我侭とお願い
トタン、トタンと、緩やかな時間を引き連れて、動く城の主が階段を下りて来たのに一番最初に気付いたのは、やはりソフィーだった。
彼女は器用に黒いフライパンを揺すって黄金色のオムレツを半月型に整えながら、振り仰いで「おはよう、ハウル。」と朝の挨拶を口にする。
彼女の銀色の髪は大層朝の光のお気に入りのようで、それはきらきらと光の粒を遊ばせながら輝いていた。
足を止めてその煌きに目を奪われたハウルは、未だ眠気を追い払えていないと容易にしれる気だるげな仕草で黒い髪を無意識にかき上げている。
すっかり黒で定着した髪の色は、ソフィーの気紛れな一言でまた金髪に戻るに違いないと口の悪いカルシファーは考えている。
要するに自分の意思ではなく、ソフィーの意思こそがハウルの髪の色を決定しているのだと。
地蔵のように動かなくなったハウルを、マルクルが不安げな表情で見詰める。
「ハウルさん?どうしたんですか?何か気になり事でも?」
何を言われるのかと恐る恐る口にした質問にハウルは何も答えず、再びトタン、トタンと、階段を降り始めた。
彼が最後の一段を降り切った時には、ソフィーはふんわりと焼き上がったオムレツを皿に盛り付け、お腹を空かせたマルクルの前に置き終わっていた。
「ハウル、貴方今日は何を飲む?」
「ソフィーのお勧めで。」
ふわぁと欠伸を零しながらそれを隠そうともせず、ハウルは決まった席に腰を下ろした。
マルクルが手を伸ばしてハウルの前に取り皿を置き、ソフィーは水で冷やしておいたフレッシュなミルクをコップに注ぐ。
役割分担が決まっている食卓は驚く程準備が早かった。
「さ、頂きましょ?」
ソフィーとマルクルと、そしてテーブルの下のヒンは揃ってハウルの顔を見た。
集まった視線を受け、ハウルは自分の役割を果たす。
「うまし糧を!」
「「うまし糧!」」
そうして始まった朝の食卓は、何処にでも有る小さな幸せに溢れた素敵なモノだった。
「ねぇソフィー。僕はいつも不満に思っている事があるんだ。」
改めて向き直って真剣な表情のハウルに、ソフィーも思わず居住まいを正した。
ハウルは非常に馬鹿馬鹿しい問題も大仰にして騒ぎ立てる悪い癖を持っているが、その全てがそうとも限らない。
しかも本人は一大事と思っているので事を見極めるまではきちんと聞いてやらなければというのが、ソフィーが経験から学んだ大魔法使いの操縦法だ。
「君、朝起きるの早過ぎない?」
「そんな事ないと思うけど?」
「いいや、早過ぎるよ。夜明けを告げる小鳥よりも早起きだなんて、本当に困った人だねぇ。地平線に眠りに着く流れ星に挨拶でもしているのかい?」
「まぁ、ハウル。随分誌的な発想だけど、それは間違っているわよ。」
手元に引き寄せた珈琲カップの中をゆらゆら揺らしてソフィーは苦笑を零した。
答そのものが気に入らなかったのか、子供をあやすようなソフィーの言い方が気に入らなかったのか、ハウルの眉間は皺を刻んだ。
拗ねた表情も似合うわ、などとソフィーはこっそり考えていたけれど、上手に心の奥に隠して仕舞い込んだ。
「だって君と来たら一時だって僕の腕の中に留まるのはゴメンだと言わんばかりじゃないか。」
いささか乱暴に両肘を机の上に突くと、整った卵形の顔をその上に乗せる。
肩から零れ落ちた髪の房は白のシルクシャツに大層映えた。
「そんな風に言わないで。勿論貴方の腕の中は大層心地好くて私はいつも後ろ髪引かれる思いで起き出すのよ?」
「嘘が下手だね、僕のソフィーは。」
芝居掛かった口調で大袈裟に天を仰ぐと、ハウルはその薄い唇から溜息の塊を吐き出して見せた。
それがことんっと木の机の上に落ちる音が聞こえたのは、多分ハウルのちょっとした魔法の所為だ。
「僕は君の僕を想う気持ちを疑った事は無いけど、自分のソレと君のソレが色を異にする事は常々残念だと思ってる。ま、生い立ちや性別がその違いに関係している事は僕だって承知しているつもりだけど、それにしてもねぇ。」
ねぇ?とソフィーを悔しそうに見詰めるハウルにソフィーは答える言葉を見失って途方に暮れてしまう。
言いたい事は伝わるのだ。
つまり、そう。
――― 何故僕に甘えてくれないの?
こんな所だろうか?
「ハウル。朝は色々やりたい事がたくさんあって、どうしても時間が足りないの。貴方も朝起きて食べたいのに朝食が用意されてないだなんて事になったら嫌でしょう?」
「分かってないなぁ、ソフィーは。」
腕を伸ばしたハウルの指先がソフィーの前髪に届く。
そのままさらさらとソレを揺らして、ハウルは品良く笑みを浮かべた。
「朝食なら一緒に作れば良いんだ。洗濯だって皆でやれば良い。だから、朝ベッドの中で愛を囁くのも二人でやりたいんだけど。」
「あ・・イを、囁っ・・・」
慣れたと油断していると、時折とんでも無い爆弾を投下するハウルに、ソフィーは真っ赤になって口をぱくぱくさせた。
この浮世離れした美貌でそんな台詞を吐かれたら、元帽子屋の初心なソフィーは対抗する術も無い。
「目が醒めて、伸ばした腕の先にシーツの感触しか伝わらない侘しさを君は知っているのかい?」
「いや・・・あの。」
「朝一番最初に唇に触れるのが君の唇じゃなくて重苦しい溜息だという悲しい現実の重さを知っている?」
「・・・」
「ねぇ。今の幸せが夢の続きでは無い事を、君へのおはようのキスで確かめさせてはくれないの?」
完全にハウルのペースに嵌った、とソフィーは頭の片隅で悟った。
苦々しい重いではなく、なんだかくすぐったい気持ちと共にである。
我侭、と言うには可愛らしい願いに、胸の中心が温かくなるのを止められず、ソフィーは確りとその瞳を見詰め返して微笑んだ。
自分へと伸ばされていた指先を捕まえてそっと絡める。
「ハウル、聞いて頂戴。朝貴方の傍を抜け出して、家の事をする時間が如何に楽しいかを、貴方も知らないでしょう?」
とつとつと喋っていた魔法使いが口を閉ざして聞く体制に入った。
「貴方や、マルクルや、ヒンやおばーちゃんの為に、何か出来る事が嬉しいの。出来立ての朝食を美味しそうに食べてくれる貴方達の笑顔を見れるなら、私どんな早起きだって平気。きっとこの幸せは、そうね、母性から来るものなんでしょうね。」
「・・・母性、と言われると口出し出来ない気がするよ。」
「私とっても幸せなの。だから皆にその気持ちを伝えたいの。私は未だ未熟だし拙いから、馬鹿の一つ覚えみたいに皆にご飯を作る事しか出来ないけど、きっとその内他の方法も見付けるわ。そうしたら朝もお寝坊するようになるかもしれない。」
「ああ、君は時として無邪気に残酷だよね。そのいつか来るかもしれない時まで僕を待たせるんだから!」
「駄目?」
指先に力を込めてソフィーは小首を傾げた。
ハウルは言葉を喉に詰まらせてしまったように眉を寄せて、やがて瞳を瞬かせた。
「ああもう!絶望だ!僕のソフィーときたらこんな時だけ甘え上手なんだから!」
言葉とは裏腹に何かを吹っ切ったような清々しい笑みを浮かべて、ハウルは椅子を鳴らして席を立った。
長身の魔法使いの眼差しは優しく眼下の恋人の姿へと注がれている。
「早くソフィーが僕の慎ましい願いを叶えてくれる気になるのを待つとするよ。それまでは大人しく魔法の研究にでも精を出してお金でも稼ぐかな。」
「まぁ。珍しい事を言うのね。『お金を稼ぐ』だなんて所帯じみた事は嫌いじゃなかった?」
立ち上がったソフィーのからかうような言葉に、ハウルは堂々と胸を張って答えた。
「何を言うんだい、未来の奥さん。僕は今立派に所帯持ちなんだから当たり前の事だろう?それこそ僕の『幸せな皆の顔を見る』為の手段じゃないか!」
end