むしろ、呆れ返って笑ってしまう程の長い時間を経て
あの人は、帰ってきました
喰う寝る36 |
「あら・・・あなたったら、また。」
安楽椅子に体を投げ出した夫に毛布を掛け直すのは、もうこれで三度目です。
壁のテレビにリモコンを向け、電気代の節約に努めるのも三度目。
不思議なもので、テレビの音が消える度に、夫は必ず目を覚まします。
そして、決まって言う科白・・・
「なんだ、かあさん。・・・せっかく見ていたのに。」
・・・ほら、言ったとおりでしょう?
「嘘をお言いなさいな。
あなた、歌番組なんて興味は無いでしょう? 」
頬に浮かぶ笑みを押し隠して、私は夫の毛布を畳みます。
この人ったら、年寄り扱いするな・・・って頑固なの。
意固地になって、外の雪に飛び込まれたら大変。
でも、笑っているのはそんな理由じゃないわ。
「何を言う。
ロックの再興に胸が躍るのは、お前だって一緒じゃないか。」
「ええ、そうですわね。
シナディス・ローズ、ギーガ、それにTMギブスン・・・
みんな、まだ若かったあの頃・・・2010年代を思い出させてくれますもの。」
私の同意に気を良くして、夫は得意そうな顔。
「ふっ、当時十代だった小娘には、テイラーズ・キルの良さは判らなかっただろうな。」
もう・・・子供みたいな事を言って。
でも、その頃の私はそれどころじゃ無かったって事、本当は知ってるくせに。
・・・カーテンがきちんと閉まっていなかったようね?
隙間から覗く窓ガラスに、明るい室内と、皺だらけの私が映って。
あれから、もう五十年・・・心の奥に、十代を支えてくれた激しいビートが蘇ってきました。
喪失感に打ちひしがれた世界が産んだ、それは希望の歌。
ヒカリ・・・懐かしいわ。
心に傷を負い、手首を刻んだ私のベッド。
空っぽの白い病室に音楽を届けてくれるのは、いつだってあの子だったわね・・・
「テイラーズ・キルは好みじゃありませんでしたけど・・・でも、あなた?
少なくともCNNのニュースでは、ロックが流れる機会はなさそうですよ? 」
サイドテーブルに手を伸ばした夫の先手を打って、さっとリモコンを取り、消したばかりのテレビに再び電源を入れて。
「いやだわ、このキャスター。
視聴者の不満を煽るばかりで、ちっとも建設的じゃないんですもの。」
わざととぼけてみせる私に、夫は・・・あの人にも似た困った笑顔を、浮かべてくれました。
『・・・ニュースの途中ですが、速報が入っています。』
建設的ではないキャスターに覆い被さるように、映し出された中継画像。
整備される事も無く埃を積もらせた紫の巨人・・・エヴァンゲリオン、初号機。
『国連主導の許、センサーによって監視下に置かれていたエヴァンゲリオン初号機から、本日未明、エネルギー反応が確認されました。』
白髪交じりのブロンドも・・・節が目立つ細い指先も・・・そして、輝きだけは失っていない、蒼い瞳も。
私を造る全ての分子が一つの眼球となったかのような錯覚を、そのとき覚えました。
『その後、特殊ベークライトの拘束槽表面に倒れている男性を発見、保護された模様です。』
彼は・・・あの人は・・・
画面の中で、男の子が一人泣いています。
忘れる筈も無い、青いプラグスーツ。
黄色い反射ベストに身を包んだ保安職員が、両脇からそれを支えています。
もつれる足。
痩せこけた身体。
それでも、彼の停止した時間は、彼の寂しさを衰えさせはしなかったのでしょう。
もう、あの国には、彼が知る人はいません。
彼の親友だった鈴原君は、鈴原トウジから製薬会社の課長を経て、今は奥さんと隠居しているそうです。
相田君は、相田ケンスケから新聞社の報道部長として、今も現役。
綾波レイ・・・彼女は還って来なかったけど、ヒカリは一児の母からおばあちゃんに。
あの頃のままの彼・・・14才で時を止めたシンジと、かつては判り合えたかも知れない人たちは皆、それぞれの望む姿に変わってしまいました。
五十年の壁を越えて彼と触れ合える人は、もう何処にも居ないのです。
『男性は非常に興奮しており、また衰弱が激しい為に、鎮静剤を投与された後に病院へ収容されました。』
私は、私の中のシンジ・・・今テレビに映し出されたままの、十四才のシンジを心に呼び覚ましました。
あなたは、生きていけるのよ?
かつてあなたを失った私たちと同じように、寂しさを乗り越えて、生きていけるのよ?
私は思い出します。
サードインパクトの後、紅い海から還って来た人達。
世界を取り戻すために必死だった、生きることを選んだ人達。
くいしばった歯の隙間から、それでも希望の歌を聴かせてくれた人達。
そして、私も歌った希望の歌・・・
あなたも歌いなさい、シンジ。
そして、あなたの世界を築きなさい。
私が私の時間の中で幸せを掴んだように、あなたも幸せになりなさい。
だって、あなたは今、生きているのですから・・・
生きていれば、何処だって天国へと変えられるのですから・・・
「彼が・・・そうか。」
心配そうに私の顔を覗き込んだ夫は、やがて安心したように私の涙を拭ってくれました。
「そうだな、彼だって幸せになれるさ。」
「ええ・・・そうよ、あなた。」
夫の手を両手で包み、窓の外へと再び目を向けます。
そこに映るのは、皺だらけの私。
壁に飾られた孫たちの写真も、小さく映りこんでいます。
窓の先は、暗くて何も見えないけれど・・・
『・・・その後の初号機に活性化の兆しは見られませんが、監視体制の強化が臨時総会で決定されました。
速報は以上です。では、先程のニュースを改めて・・・』
でも、その闇の中には。
「そういえば、そろそろ収穫できるな。」
「・・・そうですわね。」
私達が植えた林檎の木が、紅い果実を実らせている事を・・・私は知っているのです。