アラン W アンダーソン(A) 我々の前回の会話で我々は人間の変質に関する宗教について話していました、知識や時間によらない変質のことです、そして我々の議論の中であなたはあなたが宗教をその本当の意味で気をつけている行為と関係していると考えること、そして人がいまだに傷を負っているときは、この気をつけている行為が無効になること、それはありえないことであることを話しました。そして議論の終わりのほうで我々は愛のことに触れました、ですから恐らく我々は今愛の問題を検討できると思います。
クリシュナムルティ(K) 宜しいでしょうか、あなたが“検討する”という言葉を使うとき、あなたはそれを知的に使っているのですか、知的に検討しようとしているのですか、それともその言葉との関係の中で検討していて、その言葉の中に我々自身を露わにする鏡を見ているのですか?
A 後者でありたいと思います。
K つまり、その言葉はその中で私が人間として観察している鏡です。そうすると“検討する”という言葉は私自身をあなたが使ってきたその言葉の鏡の中で観察することを実際に意味します。その言葉はそうするとそれが伝えようとするその当のものになります、単に言葉それ自体ではありません。
A はい。
K 従ってそれは知的でもなければ理論的な検討でもありません。
A それは瞑想の始まりになりえます。
K それが私の極めてはっきりさせたいと思うことです。そして“検討する”ということは精神が非常に真剣であること、単に何かを成し遂げたいと思う欲望に囚われていないこと、隣人の愛をどのように得ようとかに囚われていないことをも意味します。お分かりでしょうか。
A はい。
K そのように私は我々がその言葉を検討するとき、その意味や意義を検討するとき、人は非常に非常にそのことに真剣になる必要があると思います、なぜならこの言葉はとてもだらしなく使われているからです、それはとても堕落してきています―神を愛するとか、私の妻を愛する、私の財産を愛する、私の国を愛する、読書を愛する、映画を見るのを愛するなどです。そして我々の困難の一つは現代教育が我々を真剣にさせないことです。我々は様々な専門家になっています―一級の医者、一級の外科医、一級の物理学者などです。専門家がそのように脅威になっています。
A 博学な知ったかぶり。
K 教育は、我々が以前言っていたように、人間の精神が真剣なこと、生きる意味とは何かを真剣に明らかにすること、ただ単に何かの専門家にどのようになるのかではないことを鼓舞し見て取ることです。そうするともしそれら全てが理解されるなら、愛とは何ですか? 愛は快楽ですか? 愛は欲望の表現ですか? 愛は性的な欲求が満たされることですか? 愛は欲望の対象の追求ですか? 家族と、女性と、男性と一体化することですか? 愛は培うことができるものですか、それは私が愛を手にしていないとき育てられうるものですか? そうすると私はそれについて考えて、私は私の隣人の愛し方を知るためにあらゆる種類のことを行います。
A 我々は時々人はそれに取り組む必要があるという訓戒を聞きます。これまでの我々の会話からすると、それはそれの否定であると思います。
K それでは愛は快楽ですか? 明らかに今はそうです。
A それはそこまで落ちてきていると思われます。
K それが我々の愛と称するものです。神を愛することです。私は神が何なのか知りません、それでも私は“彼”を愛することになっています。従って私は私の世俗的な快楽を、物的快楽を、性的快楽を私が神と称するより高いレベルへ引き上げます。それは依然として快楽です。そうすると愛との関係で快楽とは何ですか? 愛との関係で喜ぶとはどういうことですか? 喜びとは何ですか、無意識的に感じる喜びとは何ですか? 私が喜びを認識するや否や、それは消え去ります。そして喜び、喜ぶことや快楽と愛との関係は何ですか? もし我々がそれを理解しないなら、我々は愛とは何かを理解しないでしょう。
A はい、私はあなたの言っていることが分かります。
K 起こっていることを取り上げます。愛はセックス、性行為、性愛と同一視されてきました。お分かりでしょうか。
A その言葉の正に成り立ちがそうです、英語で言う“性行為”や“性行為をする”という表現が正にそのような言葉から成り立っています。
K それは恐ろしいことです。それは私にはショックです、“性行為”が愛であるかのようです。宜しいでしょうか、西洋文明はこのことを全地球上に広げました、映画で、書物で、ポルノグラフィそしてあらゆる種類の宣伝活動で広げました、愛の感覚がセックスと同一視されます、つまり、それは基本的に快楽です。
A 性的魅力を謳い文句にする産業は全てそれに基づいています。
K それに基づいています。全てのことがそうです。そうすると精神は―再度我々はこの点に戻らなければなりません―精神は快楽の性質とその愛との関係を理解できますか? 快楽を追求している精神は、野心的な精神は、何かを競う精神は、私は生から何かを得なければならない、私は自分自身や他の人たちに報いなければならないという精神は、そのような精神は愛することができますか? それは性的に愛することができます。しかし性愛が唯一のものですか? なぜ我々はセックスをそのように途方もないものにしてきたのですか? それについて大量に書かれています。もし人がこのことに非常に非常に深く踏み込まないなら、他のことは理解さえできません。我々は果てしなく愛とは何か、愛ではないのは何かを理論的に話すことができます。しかしもし我々がその愛という言葉を内面的に何が起こっているのかを見る鏡として使うなら、私は必然的にそれが様々な形をした快楽であるのかどうかを問わなければなりません。突き動かされて、攻撃的になって、欺いて、冷酷になってトップの座についた人は―彼は愛とは何かを知りえるのですか? 果てしなく神について語る聖職者は、司教さらに大司教や何かになりたいと野心を抱いている聖職者は―イエスの横に座りたいと...
A イエスの右腕になりたいと...
K そのように、それを語るそのような聖職者は愛の意味を知りえるのですか?
A いいえ、彼は低次の愛の否定に基づく高次の愛と称するものを持ち出してその意味を知りえると考えます。
K それはただの言葉です。
A そのような葛藤の中には愛はありえません。
K そのように我々の全社会的構造、倫理的構造は非道徳的です。
A はい。
K 宜しいでしょうか、これはぞっとすることです。そして誰もそれを変えたいと思いません。反対に、人々は言います、はい、続けよう、それに磨きをかけよう、違うもっと心地よい色で飾ろうと。そのようにもし人が本当にこの愛と称するものに出合うことに関心があるなら、人は快楽の役割を理解しなければなりません、それが知的な快楽であろうと、快楽としての知識の獲得であろうと、権力としての地位の獲得であろうと、お分かりですか、そして人はそれら全てを否定しなければなりません。そしてどのようにすればこの腐敗した社会的な条件の中で鍛えられてきている、条件づけられてきている、維持されてきている精神が、それが愛を語る前に、それ自身を自由にできるのですか? それは最初にそれから自分自身を自由にしなければなりません。そうでなければあなたが愛を語っても、それは意味のないただの別の言葉にしかすぎません。
A 我々は、特に西洋文化の中にあって、非常にセックスに囚われているように思われます。一方で、我々はもし我々が性的に成功しないと不幸になると脅されます。しかし他方で、全ての臨床心理学はこれまで性の病理学に焦点を当ててきていて、我々を自由にする研究としてそれ自体が何とか可能になるように焦点を絞ってきています。それら二つの相互の活動が、一方の成功したいという願望と他方のその衝動のどこが悪いのかを研究する必要性が何らかの麻痺をもたらします。
K はい、そのように、宜しいですか、これが、セックスが、今や正に世界中でそのように途轍もなく重要になっています。アジアでは人々はそれを隠します、人々はそれについてそこでは話しません。もしあなたがセックスついて語るなら、それは良くないことです。ここではあなたはそれについて果てしなく語ります。しかしそこではあなたは確かなことは語りません、あなたはそのことを寝室で語ります、あるいは寝室の中でさえも恐らく語りません。そうしません。そして私がインドでトークをするとき、私はそれを持ち出します。人々は少しショックを受けます、なぜなら宗教的な人はその種のことを扱わないと思われているからです!
A 彼はそれを超えていると思われています。
K 彼はそれを超えていると思われている、彼はそれについて語ってはいけないのです。なぜセックスはそれほど重要になっているのですか? 宜しいですか、愛は、結局のところ、“私”の完全な不在感覚です―私の自我であり、私の野望であり、私の貪欲です―それら全ての完全な否定です。否定です、残忍な否定でもなく、外科的な手術でもなく、それを理解することです。“私”が存在しないとき、他の何かが存在します。それは明らかです。それはとても単純なことです。宜しいでしょうか、私は言われました、キリスト教徒の仕草、十字を切ることは非常に非常に古い古代のシンボルであって、それはキリスト教徒がその仕草を取り入れる前からのものであると。それは“私”を拭い去ることを意味していたと。
A 私はそのことをこれまで聞いたことがありません。
K 私を拭い去るのです。お分かりでしょうか。そこで我々がこの愛の問題を検討しているとき我々は快楽を検討しなければなりません、あらゆる形の快楽です、そしてそれの愛との関係です、この決して招き入れられないものです。世界はセックスを計り知れないものにしてきました、そして世界中の聖職者たちはそれを否定してきました。彼らは女性を見ようとしません、内に性欲で身を焦がしていても。彼らは目を塞ぎます。そして彼らは言います、独身者だけが神のもとへ行けると。そのような発言の馬鹿馬鹿しさを考えてください! そのように、セックスをするものは誰でも永久に罵られます。
A そうするとあなたは我々がいかにこのことに落ちて行ったのかを説明する何らかの物語を発明する必要があります。
K そこへ落ちて行った。聖母マリアの考え方が全てそうです。
A はい、全てのことです。
K それは茶番です。それではなぜ我々はセックスをそのように幻想的なものに、ロマンティックなものに、感傷的なものにしてきたのでしょうか? それは知的に我々が損傷しているからですか? 我々が二番煎じな人間だからですか? 私はプラトンやアリストテレス、ブッダなど誰かの言ったことを鸚鵡返しに繰り返します、従って私の精神は三流です。そのようにそれは決して自由ではありません、つまり、知的に私は何らかの奴隷です、情動的に私はロマンティックに、感傷的になります。そして唯一の逃げ道がセックスです、そこでは私は自由です、もし男と女が同意するなら、もし両者が拒否反応を起こさないなどその他の全てなら、それが唯一の扉であり、そこを通って私は言えます、お願いだから、私は少なくともここでは自由だと。オフィスで私はいじめられ、工場で私はただレバーを引くだけです。ですからそれが私にとって唯一の逃げ道です。インドの、貧しい村の農夫たちにとっては、それが彼らの手にする唯一のものです。そして宗教は他の何かとして見られます、つまり、私は我々が独身でいるべきであることに同意します、我々はその他の全てであるべきなのに同意します、しかしお願いだから、我々の快楽やセックスについては放っておいてください。そのようにそれが現実であるように見えます、つまり、我々は知的に、倫理的に、精神的に損傷を受けている堕落している人間です、そしてセックスが我々に何らかの慰安や何らかの自由をもたらす唯一のものです。
その他の領域では私に自由はありません、私は毎日オフィスへ行かなくてはなりません。私は毎日工場へ行かなくてはなりません、私は週に三回映画を見に行かなくてはなりません、あるいはあなたが何をしようと、あなたはそうしなければなりません、そしてついにここでは私は男なのです、私は女なのです。そのように私はセックスを途轍もないものにしてきました。そしてもし私が性的でないなら、私はなぜ私はそうではないのかを明らかにしなければなりません。私はそれを明らかにすることに何年も費やします。お分かりでしょうか。書物が書かれます。それは吐き気を催すことであり、愚かなことになっています。そして我々はそのことに関連して独身とは何かも明らかにする必要があります。なぜならあらゆる宗教が独身でいなければならないことを語ってきたからです。キリスト教徒は聖母マリアのことを話します、そして仏教徒にもブッダについて同じような話があります、つまり、彼らはセックスを宗教と結びつけたくないからです、それでもあらゆる聖職者がそれで身を焦がしています、そこで彼らは言います、あなたは独身でいなければなりません、独身の誓いを立てなさいと。
そうすると独身とは何ですか? それはそこに、あなたの心の中に、あなたの精神の中にあるのですか? それともそれはその行為を示すだけですか?
A もし私があなたを正しく理解してきているなら、それは私にはあなたがセックスをここでは実利的な仕方で経験されるものとして指摘しているように思われます。それは目的のための手段であり、従って...
K 決まりきったこと、何らかの強い主張、奨励などです、お分かりですか。
A はい、いつもその行為の外側にある目的です。
K その通りです。従って葛藤が生じます。
A 従って葛藤と繰り返しです。
K そうすると独身とは何ですか? それは純潔な行為あるいは精神ですか?
A それは精神のはずです。
K 純潔な精神、それは途轍もなく厳格な精神を意味します。厳しさという厳格さや何らかの原理を冷酷に受け入れるなどその他の全てではありません。
A このことは我々が傷について話していた以前の会話に戻ります。
K その通りです。
A 純潔な精神は決して傷つきません。
K 決して傷つきません、つまり、従ってそれは無垢な精神です、それはそのような女性や男性や行為を思い描きません、そのような想像は起こりません。
A このことは非常に根本的なことです。私は我々の会話の中で私が読んできたことや研究してきたことを持ち出してきているのを知っています、なぜならそれが概ね私の生の中を占めてきたことだからです。そしてあなたに耳を傾けていて私を深いところで揺さぶるのは、何世紀にもわたって書かれたり言われてきたりしたことのとても沢山のものが、あなたがそれらを提示してきている仕方で理解されているべきであったということです。我々のキリスト教神学の伝統の中に、人間の堕落と言われるものは想像する時点で始まったとするものがあります、そして、それでもそれは正しく理解されてきていないように私には思われます。もしそれが理解されていたなら、我々は我々が今いるようなこの計り知れない争いの中にはいないでしょう。
K キリスト教徒は最初にその罪を発明し、そしてその他の全てを発明してきました。
A 本末が転倒しています。はい、私はあなたの言っていることが分かります。
K そうすると精神は純潔でいられますか? 精神が独身を誓い欲望で身を焦がすということではないのです! そして我々は先日欲望について話しました。我々は欲望で身を焦がしています、我々の全ての腺組織はそれで満ちています。そのように純潔は、傷を負っていなくて、イメージを抱かないで、自分自身やその欲求などそれら全てを思い描くことのない感覚を備えた精神を意味します。そのような精神は世界に存在しえますか? そうでなければ愛は存在しません。私は果てしなくイエスの愛について、これやあれの愛について語ることができますが、それは全くの見かけ倒しです。
A なぜならそれは何かの愛だからです。
K はい。
A 何らかの行為としての愛は何らかの手段としての愛と同じではありません。
K はい、そうです。そうすると愛は快楽ですか? 私はそれではないと答えうるだけです、私が快楽を理解したときに。言葉でではなく理解したときです、深く、内面的に、その性質を見て取ったときです、その残酷さを、その分断的プロセスを見て取ったときです。なぜなら快楽はいつも分断的だからです。喜ぶことや喜びは決して分断的ではありません。快楽のみが正に分断的です。あなたがオイルについてアラブ人の話を聞くとき、それは彼のプライドです、お分かりですか? あなたはそれを彼の中に見て取ります。そしてあなたはそれを大臣たちの中に、政治家たちの中に、この全くの傲慢な感覚を、権力的な感覚を見て取ります。そして同時に彼らは愛について語ります。
A しかしそれはいつも何かの愛です。
K もちろんです、自分の国を愛することです、そして私の愛はあなたを殺そうとします。
A はい。
K そうすると、宜しいですか、我々はこのような殺戮も理解しなければなりません。西洋文明は殺戮を完全なアートに仕上げました、戦争を何らかの科学に仕上げました。彼らは全世界にこのことを教えてきました。そして恐らくキリスト教徒はこの上ない殺戮者です、イスラム教徒がその次に続きます、私は本当の意味で宗教的な元々の仏教徒は本当に殺すことをしなかった人たちであると信じます。
A はい。
K 彼らは殺すなと言いました。しかし私はこの素敵な話をあなたにしなければなりません。私は何年か前にセイロン島にいました、そうするとある仏教徒が私を訪ねてきました。彼らは言いました、我々は仏教徒であることを実践しています、我々は殺しませんが肉を食べますと。私は言いました、それはどういう意味ですかと。彼は言いました、我々は我々の肉屋たちを変えます、従って我々には責任がありません、我々は肉が好きですと。私は言いました、それが問題ですかと。彼は言いました、いいえ、全く問題ではありません。我々の問題は、我々は有精卵を食べるべきかということです、なぜならそれは生命を含むからですと。
A おーっ、何と。
K そのように我々が愛について話すとき、我々は暴力や殺戮についても話さなければなりません。我々は殺します、我々は地球を破壊してきました、地球を汚染してきました。我々は動物や鳥の幾つかの種を絶滅させてきました、我々は子アザラシを殺しています、あなたはそれをテレビで見ましたか?
A おお、見ました。
K どうして人間はそのようなことができる...
A それはとてもショッキングなことです。
K ...そうして女性はその毛皮を着ます。そしてその殺戮者は家に帰って言います、私は妻を愛していますと。そのように我々は殺すように訓練されています。あらゆる将軍たちが他の人々を殺すための道具を際限なく用意しています。それが我々の文明です。そうすると野心的な人間は愛することができますか?
A できません。
K できません。従ってその野望をやり過ごすことです。しかし人々はそうしません、人々は両方を望みます。ですからいかなる条件の下でも殺さないことです、食べるために動物を殺さないことです。私はこれまで一度も肉を食べたことがありません、一度もありません、私はそれがどのような味なのか知りません。私は自慢しているのでも何でもありません、私は食べられないのです。そのように殺戮が産業になっていて、人間を養うために動物を殺戮しています。
A はい、そうなっています、そうです。私はあなたが話しているとき純潔のことを考えていました、そして私に思い当たったことは純潔な精神が分断されていない精神に違いないということです。
K その通りです。殺戮して愛するのではありません。
A そしてそれらを一緒くたにしようとすることです。そうしてそれらを一緒くたにしようとする私の明らかな誤りを一時的に和らげるためにあらゆる種類の手段を用いることです。
K もちろんです。
A あなたが取り上げてきたことの途轍もなさは本当に驚くべきことです、そして私はしばらくの間、もし宜しければ、そのことから離れないでいたいと思います。私は非常に気を引き締めて耳を傾けてきました。それは人自身の中でこのことを終了させようとするあなたの根本的な助言がとても徹底しているので、それはその意味を我々が本当には理解していないある種の真剣さを要求することです。真剣さと愛との関係性を私はここで気づくことになりました。
K はい、そうです、もし私が真剣なら、私は決して殺しません、そうすると愛は何かになっています、それは実際に慈悲心です。あらゆるものに向けられた熱気であり、あらゆるものに向けられた慈悲心です。
A あなたが人はもし人が愛するなら決して殺さないと言うとき、あなたはイメージを作り上げる働きという観点から人は計画的に殺戮すると言っています。
K 宜しいでしょうか、仮に私の妹が―私には妹はいませんが―私の妹が襲われたとすると、男が彼女をレイプしようと入って来ます。私はその瞬間に行動します。
A 確かに。
K なぜなら私は愛しているからです、慈悲心があるからです、その慈悲心が叡智を生み、その慈悲心がその瞬間に働きます。もしあなたが私にもしあなたの妹が襲われるならあなたはどうしますかと問うなら、私は言います、私は知りませんと。私はその時に知ります。
A はい、それはよく分かります。しかし我々は計画を宗とする産業を作り上げてきました。
K 計画的な殺戮です。
A あらゆるレベルでです、我々自身だけではありません。
K 先日テレビで赤の広場を行く途轍もない大陸間弾道ミサイルを見ました、それが発射されるとそれは盲目的に殺戮します、そしてアメリカ人もそれを手にしています、インド人もフランス人もそれを手にしています、お分かりですか。
A それを手にする必要があります。
K それでは精神はこの殺戮する衝動から自由になれますか? それは精神が傷つかないでいられるのかを意味します。傷つくとそれはあらゆる種類の神経症的なことを行ないます。快楽は愛ですか、欲望は愛ですか? しかし我々は快楽や欲望を愛に変えてきました。私は神を願います。お分かりでしょうか。私は神について学ばなければなりません。あなたはそれら全ての類を知っています。神は私の発明です、私のイメージです、私の思考から私はそのようなイメージを作り出しました、そのようにして私は堂々巡りをしています。ですから私は喜ぶことがどういうことなのかを知らなければなりません。喜ぶことは快楽ですか? 私が美味しい食べ物や夕日を喜ぶとき、美しい樹木や女性や何やらを見るとき、もし私がその瞬間にそれを終えなければそれは快楽になります。もし思考がその喜ぶことを持ち越してそれが次の日に繰り返されることを願うならそれは快楽になります、それはもはや喜びではありません。私は喜んで、それで終わりです。
A ウィリアム ブレークは、私にはそう思われるのですが、このことを非常に美しく指摘しました、もちろん、彼は狂人と思われていました! その一節はこうです、“彼は飛び去る喜びにキスし、永遠の夕日の中を生きます”。彼がキスするのは飛び去る喜びであって、その快楽ではありません。そしてそれはそれが飛び去るときです。そしてあなたが言ったことは、もしあなたがそれを飛び立たせないで、それを手にしていると、我々は喜ぶことから抜け落ちて...の中へ。
K 快楽の追求。
A ...果てしなく、ついには悲しくも退屈なことを繰り返すはめになると。
K そして私はそれがこの国やヨーロッパやインドでも起こっていると思います、とりわけこの国の中ですぐに成就しようとする欲望として起こっていると思います―快楽追求の原則です。楽しむということです、サッカーであれ何であれ、楽しむということです。
A このことは我々の前回の会話の中であなたの指摘した空しく感じることや満たされる必要があることに戻ります。
K はい。
A 孤独であること、我々が言う成就なるものを見つけること、十分に満たすこと。
K はい、十分に満たすこと。
A それでももし人が宗教についての我々の議論の中であなたが示した気をつけている行為をその空しさを満たすために行おうとするなら、そうすると我々はそれを手にしています。我々はそうしようとしません。しかし思考のコントロールを通じてそうしようとする試みが果てしなく続いています。
K もちろんです。
A もし人が愛の中で始めないなら、人は非実利的な仕方でこの気をつけている行為を行わないで、必ず実利的な仕方で行うように思えます。
K それは市場の中ではないのです、はい。
A そしてそれが我々のかなり前の会話の中であなたが言った始まりが終わりであるという理由です。
K 最初の一歩が最後の一歩です。
A 最初の一歩が最後の一歩です。私が我々のこれまでの会話を通じて考えてきたことは、我々は起こっているこれら全てのナンセンスに、酷く破壊的なナンセンスに徹底的な終止符を打つ行為について話しているということです。
K 分かっています。
A 何かを行っています。
K これら全てを見て取ることです。
A そしてあなたは言いました、見ることが行うことであると、行為であると。
K 私は危険を見ると、私は行動します。私は快楽に関して思考が継続することの危険性を見て取ります、私はその危険性を見て取り、従ってそれにすぐ終止符を打ちます。もし私がその危険性を見て取らないなら、私は続けます。もし私がナショナリティの危険性を見て取らないなら、私はそれを非常に簡単な例として取り上げています、私は続けます、殺人を犯します、分断します、私自身の安全性を探し求めます、しかしもし私がその危険性を見て取るなら、それで終わりです。
A 我々はここで少しの間愛を教育と関連させてもよいですか?
K はい。
A 私は教師としてこのことに計り知れなく関心があります。
K 宜しいでしょうか、我々が先週と今回我々の対話の中で議論してきていることは教育の一部です。
A もちろんそうです。
K 精神を異なるように教育しています。
A 私は時々教師のところへ来てこう言う学生のことを考えています、“私はただ私の生き方を変えなければならないだけです”と。つまり、時々あなたは“ここにまでやってくる”と我々が言う学生を目にします。彼らが通常あなたに尋ねる最初の質問は、“私は何をしなければならないのですか?”です。もちろん、それは罠です、なぜなら彼らは彼らがそう言うとき何らかの方法を探しているからです。私はそのことが今は私が以前に自分で観察していたときよりもずっと明瞭に分かるようになりました。ここでは我々は何らかの方法について話しているのではありません。
K 手段は目的です。
A 私はこの点に関するキリスト教史のことを考えています。あなたは質問を受けます、私は救われるために何をしなければならないのでしょうかと。答えは“信じなさい”です。
K はい。
A そうして人はその意味することに行き詰って、結局は信仰を信じることになります。
K はい、信じることです。
A そして、もちろんそれは失敗に終わります。学生は来て言います、“私は何をしなければならないのですか”と。我々の以前の会話の中で共に我々は教師と学生が一緒に話し合っているというところに至りました。
K 我々はそれを今行っています。私はあなたの教師ではありません、我々は今それを行っています。
A いいえ、私は我々の会話の中でそれがあなたの役割でないのは理解しますが、私は敢えて言わなければなりません、それはそのように働いてきていると、なぜなら私が計り知れなく学んできているからです。ここで私が明らかにしたいと思う二つのことがあって、私はあなたの助けを必要としています。一方、この気をつけているという純粋な行為を行うためには、私は自分自身のみを必要とします。それは正しいですか?
K いいえ、そうではありません。
A そうではない。
K そうではありません。宜しいでしょうか、最初にこう問いましょう、私はこの世界で何をしたらよいのでしょうかと。
A はい。
K 私の居場所はこの世界の中のどこにありますか? 始まりは、世界は私であり、私は世界です。それは絶対的な事実です。そうすると私は何をしたらよいのでしょうか? 世界はこうです、腐敗していて、非道徳的で、殺戮していて、愛は存在しません、迷信が横行し、精神や手で作られた偶像崇拝があり、戦争が絶えません。それが世界です。私のそれとの関係とは何ですか? 私の世界との関係はただ私がそれであるのかどうかというだけです。もし私がそうでないなら、私はそれと何の関係もありません。
A 私は行為という点でそれが分かります。
K それです。
A 行為という点であり、私の抱く考え方ではありません。
K 私にとって世界は腐敗していて、殺戮するように設えられています。それでも私は殺しません。子アザラシを殺しに行く人間と私との関係とは何ですか? 私は言います、何てことだ、どうしてあなたはそのようなことができるのかと。私はそのことを泣き叫びたいと思います。私はそうします。どのようにしてあなたはそのような人間を、そのようなことが起こるのを許す社会を教育できるのですか?
A そうすると恐らく私はその問いをこう言いかえるべきです、つまり、私がこの気をつけている純粋な行為を行っているときなされるどのようなことも行うとき、私は私がいる世界から分離していなくて、そして世界は私から分離していないと。
K 私は世界を全く違った角度から見ます。
A その通りです、はい。
K 私はそこへ行きつきます、宜しいでしょうか、なぜなら全く異なることが私の中で働いているからです。慈悲心、愛、叡智などそれらが私の中で働いています。
A しかしここには二つの可能性があるように思われます。一方では、このような純粋に気をつけている行為を行うことは、私が別の人の前に物理的にいることを要求しませんが、もちろん私はいつも私がそこにいようといまいと関係しています。
K もちろんです。
A はい、私はそれをよく理解します。しかしそうすると第二の可能性は我々の会話の中で、我々は今それを楽しんでいますが、何かが生じます、何かが起こります。それはそれが起こるために我々が一緒にいなければならないことではありません、そしてそれが起こるために我々は一人でいなければならないということではありません。従って我々が確かにしてきたことは、それら全ての内と外の区別を、あなたがそこにいて私がここにいるという区別を全く超えている何かが起こるということです。
K 何が起こるのか見てください、何が起こるか見てください。始めに、我々は真剣です、本当に真剣です。そして次に、殺戮や腐敗、我々はそれらを完全にやり過ごしました。そうすると我々は独存しています―独存です―分離しているのではありません。なぜなら精神がそれではないとき、それは独存するからです。それは引き籠っていません、それは自らを引き離していません、それは自分自身のための象牙の塔を築き上げていません、それは幻想の中を生きていません。それは言います、それは誤りです、それは腐敗しています、私はそれに触れません、心理的にと。私は、内面的に、心理的に、そのような誤りや腐敗に触れません。従って精神は完全に独存しています。
A そしてそれはこのことをこれら全ての嘆くべき状況に囲まれた中で言っています。
K 従って、独存しているとそれは純粋です、そして純粋さは百万個に切り取られえますが依然として一つひとつは純粋なままです。それは私の純粋さでもなければあなたの純粋さでもなくて、それは純粋さなのです、純粋な水が純粋な水のままであるように。
そのように、宜しいでしょうか、この会話から生まれてきたことは非常に興味深いことです。世の常として―我々が独存することに怯えることです。それは我々が分離しているのを怖がることを意味します。しかし人間の行うあらゆる行為が自分自身を分離しています。つまり、人の野望が自分自身を分離しています。人がナショナリスティックなとき、人は自分自身を分離しています、人が“私”の家族と言うとき、人は自分自身を分離しています、“私は成し遂げたい”と言うとき、人は自分自身を分離しています。あなたがそれら全てを否定するとき、暴力的にではなくそれら全ての愚かさを見て取るとき、あなたは独存しています。そしてそのことにはその中に途轍もない美があります。そしてその美をあなたは至るところに広げることができます、しかしそれは依然として独存しています。慈悲心の質がそれです。しかし慈悲心は言葉ではありません、それは起こります、それは叡智と共にやってきます。もし私の妹が襲われるなら、この叡智がその瞬間に私の行うことを指図します。しかしもしあなたが問うなら、つまり、もし...なら、あなたはどうしますかと問うなら、それは叡智のことではありません、そのような問い掛けとそれに対する答えは叡智とは関係がありません。私はあなたが...を分かるのかどうか知りません。
A おお、はい、私はあなたの言うことをよく分かっています。
K しかし私は私の敵であるそれら全ての人々を殺戮する用意があると言うことは叡智とは関係がありません、そしてそれは全ての主権国家の軍隊が行おうと準備していることです。そのように愛は本当に純潔な何かです。純潔は独存性の質であり、従ってそれが傷つくことは決してありません。
A この一つの行為の中で人は自分自身を傷つけもしなければ他の人も傷つけないということは興味深いことです、それは傷つくのを止めることです。
K 宜しいでしょうか、ちょっと待ってください。私はあなたを信用しているので私は私の全てのお金をあなたに預けました。しかしあなたはそれを私に返してくれません、私は言います、どうか少しでもそれを私に返してくださいと。あなたは返しません。私はどうしたらよいのでしょうか? 叡智の働きはどうなりますか? お分かりでしょうか。愛情の働きであり、慈悲心の働きです、それはどうしますか? あなたは私の質問が分かりますか? 私の友人が第二次世界大戦のときスイスにいました。彼は大金を持っていました、そして彼には子供の時からの親しい友人がいました。彼は友人に戦争のせいで直ぐに出国しなければならないことを説明しました。そこで彼はその大金を持って友人に言いました、“これを私のために預かっておいてくれ、戦争が終わったら私は戻ってくるから”と。彼は戦後に戻って来て彼のお金を返してくれと言いました。彼の友人は言いました、“どの金?”と。
A 何てことだ!
K お分かりでしょうか。それでは彼は何をしたらよいのでしょうか。理論的にではなくです。あなた自身をその立場においてください。あなたは何かを私にゆだねます、そして私は言います、はい、その通りです、あなたはそれを私に預けました、今はその返還を求めても無駄ですと。あなたの責任とは何ですか? あなたはただ立ち去るだけですか?
A いいえ。それを取り戻す方法があるなら、直ぐにそのようにされるでしょう。叡智がそれに取って代わるでしょう。
K それが私の言っていることです。愛は許すことではありません―お分かりですか―それは私があなたを許して立ち去るということです。愛は叡智です、そして叡智は感受性を意味します、状況に鋭敏であることです。そしてもしあなたがその状況に鋭敏なら、それがあなたに何をすべきかを伝えます。しかしもしあなたが鈍感なら、もしあなたがすでに何をすべきかを決めているなら、もしあなたがこれまでにしてきたことで傷ついているなら、あなたの行動は鈍くなります。
A はい、もちろんです。このことで意識が何を意味するのかの問題が持ち上がります。
K はい。
A そして意識という言葉は驚くほど沢山の...を招き入れてきたように私には思えます。
K ...馬鹿げたこと。
A 起こっていることの誤解を。
K 従って、宜しいでしょうか、人は意識とは何であるのかも探究する必要があります。
A はい。
K 我々はそのことを別の日に行ないます、意識とは何か、良心とは何か、そしてあなたにこうしなさい、そうしてはいけませんと告げるのは何かです。
A 意識と関係性は、機会があるとき、私があなたと探究したいと思う事柄です。私は次回の我々の会話で我々にその機会があるとき我々がそうできることを願います。
K 我々は生きること、愛そして死と称されるこの計り知れないものも議論する必要があります。それらは相互に関係していますか、それともそれらは分離していますか―生きること、存在することは愛と異なりますか?
1974年2月25日
中野 多一郎 訳