天界より遣わされし３番目の使者は、どのような形で処置されたのか？
魔界より遣わされし３人目の少年の、闘いの反芻によりそれは明らかになる。
第６話 シンジ 勝利
シンジはベッドにその身を預け、ぼんやりと天井を眺めていた。
風呂上がりのひととき、体全体が程良くリラックスしており、しかも部屋の電気は消してある。
落ち着いて何かを考えるには最も良い状況のようである。
自分は何故、今、ここに居るのだろう？
わずか１０日程前には、全く想像だにしていなかったのだが、
ネルフのエヴァとかいうもののパイロットを引き受ける事になり、
その結果、第三新東京市に引っ越しする事になってしまった。
シンジは自分の人生を１８０度変化させる事となった、３日前の第３使徒サキエルとの闘いを、
もう１度反芻するため、ＳＤＡＴを停止しゆっくりと目を閉じた。
サキエルの強大な握力により、エヴァが空中へとつり上げられていく。
その重量を考えると、ネックハンギングツリーでも持ち上げるのは至難の業だと思うが、
片手で、しかもアイアンクローでそれをやってのけられるというのは驚異的な事である。
シンジは何とかそれから逃れようとは思うのだが、アイアンクローによる強烈な痛みで、
体の方が言う事を聞いてくれない。
動きの無くなったエヴァに比べて、サキエルは余裕綽々といった感がある。
もしも彼に表情というものが有ったとしたならば、
『勝利を確信した笑み』 というのを浮かべていただろう。
”確信”を”確定”にするためか、サキエルのエヴァを支えている左腕、
その肘より後方に光の槍の様な物が出現する。
あまりに圧倒的な力の差を見せつけられ、いくらカンの悪いミサトとはいえ、
さすがに 『ヤバイ』 と感じたのか、無理を承知で思わず叫んでしまう。
「シンジ君よけて！」
しかし頭を強烈な力で締め上げられているシンジにとっては、到底無理な注文である。
頭蓋を襲う強烈な痛みは、シンジから体の自由だけでなく、
正常な思考さえも徐々に奪いつつあったのだ。
サキエルの光の槍が、まるで工事現場のパイル（杭）の様にエヴァに打ちつけられる。
ミサトのあまりあてにならないカンが当たってしまったようだ。
ミサトに限らず悪い予感というのは、どうして良く当たるのだろうか？ 不思議なものだ。
２度、３度、４度、５度、容赦なく叩きつけられる光のパイル。
頑強さを誇るエヴァの装甲にもさすがに限界が見え始めたのだろう、
あせりを隠せない調子で、それでも自分の業務を確実にこなしながらマヤが叫ぶ。
「頭蓋前部に亀裂発生」
「装甲がもう・・ もたない」
リツコの口から危機的状況を著した言葉が漏れ出てくる。
その言葉に裏付けされたかのように、続けて数回打ちつけられた光のパイルは、
ついにエヴァの頭部装甲を完全に破壊し、更には頭蓋そのものを貫通して、
後部に位置するビルにその体を縫いつけた。
パイルが引き抜かれると、がっくりと頭を垂れるエヴァ。
貫通された頭蓋からは勢い良くＬＣＬを吹き出している。
十字架に張り付けられたというジーザスも、はたしてこのような情景だったのだろうか？
「頭部破損、損害不明」
「制御神経が次々と断線して行きます」
「パイロット、反応有りません！」
３人のオペレーター達の口から、
状況が危機から絶望へと変わった事が立て続けに告げられていく。
その模様を眺めていた冬月は、静かに息を吐き出すとゆっくりと目を閉じた。
ゲンドウは相変わらずガラスに貼り付いたまま、身動きがとれないでいた。
リツコは思わず意識を失って倒れかかりそうになるが、
その時、欲望も打算も何も無い、ただひたすらにシンジを想うミサトの声が迸る。
それはリツコを、更にはシンジを、そして・・・・・・ 人類を救う事になる、
まさに魂の絶叫であった。
遠く遠く、どこ迄も遠く、深く深く、はてしなく深い。
そんな永遠とも思えるような漆黒の闇の中を、シンジはゆっくりと降りていく。
瞳は両方閉じられたままで、まるで眠っているかのようなその表情からは、
恐怖、不安、焦燥、そういったものは一切感じられない。
いったいどうしてなのだろうか？
ここを通る者が普通の人間であれば、この静寂さと孤独さはとても耐えられる筈が無いのだが、
むしろ彼の場合は嬉しそうにすら見える。
確かにシンジの精神力はとても強靱ではあるが、それだけでは到底説明がつけられない。
更にもう１点おかしな点が有る。
それは彼がここを”墜ちて”行っているのでは無く、”降りて”行っているという事である。
彼のこれ迄の罪業がどれ程の物で有ったのかはわからぬが、
罪人がここを通過する場合は、「奈落の底に墜ちていく」
という表現がピッタリはまるような状況になる筈なのだ。
しかしそんな疑問に答える者など当然居る訳もなく、
シンジは相変わらずゆっくりと闇の中を降りて行っていたのだが、
突然遙かなる頭上から彼を呼ぶ、いや呼び戻す声が降りかけられた。
「シンジ君」
スクリーン上、完全に沈黙したエヴァに対して飛んだ、ミサトの絶叫だが、
残念な事にシステム的な構造から言えば、彼女の声がシンジに届く筈が無いのだ。
エントリープラグ自体は完全に外界とは遮断されており、映像、音声、
あるいわパイロットの状態などの情報の交換には、必ず通信回線が必要なのである。
そのうちのエヴァに向けられたマイクは、現在マヤの手元にあり、
ミサトが叫んでいたのは、惨劇が映し出されていたスクリーンに向かってだったのだから。
だがこの時シンジは、ミサトの絶叫をはっきりと感じ取っていた。
本来届く筈が無いものが、いったいどうして？
いや、実際届いてはいなかったのだ。 ミサトの”声”はシンジの”耳”に。
それではシンジが感じたものは、いったい何だったのであろうか？
それはシンジに対するミサトの”想い”であり、シンジの”心”がそれを受け取ったのである。
シンジはそれ迄閉じていた目を見開くと、一旦頭上を見上げた後今度は下の方を向き、
ごく自然に、まるで側に居る旧知の友に語りかけるように言葉を紡ぎだした。
「ごめんよ、僕はまだそこに還る事は出来ないんだ」
少し寂しげな感じはしたが、シンジはそう言うと自らの体？ を静止させ、
何と！ 驚くべき事に次の瞬間には上昇に転じていたのである。
今迄とは異なり、まばゆいばかりのオーラに包まれた彼の背中に、
６対の羽根が見えたように思えたのは、はたして単なる錯覚だったのであろうか？
「活動維持に問題発生」
「状況は？」
ミサトは、リツコの頭越しにマヤに確認を依頼する。
本来彼女の部下では無く、技術部に籍を置くマヤに命令を出す場合は、
その直接の上司に当たるリツコを通すのが正式な筋である。
しかし現在は作戦指揮中であり、この場合の最高責任者はミサトである。
彼女には全権が与えられ、通常の場合は同列に論じられるリツコですらも、
一時的にミサトの指揮下に入る事となるのだ。
「シンクログラフ反転。パルスが逆流しています」
「回路遮断。せき止めて」
「駄目です！信号拒絶。受信しません」
ミサトの絶叫に何とか踏みとどまったリツコが、状況を改善するべく指示を出したが、
答えるマヤの反応は更に気持ちを暗くさせる物だった。
もうこれ以上、技術部に・・・・ 自分に・・・・ 打てる手は無い。
リツコは己の無力さを噛み締めるしかなかった。
「シンジ君は」
「モニター反応無し。生死不明」
「初号機、完全に沈黙」
続いて作戦部がパイロットの安否を確認しようとしたが、
こちらの方も人類滅亡へのカウントダウンの数値を減らしていくものにすぎなかった。
「ミサト！」
リツコはミサトを振り返り、何かにすがりつきたいかのように声をかける。
その声は震えており、最早泣き出す一歩手前と言った感じだ。
答えるミサトは悔しげに奥歯を噛み締めると、ネルフの・・・ そして人類の敗北を宣言した。
「ここまでね・・・ 作戦中止、パイロットの保護を最優先。プラグを強制射出して」
「駄目です！ 完全に制御不能です」
「何ですって！？」
ミサトの指示に対し、
『さっき 「信号拒絶。受信しません」 て言ったでしょ。何聞いてんのよ！』
といった感じで、ミサトを睨み付けるように振り返るマヤ。
（怖いよ。こん時のマヤちゃんの表情）
全てを否定するマヤの回答に、ミサトも最早打つ手を全て失っていた。
だが誰も、おそらく正面に対峙しているサキエルですらも気づかなかっただろう。
ミサトの”想い”は、奈落の底へと落ちかけていたシンジの”心”を、
引き戻すのに成功していたという事を。
ハッ としてふいに顔を上げるシンジ。
右目の奥がズキズキするが、どうやら大丈夫のようだ。
「何だ？ どうなってる？」
痛む右目を手で押さえながら、残った左目で何とか前方を見据えると、
サキエルがまるで自分を見下すかのように悠然と立っているではないか。
さながら勝ち誇ってでもいるようなその姿に、
それ迄まともに動いてくれなかったシンジの思考が、徐々に正常な状態へと戻り始める。
またそれと同時に、シンジは胸の内に怒りが沸々と沸き上がって来るのを感じていた。
「やってくれたなサキエル・・・ たかが・・・
たかが下級天使の分際で、この僕に逆らうとはいい度胸だ！」
次の瞬間、シンジは感情を振り絞り、生まれて初めて大声で叫んでいた。
「なめるな！！！」
正常な形を保っているエヴァの左の目に、光が明滅したと思った次の瞬間、
周りのもの全てに、嫌悪と恐怖とを感じさせる悪魔の咆哮が響きわたる。
その雄叫びは、まさに地獄の淵にうごめく尋常ならざるものにふさわしいものだった。
「エヴァ、再起動」
「そんな、動けるはずが・・・ え！これは」
「どうしたの？ マヤ」
「シンクロ率が戻ってます！？ ９８．４％。先程と同じです」
慌ててマヤのモニターを覗き見るリツコ。
確かに切断されかかっていた神経接続は、いつの間にか元に戻っており、
ハーモニクスも綺麗な曲線を描いていた。
「パイロットの状況は？」
「駄目です。パイロットに関するモニターは、まだ回復しておりません」
『どういう事？ 大丈夫なのシンジ君は』
判断に困り、今度はミサトの方がリツコの方を向く。
１０年間のつきあいは伊達じゃないのか、その気配を感じたのだろう、
相変わらずマヤのモニターを覗き込んだままだが、リツコはきっぱりと言い切った。
「大丈夫よ！」
それはミサトに対してと言うよりも、自分自身に言い聞かせるためだったが。
エヴァは一旦身を沈めると、驚異的なジャンプ力を駆使して、
次の瞬間にはサキエルにおどりかかっていった。
先程のエヴァの突進に際しては、ＡＴフィールドを張ってそれを防いだサキエルであったが、
今回は不意を突かれたため、全くの無防備の状態でエヴァの攻撃を許してしまう事となる。
まともにとび膝蹴りをくらい、かなりのダメージを受けるサキエル。
接近戦はやはり自分に不利と判断したのか、懸命に手足を動かしてエヴァを振り払おうとする。
だがシンジはそんなサキエルの動きを読んでいたのか、
エヴァを自らからひき離し、お互いの距離を取る。
だが離れればサキエルにはＡＴフィールドがある。
いったいシンジはどうするつもりなのだろうか？
シンジの表情を伺ってみると・・・ なんと、また『碇スマイル』が浮かんでいる。
先程あれだけの醜態を晒したというのに、この自信はいったいどこから来るのだろうか？
「リツコ」
「はい！」
シンジに呼びかけられて、慌てて返事をするリツコ。
突然の出来事に、さすがの彼女も思考がついて来ないようだ。
何故シンジはわさわざリツコに呼びかけたのか？
ミサトを初めとして、オペレーター３人衆、それ迄目を閉じていた冬月も再び目を開き、
全員が興味津々といった感じで、それぞれがリツコに注目する
「こいつの弱点とかはわかるか？」
「胴体の中央部に球形らしきものが見えると思いま・・・ 思うけど。多分そこね！」
「わかった」
シンジに対し一瞬敬語を使いかけた事に気づき、途中で修正するリツコ。
一方質問をした方のシンジは、リツコの答えを理解した旨を伝えた後、
再びエヴァをサキエルの方へ向けて、ゆっくり歩き出させた。
ある程度近づいた段階で、またしてもサキエルの前に現れるオレンジ色の壁。
シンジは委細かまわず前進を続け、ＡＴフィールドの前に立ちつくすと、
両掌をそっとそれに押しつける。
するとどうした事だろう、まるでオレンジキャンディが熱で溶けて行くかのように、
掌が壁へとめり込んでいくではないか。
「初号機もＡＴフィールドを展開。位相空間を中和していきます」
「いえ、浸食しているのよ」
先刻と違い気持ちに余裕が出てきたのか、現状を冷静に分析し、正確な報告をするマヤ。
リツコはマヤの報告に修正を加えながらも、シンジの復活がよっぽど嬉しいのか、
多少イッちゃった目をしながら、スクリーン上のエヴァの勇姿を眺めている。
その表情はまさに 「うっとり」 といった感じである。
やがて掌全体がＡＴフィールドの中に沈み込み、指が向こう側に突き出て行く。
そこを手がかりにして、まるで襖か障子を一気に全開にするように、
左右の腕を両側に振り切ると、
あれほど堅固だったＡＴフィールドが、いとも簡単に弾け飛んでしまった。
間を隔てる物が無くなったサキエルとエヴァのお互いの間合いが瞬時に詰まっていく。
サキエルは先程の光のパイルをもう１度エヴァにお見舞いしようとでもいうのか、
両腕を前に突き出そうとするが、
パイルを出現させるより先に、エヴァに両腕を掴まれ上方へと跳ね上げられてしまう。
さらに次の瞬間には、さほど力を入れられたようには見受けられなかったのだが、
エヴァに掴まれた部分が、マッチ棒か爪楊枝のようにポッキリと折れ、垂れ下がってしまう。
何とか逃れようと懸命にもがくが、まるで大人と子供のように相手にされていない。
そんなサキエルに対し、エヴァは再び顎部を開きねめつけたかと思うと、
強烈な前蹴りにより相手を後方へと弾き飛ばす。
背後のマンションに張り付けられるサキエル。まるで先程のエヴァと同じような状態である。
だが先程はサキエルがここで一旦間をおいてエヴァの回復を許してしまったのに対し、
エヴァは追撃の手を全く緩める事なく強烈なタックルをかまし、
瓦解するマンションと一緒にサキエルを押し倒す。
動きの止まったサキエルを、マウントポジションで組み伏せると、
わざと１発、１発の間隔を開けてパンチを叩き込むエヴァ。
その様子は、まるで捕らえた獲物をいたぶるのを楽しんでいるかのようだった。
エヴァの放ったパンチが、何発かサキエルの胴体中央部に位置する球体・コアを捕らえる。
衝撃によりミシッミシッと少しづつヒビが入っていくコア。
最早これまでと思ったのか、サキエルはまるで風船のように一瞬で膨れ上がると、
すっぽりとエヴァに覆い被さった。
「自爆する気？」
ミサトが叫んだ次の瞬間。
閃光とすさまじい爆音、爆風があたり一面を一瞬にして覆う。
ネルフの発令所のスクリーンは真っ白になり何も確認する事が出来ない。
「エヴァは？」
ミサトの口からエヴァ、いやシンジの安否を気遣う言葉がポツリと漏れる。
この爆発の威力は戦自が使用したＮ２地雷には及ばないかもしれないが、
それでもかなりのものであることは間違いない。
しかもエヴァは、サキエルがＮ２地雷を使用された場合とは違って、
その爆心地に位置していたのである。被った破壊力はむしろエヴァの方が多いであろう。
おそらく先刻のサキエル以上の被害を受けているだろう。最悪の場合は・・・・
一刻も早く知りたい所だが、煙と電磁波によりセンサーが不能の状態となっているので、
それらが回復するのを、ネルフ内部、特に発令所においては今や遅しといった感じで、
人々はスクリーンをジッと凝視している。
何とか無事でいてほしい！ どうか健在でいてほしい！
そういった願いを乗せて、発令所の全員は固唾を飲んでその時を待ち続けており、
中でもリツコは、マヤのモニターを覗き込んだままで微動だにしていない。
一見すると冷静に現状を把握しようとしているように見えるが、実際の彼女の胸中は、
『シンジ様無事でいて。シンジ様無事でいて。シンジ様無事でいて。
どうかご無事で。どうかご無事で。・・・・』
（相変わらずだね。リツコさんは）
またミサトにしても、他のスタッフと同様、スクリーンを凝視したままで全く動きが止まっていた。
作戦部長として形式上でも自分の部下に当る、
しかも１４歳の少年を犠牲にしてしまった事を悼んでいるのだろうか？
なかなかに沈痛そうな表情が伺える。
『シンジ君・・・ 生意気だけど、顔はモロあたしの好みなのよ。
どうか帰ってきて、帰ってきたら続きをしましょ』
（何のだ？ 何の）
やがてカゲロウ立ちこめるスクリーンの陰影が徐々に明らかになっていく。そこには・・・・
「「「「「「「「「「おー」」」」」」」」」」
スクリーンを見つめる人々の口から思わず言葉が漏れ出してくる。
だがそれは決して歓声などではなかった。
勝利をこの手にし、人類は滅亡を免れたというのに、
喜び、安堵、感激、そういったものが一切湧いてこない。
人々は、自ら開いてしまったパンドラの箱から飛び出してきた恐怖に支配されていた。
「あれがエヴァの」
「本当の姿」
リツコとミサト、両部長の口から奇しくも同じ言葉が発せられる。
しかし、お互いの胸中に渦巻くその感情は、１８０度違う方向を向いていたが
エヴァンゲリオン 初号機。
地獄の業火の中に立ちつくす、その姿はまさに 「鬼」 か 「悪魔」 か。
シュッ
圧縮空気音に伴ってドアが完全に開くと、リツコは歩を進めて体を室内へと導き入れる。
どうやら２人とも無事リツコの、いや今は２人のマンションに帰り着いたらしい。
「ただいま」
そういって靴を脱ぎ、それを靴箱に納める。
玄関のスペースはそれ程広くないため、今ここにいるのはリツコだけであり、
レイは外で待機している。
勿論命令されてそうしている訳ではない。
やがてリツコがフロアに上がり、玄関にスペースができると、
今度はレイが無言のままで中に入ってくる。
それを見ていたリツコはちょっとため息をつくと、優しくレイに教え諭す。
「レイ」
「はい」
「ここはあなたの家なんだから、自分の家に帰ってきた時は 「ただいま」 って言うのよ」
レイを見つめるリツコの顔は穏やかそのものであり、
見返すレイにもそこに他意がないのは感じ取れたようである。
しかしレイの口からはまだその言葉は出てこない。
どうも何か考え事でもしているようだが、何か疑問点でもあるのだろうか？
「さっき碇君が葛城一尉の所へ帰ってきた時は 「今、帰ったぞ」 と言ってましたが」
「え！」
確かにレイの言う通りである。何しろ自分はそんなシンジを三つ指ついて迎えたのだから、
しかも何故かレイまでが自分の真似をして三つ指をついていたのでよく覚えている。
とはいっても明確な理由など有りはしないのだ。リツコはとりあえず無難に誤魔化す事にした。
「彼は特別なのよ。普通は 「ただいま」 で良いのよ」
「普通ですか」
「そう。普通の人・・・」
そこ迄言いかけて、何故かリツコは押し黙ってしまった。
レイも不思議そうな表情でそんなリツコを見つめている。
『普通の人・・・ か。そう、そうよね。レイ、あなたも・・・』
そのうち自分を見つめるレイの視線に気づいたリツコは、
中断してしまったさっきの言葉を続ける事にした
「そう。私やレイ、あなたみたいな普通の人はそれでいいのよ」
あくまでも口調は穏やかであり、以前ゲンドウを間に夾んでいた時の
あのギスギスした関係を思うと、自分でも信じられないぐらいである。
リツコはこんなにも自分を変えてくれたシンジの存在に感謝し、
彼の事を誇りにすら思えるようになっていた。
この先シンジは、レイを含めた様々な女性達と関係を持っていく事になるのかもしれない。
しかし、たとえそうなったとしても、
シンジに対する信頼は微塵も揺るがない事をこの時リツコは確信していた。
自分の・・・ この世で最も大切な主人 碇 シンジ
彼を主人とする事が出来た自分は、とっても幸福だと感じていた。
「た、ただいま」
「！？」
思わず自分の世界に没頭していたリツコは、レイのためらいがちな言葉に我に返った。
たいがいの人ならば慌ててしまう所だろうが、そこはさすがにリツコさん。
にっこりと微笑むと、レイの心に染みわたるような言葉で彼女を温かく迎え入れた。
「おかえりなさい」
回想に入る前とは違い、シンジは目をパチッと開けると、ついで上体をむっくりと起き上がらせる。
前方を、特に何を見るでもないが見据えながら、今度は何かを考え込んでいるようだ。
自分はあの時、あの使徒とかいう化け物が、
「サキエル」 という名前を持っているのを知っていた。
この世に生を受けて１４年。当然ながらあんな化け物は見た事も、聞いた事も無い。
エヴァに搭乗する前に、誰かから教えられたという訳でもない。
そもそもあの使徒とかいうやつの名前は本当に 「サキエル」 なのか？
エヴァから降りた時は疲労困憊しており、確認している暇が無かった。
様々な可能性について思いを巡らすシンジだったが、肝心の思考の方は、
堂々巡りを繰り返すだけで、全く次へ進む事が出来ないでいた。
そのため、とりあえず自分の中ではサキエルとなっているものの詳細については、
いずれリツコに確認する迄保留にする事にし、
結局この場においては彼自身が答えを導き出す事は出来なかった。
だが、彼が第３使徒の事を知っていると感じたのは決して間違いではなかったのである。
下級天使のサキエルが本来は彼に逆らえる存在には無い事を。
次にシンジが引っかかったのは綾波レイの存在である。
彼女の事については、エヴァに搭乗し自意識を無くしていた際、
母親のユイからそのあらましを聞いてはいたが、今一つ納得出来ない部分がある。
ユイの言葉を借りれば、もう１人の自分だというレイ。
最初に出会った時に感じた懐かしさはそのせいかとも思ったが、
どうもそれだけでは無いような気がしてしょうがない。
彼女とは・・・ そう・・・ 生まれる前から知り合いだったような・・・
「馬鹿な！」
シンジは段々と誇大妄想じみてきた、自分の考えを否定する。
だがサキエルの名前と同様、この考えも決して間違いではなかったのだ。
新たにレイの情報を得る事を考えた場合、母親以外でレイの事に最も詳しい人物といえば、
父親のゲンドウだろうが、あの父が素直にレイの事を話してくれるとは到底思えない。
やはりレイの事についてもリツコに確認するしかないのか？
使徒とレイ、レイと使徒。とにかく全ての事柄について情報が少なすぎる。
多少時間はかかったとしても、気持ちを落ち着けてじっくりと取り組んだ方が良い。
とにかく、リツコに確認できる事はまず全て確認し、それらの情報を得た上で、
もう１度検討してみよう。その後の事はその時にまた考えよう。
シンジはそう結論づけると、とにかく今日はこれ以上考えないようにする事にした。
シンジは部屋の照明をつけると、就寝するために寝具が入った袋を紐解き始めた。
思いがけない歓迎会などがあったせいで、引っ越し荷物には全く手がかけられておらず、
全てがまだ梱包されたままなのである。
慣れ親しんだ枕やタオルケット等を取り出していると、
自分の部屋の襖の前を誰かが通過していく音がする。
無論、今この家に残っているのは自分とミサトしかいないのだからミサトに間違いないだろうが、
それ以外の誰かだったらかえって問題である。
シンジはひょんな事から自分と同棲・・・
「同居よ、同居。私とシンジ君は同居だってば！」
えー 何だっけ？ ああ、そうそう、
ひょんな事から自分と同居する事になったネルフの�癸魁�
葛城ミサト作戦部長の事について思いを巡らせていく。
そういえば彼女は自分が父親に騙されて、初めてネルフへとやって来る事になった時、
本来自分を迎えに来てくれる事になっていた女性だという事を、
ふいにシンジは思いだしていた。
確かこちらに来る２日前、速達で届いた彼女からの手紙の中に写真が入っていた筈だ。
「来い」 などとふざけた事しか書いてよこさなかった父親の手紙はその場で破り捨てたのだが、
彼女の手紙はちゃんと取ってあったはずだ。
シンジは就寝の準備をしていた手を途中で止めると、
他の荷物の中からミサトの手紙を探し始めた。
「あった。これだな」
シンジはまず、自分の目を引いたミサトの仲々セクシーというよりは、
どちらかというとおちゃらけた写真を封筒から取り出し眺めて見る。
足の根元でカットしたジーンズからは、健康そうな太股がムッチリと覗いており、
レモンイエローのタンクトップの胸元は大きく開いている。
さらにご丁寧にも 「ココに注目！！」 とただし書き迄してあり、
トドメとばかりにモスレッドのルージュで、キスマークがブチュッと押されている。
「いたいけな中学生をだまくらかすにはちょうどいいアイテムだな」
（誰がいたいけだって？ 誰が！）
本当にいたいけかどうかは置いとくとして、
シンジがこの写真でごまかされた部分が多少（かなり？）あるのは事実である。
−碇シンジ−
一見するとなかなかの美少年で、年上の女性から見れば可愛くてたまらないように見えるが、
中身については、父親とそっくり、あるいわそれ以上に強烈 な
いわゆるムッツリスケベであった。
「シンジ君」
写真を眺め続けていたシンジの心に、
自分を地獄の淵から救ってくれた、ミサトの呼びかけが蘇ってくる。
あれが無ければ、おそらく自分は今ここにはいなかっただろう。
そういう意味ではミサトは自分の命の恩人といっても良いのかもしれない。
『そうだな、ちゃんとお礼をしておかないとバチが当たるかもな』
柄にもなくそんな事を考えたシンジは、例の写真を大切にしまい込むと、
自分の部屋を出てミサトの部屋へと向かった。
ミサトは風呂上がりのほてった体に、
グリーンのバスタオル１枚だけを纏いスツールに腰掛けている。
お湯で程良く暖められた肌は、少しづつ冷め始めてはいたが、
まだかすかに上気しており、タオルで拭き取ってはあるものの、
水分を含んでしっとりとした髪は仲々にそそられるものがある。
これから髪を乾かし、ブラッシングでも行うのだろう。
だが湯上がり時の気持ちよい倦怠感、とでも言うのだろうか、
それを楽しんでいるミサトの手が動いてくるのは、もう少し先のようである。
「ミサト、開けるぞ」
突然シンジの声が背後から聞こえてきたかと思うと、続けて襖が引かれる音がする。
どうやらシンジがやって来たようだが、こんな夜中にいったい何の用だというのだろう。
ミサトはごくりと唾を飲み込んだ後、後ろを振り返ろうとしたが、
何故か体が言う事を聞いてくれなかった。
「一つ言い忘れていた事があったんだが聞いてくれるか？」
『な、何いったい？ まさか手とり足とりあんな事やこんな事をやさしく・・・ジュルジュルジュル』
（前にリツコさんを相変わらずだと言ったが、どうやらミサトもまんまらしい）
続き（何の？）を思い描き、持病の発作がまた起こりそうになるミサト。
だがシンジの言葉はミサトが思っているようなものではなかった。
「あの時・・・ あの使徒に最初に攻撃を受けた時・・・ 僕は一瞬気を失いそうになったんだ。
だけどその寸前でミサトの声が聞こえてきた」
「おかげて何とか踏みとどまり、使徒を倒す事が出来た。感謝している」
訥々と話すシンジ。
相変わらず抑揚の無いその口調では、本当に感謝しているのかと疑わしくなってしまう。
だが持病を抱えているミサトにとっては、その琴線を振るわせるのに充分過ぎるものだったらしく、
発作の発動がすぐそこ迄迫って来ており、それを抑え込むのにかなりの苦労を要していた。
『逃げなきゃ駄目よ、逃げなきゃ駄目よ、逃げなきゃ駄目よ、逃げなきゃ駄目よ、ミサト・・・
彼は碇シンジ・・・ 彼は碇シンジ・・・ 彼は碇シンジ・・・ 彼は碇シンジ・・・』
「そこでだ。まあお礼といってはなんなんだが、今の僕に出来るのはこれぐらしいしかないんだが、
もちろん受けとってくれるな！」
シンジはそう言うと後ろ手に襖を閉めてミサトの部屋へ入り込む。
まるでゴーゴンにでも魅せられたかのように、
相変わらず背後を振り返るどころか身動き一つできないミサト。
そのむき出しの両肩にシンジの両手が乗せられてもそれは変わる事はなかった。
『し、仕方ないのよ。だって体が言う事を聞いてくれないんだもの』
それはまさに己の嗜好を隠し、自己を正当化するための言い訳に過ぎない。
やはりミサトは 『己の持つ業』 というものには逆らえなかったようである。
ファサ
やがて静かにグリーンのバスタオルが畳の上に落ちる。
シンジの部屋のベッドメークはまだ途中のままだったが、
結局この夜は彼は自分の部屋には戻らなかったので、特に問題は無かった。
ミサトは・・・ その心配とはうらはらに、どうやら無事シンジの事を受け入れる事が出来たらしい。
碇 シンジ ・・・・ やはり魔界より遣わされし少年である。
「あなたは人に褒められる立派なモノを持っているのよ。胸を張っていいわ」
「シンジ君・・・ （もう１度）頑張ってネ（はあと）」
（何じゃ、そりゃ〜）
天界より遣わされし３番目の使者を、遂に地へと落としめした
魔界より遣わされし３人目の少年が、次に興味を抱いたのは２番目の使者であった。
黙々と訓練をこなすシンジを、とまどいの目で見つめるマヤ。
訓練終了後、シンジはリツコに対しサキエルとレイに関する秘密を問い質すのだが、
それはシンジを、突然出てきた己の妹たちへの思いへとかきたて、脱力するだけのものだった。
次回 問題無い 第７話 シンジ 審問
さ〜て、この次も サービスしちゃうわよ