2007年10月・11月・12月


2007年12月31日

コミックマーケット73無事終了。

大晦日、当サークルブースにお越し頂きました紳士淑女各位にこの場を借りて御礼申し上げる。

今回は新刊ユニットの相方さんも売り子としてお手伝い頂けて感謝の極み。お陰様で無事イベント参加を終える事が出来た。

さて、当日は通路を挟んで真正面のサークルに大手のような行列が出来てしまい、一時はどうなるかと思ったが早い時間帯に列も裁けて事なきを得た。こんな人気サークルが何故壁でも誕生席でもない場所に配置されたのか不思議だがちょっと戸惑ってしまった。周りのサークルも吃驚していたのではなかったろうか。

ところで東4ホールでは告知した通り自分がカバーイラストを担当した『2007-2008 マンガ論争勃発』が頒布されていて結構売れていたようだ。著者の永山氏や担当編集の方とも会場でお会いして諸々お話する機会に恵まれた。

さて、昨今のオリジナル創作少年ジャンル付近は目立った混雑もなく、終始まったりとした雰囲気。お昼前後は若干混雑するのだが午後2時を回ると人がかなり引けてくる。が、一方で同人や仕事上で関り合いのある方が比較的多く訪れたりする時間帯でもあるから注意が必要だ。

しかし今回は売り子さんに自分のスペースを任せていたので、ついふらふらと40分ばかり自分のスペースを離れる。

「男性向け」ジャンルの所を散策して回るが結局一冊も買わず。これといった作品を見つけられなかったのもその理由だが、それよりもコミケットを己の創作発表の場と位置づけている自分が「買い手」に回るのに妙な抵抗感があって落ち着けない。結局自分のスペースが気になってすぐに戻ってしまうのだ。

今回は信頼出来る相方に任せたので安心感に甘えてしまい、この時間帯しばらく不在にしてしまったことを反省。あくまで「頒布する立場」で終始自分のスペース内に留まるのが賢明であった。

それはさておき、大晦日のイベント参加はなかなか難しいところである。大晦日から正月三が日まではまったりと過したいのだがコミケット参加となるとそうもいかない。

大晦日開催は出来るだけ避けて欲しいものである。

来年も宜しくの程を。


2007年12月29日

コミックマーケット諸々情報。

気が付くと、コミックマーケットが始まっていた。

この年末は商業原稿締め切りや、生活パターンのちょっとした変化で、従来こなしていた時間の配分が変わり戸惑う事も多し。

しかし変わるということもまた生きている証である。変化は生命の活性化を促す事でもあろう。

それはさておき、今回のコミックマーケットはいろいろある。

まず、先の日記でも御案内したが自分が表紙イラスト担当したマイクロマガジン社刊『2007-2008 マンガ論争勃発』がコミケット会場でも頒布される。

東4ホールガレリア側のスペースで扱っているようだ。

詳しくはコミケットカタログ1184ページに広告が出ている。この広告に使われているイラストは表紙図案ラフ絵の一つ。

またコミケ会場販売特典として著者の永山薫氏が限定コピー誌「マンガノクニノキキ」を製作された。詳しくは氏のブログに案内されている。

このコピー誌には広告にも載った表紙図案を含む候補作5点を紹介する「表紙図案コレクション」も載っているので是非コミケ会場でゲットして欲しい。

これは恐らく会期三日間頒布していると思われるので宜しくの程を。

またあびゅうきょサークルスペースは、31日(月曜)東4地区”ヤ”55aです。

新刊はこちら。

大晦日という日程ではあるけれど是非お越し下されば幸いです。


2007年12月25日

クリスマス礼拝

イブの夜、かつて自分が幼稚園の頃通っていたキリスト教会のクリスマス礼拝に出てみた。知り合いが興味を示してくれたのでこれを機会に足を運んでみる。

何十年ぶりだろうか?

イブに教会前でキャンドルサービスをしていたのは知っていたが、クリスマス礼拝を受けるのは本当に久しぶりであった。

この礼拝堂に入るのは2年くらい前だったか、この教会の付属幼稚園が閉園になる集い以来だ。

昔と比べ何もかも立派で、礼拝堂は言うに及ばずパイプオルガン、合唱隊、そして来訪者もハイレベルだ。

自分が幼稚園生の昭和40年代は、今と比べ何もかも粗末でぼろぼろであったが、唯一優っていたのは人々の数の多さと熱気であった。

子供もいっぱいで未来に向けての希望と言うか、放っておいても未来は来るんだという「安心感」があった。

でも今、クリスマス礼拝に訪れて思う事は、今は立派でもこれから先はどうなるのだろうという漠然な「不安」が漂うのである。

それはさておき、賛美歌や献金、牧師の説教は昔と変わらぬ進行で、どことなく身体が憶えていて自然に歌が出てくる。別にクリスチャンでもなく、正月になれば近くの神社に参拝する訳だから信仰もへったくれもないのだが、こういった厳かな場で自分をみつめ直すという意味では、クリスマス礼拝という場も悪くない。奇しくも自分の誕生日はクリスマス当日であるから尚更そう感じる。

最近、忘れかけていた「何か」を思い起こさせてくれる良い時間であった。これも同行した知り合いの発案であったから感謝である。

礼拝が終って退席中、幼馴染みと会う。彼も幼稚園の同期。未だ独身なのが気になる。

外に出て同行の知人とキャンドルサービスで夜の阿佐ヶ谷を歩く。

ロウソクの炎だけが揺らめき周りを照らす。

空を見上げると、フルムーンと火星。

キリスト生誕で三賢者を導いた夜もこんな情景だったのだろうか?

ロウソクの仄かな暖かさが心地よい。


2007年12月21日

看板

先日、秋葉原で先行販売されているマイクロマガジン社刊『2007-2008 マンガ論争勃発』立て看板パネルが秋葉原メロンブックスにあるのを知り合いが見つけ、携帯メールで届けてくれた。

けっこう大きく宣伝されているようだ。自分の描いたカバーイラストがこんなふうに書店に大きく飾られているのは妙な感じ。

まだ出版社から本が届いていないので現物を見ていないのだが、良い本に仕上がっているようだ。

いずれにしろ見つけてくれた友人に感謝。


2007年12月20日

鬱な青い発光ダイオード電飾と「男の沽券」。

年の瀬も深まってきて街は否応無しにクリスマスモード。

だがあの青いギラギラした発光ダイオードの電飾はどうにも陰鬱で気が滅入る。なにかやたらと輝度が強くて視神経から悪寒と恐怖の刺激が流入し、黄泉の国へと誘っているようでしんどい。

そんな気の滅入る年の瀬、先週だったかNHKテレビ「未来予測つながるテレビ@ヒューマン」とかいう番組で、サッカーのリフティングで細々と身を立てている40代独身男性の話題をやっていた。

この男性は若い頃からプロサッカー選手を目指していたそうだが、その夢は果たせぬまま挫折。しかしサッカー界から去る事をよしとせず、サッカーボールをリフティングし続けるという自分の「得意技」を活かしてなんとかサッカーの道を極めたいと日々精錬している。

家賃月2万5千円の安アパートに独り住みながらサッカーイベントの主催者にマメに自己アピールの葉書を出してイベントの前座で自分のリフティングを披露し日々暮しているそうだ。

司会者は彼に訪ねる。

「なぜサッカーにこだわるのですか?」

彼は答える。

「サッカー以外の事で生計を立てたらそれは自分の信念から逃げる事です。だからサッカーにこだわるのです」と。

40〜50代男性と言えば、普通年収700万円が相場で妻子を養ってこそ一人前のはずだ。

リフティングが得意とはいえそれは「サッカー」ではない。所詮彼はプロサッカー選手失格者に変わりはなかろう。単に自分の才能の無さをリフティングという自己欺瞞で補っているに過ぎない。

きっと彼にとってサッカーこそが「男の沽券」に拘わる事なのだ。

男は哀しい生き物でそんなプライドとか沽券に縋る事で生きる道を模索する。

辛くとも他に道はない。


2007年12月12日

書籍カバーイラストの仕事。

マイクロマガジン社刊『2007-2008 マンガ論争勃発』(12月30日発売)のカバーイラストを担当させて頂く。

書籍カバーイラストの仕事は初めてなので感激であった。この本の著者の一人である永山薫氏から御紹介を頂いて11月初旬に作画した。

企画段階で5案位のラフ画を描き、その中から一点を選んだ。決定稿のイラストも下書き段階まで女の子に「覚醒」と記された日の丸鉢巻きが描かれていたがペン入れ直前に削除の指示が入るなど、制作過程は結構シビアであった。なかなか構図などが決まらず編集部様には御迷惑をお掛けしてしまったがなんとか満足の行く作品に仕上がったと思う。

因に女の子の持っている突撃銃はstg44。

またコミックバーズ連載中の「影男シリーズ」の一場面もカバーに採用させて頂いた。ビッグサイト前で機動隊とデモ隊が対峙する場面の一コマである。

これからどんどんイラストの仕事も取り組んでいきたい。

マイクロマガジン社刊『2007-2008 マンガ論争勃発』

編・著 永山薫・昼間たかし

カバーイラスト/あびゅうきょ

協 力 コミックマーケット準備会
全国同人誌即売会連絡会
定 価 1,500円(本体1,429円+税5%)
発行日 2007/12/30

判型/頁数 A5判 /216ページ

12月14日から漫画専門店で先行発売されるようだしコミケカタログにも広告が載っているようだ。

宜しくの程を。


2007年12月9日

「ぼったくり詐欺機」ユーザーになる。

自分の加入していたNTTドコモPHSが来年1月にサービスを停止するということなので、致し方なくドコモショップまで行って携帯に変更する手続きをする。

もともと携帯電話など持つタイプの人間ではないが、いまや必要最小限のコミュニケーションツールとなってしまった以上、取りあえず持っていないと不都合が多い。これまで基本料月2000円弱のPHS(それも12年前の音声会話のみのタイプ)で十分だったので安いウィルコムの安心だフォンでも良かったのだがNTTドコモだとPHSユーザーには全機無料で交換するというサービスなので最新機種SO905iにすることに。

とにかく待ち受け専門でシンプルな使い方しかしないので基本料が月1890円の料金設定を申し込む。契約2年間縛りというがこっちはPHSを同じ機種で12年間使ってたんだから変更する気まったくなし。

ところが窓口の受付嬢が訳の解らない事を言って勝手にオプションを付けて値を釣り上げようとする。

iモードとか安心プランだとか保険云々だとかで最低でも2500円掛りそうなプランを強要してくる。

まるでオプションつけないと後悔するぞと言わんばかりの口調だ。

人に物を売る態度とはとても思えない。

頭に来たのでこう言ってやった。

「こっちは月に2〜3回電話するだけでいいんだ。メールもネット接続も音楽も必要ないんだって言ってるだろ!日本語わかんないのか!この電々公社海女!」

結局、オプション全部断って基本料1890円に抑えた。当然携帯メールも出来ないが電車の中で携帯いじくってる婦女子の真似はしたくないしこれでいいのだ。

こうして入手した905iなのだがiモード未加入なのでメールもネットもGPSも使えない。つまり90%近くの機能を全く放棄した「宝の持ち腐れ」携帯である。

高性能機なのに使うのは電話と時計のみ。最近は時計なんて便利なものも付いているのだな。なんかテレビやカメラも付いているようだがどうでもよい。

分厚いマニュアルも殆ど読まない。

なぜなら読んでも解らないし、使いたい機能もない。電話の着信と発信が解れば良い。電話帳も入力が面倒だしよく掛ける相手も2〜3人だから別にいらない。

それにしても携帯の料金プランの複雑さといったら訳が解らない。

携帯業者の受付は巧みな話術で利用者をだまくらかしてぼったくろうとアプローチしてくる。

もう完全に消費者金融のレベルだ。

こんな薄汚い売り方で入手した携帯だからいくらタダだったといっても気分が悪い。家に帰っていきなり布団の上に買ったばかりの携帯を投げ付けて「鬱陶しい代物だ!たかが電話のくせに偉そうに!」と怒鳴る。

これは携帯電話ではなく「ぼったくり詐欺機」と言ったほうが正解だろう。

だからますます「こんなもの使ってやるか!」という気持ちになるので電話以外絶対に使ってやらない。

こんな気分の悪い「買い物」は珍しい。

携帯もとい「ぼったくり詐欺機」を有り難そうに毎日使っている婦女子は携帯電話業者の「よいカモ」にされている事に気付いているのだろうか?

因に買ってから3日経つが掛ってきた電話1件。発信ゼロ。

やっぱりウィルコムの「安心だフォン」月900円弱にしときゃよかったかな?


2007年12月7日

クリスマススイートカレンダー

クリスマスの日めくりチョコ。

知り合いが12月25日まで一日づつ取り出すパッケージに入ったチョコレートセットを買ってきた。

中にはチョコやらキャンディーが入っていて「待ちどうしいクリスマス」をカウントダウン出来る仕組みだ。

子供のいる家庭やカップルには楽しめそうだが一人でやってると多分虚しくなる。

だからこれはロンリークリスマス独身男性には向いていない。もっとも美少女アニメフィギュアと楽しもうと思えば出来なくもない。

昔、20代初恋の頃、愛の告白よりワクワク動物ランドのほうを優先されたあの虚しい日々を思い出しつつ知り合いと食うこのチョコの味はほろ苦い。

クリスマスまであと半月。


2007年12月6日

汚いゴキブリ恋愛不愚者男

少し前、夕方の時間帯に『結婚できない男』というドラマの再放送が流されていた。

本放送の時もこの日記に感想を記した事があったが、このドラマで描かれている「結婚出来ない男」とは「出来ない」のではなく、「敢えてしようとしないだけ」の男である。阿部寛演ずる主人公はルックスも収入もステイタスもある設計士である。このような男性が本気で結婚を思い立てばいつでも可能であろう。

実際、ドラマ内でも周囲の女性から注目されていた。

今も昔も男にとって結婚の条件とはステイタスと収入であろう。それがない男は「クズ」同然だ。

「クズ」が何かの過ちで結婚など思い立てば必ず哀れで惨めな結果を招くのは容易に想像出来よう。

本当に「結婚出来ない男」の物語は悲惨だ。

しかし、端で観ている限りはとても滑稽で傑作であるから見物する分にはよい余興だろう。

無能な者が懸命になればなるほど滑稽で馬鹿馬鹿しく物笑いの種になる。

無能は何処までいっても無能であり、それを悟れぬ馬鹿は何回もその愚かさを繰り返す。

優れた男性は、何気ない行動でも異性を引き付ける魅力がある。だが無能な男は、すべての行為が異性から侮蔑と無視の対象とされる。

クズがクズと悟れない愚かな男は人生全てが愚かしい悲劇に彩られている。

もう随分と昔の話になるが、まだ20代そこそこの「初恋」の時、電話で初めて「愛の告白」をした時、彼女は私にこう言い放った。

「今、ワクワク動物ランドを観ているの!邪魔しないで」

彼女にとっては私の一世一代の愛の言葉よりテレビ番組の方が優っていたのである。

それがトラウマになって今でも「愛」という言葉を聞くと思わず失笑してしまう。だからたまにアニメやドラマで愛を連呼したりするシーンを観ると、画面に向って呟くのである。

「愛?笑わせるな。」

この初恋悲劇(というより喜劇)には続編があって、なんだかもう絶望的にふられそうになった時、最後の哀願とばかりにその彼女をデートに誘ったことがあった。

いつも以上に「御奉仕」(ジュースを買ってきてあげたりエスコートしたり)する私の姿を冷たい目で見ながら彼女はこう言った。

「まあ、いつもよりはよくやってるわね・・」

それはもう出来損ないの「気の毒」な身障者を見下すような生ゴミを見るような感覚に綴られた無感動な冷たい言葉の羅列であった。

愛は微塵もない。

その時、自分は悟ったのだ。

「嗚呼、ダメな男はいくら懸命に女のために尽くそうとも女性から見ればおぞましい気持ちの悪い汚物でしかないのだな」とね。

女性にとって恋愛不愚者の男性は汚いゴキブリ以外の何ものでもないのだ。

にも拘わらず、哀れに懸命に女性のためにお金と時間を注ぎ込む自らの姿は人生最大の屈辱でもあった。

ピエロは商売で「笑われる」役に徹するが、人生そのものが嘲笑される対象にされた時ほど惨めで哀れな存在はない。ピエロ以下である。

何一つ報われないエネルギーを貴重な人生の中で損失するだけだから。

実に傑作である!

それを今、ビデオで観れるのならば大笑いしながら自分の惨めな過去を思う存分嘲笑してやりたい。

「馬鹿な俺!彼女は腹ん中で笑ってるぞ。ぶざまなゴミ野郎ってな。早く気がつけよ。純情惨めボーイの糞俺!」

だからダメな男はダメな事を自覚して報われる事など一切期待しない人生を選択しなければならないのだ。

ネガティブこそが我が人生の進むべき方向であり期待も希望も一切捨てて絶望こそ喜びとしなければならない。

これが二十歳そこそこの自分が獲得した人生の悟りでもあった。

だから自分には愛の成就など笑止千万な戯れ言に過ぎない。故に我が人生の最も誇るべきは心の暗黒。その暗黒が漆黒の闇の中で黒々と輝く時に自分の存在が喜びに昇華するのだ。

そうだ!この痛みこそが喜びなのだ!とね。

時たま、同人イベント等で昔親密だった女性が旦那さんを連れて自分のスペースに遣ってくる時がある。

大体が電波系リストカットな子とか、妄想に駆られた精神不安定女子ばかりである。こっちも頭がイカレているからそんな危ない女子位しか接点がない。特に『エヴァンゲリオン』絡みの妄想女子とはシンクロ率が高かった。

だが所詮は恋愛不愚者同志だから遅かれ早かれ破綻もすぐだ。

そんな子が晴れて結婚し、旦那と連れ添っているのを見ると悔しい思いなど微塵もなく、あの不安定だった精神科通いのリストカット娘が取りあえず「幸せ」を手にした事にホッとするのである。

この自分がそもそも誰かを幸せに出来る力が微塵もないのだから、何処かの誰かに貰われて「めでたしめでたし」と思うだけ。少なくとも自分と居たんじゃ本当の気狂いになっていたはずだからね。

もっともこんな過酷なリアル社会で葛藤して生きていくに何ら価値のない自分がリアル社会で「幸せ」など願うほうがどうかしている。

自分にはこの世に対する報われないどろどろした下らない情念を無駄に燃やし続ける事が人生最大の目的であって、その大切な存在の拠り所を捨ててまで「リアル社会での幸せ」闘争に参加したいとは思わない。

何故ならば恋愛不愚者にとって勝算は限り無くゼロだからである。

勝てない勝負をするのは愚か者だ。

だからといって世を悟った世捨て人みたいに「人生の傍観者」として達観した賢者に至る訳でもなく、ただ中途半端に刹那に自暴自棄的に生きる自分に何の価値も見出せないまま歳だけが重なっていく。

そんな自分に酔う事すら馬鹿馬鹿しくなる時もある。

だがどうしようもないのだ。

ダメはダメと悟るしかないのだから。

『結婚できない男』を洒落で「結婚出来ない」とポーズしているのではなく、本当に「結婚出来ない」ゴミクズ男のドラマシナリオだったら幾らでも書けそうだ。

タイトルは「汚いゴキブリ恋愛不愚者男」。

しかしそんな仕事の依頼は来ない。

なぜならそんなものは誰も見たくないから。

ゴキブリみたいな不愚者がのたうちまわる様は御婦人には受けないか。


2007年12月5日

コミックマーケット73新刊案内

来る12/29〜31に開かれるコミックマーケットでの新刊の御案内をいたします。

タイトルは『おたまと影の変態記』

自分の分身でもある影男とおたまじゃくしくん(虚しくティッシュに放出された絶望男の自慰の精子)が激しく変態的に活躍する限定コピー誌を集大成した本である。

今回ユニットを組んだ同人作家の森野優樹さんが構成編集を担当。商業作品に忙しい私に代わって本腰を入れて製作して頂いた。

素早くデータ版下を仕上げていただける森野さんの集中力と手際の良さ、そして包み隠さず本音で勝負するセンスは素晴らしい。

お陰でいままでのあびゅうきょ自費出版にはない独特の本に仕上がった。

ページ数もかなり増えボリュームある本に。

是非コミックマーケットあびゅうきょスペースお越しの際は手に取って頂ければ幸いです。


2007年12月1日

『電脳コイル』終了。

NHK教育で放映されていた『電脳コイル』が最終回を迎えた。

ほぼ全話通しで観る事が出来たテレビシリーズは久しぶりか。

結論としては、人は成長過程において痛みを伴うものであり、それを恐れては大人に成れないという事であろうか。

「あっちの世界」で安住を貪ったとしても所詮「虚像」でしかない。生きるとは「痛み」なのだと。

なんとなくコミック版「ナウシカ」を彷彿とさせた。

自我の葛藤と心の痛みを電脳世界で癒す試みが「ナウシカ」においての「墓所」といえようか。

後半、やや説明的になってしまった感があったが、総じてクオリティーは高く満足のいく出来であった。

この作品を観るにあたり、ポータブルワンセグ機が役に立った。画面は小さいが音声はデジタルなので非常に音が良い。何処でも再生して見返す事が出来るので便利だった。


2007年11月28日

グレン・グールドのバッハピアノ曲が流れる部屋。

今までとは違う環境で原稿を執筆中。

以前、この日記で話題にしていた某阿佐ヶ谷BARに出没していた謎のバイオリニストが先日、元YMOの坂本龍一氏企画のクラシックコンサートに教授と共演していた番組をBS朝日で観る。

最近、お店で見かけなくなったと思ったら世界レベルのステージで活躍中だった。

時たまライブにお誘いを受けていたのだがなかなか都合がつかなかった。今度の12月のライブには見に行こうと思っている。

人は時と共に成長し、自分のステージを高めていく。人との関り合いなくして成長はあり得ない。

頭で考えていたらそれは机上の空論だ。

恐れを捨てて一歩踏み出す事。結果は自ずとついてくる。

今、目の前で私の創作活動をフォローして下さっている人のためにもその期待に応えよう。

いよいよ12月。あと今年も一ヶ月残すのみ。


2007年11月22日

火星の夜。

深々と冷える夜の街路を独り歩く。

見上げると東の空に赤い星が煌めく。

火星だ。

また地球に接近しつつある太陽系第4惑星火星。2003年の超大接近から4年半。2年2ヶ月ごとに最接近を繰り返す火星。4年前は8月真夏の夜にどんより輝いていたが今回は12月だ。

距離は2003年より若干遠いが澄み切った冬空に最接近するからむしろ今回の方が艶かしい。

そんな火星を見上げてこれから己の行く未来を思う。

「不安」と「恐怖」と名付けられた衛星を従えて天空に赤く燃えるこの惑星は、己の人生とシンクロして正に惑わされつつこの天空と我が人生を廻る。

赤き星は己の心に囁く。

「小さき者よ。その小さきお前が為すべき事は何なのか悟るべし。

お前の今その限られた力でお前の望むセカイの扉は開かない。

力なきものに未来はない。

全ては力だ。

悟ったはずの己の力の限界に宿命は挑戦し続ける。

「不安」と「恐怖」が己の力を試さんとお前を挑発する。

さあ!

お前はこの天空からの宿命闘争に抗う事は出来るか?

さあ!さあ!さあ!

今、お前は一番大切な存在を「忘れてきた」「逃げ出した」あの夜に再び戻ったのだ。

また忘れ物を取り戻さないで去るのか?

また逃げ出すのか?

迷うがよい!悩むがよい!苦しむがよい!

その壁を突き破る事が出来るのは己の力だけだ。

往くがよい。そして己の限界と闘争せよ。」

火星は戦いの神マルスの象徴でもある。

己の人生の闘争から誰も逃れる事は出来ない。

深々と冷える初冬の天空から強烈なる闘争の光が自分を容赦なく叱咤する。

己の最大の敵は己だ。

この弱き迷える小さき者にどうかお力を。


2007年11月18日

超遅刻。

コミティアに遅刻する。それも3時間(爆)。

前日まで疲れがたまってしまい、午前4時頃寝て爆睡。気が付くと午前11時半。

あわてて出発するも会場に着いたのは午後1時過ぎ。

自分のスペースは両脇のサークルさんに陣取られていた。

急いで店仕度するもピークを過ぎていたので売り上げも半分以下。

イベント前半にこちらのスペースにおこし頂いた方には大変申し訳ない。

同人イベントに参加するようになってから14年位経つが、こんな極端な遅刻は初めてであった。

開演ギリギリの遅刻は何回かあったし、郵便事故でスペースが取れなかったアクシデントや法事で午前中だけ知り合いに店番を頼んだことはあったが、こんな酷いイベント時間の半分以上を無駄にしてしまった事は初めてである。

引き蘢りがちの自分にとって同人イベントは貴重な交友の場であり、作品発表、営業、商談の場でもあって欠かす事の出来ない活動拠点。

それを大遅刻するとは何事か!

自分に喝を入れねばいけない。

しっかりせよ自分。今週の『電脳コイル』のダイチを見習え!

冬のコミケはこの分を取り戻すべく頑張りたい。


2007年11月17日

寒い季節到来。

いつしかストーブの必要な季節になってしまった。

ついこの間まで青々と茂っていた樹木が色付き始めている。時の流れは早い。

新たな急な仕事とかプライベートな事でこの10日間は非常に齷齪していた。

部屋に籠って普段通り悶々と妄想に耽った日々とは違う、異様にアクティブというかこれまで踏み込んだ事のない領域に歩みを進めたというか。

自費出版では久しぶりにユニットを組む相方の部屋に足繁く通い、版下作業しつつ商業誌原稿を平行に執筆するというハードな日々。

もっともハードといっても従来の自分の基準であって、ある程度忙しいクリエーターならこれ位は普通であろうレベル。

怠けた身体にはきついが同時に新鮮でもある。

どちらもうまく実を結んでほしいものだ。

明日はコミティア


2007年11月7日

「胡蝶之夢」

最近、妙に昔の実家の夢を見る。

おそらく30〜40年くらい前の映像だ。なぜそんな頃の情景が頻繁に夢に出て来るのか?

テレビでは映画『続・三丁目の夕日』のCMが頻繁に流れている。

そう、夢と同じ位昔の情景だ。

半世紀近く昔の昭和34年、自分が生まれた頃を描いた映画がこれ程人気を得て続編まで作られる情況が、自分の夢とシンクロしているかは解らぬ。

だが未来より過去に執着してしまう2007年の現状になにかしらの原因がある事は確かだろう。

未来より過去に夢を抱けるとは如何なる時代なのか?

この映画のCMが流れる度に妙な心のざわめきが起こる。なんというか、わくわく感というか丁度1978年頃、自分が学生時代にリバイバル上映されたキューブリックの『2001年宇宙の旅』を見た時と同じ感覚だ。21世紀初頭に実現するであろう宇宙ステーションの特撮画像と1950年代の特急こだま号のCG画像が自分の中でシンクロするのだ。

つまり、1978年に30年先の「未来」を描いた映画を見る感覚と2007年に50年近く前の「過去」を描いた映画を見る感覚とが同じなのである。

未来へのわくわく感がすでに実際の「未来」には存在せず、皮肉にも半世紀前の「過去」にその感覚が存在するとはどういう事なのだろう。

『2001年宇宙の旅』に描かれていたのは未来への夢のビジョンである。空想でしかないテクノロジーが暫く時間を経れば必ずや現実のモノとなる「希望」そのものだ。

それが今や過去にしか見出せなくなったとは。

そりゃそうだ。2007年の今、メディアの伝える現実には「未来への希望や夢」に属する項目は皆無に等しい。少子高齢化、非婚、人口減という状況下で謳われるのは年金とか環境とか身の回りの安全等という如何に変化のない生活を現状維持するかのみである。変化や革新は罪悪であり新しい発想は現状破壊の危険思想と糾弾される。果ては結婚や子育てすら罪悪の範疇として語られ始めた。

現状維持を謳う世界は同時に貧富の差を拡大させ、一部の者のみが富を独占する情況を看過させている。

富を独占した既得権者にとって庶民が「未来への希望や夢」を体現する事は自らの地位や財産を脅かされる事になる。

だから彼等はメディアを支配し、庶民から「未来への希望や夢」を取り上げたのだ。

そんな時代に未来を語れる余地はない。多くの者はただ先細りのフェードアウトするだけの絶望時代にひたすら耐えるだけ。

希望あるロマン溢れる夢など語れる筈もなかろう。

だからみんな「過去」に夢を見る事になる。

いや、もしかするとこの現実の2007年の方が1950年代に見た「夢」なのかもしれない。

それもこの上ない悪夢だ。

先日、伊集院光のラジオで「胡蝶之夢」を話題にしていた。

昔、ある老人が自分が蝶になった夢ばかり見ていた。余りにも頻繁に見るのでもしかすると自分こそが蝶の見ている夢ではなかろうかと。

それと同じで、この2007年という「現実」は実は1950年代に生きている者が「こんな21世紀になったら最悪だなあ。嗚呼イヤだイヤだ」と思いつつ毎日見ている「夢」なのかもしれない。

いつしかそんな「夢と現実」が逆転して悪夢の2007年が「現実」で、現実であった1950年代が「夢」に変換してしまったのではなかろうか?

そう。つまり、今、現実と思っている2007年のこの生活全ては半世紀前に生きている人の「悪夢」に過ぎないのではないか。

夢はいずれ醒めるものだ。

だからこの「悪夢」もそう長くは続かないかも知れない。

ふと目が醒めると窓の外には出来たばかりの東京タワーが聳えている。部屋には美しい妻と可愛い娘が。

娘は尋ねる。

「どうしたのお父さん?汗びっしょりよ」

父は言う。

「ああ。おぞましい21世紀の夢を見ていたんだ。希望も夢もない恐ろしい2007年をね。その時代、お父さんのような男性は結婚も子を設ける事もプライドある職に就ける事もなく惨めに恥を曝しているんだ。恐ろしかった」

それを聞いていた妻は言う。

「何を言っているの。お父さん。そんな未来が来る訳ないわ。見てあの東京タワー。50年後の東京にはもっと夢と希望が溢れた素晴らしい時代になるわ。この娘が大人になってその息子と娘は月と火星に行っているわよ」

それを聞いた父親は呟く。碇ゲンドウのように。

「そうか。そうだったな」

この悪夢はもうすぐ終る。いや、終らなければいけない。こんなのが現実の2007年の筈がないのだ。

『三丁目の夕日』の時に半世紀先を夢見た「真の現実」がきっと何処かに存在しているはずだ。その「真の現実」に至るためにはこの「悪夢」から醒めなければいけない。

さあ!起きてくれ!1959年の「現実」の君!

もうこんな「悪夢」を見るのはよそう!

聞いているのか!君!

先日、月探査船『かぐや』から月面のハイビジョン動画が送られてきた。

もし「真の現実」の2007年であったならば、全てのメディアが速報しトップニュースで時間全てを使って大々的に報道するだろう。新聞も号外が飛び交い、一面ブチヌキでこのハイビジョン画像が紙面を踊ったろう。

アポロ11号当時のように。

人々は興奮し、我が国の偉業を讃えよう。そして子供達はそんな国に生まれた事に誇りを持って未来にロマンと夢を抱く事ができる。

そう!『三丁目の夕日』に描かれた人々と同じように熱く己と己の家族、国を語る事が出来るのだ。未来を夢見る事が出来るのだ。

これが真実の2007年でなくして何が21世紀だ!

だがこの偽りの「悪夢」2007年においては『かぐや』の偉業は人々に伝えられる事はない。

メディアは現状の既得権と世俗の戯れ言だけに終始しひたすら「未来への希望」を抹殺しつづける。

人々は『かぐや』が伝える脅威の月面映像を知る事すらなく、日々の絶望に埋もれ続けるのだ。

「胡蝶之夢」

ぼくらはこの「悪夢」の中でいずれ朽ち果て死んで逝くのだろうか?

半世紀前の自分自身の夢の中に閉じられた「偽りの現実」。

悪夢よ。醒めよ。


2007年11月4日

入間航空祭

3日、今年も例によって入間基地祭に足を運ぶ。もはや初詣と同じく、自分の中では季節折々の年中行事みたいなものになりつつある。

今年は土日連休の初日とあっていつもの年より来場者が多い感じ。

大抵は一人で行くのだが今年は珍しく連れがいたので滑走路際に釈迦利器になってかぶり付く事を止めて、エプロン奥でまったりと過す。

午前中は雲が多く寒かったのだが、午後から晴れ始めた。陽射しが妙に暑く感じられるのは11月になったとはいえまだ暖気が冷め止まぬ夏の余韻があるのだろうか?

かといって日陰に行くと寒い。なんだかこの上なく中途半端な気候である。日陰と日向の中間ぐらいがちょうどよい。

お昼近くになるとますます来場者は増えて、どうやら22万5千人が押し寄せたとか。自分の居たところは南の端だったのでそれほどでもなかったがさすがに首都圏のアクセスのよい基地だけあっていつもながら吃驚する。

これだけの人が押し寄せるのは、無論入場無料ということもあろうが、航空祭という「非日常」な休日を味わえるという部分が大きいのだろう。軍用機を目の前でそれも超低空アクロバット飛行など、首都圏では入間基地で一年に一回限りである。

ブルーインパルスの曲芸飛行を観て無邪気に歓声を上げる子供も多く、考えてみるとこのような体験出来る機会は近年諸々の事情で少なくなっている訳で、ある意味貴重でもあろう。

それはさておき、航空機の展示飛行もよいのだが、まったりと家族連れの様子を眺めるのも一興。家で作ってきたであろうおにぎりを小さい女の子が頬張る光景は微笑ましい。「一家揃って」という「サザエさん」的シチュエーションすら「展示」の対象になりつつあるのか? レジャーシート等は原則持ち込みは禁止なのだがこの位は許容範囲か?

ただ大人数でバーベキュー擬を始める集団もあると聞くと流石に如何なものかと思う事もある。脚立然りいろいろと問題はあるが、様々な人が航空祭には遣ってくる訳であまり規制を厳しくするのも面白くなかろう。

一方で寂しい初老の単独男性の姿も多くなんとも複雑だ。いずれ航空ファンの独身男性も歳を取ってよぼよぼになりつつも航空祭に足を運ぶのだろうか?そうなるとここに来る事が取りあえず無病息災の証になるのかも知れない。

今回は珍しく米軍のFA18 が来ていて帰投時に派手な離陸を見せていた。

厚木の航空祭が無くなってしまったからこういった米軍のアクロは久しぶりに見た。

それにしても16時過ぎの帰投時までまったり過ごせるのは入間基地ならでは。どんなに遅くなっても幾らでも電車はある。それも基地内の駅から自宅まで往復運賃500円ちょっと。時間も一時間程で帰れてしまうのだからこんな快適な所はない。会場で買い物しなければ500円前後で片付いてしまう。

入間と百里を比べたら近所の散歩と秘境探検の差位あろうか。アクセスに掛るエネルギーの差が極端である。

来年は入間基地50周年だとか。

期待しよう。


2007年10月31日

プロ野球の末路。

昨日、伊集院光のラジオを聴いていたら、数十年来のひいきチームが日本シリーズに出たのにあまり嬉しくないというトークがあって何となく納得したりする。

自分もプロ野球に熱を入れていたのは1970年代半ばから80年代半ば位まで。

巨人V9時代が終ってセ・リーグは群雄割拠状態。パ・リーグも新興チーム西武が台頭してなかなか面白かった。

学生時代だったので学友も各々ひいきチームを持って論争に花開いた。

それからもう20年以上経ったのか?

フリーエージェント制が導入されてチームに貢献するよりも選手個人が如何に好条件でプレー出来るかばかりにメディアの関心が向いて以来、もうプロ野球には愛想を尽かしてしまった。

更にプロ野球はテレビを通して観るものだからテレビがプロ野球を偏狭なフィルターで視聴者に提供するようになってからは、本当につまらない代物に堕ちてしまった。

脚光を浴びるのは一部のスター選手だけ。チームを語る構成は殆どない。

だから視聴率は落ちて、挙げ句リーグ優勝決定試合すら何処の放送局も放映しないという自分の世代では「考えられない」事態が起こっている。

一方で大リーグ中継は観たいとも思わない。

大リーグでの日本選手の活躍のどこが面白いのだ?

縁も所縁もないアメリカのチーム。応援する根拠もなくただ日本選手が登場するところだけを映してどうのこうの言われても知った事ではない。

ゴルフやテニスの個人競技ならまだしも、団体競技の野球でナインの一人でしかない日本選手を観たところでどうだというのだ?

コロラドだろうがボストンだろうがそんなチーム知らん。それにシーズン中に平気でチームを渡り歩いたりする選手がいる。こんなんで本気でひいきチームを応援出来るだろうか?

よって大リーグの何が面白いのかさっぱり解らない。

一方で日本プロ野球も大リーグに影響されてか、クライマックスシリーズとかペナントレースで2位3位のチームも成績次第で日本シリーズに出られるとか訳が解らない。

クライマックスをいくつも繋げるというのは派手なシーンばかりで内容が軽薄なハリウッドアクション映画を彷彿とさせる。

事実、今回の日本シリーズもなんだか絞まらない。

伊集院もラジオで言っていたがチームの監督や球団のマネージャーが日本シリーズ前に次の移籍チームのユニホームに袖を入れるとは何事か?

もしそれが日本シリーズの対戦相手だったらどうするのだろう?

金を払って真面目に観ている方が馬鹿馬鹿しくなろう。

最近の試合の傾向も競るシーンが少なく一方的で、負けている方も差程悔しがっているようには思えない。

こうなるともう、プロ野球はスポーツとして人々を熱狂させる事は無理な競技になりつつあるのか?

グローバリズムの弊害はここにも起こっている。

いずれは日本プロ野球は大リーグに吸収され、場末の草野球と差程変わらぬ存在となろう。

大リーグが日本の選手を受け入れたのは戦力が欲しいのではなくジャパンマネーが欲しいだけだろう。放映権でおそらくかなり潤ったであろうが日本選手の活躍など実際は関心ないのだ。

視聴率が取れなければお払い箱。

いずれ大リーグ活躍の日本選手という構図も飽きられれば再び大リーグから日本人選手は相手にされなくなる。

結果、残ったのは崩壊した日本プロ野球と行き場を無くしたプロ選手や野球少年達。

いや、もう野球を志す少年などいなくなるかもしれない。

結局、野球もグローバリズムの食い物にされて日本から消え去っていくのだ。

合掌。


2007年10月30日

赤福と同人誌規制

最近、やたら食品衛生に関するニュースが多い。

だがよくよく視点を変えて凝視してみると、摘発される企業は殆ど同族とか老舗の会社である。「ミートホープ」然り「白い恋人」「不二家」「赤福」然り。

食品だけではない。「NOVA」然り「西武」然り。

決して世界展開しているグローバル企業が摘発の対象になることはない。

それはなぜか?

実はこのような事件報道が「食や市民の安全」を目的としたものではないからであろう。

つまり同じ食品を扱う企業がどうして独立老舗系だけ摘発を受け、グローバル企業はスルーなのかを突き詰めればこのようなキャンペーンの真の目的が何処にあるか自ずと解ろう。

そう、これらの事件はすなわち古典的、独創的固有文化に対する殲滅工作に他ならないからである。

最近、俄に騒がれている成人向け同人誌イベント規制児童ポルノの総理府世論調査等のニュースもまた「食」の安全に関する報道とリンクしていると考えて良かろう。

「食」と同じく「子供」や「女性」の安全を口実に、日本固有の独創的風俗文化の殲滅こそがこれらの報道を裏で操る者の本当の目的と考えるのが最も合理的だ。

世界覇権を企むあらいる欧米中華グローバル勢力にとって、日本の独創的固有文化風俗は自らの覇権野望の障害となる「敵」以外の何者でもなかろう。

だからこそあらいる手段を講じてこれらの「障害」を潰す事に躍起になっている。

そこで彼等は「食」や「子供、女性」の安全という公共秩序の維持に不可欠な事案を弾圧の口実として画策したのだ。

莫大な資金を背景に行政機関やメディアを懐柔、買収し警察権力を以て弾圧一掃するという手順だ。

その結果、彼等はあらいる分野から独創固有文化風俗を殲滅する合法的手段を得た。そして日本人全てを彼等の奴隷にするという策謀が完成するのである。

遅かれ早かれ、古来日本で培われてきた食文化、農業、手工業、更にはアニメコミックゲームという日本独自のサブカルチャーは根絶やしにされる運命だろう。

同人誌文化などその策謀の前に何一つ抵抗は出来まい。

同人誌に携わる者が日本にどれだけいるか正確な人数は解らない。

同人誌で生計を立てている者は僅かだろうが、同人誌印刷やイベント等で潤おう関連事業者達の数は無視出来ないだろう。

それよりも同人誌によって己の存在の拠り所を見つけた若者の数は、恐らくかなりの数に上ろう。自発的コミュニティーとしては国内でも有数な勢力を誇っていることは間違いない。

だが覇権グローバル勢力の策謀によって捏造立案された「児童ポルノ法」「子供の安全」等の「錦の旗」の前では同人誌文化が生き残れる手立ては少ない。

「鶴の一声」でそれに関るあらいる者は司直の手に掛り摘発逮捕されるだろう。誰も守りはしない。

世間は簡単にメディアに騙されるから同人誌イコール「児童ポルノの巣窟」「性犯罪者集団」と決めつけその摘発に諸手を上げて歓迎するだろう。

その結果いかなる同人誌活動も違法となり、制作執筆頒布はおろか単純所持すら摘発の対象となる。

焚書すら許可されよう。『華氏451』が現実のものとなるのだ。

同人誌文化の崩壊は同時に日本のアミューズメント文化を担った若者層の崩壊であり、その産業の完全破滅を意味する。日本固有の「秋葉系文化」はこうして日本社会から一掃されて姿を消す。

その結果「クールジャパン」も夢と消えよう。

浮世絵が辿った道と同じように。

少しでも同人誌に関っている者ならば危機感を感じた方がよかろう。

「赤福」報道は他人事ではない。明日にでも弾圧策謀の鉾先が自分たちに向けられる覚悟をしておいたほうがよい。

日本社会は既にマイノリティーを潰す事により、それを生け贄として生き残る道を選択した。

生け贄の対象にされない者はこの日本には僅かしかいない。

外資華僑系のそれもかなりの高い地位にいる者か、あるいはその従順な奴隷に成り下がる以外、生き残る術はない。尤もそんな奴隷家畜並みの扱いをされてまで生きたいと思うかは別だが。

思想信条文化も全てグローバリズムに組み込まれ、それ以外は全て異端として弾圧される運命だ。

全世界で吹き荒れる反グローバル運動は、おそらくこれらと同じ危機感とリンクしているのだろう。

いずれにせよ、同人誌や秋葉系文化は最も恰好なグローバイズムの生け贄としてターゲットスコープの真ん中に狙われている事を覚悟すべきだ。

明日にでも摘発の嵐に曝され、数十万の「秋葉系」が一日にして逮捕される可能性があるのだ。

結果、秋葉系は闘って死ぬか奴隷として死ぬかの選択に迫られるのは必至である。

勝利か死か。

そう!歴史やゲームの中でしか体験出来なかったこのスローガンが生身の自分に突き付けられるのである!

キリスタン弾圧のごとくヲタクアニメ美少女の踏み絵を強要され、『時計仕掛けのオレンジ』みたいに瞬き出来ぬように工作された椅子でディズニー映画で洗脳される儀式に耐え、生涯萌絵を断ち奴隷として死ぬか、さもなくば、秋葉系戦士としてヲタクに殉じ反グローバリズム闘争で自爆するか?

いよいよ仮装現実ではない本物の「現実」でファイナルファンタジーが味わえるのだ。

勝利か死か。

勇者として死ねるかね。秋葉系の諸君!


2007年10月29日

『たけしの日本教育白書』

先週民放テレビで『たけしの日本教育白書』なるメディアの「自己批判」のような番組をやっていた。

有名芸人やコメンテーターが出てきて、昨今のマスコミ報道のありかたなんかを生放送でディスカッションしていたのだが、まあそもそも「スポンサー様の御好意」で制作されている番組内で民放の成立根拠を覆すような発言など出来る訳でもなく、結局の所

「視聴者も面白がって観ているじゃないか?だから俺達は悪くない。悪いのは視聴者だ!」

みたいなオチでまとめていたのが何とも滑稽だった。

生放送だから突飛な発言も期待していたのだが、結局メディアの中で糧を得ている人達が、その場を追放される様な事を発言するはずもない。

よってこれは最初から茶番劇でしかないのだ。

楽屋落ちのお笑いやカツラネタ中傷でお茶を濁す一方で中途半端に半世紀以上前のヒ素ミルク中毒事件を持ち出して聖人君子面されるのは観ていて不快でもあった。

明日死んでも良いという覚悟がある人でないと、本当のディスカッションはテレビでは成立しない。

だから売れっ子ではダメなのだ。

テレビに出る事で生活が潤おう者がメディアを批判出来る訳がなかろう。

だからもしこの企画で世に問いたいならば、明日どうなるか解らない売れない芸人や自殺願望の自称役者、テロリスト、革命家を出演者として呼ばねばならない。

失うものが何もなく自分の志に殉じる覚悟あればこそ言える事があるのだ。

だからたとえばスタジオ内で「メディア天誅!」と叫んで自爆する者が居たってよい。銃を乱射したりして命を張ってメディア批判をしないと本当の批判番組は成立しないだろう。

警察が突入して出演者と銃撃戦になれば尚すばらしい。

スタッフや出演者の半数が死亡するとか自爆するとかでなければ、視聴者に真実を伝える事は出来ない。

それが出来ないテレビに何の価値もなかろう。視聴者は本物を求めているのだから。

いっそ胡散臭い「自己批判」番組など止めて『たけしのテレビは神だ!我を信じなさい!テレビ聖書』というのを作ったらどうだろう。

自称聖徳太子やイエス・キリストをスタジオに呼んで如何にマスコミは正しくて神の中間管理職であるかを力説するのだ。

こっちのほうが面白そう。


2007年10月26日

SFの墓場。

1週間位前になるがNHK教育「ETV特集」で日本のSF史を洞察するみたいな番組をやっていた。

題して「21世紀を夢見た人々〜日本SFの50年」

小松左京を代表とする「SF作家クラブ」が出来ておよそ45年。現代の「ヲタク」文化の源流を1960年代SF文学に探るというような主旨。番組に使われたBGMもトミタのシンセサイザー曲で、丁度自分が小松左京に傾倒した時期と合致してなかなか興味深い内容だった。

1960年から1970年代半ば位までは、いわいるサイエンスフィクションといわれたSFと現実の世相が共鳴し合った時代でもあった。

先進的科学技術が猛烈なる勢いで実践、実用化されたあの時代。米ソ冷戦下宇宙開発競争も相まって科学技術は常に世相の最先端を走っていた。

当時のメディアは率先して宇宙開発や原子力に関するニュースを大きく取り上げ、21世紀がバラ色の未来で約束されていると人々を駆り立てた。

実際、日進月歩の科学技術の発達は文学にも影響を与えてSFもまた純文学にも劣らぬ市民権を確立していたようにも思えた。

そう!当時SFは未来への先導者であって、また予言の書でもあり得た。

SFに描かれる科学的予測は必ず近い将来に現実化するものであると人々は信じて疑わず、また当時は本当に現実化していったのだ。SFと相まって「未来学」も盛んに論じられたのも頷ける。

この自分も1970年代半ば、小松左京に傾倒し貪るように生頼範義カバー絵の「ハヤカワSF文庫」を読み漁ったものだ。

現実とSFの境界は曖昧でサイエンスフィクションは現実のわずか先を行く「未来予想図」として男のロマンをかきたてた。

そう。「SF作家クラブ」が設立された1960年代は現実と科学的ロマンがシンクロし得た時代だったのである。

ロマンは絵空事ではなかった。

空想がすぐに現実化出来る夢が常に息づいていた。

なにせ人間はこの時代、本当に他の天体に足を踏み入れたのだから。

1960〜70年代はSFが未来を構築創造出来た時代だったのだ。

それから45年。

少子高齢化、非婚化によって人口減まで始まるというSFでいえば最悪の未来予想が「現実」となった今、もはや将来が科学的空想によって構築されるとは誰も思っていない。

科学が未来を導くという発想は廃れ、それどころか未来を語る事すら人々は放棄し始めた。そんな時代、空想は妄想となり、科学は危険で無駄な思想に成り下がってしまった。

現に日本の月探査衛星が今、月軌道上にあるというのにメディアは何一つ伝えない。

SFが予言し導いた科学的進歩における宇宙開発は、もはや現実に何の影響も齎さなくなった。

月探査衛星の活躍よりも電車内の痴漢のほうが一大事として伝えられるのだからね。

痴漢取り締まりや食品の賞味期限やチンピラの喧嘩が月探査より優先される時代になると誰が予想したろうか!!

SFと現実が大きく乖離し始めた今、もはやSFは現実に何ら影響を与える事のないただの「妄言」に堕ちてしまったのだ。

現実との関りを断絶せざるおえなくなったSFは怪奇や魔法やミステリーや宗教等の如何わしい似非科学のごった煮に放り込まれ「未来への先導者」としての地位は奪われてしまった。現代、もはやSFは単なる大衆娯楽の一アイテムに過ぎない。

そこにはもうロマンは一欠片も残ってはいない。

この番組では、1960年代に始まったSF文学ムーブメントが、現代の秋葉系サブカルチャーの源流であるみたいな結論を見い出しているが、それは同時にこの日本が45年間に如何に哀れな末路を辿ったかという証でもある。

夢の21世紀を導いたはずのSFが現実の21世紀には、絶望独身男性の妄想聖都である秋葉原で仮装現実の慰み物に堕ちてしまったのだ。

1960年代「発展途上の時代」に21世紀という「都」を目指し輝かしき未来への先導者だった「自由の女神」たるSFが、実際その「都」に到達してみたら哀れにも女郎屋に放り込まれ売春婦にされてしまったとのごとくね。

この番組では栗山千明というタレントが秋葉原を徘徊して『新世紀エヴァンゲリオン』を語ったりするのだが、『エヴァ』という作品が何を象徴していたかを考えればSFがもはや未来への希望とか創造性とは正反対のベクトルへ向ってしまったことをよく象徴している。

果ては『涼宮ハルヒ』である。

もし日本SF文学の行き着くところが『鈴宮ハルヒ』であったのならば、全ての科学的事象は頭のおかしい気狂い女子高生の妄言と悪夢だということになろう。

つまり「夢落ち」。

なんということだろう。

つまりこの45年間がすべて気狂いヤンデレ女の妄想「夢落ち」だというのか。

そんな結論だったら45年間の小松左京や筒井康隆の「偉業」はどうなってしまうのだ?

かつてSFは人類をバラ色の21世紀へ導く「道標」であったはずだ。

だが現実の21世紀、SFはただの気狂い女の「毒電波妄想」となれ果てた。

そして哀れな「秋葉系」の玩具として場末の秋葉原で終焉を迎えようとしている。

SFの墓場、秋葉原。

1960年代、もしこのような21世紀を予言した近未来作品『SF墓場アキハバラ』を執筆して「SFマガジン」に投稿しても100%没であろう。

現実の21世紀は、そんな読むに値しない駄作SF並みだったということか。

恐ろしい。


2007年10月21日

大学30年生。

もう6年ぶりになるだろうか?久しぶりに八王子郊外にある出身大学の学園祭に出掛けてみる。

大学周辺は最近旧友と散策したり写真を撮ったりとお馴染みなのだが、学園祭自体は御無沙汰だった。

天候に恵まれた日曜日。前回学園祭に出掛けた時はまだ団塊Jr.が大学生中心であった頃で吃驚する程の人込みだったが、今回は小子化の影響か人出もそれほどではない。

もはや卒業から25年を経ているから、郷愁とか思い出とか、自分が現役だった頃と結び付ける記憶は残滓すら感じない。

同じ場所、同じ校舎でも現役学生の姿はもう全くの異質な存在だった。

考えてもみよ。自分が現役だった頃にはこの学生達はこの世に生まれてすらいなかったのだ。現役当時の1980年はハマトラファッション聖子ちゃんカット全盛期。

かつてこの大学を凌駕していた体育会系学生の姿は何処にも見られず、闊歩しているのは細っこいオシャレな男子学生と厚化粧のケバい安っぽそうな女子学生でいっぱい。なんかみんなちょっとでも触れたら切れそうな雰囲気を漂わせているので凄く警戒する。

親しみはおろか、怖ささえ感じる程異質な現役学生に吃驚はするが、当然ながら25年も経た情況を考えればこのくらいの変化は当然でもあろう。なにせ親子程も離れた世代なのだから。

そもそも卒業から25年も経って母校の学園祭に足を運んでいる方が異質かもしれぬ。

大抵の人間は特別な事がない限り四半世紀も経た出身校の学園祭に訪れる理由などないのだ。

にも拘らず自分は此所にいる。

そんな気恥ずかしい気分を抱えながら自分の在籍していた漫画研究会の展示教室を覗いてみる。

内容はイラスト展示と落書き程度のコピー誌があったのみ。

展示されているイラストはお世辞にもレベルが高いとは言えない。10年位前までは一人や二人、結構上手い作品を描く部員が混じっていたものだったが、どうもそんな感じでもない。今時ならCGもあってよいのだがそれすら見受けない。

オフセット機関誌は売り切れたのか元々発行していなかったのか定かでなかったが頒布もしておらず、既刊が展示されていたのみ。でも自分らが現役の時に創刊した機関誌のタイトルがそのまま使われており、それが60巻を超えているのを見た時は何だが感慨深い。

キャッキャとはしゃいでいる現役部員は、まあ秋葉系に近いタイプでいつの時代にも変わらぬ雰囲気。しかし自分が現役当時の1980年前後と比べれはスタイルも良くてオシャレで小綺麗。

世代は変わっても学漫という青臭いサロンでの戯れ言を楽しむ情況は変わっていないようだ。

しかしこれが人生においては最も輝く季節なのである。

もしかすると、そんな季節を再確認したいが故に25年経っても己の潜在意識が此処に足を運ばせるのかもしれぬ。

まさに惨じめでみっともない行動であろう。

大学卒業して25年経ったのならばむしろ自らの息子娘を親の立場から経験させるべき「大学生活」。それを初老に掛らんとしている己自ら「再体験」を試みるなどとは何たる「人生の敗北者」か?

まるで牛の反芻である。

曾ては甘い郷愁が漂った出身校の学園祭も今では己の恥の人生を再確認するための場となってしまった。

午後4時、人影疎らになった学内を散策する。

校舎のある多摩丘陵からは遠く都心や関東山地が見渡せる。新しい建物やモノレールが増えたものの全体のパノラマは25年前とさほど変わっていない。

おそらく自分はこの風景が好きなのだろう。

その想いが25年経っても此処に足を運ばせるのだと。恐らく都心の大学に通っていたらこんな感覚は残らずあっさりと出身校の事など忘れていたろう。

ふと誰かが自分の名を呼んだ気がする。

しかしこんな場に知り合いがいるとも思えぬ。

そうだ、これは25年前からの掛け声だ。

時空を超えて誰かが自分を呼んだのだ。こんなふうに。

「25年も経って、お前そんなとこでなにやってるんだ?

同級生はもう結婚して息子娘は二十歳を超えてるぞ。

お前、大学30年生だろ。

何を学んでいるんだ?人生の儚さか?

そろそろ卒業しろよ。

白髪混じりの大学生なんてみっともないぞ」

そんな幻聴が聴こえて、とっさに自分は頭を抱えてギャアアと叫んだ。

そして一目散に大学のある丘を駆け降りてモノレールの駅へと逃走する。

大学30年生か。もはや今更どうする事も出来まい。

恐らく死ぬまで大学の敷地でこの永遠の黄昏パノラマを眺めつつ朽ち果てるのであろう。それが己の人生の宿命か。

大学70年生まで頑張れ。自分。


2007年10月14日

気狂い世界

今更世の中がおかしいと嘆いたところでどうなるものでもないし、おかしいのはお互い様なのかもしれないけれど、テレビなど観ていると気狂いじみた戯れ事に必死になっている人達を観てこれはさすがに世も末というか滑稽に思える程気狂いが多いのだなあと思ってしまう。

自分は一切関心なかったし、まさか世の中も真面目に観ているとは思えなかった下町未成年不良の殴り合いごっこを、事もあろうに大の大人が真面目に恰もスポーツであるかのごとく論じあっているをテレビで観た時、ああこの世界って自分はお呼びでないんだなと改めて認識するのである。

そんなことは別に今に始まった事ではないし、世間と自分とのズレは遠の昔から著しくズレていたのは先刻承知してはいたのだが、あの戯れ言を政治家までが真面目に語っているのを観て、こりゃもう致命的にこの世界とは付き合い切れないと激しく思うのである。

相入れぬ世間に迎合する必要もないのだし、世間に背を向けたからといって世界は変わる筈もないのだが、こんな汚物まがいのモノがが大々的に報じられる時代に生きてる自分とは一体なんなのだと激しく疑問に感じるのだ。

そんな折、なんとなくツケっぱなしのテレビから参議院の予算委員会質議の生中継が流れていて、野党の議員が突如「テレビから流れてくるはずのない」類の質議を始めた。

政治と宗教にまつわる議題で、誰もがおかしな事と思っているがメディアでは誰も口にする事はしない「タブー」に、その議員は挑戦していたのだ。

正論かどうかはともかくも、テレビから「本音の論争」を聴くのは本当に久しぶりだったので思わず釘付けになった。

国会ですらどうでもよい建前論の形骸化した下らない論争に終始する茶番の場に堕ちていたから、この議員の質議は強烈に新鮮であった。

結局の所、この質議もいつのまにか「なかったかのように」与党と委員会の恣意的議事進行によってあっさりと終ってしまった。無論この質議の件もその後のニュースでは全く取り上げられる事もなかった。

この事例に限らずジェンダーフリー、男女共同参画という「文化大革命」下に置かれた日本では、全ての世相、報道、政策が歪んだ偽善にねじ曲げられてその「文化大革命」に準ずる事象以外のモノは尽く抹殺される。

そんな世の中ではテレビに真実は存在し得ない。この気狂いじみた「文化大革命」に逆らう者は尽く犯罪者として断罪される。どんな些細な馬鹿げた事でも「反革命分子」としてメディアに吊るし上げられる。痴漢、セクハラ、女子供の些細な事件事故等というどうでもよいような事例がまるで重大犯罪のようにトップで報道される様は、まさに「気狂い世界」を象徴する現象なのだ。

婦女子と餓鬼とチンピラが主役とはとんでもない「イカレタ」時代になったものだ。

この「気狂い世界」に「まともな」人間が生きていく事は極めて困難だろう。

気狂いが気狂いを呼ぶまさに気狂いキチガイKICHIGAI世界2007。

時々、深夜やBSで流れる昭和30年代〜40年代の映像を観て、もはや「真実」は過去にしかないのではないかという錯覚に捕われる。無論その時代が理想や真理に溢れていた訳でも何でもない。しかしそんな発展途上の時代すら「マトモ」に思えてしまう程、現代は歪んで狂った闇に堕ちている。

「気狂い世界2007」

最近感じる目眩も、もしかすると病理的なものではなくて、この時代に満ちあふれた気狂い電波に自分の脳髄が犯された結果なのかも知れない。

気狂い世界恐ろしい。


2007年10月11日

目眩。

先日明け方、寝床で寝返りした瞬間に天井が突然グルグル回りだした。

思わず「ウワアッ」と呻いて頭を抱えた。

今まで経験した事のない感覚。

恐ろしい。

前日、『パプリカ』というアニメ作品をビデオで観たので自分の夢に誰かが入ってきたのかという錯覚に囚われたが、どうやら目眩は本物だった。

数秒で元に戻ったが吃驚するというか恐怖。

起きた後も頭を急に傾けたりすると平衡感覚を失って倒れそうになる。何だかヤバい。

ここ数日、ちょっと無理をしたのでその影響かもしれないが、とにかくこんな情況は初めての経験だったので戸惑う。

立ちくらみ位はお風呂から上がった後にたまに経験するが、この目眩は制御不可能というか対処の方法が解らない。階段とかでこの目眩が起きたらそのまま倒れて怪我をしそうだ。

ネットで調べてみるとどうやら良性発作性頭位めまい症の症状に近い。

目眩自体は瞬間的ですぐに回復しそれ程酷いものではなさそうなので暫く様子を見るのが賢明なようだ。

いずれにしろ目眩に襲われるなんて予想もしていなかったので「もう自分は終わりか」とまで思ってしまった。

小椋佳の歌に「めまい」というのがあったがそんなロマンティックなモノではなかった。

50歳近くになるといろいろ身体にガタが出るものだ。

これが仕事に追われて頑張っている情況での反動ならまだしも、陰々滅々と煮詰まっているような情況で起こるからやりきれない。現行の仕事以外にも自費出版含めて諸々の企画も進行ないしは準備中で、プライベート含めていろいろストレスがあったのも原因だろうか。

むしろ仕事が順調に滑り出せば多少忙しくとも案外病気とかには罹らないもの。

仕事や生活が煮詰まったりすると体調にも悪影響を齎す。

正に「貧すれば鈍する」である。

何より健康第一だ。


2007年10月8日

茫漠とした不安。

キンモクセイの香りが漂い、気候が秋に移行するこの時期は心身共に不調な季節。例年ぱっとしない。

陽も短くなり悪天が続き日射もないと陰鬱になってくる。

寝付きの時など茫漠とした黒い不安に襲われて恐ろしい。

もう半世紀近く生きたというのにあるべき姿の理想像と現実との離反しすぎたギャップが恐怖となってこの就寝の瞬間に襲ってくる。

実りのないただ悶々と過ぎ行く日々。ゆっくりと堕ちていくような閉塞感と己の限界とかが脳髄の奥から湧き出てきて堪え難い葛藤に苦しむのである。

オールも舵もない小舟に乗って目の前の滝にまっ逆さまに落ちる直前のような感覚が此所数年ずっと続いている。

そろそろ本気になってこの自分を乗せた小舟をコントロールさせないと大変な事になるのが解っているのに、ただ流されるまま。

だがそんな不安の時間も睡魔に消され気が付くと次の日が遣って来ている。

悩もうが足掻こうが勝手に明日が遣ってくるのだ。

明日という時空間が与えられてしまう限り、何かを成さねばならぬ。

たとえその歩みが遅くとも日々の積み重ねによって、その不安は撤退していくだろう。

パッと晴れてほしいものである。


2007年10月7日

黒い訪問者。

今週の『電脳コイル』はなかなか興味深かった。

「あっちの世界」から黒いモノがやってきて魂(電脳の身体)をさらっていくというのだ。

恐ろしい。

だが家の一部には結界が張られ、その部分は安全地帯となっているという設定だ。

ふと考えたのだが、実際古い家には何やら結界に似たフィールドがあって邪な存在から家人を守っているような気がする。

長寿の人や仲のよい家族が平和に円満に暮している古い家というのは、それ自体が邪に対するシェルターの役割を成しているのではなかろうか?

邪な存在は一見魅力的で美しく欲望をくすぐるような形態で幸せな領域に巧に侵入しようと企んでいる。しかし、古い家にはそのような邪を遮断する力の場が働くのだ。

人間が100年近く、いやそれ以上に代々幸せに生きられる家には何らかの先人の魂というかポジティブエネルギーが蓄積されていて禍や病から家人を守っているのではなかろうか?

ところが現在の日本にはそのような代々受け継がれるような古きよい家や庭を維持する事は著しく困難だ。

よって容易に邪なモノの侵入を許し、禍に襲われやすいのではなかろうか?

そのような例で典型的なのはバブル成金だ。

古きよき家や庭を潰して暴利を貪った輩は大抵ろくな死に方をしていない。結界を失い邪に曝された者の行く末は愚かな破滅あるのみだ。

日本には古来から、禍を遠ざけるためのお守りやお札が重宝されてきた。

それを玄関や家に貼ったり、肌身離さず持ち歩く事によって邪から身を守れると信じてきた。

気休めみたいなものかも知れないが、しかし何かしら実効性もあったはずだ。

自分にとって何が邪なのかを知る術はない。しかし古い家にはそのような妖気を見分けるセンサーのようなシステムがあって邪が侵入すると家人だけに解るような警報が鳴り渡る。

家人は邪の侵入に気付いて、以後その邪な存在に警戒するようになるだろう。

また邪自体もそのような結界を持つ家には容易に近づこうとはしまい。

たとえボロボロだろうが、そこに何十年と平穏に住み続けられたということは何らかの力の場が存在している証でもある。

人はあらいる危険や禍に曝されている。

しかし一生そんな禍に無縁の者もいれば、禍に取り付かれている者もいる。

おそらくその差は邪に対抗するフィールドを有しているか否かの差であろう。

うようよと徘徊している邪な「黒い訪問者」の誘惑から身を守るためには、邪を遮断出来るフィールドが何としても必要なのだ。

おそらく徳を積んだ者が代々住み続けた場所にそんな邪遮断結界が存在するはず。

よき古き家に住めるものは幸いである。


2007年10月5日

また3連休。

この週末は3連休である。そして11月、12月にも1回づつ3連休が残っている。

国がいつのまにか決めた「ハッピーマンデー」とやらで捏造された3祭日もある訳でここまで「休め休め」とは正直閉口する。

もっともカレンダー通り休んでいる勤労者ばかりではないし、自由業とがサービス業には関係がない。ましてや「毎日が日曜日」の引き蘢り、ニートにとってはどうでもよいことなのだが、こうも国が定めた3連休が増えるとまともに働く勤労意欲というものを国民全体から削いでいる気がしないでもない。

「働かなくても生きていける」のごとき錯覚を植え付けて本当に立ち行かなくなってしまう者達を自ずと生産しているようなものだ。

なんだか気味が悪い。

曾てナチスドイツは強制収容所にてかのようなスローガンを立てた。

「労働こそ自由」

結局の所、散々働かせて疲弊した囚人はさっさと処分してしまった訳で働いても自由はなかった。

それと同じでこの「ハッピーマンデー」とやらも逆に人の働く意欲を減退させて一定量の国民を処分しようと画策する何者かの策謀かも知れない。

連休信じて休んでいたらいつのまにかお払い箱みたいに。

だがら「3連休」増産も決して喜ぶような事じゃなくて警戒した方がよい。

最近、休日でも結構通勤姿の人をより多く見かけるような気がする。産業構造が変化してサービス業の人が増えたのかもしれない。

だからカレンダー通りに休める上に裕福な生活が可能な人というのは一部の特権階級に過ぎない。

実態は休日返上で働いている人の方がスタンダードなのかも。

3連休だからといってお金がなければ何処にも出かけられない。

かくして普段も仕事がない上に連休も出かけられない層が増えて「ハッピーマンデー」とは無縁な「毎日が絶望引き蘢り日曜日」な人が蔓延するだけとなる。

いい加減「ハッピーマンデー」など止めるべきだろう。

基本が「月月火水木金金」にすれば否応にも働かざるおえなくなる。

休みは任意に取ればよい。国が決める事ではないだろう。

自分が子供の頃は基本休みは日曜だけだった。その貴重な日曜が過ぎ行く夕方など憂鬱で仕方なかった。

『笑点』のテーマソングは恐ろしい月曜日という暗黒を召還する呪文のよう。

「ハッピーマンデー」は胡散臭い。

月曜は憂鬱であるべきなのだ。


2007年10月2日

「かぐや」からの画像

先月無事に打ち上げられた月探査機「かぐや」からハイビジョンによる地球の画像が送られてきた。

スペースシャトル等の低軌道からの地球画像は珍しくないがこれ程離れた場所からの地球の姿は感慨深い。

この画像などなんとSF的だろうか。

この半球に浮かぶ地球の中に人間社会の諸々のありとあらいるモノが存在している。そう思うと何だか日々小さい事でゴタゴタウダウダやっていることが如何に矮小なことであるかを思い知らされる。

広大なる宇宙から見ればそんな人間の俗世などパンに生えたカビ以下の存在だ。

肥溜に落ちたカエルが振り返って遥か天空を見上げたような気分。

このような崇高な映像こそこの世に広く知らせるべき素材であるべきなのに相変わらずメディアはナナカマド並みの目線で汚物を漁り続けている。

もうこんな肥溜俗社会はうんざりである。

早くこの肥溜から這い出て美しい崇高な世界に歩み出たい。


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