1980年代半ば〜1990年代半ばにかけて受信したミニFM局の記憶

1.序2.1985年半ばのミニFM事情3.ミニFM受信履歴4.JOUT-FMの日々5.終わりに

1.序

先日、関西在学の大学院生の方から、東京周辺のミニFMに関して何か情報や記録が残っていないか旨の問い合わせメールを頂いた。

この方は、かつて1980年代半ばより大坂周辺で盛んだったミニFMネットワークに関した研究をされているとのこと。修士論文作成にあたり、同時に東京周辺でも同様のミニFM局同士のネットワークが存在していたか否かを調べるため、上京の折、私の所にも聞き取り調査にいらしたのがこのレポートを記すきっかけとなる。

さて、自分は「送り手」としてミニFMに携わった事は殆どなく、唯一後述する『JOUT-FM』以外は完全に「聞き手」であった。

当時、首都圏周辺にミニFMのネットワークが存在していたかの知識はなく、ましてや大阪にそのようなネットワークがあっとことすら初耳であった。

自分のようなBCLやFMDXerにとってミニFMは、既存の県域局同様、遠距離受信のターゲットやベリカード収集対象物の延長上でしかなく、その運用やミニFM局同士の結びつきについては無関心に等しい。むしろFMDXerからするとミニFMの存在は遠距離受信の妨げとなって邪魔者扱いされる場合も多い。

とはいえ、当時からFM放送帯をワッチし、少ないながらもいくつかのミニFMを受信した記録はログに残っており、その記録から当時のミニFM事情を窺う事もBCLジャンルの一つかもしれない。

これを機会に、これまで自分が受信したり、関ったミニFMに関してまとめてみる事にした。


2.1985年前後のミニFM事情

まず最初に、ミニFMとはどんなものか?

Wikipediaによると

『ミニFM(ミニFM放送局)とは、電波法で規制されていない微弱電波を使った周波数変調(FM)方式の無線局である。

放送法上の「放送局」ではない。電波法上、免許を要しない無線局であるため、無線局免許や無線従事者免許は必要がない。微弱電波を超える出力で送信すれば違法となり総合通信局による取締りの対象となる。

日本における「微弱電波」とは、電波法第4条で「発射する電波が著しく微弱な無線局に該当するもの」で、「無線設備から3メートルの距離において、その電界強度が毎メートル500マイクロボルト以下のもの」と規定されている(出力による制限ではない)。これを3m法と言う。1996年5月27日までは、100メートルの距離において15マイクロボルト/ mだったため、50m〜100程度の到達距離であったが、現在の3m法だと前述の100m法と計算上はほとんど同じであるが、実質的に数十m程度の到達距離となる。ダイポールアンテナを使った場合の送信電力は50ナノワット(0.00005ミリワット)程度であり非常に微弱である[1]。

市販されているFMラジオの実用感度が大体100マイクロボルト程度なので(放送局の放送エリアが毎メートル250マイクロボルトの電界強度で定義されているのもこのため)数十m程度(アンテナやチューナー次第で100m以上)の範囲でしか到達しないが、この微弱電波で送信しているFM放送がいわゆる「ミニFM」と呼ばれる』

だそうである。

つまり、法定内の微弱電波で放送する限りは、周辺100m前後しか可聴エリアがないと言う事になる。

さて、1985年前後のミニFM事情は、どんな情況だったのか?

実際には数キロ、あるいは数十キロ範囲まで受信可能なミニFM局も多数確認出来たので、恐らくは微弱電波以上の出力で放送していた局も多かったと想像出来る。

前述したように、自分はあくまで「受信者」としてしかミニFMに関っていなかったので、実際当時ミニFM局がどのような情況に置かれていたのか正確な事は解らない。ただ、周辺から耳に入ってきた「流行事情」からすると、あの頃のいわいるミニFMは「自由な表現を発進出来る唯一のツール」みたいな雰囲気が漂っていた事は確かだった。

若者雑誌にも時たまミニFMの記事が掲載されていたようだし、1991年に製作された織田裕二主演映画『波の数だけ抱き締めて』も1980年代前半のミニFMが舞台だった。

言うまでもなく、当時はネットも携帯もなく、黒電話が一家に一台の時代。音楽もFMからエアチェックしたり、レンタルレコード店で借りてカセットにダビングが主流。今から比べれば情報伝達手段が限り無く貧弱だった。

そんな中、ミニFMは唯一、パーソナルな情報、意見を発進出来るツールに成り得たと想像出来よう。

いずれにしろ、1980年代初頭から青年層を中心にミニFMムーブメントが存在していたのは事実のようだ。

『全国ミニFM局マップ』という書籍も刊行されていた。これは1986年頃、阿佐ヶ谷の本屋で購入したもの。

当時、全国にあったミニFMを北から南へと紹介している。ここで紹介されているだけでも全部で130局を数える事が出来る。

少なくとも80年代半ばに至ってもアクティブな局が日本中に相当数あった事は確か。

メディアも比較的盛んに取り上げ、論調も好意的であった。

朝日新聞などは「市民運動」の一つと捉え、実際にそのような活動の拠点として機能していたミニFMもあったのだろう。

さて、1985年はミニFMにとって一つの分岐点となった年のようだ。

当時の朝日新聞1985年9月9日付の記事、ニュース三面鏡『試練に立つミニFM局』によると、ミニFMは全盛期には全国に2000局以上あったという。

その記事から一部抜粋する。

<科学技術庁の外郭研究機関、未来工学研究所が1985年3月、アンケート調査したところによると、281局の回答から平均像を探ると、「スタッフは5人前後、音楽好きの中、高、大学生が中心で、放送時間は週末の夜に一回2時間」だった。

開局の理由は「自分の好きな音楽やおしゃべりができるから」

既成のラジオ放送に飽き足らない気持ちが共通していた。>

一方で、違法な高出力や「不道徳」な放送内容で顰蹙を買う事も多かったのか、時として警察に摘発される事例もあり、1985年9月には都内港区にあった「KYFM」というミニFM局が電波法違反で逮捕されたりしている。

それに関連する記述も抜粋してみよう。

<規定通りの電波なら受信範囲はせいぜい半径数百m程度。もっとたくさんの人に自分の番組を聞かせたいと、次第にエスカレートさせるFM局が多く、郵政省関東電気通信監理局は「大半が許容限度を超える電波を出していた」と見る。そこで今回、同監理局は放っておけば電波の秩序が乱れると「一罰百戒」を狙って告発した。>

興味深いのは、そんな摘発も、現在であれば「テロ」とかに結び付け、治安維持の観点から当然逮捕に肯定的な報道をするのであろうが、当時は「電波自由化の新気運を阻害するもの」と、むしろ摘発は「自由な発言の場を奪う権力の濫用だ」みたいな論調になっている。

記事では「ミニFMの市民的自由を考える会」の設立準備会が開かれる事も記されていて興味深い。

当時は「ニューメディア」という言葉が、まだ新しく感じられた時代でもあり、FM放送帯もその「ニューメディア」の一翼として善くも悪くも注目を浴びていたのだ。

それはさておき、1985年頃からFMDXに興味を抱き始めていた自分は、BCLラジオナショナルRF1150を使って足繁く自宅の屋根に登り、FMワッチを繰り返していた。

当時首都圏のFM事情は1985年暮に横浜FMが開局する直前。ポータブルラジオで受信出来るのはバンドの上からFM東京、NHK千葉、横浜、東京、水戸、浦和、三つ峠のたった7局。FM東京以外は全部NHKという「過疎状態」。NHKローカル番組時間帯を除き、選択肢は「二つ」しかなかった。

しかし時として、聴き慣れない局がひょっこりと受信出来る時があった。

おそらく、これらがミニFMだったのであろう。

大抵は、延々と音楽を流しているだけでIDも出ず局名確認する術もなかったが、稀に県域局同様、局名や住所、電話番号を告知し、リクエストを募集しているミニFMもあった。

そんな局を見つけては受信報告書を送ったものだ。

返信率は悪くベリカードを発行してくれる局は殆どなかったが、幾つかの局は丁寧なメッセージをくれた。

次の項目では、それらミニFMについて個別に紹介していこう。


3.ミニFM受信履歴

このレポートでは1984年から約10年間、局名が確認出来たミニFM局をログから時系列順にリストアップし、その受信記録と自己解説を紹介していく。

なお、一部を除いて全て東京杉並阿佐ヶ谷の自宅で受信した記録である。

◆PCN東京

所在地/練馬区練馬1丁目豊島園近郊

受信年月日/1984年7月28日

受信時間/0047〜0213JST

周波数/77.7MHz 78.8MHz

SINPO/35242

受信機/ナショナルRF1150 アンテナ/付属のロッドアンテナ

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/音楽をノンストップで流している。大凡30分間隔で若い女声のステーションプレイクが入る。

「JOPC-FM (繰り返し)。こちらはPCN東京です。77.7MHz 78.8MHzで実験放送中です。PCN東京では親しまれる番組制作のために内容の検討を行っています。この放送を聴かれた方は葉書に住所氏名、年齢、職業、聴かれた日時、受信内容、受信機、アンテナなどを記して(以下所在地アナウンス)PCN東京までお送り下さい。ベリカードをお送りします」

その後、同じ内容を英語でアナウンスしていた。

ナショナルRF1150を担いで真夏の真夜中、屋根の上で粘って聴いていた想い出がある。なかなかIDが出ないのでしんどかったがアナウンスの女の子の声は可愛かった。

ここまで局の存在をハッキリ告知するミニFMは新鮮であった。

所在地は練馬区練馬1丁目。豊島園近郊だ。直線距離にして3.2Km程。受信状態は不安定で聴きずらかった記憶がある。このJOPC-FMというコールサインは勿論正式に認可されたものではないと思われる。

受信報告書を出すと1週間程でベリカードの返信があった。それには「PCN東京株式会社」と記されていたからかなり本格的な局かなとも思ったが、それ以降、受信する機会には恵まれずどうなったかも不明である。


◆FMタウンステーションADAD(アドアド)

所在地/渋谷区宇田川町渋谷西武A館中2階

受信年月日/1984年7月28日

受信時間/1630〜1906JST

周波数/88.8MHz

SINPO/45444

受信機/ナショナルRF1150 アンテナ/付属のロッドアンテナ

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/

1645JST ステーションブレイク「FMタウンステーションアドアド、オリンピックキャンペーン中。渋谷、原宿、青山、新宿、六本木。21局ゴールデントライアングル」等と出る。

時々、タウンネットワークなどの言葉が聞取れた。

放送内容は若い女声DJ(ミスキャンパス風)が鎌倉、湘南のビーチ沿い観光スポットを紹介するなど至ってオシャレな内容。

トークの合間にアメリカンポップスが入る。

1700JST 六本木シネヴィバンWAVEのCM

1905JST ID「FMタウンステーションアドアド。この放送は電々公社の放送回線を利用して放送しています。音声出力15mmw(mmvと言っているようにも聞こえる)、周波数88.8MHzで引き続き音楽放送をお送りします」

昨晩のPCN東京受信に味をしめて、再びナショナルRF1150を屋根に担いでワッチ開始。

すると上記のような放送がさっそく受信出来た。渋谷西武A館中2階にあると思われるサテライトスタジオからの生番組。雰囲気的には完全な商業放送。7月から8月に掛けてこの一帯で行われる何かのイベントを盛んに告知していた。この年はオリンピックイヤーだったのでそれに絡んだキャンペーンだったのかも知れない。

内容からして素人が趣味半分で電波を飛ばすミニFMとは到底思えず、おそらく自治体か企業主導によるイベントFMに近いものだったのだろう。

21局ゴールデントライアングルとか出ていたので、相当数のミニFM送信機が配置されていたと想像出来る。

「電々公社の放送回線を利用」とは如何なるシステムなのか?その放送回線を介して、それぞれのミニFM送信所に配信していたのだろうか?

仮に渋谷から出ている電波をキャッチしたとなると、距離にして8Km弱。ミニFMにしては広範囲に飛んでいる。

あるいは、どこか阿佐ヶ谷周辺のミニFMが中継していたのを受信したのか不明である。

残念ながら住所告知などはなく、受信報告書を出すには至らなかった。


◆KOFM

所在地/世田谷区上馬1丁目三軒茶屋付近

受信年月日/1985年5月25日/12月8日

受信時間/1658〜1800JST/0320JST〜

周波数/84.5MHz/84.0MHz

SINPO/35353

受信機/ナショナルRF1150 アンテナ/付属のロッドアンテナ

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/5月25日

1704JSTより「サウンドトーク」(生番組)DJはハラダリョウコ他数名の男性。

内容はJポップスの合間にトークが入る。KOFM暫く休波し、6月16日より再開とか話していた。リクエストカード募集の告知もあり。

受信内容/12月8日

0320JST「KID25」というトークと音楽で構成された番組。DJはKID。

0356JST KOFMステーションジングル

世田谷区上馬1丁目三軒茶屋付近マンションの5階辺りから電波を出していると思われた放送。いわいる典型的な当時のミニFMのスタイル。

距離にしておよそ8Km。ロッドアンテナでも十分受信可能なほど強力。12月に84.0MHzに変更になったのは、この11月より84.7MHzに横浜FMが出てきたせいだと思われる。

5月の受信時、住所宛に受信報告書を出したが、返信は得られなかった。

ログには2回の受信記録が残されていたが、結局このミニFMも継続して聴取する事はなかった。番組は面白かったが、やはり放送が不定期的なのがネックだったのか。


◆JOGG-FM FM高円寺

所在地/杉並区高円寺南3丁目

受信年月日/1985年6月4日

受信時間/2300〜0011JST

周波数/78.9MHz

SINPO/25353

受信機/オーレックスSKD3 アンテナ/T型フィーダー

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/2300JSTからアニメソング番組。DJ/女声(録音番組)

独断のアンソンランキングやアニメの話題トーク。どうやらDJさんはアニメーターらしく自分が動画を担当した作品について話していた。

0009JSTにID「JOGGこちらはFM高円寺・・78.9MHzでお送りしました」

0010JSTに停波

自宅から1km弱しか離れていないJR高円寺駅ローカルにあったミニFM。オーディオチューナーに付属していた屋内アンテナでも受信出来たがあまり強くはなかった。

亜紀書房「ミニFM全国マップ」にも紹介されている。それによると1983年7月7日開局。毎週月曜火曜の21時から23時放送。スタッフは10名で25歳から35歳とある。しかし、この時は23時以降も放送していた。

受信報告書を出すと、プログラム、ステッカーと共に局スタッフのメッセージが送られてきた。受信レポートを貰ったのは初めてで驚いているとの事であった。やはりミニFM「送り手」の中にはBCLとかに興味のない方もいるのだなと実感した。

受信したミニFMの中では比較的近隣な局であったがじっくり聴いたのはこの時位で、その後受信した記憶がない。


◆HBSFM浜田山(JORKFM)

所在地/東京都杉並区浜田山

受信年月日/1985年6月

受信時間/0100JST〜

周波数/81.3MHz

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/ジャズスペシャル

細かい受信記録が残っておらず、受信状態や受信機、アンテナなどは不明。受信報告書も出した記録無し。

浜田山は同じ杉並区内。井の頭線浜田山駅まで直線距離で3.3Km。この局もこの日限りの受信であった。

因にこの周波数は、現在ではJ-WAVEが出ている。


◆東海学園NFB放送

所在地/東京都杉並区阿佐ヶ谷北1丁目

受信年月日/1986年5月31日

受信時間/1827〜1920JST

周波数/88.2MHz

SINPO/35343

受信機/ビクターTX900 アンテナ/T型屋内フィーダー

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/男性数名による雑談や映画「ロッキー4」についての話題。

「ぶっ飛びヒロシのバイクコーナー」など。

1900JSTから「夜はこれからでナイト」(生放送)DJ/モニック

この日は「ノーバディー」特集。リクエスト葉書など紹介。

 自宅から直線距離にして600m位しか離れていない場所から放送していたミニFM局。恐らくこれまでで最も近距離。

この東海学園は、確か登校拒否児童生徒の更正を目的とした施設と聞いた事がある。その一環としてミニFMを運用していたのかも。もう23年前の事だから定かでないのだが。

比較的構成もしっかりした番組だった記憶がある。ここは河北病院にも近く、看護学校の看護婦さんの話題とかも出ていた。

受信報告書を送るとすぐに返信があって、確かDJモニック氏が作ったと記憶するステッカーが送られてきた。


◆中野区南部青年館FM

所在地/東京都中野区南台

受信年月日/1986年9月16日(14日にも受信)

受信時間/2318〜0002JST

周波数/81.0MHz

SINPO/35353 25dB やや過変調ぎみなのか音声が大きくなると歪む。

受信機/ビクターTX900 アンテナ/10mH5素子八木アンテナ

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/

2318JST「ジャムのピーナッツクリーム」

Jポップスとトークで構成された番組。途中、青年館からのお知らせ等が入るが、基本は男性DJ数人によるトークが中心。スポーツ新聞をだらだら読んだり。

2340JST リクエスト募集/住所告知あり。

2352JST きょうの天気予報、週末のお知らせ。

1986年7月よりFM5素子八木アンテナを自宅地上高10mに設置。ローテータ−で360度回転させることも可能で、格段にFM受信能力がアップした。

このミニFM局がある中野区南台までは約3Kmあるが十分明瞭に受信出来た。

なお、朝日新聞1986年9月23日付地方版に『こちらFMなんなか局』として記事が掲載されていた。

それによると、放送開始は1ヶ月前。放送目的も同青年館が10月〜11月に開く「秋のフェスティバル」のPRだったとか。記事では録音番組を流すとなっていたが、受信した日は生放送だった記憶があるが定かでない。周波数も81.2MHzと報じられているが、自分のログには81.0MHzとある。どちらが正しいのか今では確かめる術はない。

放送時間は月曜を除く23時から1時間。翌日16時から再放送とある。また放送エリアも青年館から周囲数百mの範囲とあるから出力も小さかったのだろう。受信出来たのはやはり八木アンテナのお陰か。

フェスティバル後の放送計画は未定とあり、短期間の限定ミニFMだったのかもしれない。

この日の放送を受信報告したが、結局返信はなかった。


◆ラジオホームラン


所在地/東京都世田谷区代田5丁目

受信年月日/1987年5月1日

受信時間/0210〜0310JST

周波数/76.1MHz

SINPO/25252 18〜20dB 音声歪みぎみ。

受信機/ビクターTX900 アンテナ/10mH5素子八木アンテナ

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/

ライブ会場から生中継(ラジオホームランのスタジオ?)

0210JST ラジオカーブのスタッフにインタビュー

0217JST 民族音楽ライブ

0230JST ID「こちらはラジオホームランです。76.1MHzでお送りしています」(男性)

       ゲストのハワードマニエルにインタビュー。UFOについての話。他ジャズ音楽

0310JST ID/ラストに一言。TBSラジオのスタッフDJ等ゲストが挨拶。

ラジオホームランはミニFM界では有名らしく『全国ミニFMマップ』にも大きく取り上げられていたが、受信確認出来たのはこの日が初めてだったと記憶する。

海外のミュージシャンや県域局でDJしているプロも招いての特別番組らしかった。

『全国ミニFMマップ』によると、所在地は世田谷区代田5丁目。1983年3月に開局。毎週月〜金20時22時放送。週末は不定期にスペシャル番組を組む。スタッフは50名程とか。

電波の「自由化」を当時から訴えてきたメディア評論家の粉川哲夫氏が中心となって設立したミニFM。

この方の名はミニFMにまつわる報道時には必ず聞く程、この世界では有名だ。

受信報告書を出したら、4ヶ月程で粉川氏自身から返信を貰った。

それによると、粉川氏は週末のスペシャル番組の時だけ担当しているとのこと。あいにくSWLカードを用意していなかったので、氏がイタリアを旅行した時に、現地の放送局で貰ったカードを同封。そして今後の放送予定などが記されていた。

その同封されたカードにはちゃんと受付日と受信者の名前がタイプされている。

ちなみに受信地までの距離はおよそ6Km。FM八木5素子アンテナでもシグナルレベルは2だったのでそれ程強い電波は出していなかったような感じだ。

この局もログに残っているのは、この一回限り。継続して聴く機会はなかった。


◆FM AIR

所在地/東京都世田谷区太子堂

受信年月日/1989年8月12日

受信時間/2150〜2200JST

周波数/83.7MHz

SINPO/35343 

受信機/ビクターTX900 アンテナ/10mH5素子八木アンテナ

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/

2150JST 水木一郎「ダンガイザー」の曲。アニメシンガーについてのトーク。

2155JST ID「お聞きの放送はFMAIR。送信周波数83.5MHzで放送しております」(男声)

2157JST 告知「三軒茶屋のみなさん。こんにちは。こちらは三軒茶屋のミニ放送局FMAIRです。・・(住所、電話番号告知)ライブ放送は平日月金22時〜0時までの2時間。土日は19時〜0時までの5時間。24時間ノンストップ・・(ミキサー募集のお知らせ)」(女声)

KOFMと同じ三軒茶屋からのミニFM。告知の時のBGMが変っておらず、もしかするとKOFM のスタッフが継続して運営していたのかも。

受信報告書を送ったが返信無し。KOFM もFMAIRも受信レポートには全く無関心だったようだ。単に多忙で返信に手が回らなかったのかは定かでないが。

この頃は首都圏に県域FM局がいくつか開局し始めた頃。

因に現在、この近郊に建つキャロットタワー展望ロビーにはコミュニティーFMの世田谷FMサテライトスタジオがある。

このミニFM局との関連性は解らない。


◆JOUT-FM

所在地/東京都練馬区関町南

受信年月日/1994年4月13日

受信時間/0348JST〜0450JST

周波数/84.3MHz

SINPO/55555 

受信機/ビクターTX900 アンテナ/10mH5素子八木アンテナ

受信地/東京都杉並区阿佐谷北の自宅

受信内容/

0348JST DJとリスナーによる電話を介したトーク。リスナーはサダさんという22歳男性。

0418JST タケシマさんというリスナーから電話

0430JST リスナーとトーク(ピアノ曲について。ドビュッシーとかの話題)

0432JST 住所電話番号告知

0435JST 曲「月の光」「夢」(ドビッシー)

0445JST 赤羽からのリスナーから電話入る。リスナーとDJトーク

0447JST エンディング

JOUT-FMに関しては後述する「JOUT-FMの日々」で詳しく記すのでそちらを参照の事。


◆KDXC-FM

所在地/東京都台東区東京ビッグサイトハムフェア−会場内

受信年月日/1995年8月27日

受信時間/1256JST〜1315JST

周波数/76.4MHz

SINPO/55555 

受信地/東京都台東区東京ビッグサイトハムフェア−会場内

1995年のハムフェア−会場内にて、関東DXersサークルブースが実施したミニFMである。

なお、この時のベリカードデザインも自分が担当した。

ここでリストアップしているミニFMで唯一、自宅以外で受信したミニFM局である。

ハムフェア−では、他にもミニFMを開設するサークルはいくつか存在したが、ログを取っていなかったりして正確な記録が残っていないためここでは割愛する。

以上、自分のログに残されている1980年代半ばから約10年間のミニFM関連受信記録を紹介した。

受信エリアが極めて狭いミニFMで、尚かつ自宅周辺に限っても10局の受信記録が残っていた。内1局は企業主体のイベントFMで、残りは個人ないし有志ボランティア中心の局と思われる。

局名不詳のミニFMを含めればもう少しあったのかも知れない。

その中で、ベリカード、レター類の返信が得られたのは半分の5局という結果であった。


4.JOUT-FMの日々

この項目では自分が唯一、番組参加まで関り、継続して聴き続けたミニFM局JOUT-FM(ユーティリティーFM)についての記憶を辿る。

基本的に自分の知りうるJOUT-FMは1994年4月から1997年8月頃までである。

●接触

JOUT-FMを最初に確認したのが前述した1994年4月13日。

実はこの年に入ってから、この周波数で時たま音楽を流し続けているFM局が出ていることには気が付いていた。

信号は強力でフルスケール。アンテナを回すと西北西の方向が最も強かったのでその方角に送信所があることは推定出来たが、しかしそれが如何なる放送局であるかはずっと謎だった。

この日は深夜3時を回っているにも拘らず、かなり広範囲からリスナーの電話が入り、20代後半と思われるDJさんが忙しく応対に追われていた。

おそらく、数日前から頻繁にメッセージ、リクエスト募集の告知を掛けていたのだろう。

その告知によると局の所在地は練馬区関町南。DJ兼局長の名はSさんということが解った。

距離にして約6キロ。FM八木アンテナで受信している事を考えても、これまでのミニFMと比べ格段に強力な信号だ。それに赤羽辺りのリスナーからメッセージが届いていることを考えても相当なパワーで送信している事は間違いなかった。

FAX番号も告知していたので試しにリクエストを送ってみる。

すると確か翌日だったか、そのリクエストに応えて曲が掛った記憶がある。それはトミタのシンセサイザー「月の光」。

この曲は前日、リスナーがリクエストしたドビッシーピアノ曲のアレンジ盤だったのだが、反応の早さと好みの音楽志向が一致したのか、妙な親しみを感じたものだ。

それをきっかけに週末深夜84.3MHzにチューニングすることが多くなる。

不定期的ではあったが、時々出現するS局長の呼び掛けるメッセージ募集に、いつしか積極的に投稿するようになっていた。

さて、そのS局長とは意外な所で出会うこととなる。

1995年3月。練馬区の隣、武蔵野市にコミュニティーFMが開設される事となり、その試験放送が少し前から始まっていた。

この日、防災用のテスト放送が実施されており、リスナーさんにも番組参加を呼び掛けていた。局舎までくればスタジオで喋らせてくれるらしい。

これはチャンスと、自分もラジオ片手に武蔵野FMがある吉祥寺へ向った。するとそのラジオから聴き慣れた声が?

そう、その声の主はまさしくJOUT-FMのS局長であった。

彼も武蔵野FMの呼び掛けを聴いて番組に参加していたのだった。まさかコミュニティーFM局舎で初顔合わせするとは思いも寄らなかったのである。

●伝説の『MIDNIGHT J POPS』

そんなエピソードもあり、このJOUT-FMは自分のお気に入り放送局となる。

特に土曜深夜の生番組「MIDNIGHT J POPS」は素晴らしかった。

23時ころから始まり、Jポップス中心のリクエスト曲とトークで構成されるオールナイトライブプログラム。

午前2時頃からは「第2部」と称し、よりディープなトークや対談で朝5時過ぎまで放送する事も珍しくなかった。

ミニFMとしてはエリアが広いためリスナーの反応も良く、頻繁に掛ってくる電話やFAXに対する話題の提供やリクエスト対応のテンポが飽きさせなかった。時折訪れるS局長の知り合い、スタッフなどを交えての雑談等も良い味を出していた。

いつしか自分も常連リスナーとして毎週多数のファックスを投稿する程のリスナーになっていた。

また投稿に留まらずスタジオまで赴き、S局長や他のリスナー、スタッフと共に夜明けまで番組参加する事もあった。

●JOUT-FM一人ナイトハイク

この土曜深夜生番組「MIDNIGHT J POPS」では、メッセージを送るだけでなく、自らアクティブに動く企画も実践してみた。

それが「一人ナイトハイク」。

放送中に自宅阿佐ヶ谷からJOUT-FMのある関町南まで早稲田通り沿いに歩くというもの。途中、PHSでスタジオにいるS局長と会話しながら夜の町の情景を報告する企画である。

実行したのは1996年6月30日。月が煌々と照る真夜中の早稲田通りをひたすら西へ歩みを進める。

さすがに深夜なので人影は疎らだ。しかし持参したラジオから流れるJOUT-FMがゴールに近づくに連れ、段々と明瞭に受信出来るようになってくるのはなかなか趣があった。

思ったよりも時間は掛ったが、井草八幡宮まで達した時はホッとしたものだ。

当時、「MIDNIGHT J POPS」には自分と同じリスナー上がりのアシスタントがS局長と共に番組を進行させていた。

ハンドルネームは「あいすくりーむ」さん。大学を卒業したばかりの新人OLだった。自分が「一人ナイトハイク」でゴールした時に笑顔で迎えてくれたのが印象的だった。

他にも不定期的に「こたろう」さんという男性スタッフもいて「MIDNIGHT J POPS」をフォローしていた。

夜を徹して語り明かし、気が付くと窓の外は白々と明けている。

時代もロケーションも異なってはいたが、映画『波の数だけ抱き締めて』の世界に共通したものがこの「MIDNIGHT J POPS」にはあったのかも知れない。

●JOUT-FMベリカード発行担当の話

JOUT-FMに関りをもって約2年。常連リスナーが高じて、いつしかJOUT-FMのベリカードをデザインするまでに至った。

白紙のアマチュア無線用QSLカードに極々シンプルなイラストを描いただけのカードであったが、ベリカードがあるというだけでも、なんとなく放送局として箔が付くような感じがあった。

更に1996年の春から約1年半の間、多忙な局長に代わり、受信報告書の受付発行担当まで自分が請け負う時期もあったのだ。

手元に残る資料によると、1996年4月から1997年7月まで自分が担当した時の受信報告受付数は16通(但し、その中には過去に送られて未処理のレポートが2通含まれる)。

その内訳は以下の通り。

JOUT-FM受信報告書内訳

1996年4月〜1997年7月

受信報告の場所 報告数
練馬区内

23区内

多摩地区

神奈川県

埼玉県

比較的多摩地区からの受信報告が多かった。分類すると武蔵野市1、三鷹市1、小金井市2、多摩市1、保谷市2。

23区内は練馬区4、杉並区2、豊島区1。

神奈川県は横浜市緑区(直線距離約23Km)、埼玉県は上尾市(直線距離約25Km)からそれぞれ報告があった。上尾のレポーターは JR上尾駅前でカーステレオで受信したとのこと。

また受信機の種類(確認出来るレポートは8通)はポータブルラジオ2、オーディオ系チューナー2、通信型受信機1、カーステレオ1、ラジカセ2。

受信アンテナの種類(確認出来るレポートは8通)は八木系5、車載アンテナ1、屋内アンテナ2。

やはり、受信報告を送ってくるのはFMDXerが多いためか、遠距離受信用アンテナを利用しているリスナーが多い。

一方、JOUT-FMの送信アンテナは地上18mHバーチカルダイポール。

但し、技術的な事に関しては、すべてS局長が全部担っていたので送信面でのテクニカルな部分にはまったく関与していない。どの程度の送信出力で運用していたか等は想像に任せる他ない。

あくまで自分は事務的なベリカード発行担当に過ぎなかったし、またそれ以上、立ち入る意思もなかった。

●楽園の休息

そんな希有なラジオコミュニケーションの楽園JOUT-FM「MIDNIGHT J POPS」が最も盛り上がったのは1996年5月から7月に掛けてと記憶する。その後はS局長の事情等で放送する機会が減ってきた。

いつしか定期的な「MIDNIGHT J POPS」もなくなり、放送自体も不定期的な情況になっていった。

1997年に入ると、都内のコミュニティーFMも増え、自分も3月に開局したかつしかFMの深夜生番組に傾倒し、JOUT-FMは時々S局長が出てくる時だけメッセージを送る程度になっていった。

テープライブラリーで最後に記録されている同周波数でのJOUT-FM放送は97年8月24日。

そして、この年の後半になると、お役所の指導でも入ったのか、84.3MHzからの電波発信は途絶えてしまった。

この年の11月、JOUT-FMが使っていた周波数84.3MHzにFM江戸川が開局する。

曾ては「過疎地帯」だったFM放送帯は、コミュニティーFMの台頭で逆に「過密地帯」と化し、JOUT-FMのような強力なミニFMが恒常的に活動する場は失われたかのようだ。

しかしその後も、数年置きに周波数を替えてこのJOUT-FMはゲリラ的に出没し、往年の快放送を聞かしてくれている。

放送に気が付く度に、昔のファックスネームでメッセージを送ったりもする。

2009年現在、どうやら86.9MHzでエンドレスに音楽を流しているのがJOUT-FMらしい。2009年夏には日野市のミニFMとネットワークを組んで放送した記述をあるブログで見つけた。

かつての「MIDNIGHT J POPS」のような放送は無理かも知れないが、世がネットに表現の場をシフトさせている中、15年以上ひたすらFMにこだわるS局長には敬意を評したい。


5.終わりに

ラジオホームランにも関っていたメディア評論家粉川哲夫氏が自著の中で「ミニFMは自分で聞きに行くものだ」と述べているのを読んだ記憶がある。

放送エリアの狭いミニFMは自分で行動しないと聴取出来ない。自宅にいる限り、偶然に受信するというチャンスは殆どない。

1980年代半ばより10年程の間、自分が受信したミニFMは10局に過ぎなかった。

何故なら自らミニFMを「聞きに行く」という行為に、当時は殆ど興味がなかったからだと思う。

あの頃は、イベント会場等で頻繁にミニFMが開設されていた話はよく聞いた。だから恐らくアクティブにミニFMを「聞きに行った」人は膨大な受信記録を持っているだろう。

だから、このレポートは、当時のミニFM情況のほんの一断片しかフォローしていない。

2009年現在、数多の地域にコミュニティーFMが開局し、またネット上には膨大なネットラジオが開設されている。

クリック一つで全国のネットラジオをその場で聞く事が出来る時代が来たのだ。

また発信することも同様に容易である。自由な発言を誰に咎められる事もなく、日本中、いや世界中の人に聞いてもらう事が可能だ。

敢えて、今、ミニFMを開設する意義は殆どないように思われる。

今や「過去のメディア」と成りつつあるFMではあるが、しかし趣味としてのミニFMが「絶滅」するとは思えない。

自分もまた、聴取する時間は減ったとは言え、FMバンド帯をワッチして「未知の放送局」を捜す趣味は継続中だ。むしろ廃れつつあるメディアだからこそミニFMの魅力は増すのかも知れない。

まるで廃墟の中を探索するような面白さで。

参考文献/亜紀書房刊『全国ミニFM局マップ』

2009年11月記


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