「やってられないわよ、実際……」
彼女は呟きながら三杯目のグラスを空にした。
カウンターから差し出されたグラスに、彼は黙ってバーボンを注ぐ。
彼女は黄金色の波を暫く見つめていたが、今度は勢いよく煽る。
そんな彼女の姿を、彼は見て見ぬ振りをしていた。
誰もいない店の中で、二人の周りにだけほんの少しの白い明かりが点っていた。
彼女は高名な大学の教授となり。
彼は小さいながらも自分の城を構えていた。
夢を追い続けて立ち止まった時にだけ、彼女は彼の城を訪ねる。
そんな彼女の一夜の憂さ晴らしに、いつも彼は苦笑いで朝まで付き合っていた。
「誰もアタシの事なんて判ってくれないのよ……」
俯いてぼやきながら、彼女は五杯目を彼に要求した。
「呑みすぎだよ」
そう彼が呟くと。
「いいの、今日は酔うまで飲むの」
空のグラスを振っておどける彼女がいる。
彼は彼女とそのグラスを交互に見るが、今度は黙ってシェイカーを握った。
「これを呑んだら帰ったほうがいいよ」
白いクリームにチェリーが乗ったカクテルを彼が差し出す。
「つれないのね……」
彼女は、少し困った顔をしてカクテルに手を伸ばす。
このカウンターに隔てられた長さが二人の距離。
あと少しだけ指先を伸ばせば届く関係は、今日まで近づくことがなかった。
「甘いねこれ」
クリームを口の回りに付けたまま、笑って彼を見つめる。
「少しね、疲れているみたいだから」
彼が気遣いの言葉をかけると、彼女はちょっと照れたように微笑んだ。
淡い恋心を、大人になった今でも大事に仕舞っている二人。
お酒の苦さとクリームの甘さが、少し昔を思い出させた。
「キスでも……しよっか?」
いつかを思い出した彼女が彼を見ると。
彼は笑って、そのまま片付けを続けるために背を向けた。
空がやっと白む頃。
終わった彼が振り向くと、彼女は小さなまどろみの中にいた。
小さな寝息を立てている彼女の前には、食べかけのチェリーが乗ったカクテル。
彼は溜息をつくと飲みかけのグラスを手に取る。
「甘いや……」
チェリーを摘み口に入れ、残りを飲み干した彼が呟いた。
エンゼル・キス。
そんな名前のカクテル。
甘い天使の口づけは、彼女にどんな夢を見せているだろう。
もう一度彼女の寝顔を見つめた後、彼は最後のグラスを片付けた。
End