アラン W アンダーソン(A) クリシュナムルティさん、私はあなたの最近の発言に大変驚きました、その中であなたは言いました、一人ひとりの人間が自分自身を変質させることに責任があると、そしてそれは知識や時間に頼らないことであると。もしあなたが宜しければ、私は、もし我々が変質自体の一般的な領域を一緒に検討するなら、それは素晴らしいことだと思いました、そしてそうすることで恐らくその他の関連する領域が明らかになり始めて、我々はそれらの間の関係を議論できると思いました。
クリシュナムルティ(K) 宜しいでしょうか、世界中で起こっていることを考えると、インド、ヨーロッパそしてアメリカで起こっていることを考えると、一般的な堕落を考えると、文学、芸術とりわけ深い文化的な意味で宗教の堕落を考えると、あなたはある伝統的な取り組み方が生じていると、権威や信仰を単に受け入れることが生じていると、宗教的精神では全くないそのようなことが生じていると思いませんか? これら全てを見てみると、そのような混乱、そのような目に余る悲惨さ、それらの尽きせぬ悲しさを感じると、真剣に観察する人間なら、この社会は一人ひとりの人間が自分自身を本当に徹底的に変質させるときにのみ、つまり根本的に自分自身を生まれ変わらせるときにのみ変わりうると言うでしょう。そしてそのことの責任は一人ひとりの人間に課せられています、大衆や聖職者や教会や寺院ではなく、この途轍もない混乱に気づく、政治的、宗教的そして経済的なこの混乱に気づく、あらゆる方面にこのような悲惨、このような不幸があることに気づく一人ひとりの人間に課せられています。そしてあなたがそのように見て取るとき、自分自身や他の人は本当に徹底的に変質しうるのかどうかを自分自身に問うことは非常に真剣なことです。そしてそのような問いが発せられるとき、人が自身の全体との関係で人にはどのような責任があるのかを見て取るとき、恐らく我々は人間の変質に知識と時間がどう関係するのかを議論できます。
A よく分ります。我々は何らかの基礎作業をする必要があります。
K はい。なぜならほとんどの人は起こっていることに、その無秩序に、現在の世界中の酷い混乱に真剣に関心を持たないからです。人々はエネルギーの問題、汚染の問題など、そのような表面的なことにのみ関心があるのです。人々は人間の精神に、世界を破壊している人間の精神に本当には深く感心を抱いていません。
A はい、よく分かります。あなたは一人ひとりの人間にそのような根本的な責任があると言ってきました。
K はい。
A 我々を救い出すべく期待できる五年計画というようなものはないと。
K 宜しいですか、“個人(インディヴィジュアル)”という言葉は正しい言い方ではありません、なぜならその言葉は、あなたが知っているように、宜しいでしょうか、自身の中で分断されていないこと、分断していないことを意味するからです。しかし人間は全く断片化されています、従って人間は“個人(インディヴィジュアル)”ではありません。人は銀行口座や名前や家を持っているかもしれませんが、人は“個人(インディヴィジュアル)”という言葉が意味する余すことなき全体、完全、調和、全体的、断片化されていないという点で本当は“個人(インディヴィジュアル)”ではありません。
A そうすると、あなたは、この断片的な状態から何らかの全体性へ動きだすこと、進むこと、あるいは変わること、この言葉が相応しいでしょう、我々は時間について話しているのではないので、そのように変わるということが人間の存在の何らかの変化と見なしうると言うのですか? そのように言えますか?
K はい、しかし宜しいですか、“全体的(ホウリィ)”という言葉は、健全なこと、健康であることだけではなく、神聖なことをも意味します。それら全てがその“全体的(ホウリィ)”という一語に含まれています。そして人間は決して全体的ではありません。人は断片化され、矛盾を含んでいて、人は様々な欲望によって引きちぎられています。ですから我々が個人というとき、その個人は本当に余すことなく完全に全体的な、健全な、健康な人間のことを言っていて、従って神聖な人間のことを言っています。そしてそのような人間を生み出すことが我々の責任です、教育的にも、政治的にも、宗教的にも、あらゆる点で。従って、それは教育者の責任であり、あらゆる人の責任であって、単に私自身の責任ではないのです、それは私自身の責任であると同時に、彼の責任でもあり、あなたの責任でもあります。
A それは一人ひとりの責任です。
K その通りです、なぜなら我々がこのような酷く混乱した世界を作り出したからです。
A しかしその一人ひとりの個人が正にまずスタートを切らなければなりません。
K それは人間の、一人ひとりの人間の行うことです、それが政治家であろうと、ビジネスマンであろうと、私のように市井の普通の人であろうと問題ではありません、それは世界中の途轍もない苦しみ、悲惨、混乱を悟ることです。そしてそれらを変えることが我々の責任です。
A それは一人ひとりの人間の責任です。
K はい、その人がインドに住んでいようと、イギリスに住んでいようと、アメリカに住んでいようと、どこに住んでいようと。
A もしそのような変化が起こるとするなら、それは我々一人ひとりに起こることです。
K その通りです、一人ひとりの人間に起こります。従って、そこからある問い掛けが起こります、人間は自分自身に対するだけではなく人類すべてに対する責任を真摯に悟るのかということです。
A 通常はそうならないでしょう。
K 明らかにそうなりません、誰もが自分自身のくだらない他愛のない自分本位の欲望に関心があります。そのように責任というのは途轍もなく気をつけていること、気を配っていること、気を抜かないでいること―不注意にならないこと―を意味します。
A はい、それは分かります。一人ひとりとの関係で“我々”という言葉が使われるとき、その言葉は我々がここですぐに恐らく検討できる何らかの関係性を暗示しています。我々一人ひとりと我々が全体と呼ぶ、個人というものが意味しないそれとの間には、何らかの分断できない関係があるように思われます。
K 宜しいでしょうか、ご存知のように、私は世界中を旅してきました、鉄のカーテンの中や中国は別です、竹のカーテンの中は別です。私は何千もの人たちと話してきたり会ったりしてきました。私はこのことを五十年以上行ってきています。人間はどこに住んでいようと大なり小なりみな同じです。人々は悲しみを抱き、恐れを抱き、生計の問題を抱え、個人的関係に悩み、生き抜くのに必死であり、人口過剰に相対し、死の途轍もない問題を抱えています―それは我々全ての共通の問題です。東洋の問題も西洋の問題もありません。西洋はそれ独自の文明を持ち、東洋もそれ自身の文明を持っています。しかし全ての人間がこの罠に囚われています。
A はい、それは分かります。
K 人々はそこから抜け出すことができないように思われます。人々はこれまで何千年もその中に囚われ続けてきています。
A 従って、問題は人がどのようにこれをもたらすのかということです。あなたが言い表したように、“個人(インディヴィジュアル)”という言葉は、“変質する”という言葉そのものに関係するように私には思われます。多くの人たちが考えているのは、何かを変質させるということは、それをそれが現にあるとおりのそれとは全く何の関係もないものにそれを全く変えることのように思えます。多くの人たちは我々が形を依然としてなしていながら何らかの変化をこうむる形について話しているのを見ようとしないように思われます。
K はい、そうです、分かります。
A そうでないと、その変化は何かを失うことに、全く失うことになるでしょう。
K そうすると我々はこのように問うているのでしょうか、つまり、知識は人間の再生の中で、人間の変質の中で、人間の中の根本的徹底的活動の中でどのような位置を占めるのかと。知識は従って時間はどのような位置を占めるのですか? それがあなたの問うていることですか?
A はい、そうです。なぜなら我々が正真正銘の変化はそれまであったものの絶滅を意味すると受け取るのか、それとも我々は依然として存在する何かの余すことのない変質について話しているのかのいずれかだからです。
K はい。それではその言葉をしばらく見てみましょう。革命という言葉の通常の意味は段階的な進化を意味しません、違いますか?
A その通りです。
K 宜しいですか、革命は流血の、政府を転覆させることなのか、それとも精神の中の革命のことなのかということです。外側のものなのかそれとも内側のものなのかということです。
A はい、外側かそれとも内側かということです。
K 外側のものは内側のものであり、内側のものは外側のものです。外側と内側との間に違いはありません、それらはお互いに全く関連しています。
A そうするとこのことはあなたが以前に言及したことに戻ります。知的に区別することがたとえあっても、“私”と“我々”との間に分断はないと。
K その通りです。そうすると、我々が変化について話すとき、我々は単に流血の物理的な革命を意味しているのではなく、我々は人間の精神の成り立ちの中に起こる革命について話しているのです、人の考える仕方、人の立ち居振る舞い、人の身の処し方、人の働き方、人の機能の仕方、それら全てについて話しているのです。それでは、そのような心理的革命の中で―段階的進化ではないその中で―知識はどのような位置を占めるのですか? 人の再生の中にです、それは外側のものに影響する内面的な革命です。
A そしてそれは段階的なプロセスではありません。
K 段階的なプロセスは限がありません。
A その通りです。そうすると我々は瞬時の質的な変化のことを話しています。
K さらに我々が“瞬時”という言葉を使うとき、それは突然起こるかのように思えます。それが私のその“瞬時”という言葉を使うことにやや躊躇する理由です。我々はそのことをすぐに検討します。最初に、宜しいでしょうか、あなたと私が話していることをはっきりさせましょう。我々は世界が置かれているぞっとするような甚だしい混乱を客観的に目にします、違いますか? その悲惨さ、その混乱、人間の深い悲しみです。
A はい。
K 世界中を旅して私が感じることを私はあなたに話すことができます。それら全ての、いわゆる西洋文明の取るに足らなさ、浅薄さ、空虚さ―そして東洋の文明もそれに引きずり込まれています。そして我々はいつも上っ面を扱っているだけで、我々は表面的な変化にすぎないもの―構造の中の変化―が全ての人間に途轍もない何かをもたらすと考えます。しかし実際にはそれは何ものももたらしませんでした。それは物事をそこかしこで洗練させますが、深いところでは根本的にはそれは人間を変えません。ですから我々が変化を議論しているとき、我々は我々が精神の中の変化を意味していることを、正に人間存在の変化を意味していることを極めて明確にしておくべきであると私は思います。つまり、人の思考の構造と性質の中のことです。
A 根本の変化です。
K 根本です。従ってそのような変化が生まれえるとき、人は自然に社会の変化をもたらすでしょう。社会が先ではありません、あるいは個人が先ではありません、社会を変質させるのは正に人間です。その二つは分離していません。
A それでは私はこのことを正確に理解する上で非常に注意深くなくてはなりません。
K 結局のところ、人間がこの社会を作ってきたのです。人間の欲望によって、人間の怒りによって、人間の暴力によって、人間の残虐性によって、人間の狭量性によって人間がこの社会を作ってきたのです。
A その通りです。
K そして人々はその構造を変えることによって人間を変えようと考えます。これが共産主義者の問題となってきました、これが永遠の問題となっています、つまりもし我々が環境を変えれば我々は人間を変えるというものです。人々は様々な方法でそのことを試みてきて人間を変えることに成功してきていません。反対に人間は見ての通り環境を征服します。
そこで、はっきりさせましょう、外のものは内のものであり、内のものは外のものであることを、社会と個人、集団と個々の人間には分断がないということを、そして人間はその全体であり、人が社会であることを、そして人は分離した一個人となり、その個人がこのような無秩序を生みだす要因であることを。
A はい、このことは非常によく分かります。
K 従って、人が世界であり世界が人です。
A はい。従って、もし人が変わればあらゆるものが変わります。もし人が変わらなければ何も変わりません。
K 私はこのことは非常に重要であると思います、なぜなら、私は思うのですが、我々はこの基礎的な要因を悟らないからです、我々は世界であり世界は我々であること、世界は私と分離した何かでもなければ私は世界と分離してもいないということを悟らないからです。あなたがどのような文化の中に生まれようと、あなたはその文化の産物です。そしてそのような文化がこの世界を作り出してきました。西洋の物質的世界、もしそのように呼べるなら、その世界が全地球上に広がっていて、あらゆるものが西洋文化の後塵を拝します、そしてこのような文化がこのような人間を生み出してきて、そのような人間がこのような文化を作り出してきました。
A その通りです。
K 人は様々な絵画を、驚くべき大聖堂を、驚くような技術的産物を作り出してきました、そして月へ行くなどをしてきました、人間はそれらのことを成し遂げてきました。しかし我々が住む腐敗した社会をも作り出してきたのも正に人間です。我々が住む不道徳な社会は人間によって作り出されてきました。
A はい、そのことに疑う余地はありません。
K 従って、世界はあなたであり、あなたが世界です、他に何もありません。もしあなたがそのことを受け入れるなら、もしあなたがそのことを見て取るなら、知的にではなく、あなたの心や精神や血肉の中に感じるなら、人間は自分自身を内面的に、従って外面的にも変質させることができるのかと問うことになります。
A 私はいま頭に浮かんだ二つの聖句の観点からこのことをできるだけはっきりと見てみたいと思います。私はヨハネ伝の第三章の中のあの素晴らしい聖句を考えています、それはギリシャ語で書かれているのでそれを訳すと、それは“真理をなす者は光になる”と言います。それは真理をなし、そののち光になるということではありません。そしてそれは我々が真理は何かをあなたに話しますと説教師の導きから言えることではありません、もしあなたがそれを行うならあなたはそれを見るのです。なぜなら我々はあなたが以前言ったことへ戻るので、それ自体が変質である行動と...との非時間的関係...
K そうです。
A ...そして理解の驚くべき見極め方、それは“もし...なら、そうすると...”の様なことではなく、正に同時に起こることです。そして頭に浮かんだもう一つは、あなたに同意してもらいたいと思ったことは、同じことを言っています、もし私があなたの言った点についてよく理解しているなら、そしてもう一度できるだけ文字どおりに訳すと、“神は愛であり、愛の中に住んでいるものは神の中に住んでいるのであり、そして神はその人の中に住んでいる”と言うものです。
K そうです、そうです。
A 私は言語自体の性格のためにそれら全ての言葉を“進行形”で表現しました。そしてこの“進行形”が時間に縛られていない何らかの活動がここにはあるという感じを与えます。
K それは滞った状態ではありません。それは知的に受け入れて、それをそのようにしておく何かではありません。そうするとそれは死であり、その中には何もありません。
A はい。
K それが、宜しいですか、我々の物質的世界を東洋と西洋として分断してきた理由です。我々は自分自身を異なる宗教に分断してきました、我々は世界を様々なナショナリティに分断してきました、資本主義者そして社会主義者、共産主義者やその他のものなどに分断してきました。我々は自分自身を断片化してきて、互いに対立しています、そして何らかの分断があれば争いが起こります。
A その通りです。
K 私はそれが基礎にあると思います。
A 何らかの分断があるところには争いが起こる。しかし“知識”というその言葉の立場から見ると、人々は分断がそこにあるということからスタートすることに疑いを抱かないように思えます、そして人々はそのような固い信念に基づいて行動します。
K それが私の、我々のトークの最初から、世界は私と異ならないということ、そして私が世界であるということを理解することが非常に重要であると言っている理由です。これは非常に単純な言い回しに聞こえるかもしれませんが、それはもしあなたがその意味することを悟れば、知的にではなく、それを内面的に理解すれば、それは非常に深い根本的な意味を持ちます、従って分断が起こりません。私が私は世界であり、世界は私であると悟るや否や、私はキリスト教徒でもなければ、ヒンズー教徒でもなく、仏教徒でもありません、何ものでもありません、私は人間です。
A 私は、あなたがそのように言っているとき、正に考えていました、数種類の哲学的分析がどのようにこのことに取り組んでいるのかを、なぜならある人たちには、あなたが言ったように、それは単純な言い回しに聞こえるかもしれないからです。彼らは言います、そうですと、従って我々はそのことに注意を払う必要はありませんと、そして他の人たちは言います、それは恐らく明瞭性に欠けるので、それがたとえ深いことを意味していても、それはある種の神秘主義であると。そうして我々は分断されたまま右往左往しています。
K 分かります、分かります。
A そのように私はあなたの言っていることが分かります。
K そうするともしそのことが明瞭なら、人間の精神がそれ自身の安全を見つけるために世界を分断してきて、そのためにそれ自身の安全を喪失していることがはっきりするなら、人は内面的にも外面的にもこのような分断を否定しなければなりません、我々と彼ら、私とあなた、インド人とヨーロッパ人、資本主義者と共産主義者などの分断です。あなたはこのような分断の正に根を断つのです。従って、そのことから次の問い掛けが生まれます、何千年もそのように条件づけられてきた人間の精神は、とても多方面の知識を獲得してきた人間の精神は変わることができるのか、それ自身を再生できるのか、そして自由に今に生まれ変われるのか、という問い掛けです。
A 今に、です。
K それが問い掛けです。
A それが問題です、その通りです、“今に生まれ変わる”、ということです。あなたの言ったことからすると、収集蓄積された壮大な量の知識、その何世紀もの産物は、どこかの文化について我々が話しているのではなく、我々が自分自身に問い掛けてきた議論ということであり、この分断についての注釈としてのそれであると言いうるように思えます。
K 全くその通りです。
A 分断それ自体を本当には捉えることなく。そしてもちろん、その分断は限りなく分断され...
K もちろんです。
A そうして我々は墓に次ぐ墓に次ぐ墓、図書館に次ぐ図書館、書籍の墓場を限りなく手にします、なぜなら我々はその分断を絶えず更に分断しているからです。はい、分かります。
K そして、宜しいですか、それが文化の文明と異なる理由です。文化は成長を意味します。
A はい、そうです。
K 善いことの開花の中の成長。
A 素敵な表現です。
K それが文化です、本当の文化です、善きことの開花です、そしてそれは存在しません。我々は文明を手にしています、あなたはインドからアメリカへ数時間で行けます、あなたはあらゆる複雑なことを伴いながらもより素敵な浴室、より素敵なあれやこれを手にします。それが西洋文明になっていて、それが東洋を飲み込んでいます。それでも善きことが文化の正に本質です。“宗教”は人間が変質することであり、あらゆる信仰、教会そしてキリスト教徒やヒンズー教徒などの偶像崇拝ではありません。それは“宗教”ではありません。
そこで我々は要点へ戻ります。もし人が世界中のこれらを見て取るなら、それを観察するなら、それを非難したり、それを正当化したりするのではなく、それをただ観察するなら、そこから人は問い掛けます、つまり、人はそのような途轍もない情報や知識を収集してきて、そのような知識が人を善き存在に変えてきましたかと。お分かりですか、そのような知識は人を善き美の中に花開かせる文化に人を変えてきましたかと。それはそうしてきませんでした。
A はい、そうしてきませんでした。
K 従って、それには意味がありません。
A 善きことを定義しようとしても我々を助けることにはなりません。
K 説明や定義を思いついても、定義は現実のものではありません。
A もちろん違います。
K 言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません、何らかの表現は表現されようとしているその当のものではありません。
A 全くです。
K そこで我々は同じ要点に再び戻ります。なぜなら個人的に私は途轍もなくこの問い掛けに関心があるからです、つまり、人をどのように変えるのかということです。私は毎年三か月か四か月インドへ行きます、そして私はそこで起こっていることを見ます、そして私はヨーロッパで起こっていることを見ます、そして私はこの国で、アメリカで起こっていることを見ます、それらの国々へ行くたびに私がどれほどのショックを受けるか私はあなたに言うことができません、その堕落、その皮相性、何の実質もない夥しい知的概念、善きことの美や真実が花開く何の基礎も土台もないそれらを目の当たりにします。そうすると、知識は人間の再生の中でどのような位置を占めるのですか? それが基礎的な問い掛けです。
A それが我々の出発点です。はいそうです。そして我々が我々の議論の中でこれまで指摘してきた知識はそれ自体この変質に及ぼす何の力もありません。
K はい、そうです、しかし知識にはある役割があります。
A はい、私はそれを否定するつもりはありません。つまり図書館などに収集されているこのような知識から期待されることは、それ自身が満たすことができない何らかの期待です。
K はい。私はその言葉に戻らなければなりません、“知識”という言葉です、“知る”ということはどういうことですか?
A 私はその言葉を厳密な意味でこのように理解してきました、つまり、知識は“現実”を理解することであると、しかし知識として通用するものはそれではないかもしれません。
K はい、一般的に知識として受け取られているものは経験です。
A はい、それが一般的に受け取られているものです。
K 我々はそこから始めます、なぜならそれがそのように一般的に受け取られているからです、その経験が知識である何らかの痕跡を生みます、あるいは残します。そのような収集蓄積された知識が、科学の世界であろうと、生物学の世界であろうと、ビジネスの世界であろうと、精神や存在の世界であろうと、既知のものです。既知のものは過去のものです、従って知識は過去です。知識は現在の中にはありえません。私は知識を現在の中で使えるにすぎません。
A しかしそれは過去に基礎を置いています。
K はい。そのルーツは過去の中にあります。私は個人的にバガヴァッドギーターやウパニシャッドなどそれらのいかなる本も読みません、心理学的ないかなる本も全く読みません、一切読みません。私は本を読みません。私は私の生を悉く途轍もなく観察してきました。宜しいですか、知識にはその役割があります。
A はい、あります。
K この点をはっきりさせましょう。実際の、技術的な事柄に関して、私は私が物理的に行こうとしている場所など知っていなければなりません。それでは、そのような人間の経験は科学的知識と同様に、残酷で、暴力的で、取るに足らなくて、自分本位で、貪欲で、野心的などその他のあらゆることになっている精神の質を変えるとき、どのような役割を果たすのですか? 知識はそのときどのような位置を占めるのですか?
A 我々は我々が最初に言っていたことに戻っています、つまり、このような変質は知識に依らないと、そうすると答えは、それには役割はないということになるでしょう。
K 従って、知識の限界とは何かを明らかにしましょう。
A はい、もちろんです。
K どこにその限界線が引かれるのですか、既知からの自由、そのような自由はどこから始まるのですか?
A はい、そうすると私は我々がどこから進めようとしているのかがよく分かります。そのような自由はどこから始まるのか、それはこの蓄えられた過去の産物に頼らないのかということです。
K その通りです。そのように人間の精神は知識で作り上げられます、それは何千年もの間この産物に寄りかかって、伝統に、知識に寄りかかって進化してきました。
A はい。
K それはそこにあって、我々の全ての活動がそのような知識に基づいています。
A それは当然にも繰り返しになるに違いありません。
K 明らかに、それは繰り返しです。そうすると、知識との関係でいうと自由はどのように生じますか? 私の言うことをはっきりさせるためにこのように言ってもいいですか? 私は昨日何かを経験して、それが何らかの痕跡を残しています。それは知識です、そしてその知識で私は次の経験に相対します。そうすると、その次の経験は古い経験の立場から解釈されます、従ってその経験は決して新しくありません。
A そうすると、ある意味で、もし私があなたの言うことを正しく理解しているなら、あなたは言っています、昨日の経験、私が思い出す経験は...
K 思い出すことです。
A ...それに何らかの関係があると思われる新しい何かに私が相対するとき、私は私の以前の知識を鏡として手に持って、その鏡にこの新しい何かを映してその性質を決定するように取り組む...
K そうです。
A ...そしてこの鏡は非常に歪んでいる!
K 一般的にそうです。宜しいですか、それが私の言わんとすることです。知識との関連で自由はどこにありますか? あるいは、自由は知識の継続とは別の何かですか?
A それは別の何かのはずです。
K それが意味するのは、もし人がそのことを非常に、非常に深く検討するなら、知識の消滅です。
A はい。
K そうすると、それは何を意味します、知識を消滅させるとはどういう意味ですか、私が全く知識に頼って生きてきているとき。
A それはそれを即座に消滅させることを意味します。
K あーっ、待ってください、待ってください。それがどういうことかを見てください。私は昨日あなたに会いました、そしてあなたのイメージが私の頭の中に残っています、そしてそのイメージを持って次の日に私はあなたと会います。
A はい。
K そのイメージがあなたに会うのです。
A そのイメージが私に会います。
K そして数十のイメージあるいは百のイメージがあります。そのように、そのイメージが知識であり、そのイメージが伝統であり、そのイメージが過去です。それでは、それから自由になりえますか?
A もしあなたの言うこの変質が起こるなら、なりえるに違いありません。
K もちろんです。従って、我々はそれを述べることができます、しかしイメージに則って、知識に則って、既知のものに則って励み、行動し、機能する精神がどのようにして、それがどのようにしてそれを消滅させるのですか? この非常に単純な事実を取り上げましょう、あなたは悲しんでいます、あるいはあなたは私を褒めます、そしてそれが知識になります、そしてそのイメージで、その知識で私はあなたに会います。ですから私は決してあなたに会っていません。そのイメージがあなたに会います。
A その通りです。
K 従って、あなたと私とは何の関係もありません。
A はい、なぜなら我々の間にこのイメージが割って入るからです。
K もちろんです、それは明らかです。従って、そのようなイメージはどう消滅するのでしょうか、それを決して記憶に残さないためにはどうすればよいのでしょうか? お分かりでしょうか。
A 他の誰かにそのようにしてもらうことはできません。
K 従って、私は何をすればよいのでしょうか? いつも記憶にとどめている、いつも記憶しているこの精神は、頭脳の機能はいつも記憶することですが、それはどのようにして知識から自由になるのでしょうか? あなたが個人的にあるいは集団的にであれ何であれ、私を傷つけたとき、あなたが私を侮辱したとき、私にお世辞を言ったとき、頭脳はそれをどのようにして記憶しないようにするのですか? もしそれが記憶するなら、それはすでに何らかのイメージであり、記憶です、そしてそのような過去の何かが現在に相対します、そうするとその解決にはなりません。
A その通りです。
K 私は先日“伝統”という言葉を非常によい辞書で調べていました。もちろんその言葉の通常の意味は、与えること、渡すこと、引き渡すことです。しかしそれにはもう一つ特別な意味があります、裏切りです。
A はい、そうです、事実を曲げて言うことです。
K 事実を曲げて言うことです。そしてインドで議論しているとき、このことが露わになりました、“現在”を裏切ることです。もし私が伝統の中を生きているなら、私は“現在”を裏切っています。
A はい、それは分かります。
K それは知識が“現在”を裏切ることを意味します。私は“現在”を裏切っています。
A それは事実として自己を裏切ることです。
K はい、その通りです。
A はい、それは分かります。
K そうすると、知識に基づいて機能している精神は、いつも記憶している頭脳はどのようにしてそれを終わらせるのですか、記憶することの重要性を見て、そしてそれが他のいかなる方向へも向かわないようにするにはどうすればよいのでしょうか? それは、宜しいでしょうか、それをこのように言わせてください、非常に単純に言わせてください、つまり、あなたは私を侮辱します、あなたは私を傷つけます、言葉で、仕草で、実際の行動で、そしてそれが頭脳に記憶として痕跡を残します。その記憶は知識です、その知識が次にあなたと会うとき割って入ります、それは明らかです。それでは、どのようにして頭脳は、そして精神も同様に、記憶してそれを“現在”に干渉させないようにするのですか?
A 人は否定するのに骨を折ると私には思えます。
K いいえ、それが何を意味するか見てください、どのようにして私はそれを否定するのですか? どのようにして頭脳は、記憶することがその機能である頭脳は、コンピューターのように記憶している頭脳は...
A 私はその記憶していることを否定すると言っているのではありません。しかしそれは連想であり、記憶していることを感情的な何か複雑な心理に置き換えることです。
K 正にそれが要点です、どのようにしてそれはこの感情的な反応を、私があなたに次に会うとき、私を傷つけたあなたに会うとき、消滅させるのですか? それが問題です。
A それがそこから我々が実際に始めなければならない地点です。
K はい。
A その通りです。理論的なことと実際のこととの関係という点で私が非常に惹かれるこのような局面があります。
K 宜しいでしょうか、私には理論は何の現実味もありません。理論は実際に生きている人にとっては全く重要ではありません。
A 理論ということで私の意味することを話してもよいですか? 私が意味するそれは、あなたが私はそう意味すると思っていることではないと思います。私は理論をギリシャ語で言う“光景”つまり、“私が目にするそこにあるもの”という意味で捉えます。従って、その言葉はあなたが知識という点から話してきたことに密接に関連しています。しかしもし我々が何かを見るなら、その何かはそれに近似する何かとして我々の頭の中に記憶されます、そうではないなら、我々はそれを受け取るためにそれになる必要があるはずです、しかしそれは物質的世界では我々を絶滅させることになります。私には、もし私があなたを正しく理解しているなら、有限の存在にとってのそのような必要性とそれをどう思うかとの関係の中に深い混乱があるように思われます。そして人がそこで間違っている限り、人は絶望的な問題を抱えて、それを繰り返して行くだけになります、そしてそのような繰り返しの中で絶望が増大します。
K 宜しいですか、宗教は伝統に基づいています。宗教は壮大なプロパガンダです、現にあるとおりです。インドでもここでもどこでもそれは理論の、信仰の、偶像崇拝のプロパガンダです、とりわけ何らかの理論を受け入れることに基づいています。
A はい。
K とりわけ何らかの観念に基づいています。
A 何らかの言明であり、一つの仮定です。
K 思考によって紡ぎだされた観念です。
A そうです。
K そして明らかにそれは宗教ではありません。そのように現に存在する宗教は真理の正に否定です。
A はい、あなたの言うことは確かに分かります。
K そしてもし人が私のように真理が何かを明らかにしたいと思うなら、それを発見したいと思うなら、人は現にある宗教の全構造を否定しなければなりません、それは偶像崇拝であり、プロパガンダであり、恐れや分断です、あなたはキリスト教徒であり、私はヒンズー教徒です、それら全てのナンセンスを否定しなければなりません、そして人は自分自身の光でなければなりません。その言葉の空虚な意味でではありません。世界が闇の中にあるゆえの光です、そして人間は自分自身を変質させる必要があります、自分自身の光である必要があります。そしてその光は他の人によって灯されることはないのです。
A そこで人が自分自身を繰り返すことを止める地点に至ります。ある意味で我々は恐らく外科的なアナロジーでこのことが言えると思います、つまり、繰り返してきた何かが今摘出されると。
K はい。
A 根こそぎ摘出されると、ただ弄ぶのではなく。
K 我々にはもう弄ぶ時間はありません、足もとに火が付いています。少なくとも私はこのことを途轍もなく感じます、事態は一人ひとりが何かをしなければならないところまで来ています。より良い家やより安全やもっとこれやあれというようなことではなく、根本的に自分自身を再生することです。
A しかしもし人が自分自身をカットしてこのひと固まりから自由になるとき、人は自分自身を葬っていることになるに違いないと思うなら、人はそのような考えに抵抗します。
K もちろんです。従って、人は人間の精神が作り出してきたものを理解する必要があります、従って人は自分自身を理解する必要があります。
A そうすると人は自分自身を観察し始めます。
K 自分自身です、そしてそれは世界です。
A はい。 ...しようと五つの言語を習うことではありません。
K 感受性を磨くためなどそれら全ての馬鹿げたことのために教室に通うことではありません。
A あなたが指摘していることはデンマークの偉大な思想家であるキルケゴールも指摘していることのように私には思えます、彼は彼の住む地域社会で非常につらい思いをさせられました、というのは、彼はあなたが言っていることを彼の地域社会の人たちが理解するように願ったからです。彼は言っていました、もし私が神学校へ通い、キリスト教がどういうものかを自分自身で学習して理解しようとするなら、私が行っていることは何かを適合させることです、しかし、そうするといつ私は私がそれを完全に適合させたと知るのですかと。私は決して“そのとき”を知ることはありません、従って、私は永遠にそれを適合させようとして、私は決してそれについて何かをすることはないでしょう、そのこと自体を、そのテーマを実際に試みることはないでしょう。人はそれを正に行わなければなりません、それを言葉で表現することではなく、誰かが以前に考えたことを通して単に考えるのではなく、そのことに関わる自分自身を観察してその意味することを実際に体現することです。そしてそれは非常に深い洞察であると私にはいつも思われました。このことの皮肉の一つは、もちろん我々は学者たちがキルケゴールを理解するためにデンマーク語を習ってきて手に入れたその学問を限りなく増殖させます、そして人々が行っていることの大部分は、もし私が私の読んできた多くの精神を誤解していないなら、彼が正に摘出されるべきものと言ったものを単に継続していることになるのです。私はこのような非常に強い感情を抱きます、もし教師があなたの言ったことを単に把握するだけではなく、それを実際に行ってみるなら、深い変化が起こるだろうということです。というのは、もしそれが行動に移されないなら、我々は元の木阿弥になるからです。我々は勇気という観念や勇敢という観念を弄んできましたが、我々はそのように振る舞う前にその意味することについて考えて、我々はそう振る舞いません。
K なるほど。
A 我々は考えることをして行いません。
K 従って、宜しいでしょうか、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。表現は表現されているその当のものではありません、そしてもしあなたが表現に関心がなくてそのものに、“現実”に関心があるのなら、我々は何かを行う必要があります。あなたが“現実”に相対するとき、あなたは行動します、しかしあなたが理論や推測や信念に関心があるとき、あなたは決して行動しません。
A そうするとこの変質は望めません、もし私があなたを正しく理解しているなら、もし私が“私は世界であり、世界は私である”という発言を素晴らしいことだとただ自分に言い聞かせて、一方では表現は表現されている当のものであると考えているなら、この変質は望めません。そこで我々は何らかの病気のことをここで話しています、我々はその病気の症状として言われていることについて話しています、そしてもし私が言われたことをその症状として受け取るなら、その症状そのものとして受け取るなら、私はその表現が表現されている当のものであると考えています。
K もちろんそうです。
A そうすると私は決してそこから抜け出せません。
K 宜しいでしょうか、空腹の人のように、空腹を満たすような食べ物をいくら表現しても、その人の空腹は決して満たされません。その人はお腹が空いているのであり、食べ物が欲しいのです。そのように、これらのことは、宜しいでしょうか、幾つかのことを意味します、違いますか。一つは、知識から自由になりえるのかということです、そして知識にはその役割がありますが、知識としての伝統から自由になりえるのかということです。
A 知識としての伝統から、はい。
K この分離的な様相から自由になりえるのかということです、私とあなた、我々と彼ら、生の中のこれら全ての分断的態度や分断的活動です。それらは我々が気をつけなければならない問題です。
A それは我々の対話を通じて我々が気をつけなければならないことです。
K そこで最初に精神は既知から自由でいられるでしょうか、言葉の上ではなく、実際に。
A 実際に。
K 私は自由が何かを、そしてその他の全てを推測できます、しかし私は既知からの自由がなければならないことの必要性、その重要性を見て取ることができますか、もしできなければ生は何の意味もない表面を絶えず引っかき回しているだけの繰り返しになります。
A もちろんです。次の会話で、私は我々がこのことを更に推し進めることができたらよいと思います。
1974年2月18日
中野 多一郎 訳