った後、ゆっくりと椅子に腰を下ろす冬月。

 まずは問題無くミサトの了承を取り付ける事が出来たので一安心といった所か、

 しばらくは放心状態、と迄はいかないが、それに近い形のまま時間が過ぎていく。

 しかしいつ迄もこうしている訳にはいかない。

 何しろ片づけなくてはならない書類が本当に山程有るのだ。

 冬月は気を取り直すと、再びそれらとの格闘に向き直ろうとしたのだが、

 その寸前に卓上の電話からコール音が鳴り響いた。
 
 
 
 
 

「僕です!」

「シンジ君か・・」

「どうでした?」

「安心したまえ、何の問題無いよ」

「ありがとうございました」

 相変わらず抑揚の全く感じられないシンジの口調。

 冬月はまだ他に何か裏が有るのではないかと、勘ぐらずにはいられず、

 今一度、その事をシンジに対し問い質す。
 

「シンジ君! 君の本当の目的は何だね?」

「・・・冬月先生、僕はまだ中学生ですよ!
 学生の本分は勉強に決まっているからじゃないですか。じゃ、これで失礼します」

 Pi♪

 携帯の向こう側で、更に何かを言い募ろうとする冬月を無視して会話を打ち切ってしまうシンジ。

 まさか、「単にミサトをからかってみたい

 という彼の本心を正直に打ち明けた所で、信用してもらえる筈がない。

(ホント、可哀想なミサトさん)

 シンジは『碇スマイル』を浮かべながら、

 これから実に楽しくなるであろう学園生活を思い描き、ポツリと一言呟いた。

「明日からが実に楽しみだな、ミサト先生
 
 
 
 
 

ぶえっくしょい! ちくしょ〜

「汚いわね!」

 研究室で、またしてもリツコに被害をまき散らかしているミサトであった。