私は中途半端な女だと、心の底から自分を責める。
これが裏切りであるのには違いない。
誰の?
もちろん、彼のだ。
でも、裏切ったのは彼だけ?
答えられない。
答えたら、私は私で無くなるから。
私は、私を捨ててしまったのだ。
だって、心以外の何かに従って、私は選択したのだから。
手のひらに蹲り、鋭い角で傷つける物は、格子状結晶の様な堅いロジック。
私が選び、終末の予感で満ちた残りの時間を共に生きる物は、格子状結晶の様な脆いロジック。
不確かで、あやふやで、私を幸せにしない。
そんなロジックだと気付いてはいたが、それでも私は、私自身よりそれを信じた。
中途半端な私は、自分自身にその全てを預けられる程、私という女を信用してはいなかったのだ。
蜂蜜色に輝く日々を、今は遠くに見つめている。
遠すぎて琥珀色に霞んだとしても、やはりそれは輝きなのだ。
闇が深まる程に、暗い星にも存在感を見いだせる。
ひと頃は忌避すらしていたあの日々が輝いて見えるのも、きっと此処が暗闇だからに違いない。
ベッドの上、日めくりのカレンダーを捲る暇も無いほど稚戯に耽った。
ままごとと呼ぶには淫ら過ぎたかも知れない。
中絶を経験したのもこの頃だが、不思議と罪悪感は感じなかった。
子を為すことが出来るという自信を噛みしめながら、それを疎ましく思う私がいた。
初めて飲んだビール・・・旨さを教えてくれたのは彼だ。
不透明な未来から逃げ込むように入った大学が、未来を彩る為の力を手に入れる場所だと気付かせてくれたのも。
人生に価値があると実感するのは初めてだった。
何かを望んでも許されるという事実は喜びだった。
眠るという行為を恐怖から切り離す事が出来たという感慨は、震えが来る程幸せだった。
枕として差し出された、たった一本の腕。
私が真に求めている物が、腕の本体ではなく、それに添えられた安息だと気付くまでは。
・・・男の肌は、考える事を止めてしまうが故に気持ちよい。
そう、やがて気付いた。
私の全てを満たしていた筈の安らぎが、ただの自己欺瞞に過ぎない事に。
かつて、セカンドインパクトの衝撃が私の頭蓋を満たし、全ての言葉を閉め出した。
心通わせる窓を失い、当時の私は喰らい眠るだけの幼い獣だった。
考える事を止めた当時の私は、実はとても幸せな獣だったのだ・・・不幸をそれと気付かぬが故。
やがて言葉を取り戻し、人としての哀しみに気付いたとき、私は心に誓った。
この哀しみに報復しなければならないと。
この胸の奥に重くとぐろを巻いた苦しみを、殲滅しなければならない、と。
牙を求めて、私は学んだ。
力を求めて、大学に進んだ。
彼と出会うまでの一年を、私は学ぶ機械として過ごした。
憎むべきは使徒。
しかし、奴らが何者なのかを知る術は無かった。
やがて努力の対象は、使徒の正体を知る事に向けられた。
しかし、唯一得た知識は、私の振り回す物が蟷螂の斧に過ぎないという事実だけだった。
復讐するべき相手を見つけだせない焦りは、淀んだ胸の奥底に質量となって降り積もる。
私と同じ香りを漂わせる彼と知り合ったのは、私の心が自らの重みで圧壊する寸前だった様に思う。
それは、とても正確なタイミングだった。
その出会いは、カミソリを買いに立ち寄った売店で起こったのだから。
そう、とても正確なタイミングだったのだ。
まるで、クロノメーターで計ったかの様に・・・
私は私という一人の人間であり、物事の因果を無視しては生きられない。
復讐も因果なら、生活も因果。
そして、愛情も・・・
愛していたとなら、今でも言える。
きっとあの頃も、愛したのは前日の彼だったのだろう。
過去形で積み上げられる愛情の形を、当時の私は正しく理解していなかった筈だ。
胸の奥で赤熱する復讐への渇望は因、彼との暮らしは果。
きっと、そういう事なのだ。
くすぶり続ける復讐の炎は、休むことなく酸素を消費する。
無力感に背を向けて男を求めるベッドの中でも、私は息苦しさから逃れられない。
それでも、一時の安息がもたらす穏やかな満足感を確かめては、それを愛情だと誤魔化していた。
重要なのは、二人の未来などでは無かった。
過去から追いかけてくる無力感を塗り潰す為の関係は、その結果のみに価値があり、故に私は結果のみで彼を愛した。
因果・・・
彼との暮らしは、復讐から目を反らした結果に過ぎなかったのだ。
格子状結晶体のロジックは、そう結論付ける事を私に強いた。
中途半端な私は、胸を苛む暗い炎から、結局抜け出せなかった。
過去へと押し流さずには確認できない愛情は、失って初めて正体を晒す。
それは、とても意外な姿だった。
愛していた、紛れもなく、彼を。
過ぎ去った一日を振り返り、愛情を確かめて安堵する日々。
それは、幸せだった獣が取り戻した、幸せだった人間の暮らし。
幸せだった葛城ミサトが売り払った、幸せな未来の残像。
不幸に気付いた私はその夜、一粒だけだが、獣の涙を流した。
人差し指の冷たい感触が、私の夢をあざ笑う。
滑稽な逃避だと、私が私をあざ笑う。
複雑な情報の渦の中、彼が与えてくれた真実。
蟷螂の斧を打ち砕く、圧倒的に巨大な敵の正体。
それでも、復讐を果たすのか?
問うてくれた男の躊躇いが、私の未練を払った筈なのに・・・
生き方を失った男とならば、過去の幸せに埋もれた未来を築けた筈なのに・・・
やはり私は、中途半端な女だ。
自ら背負ってしまった物の重さを理解しながら、それでもたった一つの言葉に惹かれる愚かな女。
彼はきっと言うのだ。
若さ故に未来を盲信したあの頃、頻繁に・・・そして不真面目に交わされたあの言葉を。
中途半端な私には、中途半端にしか受け止められなかった『あの』言葉を・・・
自らの成した諜報戦の結果に怯えながら、途中下車を選ぼうとした中途半端な男。
私たちはよほど相性が良いのだろう。
彼に惹かれる私が判る。
私に惹かれる彼が判る。
私が求める曖昧な癒やしは、中途半端な彼にしか施せない。
彼もまた、己の中途半端な覚悟を許すには、私の存在が不可欠なのだろう。
求めあう心の存在を、かつて無い確かさで。
今、私は感じていた。
ああ・・・あの頃の心地よい世界。
還りたいと願う弱くて中途半端な心は、間違いなく私自身に違いないのに・・・
人差し指の冷たい感触が、私の夢をあざ笑う。
滑稽な逃避だと、私が私をあざ笑う。
私は女だ。
男の前に立つ私。
子供の前に立つ私。
母性だなどとうぬぼれてはいない。
しかし、相矛盾する私の女を、中途半端な私は飼い慣らせないのだ。
格子状結晶体のロジックが、冷たい答えを私に強いる。
十四才の少年の顔をして、私の背中をとんっ、と押し出す。
「よぅ、遅かったじゃないか? 」
言葉は返せなかった。
これから死に逝く私に、一体何を語れるものか。
彼を求める物は、彼を求める私の心。
ならば、自由を与えよう。
彼を目指して駆け出すこの背中に、私は熱い鉛を手向けよう。
幸せな過去は在るべき住処に還し、私と云うロジックを幸せではない未来に押し出そう。
人差し指の冷たい感触が、私の夢を嘲笑う。
滑稽な逃避だと、私が私を嘲笑う。
所詮、安直な感傷・・・ハーレクインの巻末から6ページ。
『さらば、幸せな私・・・』
「そうか・・・葛城は逃げないんだな。」
逃げ出しさえすれば、楽になれる。
この男と逃げ出せれば、この苦しみから解放される。
・・・甘い誘惑が私を揺さぶる。
なんて滑稽な私。
38口径の銃身が、私の指先と彼の心臓を結んでいるのに。
迷う心を取り残して、私の身体は走りはじめているというのに!
「逃げ出す事が、出来ないんだな・・・」
煙草をくわえた口許を器用に歪め、男は素早く右手を腰に廻した。
軍人としての訓練が、発条仕掛けの指令を下す。
『心臓に二発、脳髄に一発。』
着弾の衝撃にガクンと跳ねた男の身体は、そのままずるりと崩れ落ちた。
カチン
男の右手から何かが落ちる。
照門に男の額を捉えたまま、二歩、三歩。
注意深く蹴り飛ばした男の手からこぼれたのは、何の変哲もない只のライターだった。
男は、やはり中途半端だった。
中途半端な私に引き金を引かせる為に。
中途半端な私に、彼自身の幕を退かせる為に。
パブロフの犬が聴いた鐘の音の様に、ライターが立てた音は無機質だった。
乳房の下から下腹部にかけて切り裂かれるような、懐かしい激痛が甦る。
きっと、糸を曳いて流れ落ちる濁った血に紛れて、本当の私がこぼれ落ちようとしているのだ。
右手でそっと、傷の上をなぞる。
乾いた化繊の手触りに紛れて、私は確かに、ぬめりを感じた。
幸いな事に、痛みよりも寧ろ熱を感じた。
脊椎を外れた弾丸は、肝臓をペーストに掻き回す過程でエネルギーを使い果たしたらしい。
十四才の少年を送り出して、背中の熱を冷たい床に吸わせる。
「加持くん・・・もう、いいよね? 」
戦自の追撃は治まった。
重要な区画では無いと判って、消耗の激しい制圧戦から重火器による殲滅へと切り替えたのだろう。
やがてここは火の海に沈む。
願わくば、この幸せをもう暫く噛みしめていたかった。
獣の幸せよりも深い、解放の喜び。
床にこぼれた血が、私の頬を濡らす。
躰から流れ出す、私の未来。
遠くから炸裂音が近付いてくる。
やがて消え去る、私の現在。
三発の銃弾で縫い止めた幸せな過去は、もうそこまで迫っている。
彼は許してくれるだろうか?
きっと、許してくれるだろう。
私はやはり、中途半端だったから。
世界が昏く沈む中、私はようやく楽になれた。
格子状結晶体のロジックは、今、ケイジを目指している。