クリシュナムルティ 私は、どの人間も超越的な何らかの感覚の経験を願っていると思います、あるいは、毎日の単調で孤独で退屈な生に囚われていない精神の状態を願っていると思います。我々はみな生きる何か理由を求めています。我々は生に何らかの意味を与えたいと願います、というのも、我々は、それをかなり飽き飽きした、騒々しい、そして、どこか意味のないものと見ているからです。そうして、我々は、何らかの目的や意義を発明します、我々は、我々の生を言葉やシンボル、そして名ばかりなもので満たします。ほとんどの我々は、心ならずも表面的な生を受け入れて、それでもそれに大いなる謎を含ませます。
何らかの謎があります―全く信じられない何かです―それは信念や経験や願望によっては捉えられない何かです。何らかの“謎”があります、本当は、我々はその言葉を使うべきではありません、というのは、それは言葉にできないからです、それは感傷的あるいは情動的な高揚とは何の関係もないからです。そして、それは我々が既知に囚われていないときにのみ生まれうるだけです。ほとんどの我々は、既知が何であるのかさえ知りません、そして、残酷な動物的本能や暴力性や攻撃性を抱えた我々の性質を基本的に理解しないで、我々は、精神的に、あるいは、何らかの瞑想的なプロセスを通じて、何らかのビジョン、“他者性”的な感覚に至ろうと努めます。私は、それがほとんどの我々の探り出そうとすることだと思います、それは、我々が誰かは問題ではありません―我々が共産主義者であろうと、カトリック教徒であろうと、あるいは、何らかの小さな宗派に属していようと。我々はみな、信じがたく美しい、犯すべからざる、時間の網の目にかからない何かを求めています。
我々は既知に囚われています、そして、既知―我々自身の知識―を理解するのはとても難しいことです。何らかの偏見や意見や判断の仲介なしに我々自身を見ることは非常に難しいことです―ただ現にある通りの我々自身を見ることです。我々は動物から、猿から、あらゆる本能や反射的反応を受け継いできました、我々はそれら全ての伝統や文化と共に育ってきました、それらは我々が心ならずも見ているものであり、それらが既知です。
我々が自分自身を調べることができたらよいのにと思います! ほとんどの我々は、不幸にも、進んでそうしようとはしないように思われます。我々は、実際にある通りのことを進んで知ろうとせずに、実際の意識的あるいは無意識的既知を進んで知ろうとせずに、途方もなく美しい何かを、気高い何かを見つけようと願います。我々は、その既知を超えるのを恐れます、そして、それを超えるためには、我々はそれを検討しなければなりません、我々はそれに直に触れて、それを知悉して、その構造と性質を理解しなければなりません。精神は、もしそれが思考や感情のあらゆる働きをその野獣性や動物的本能と共に完全に余すことなく理解して、それらに生きて触れていなければ、既知の事実を超えることはできません。そうするときのみ、我々は何かを乗り越えて、真理と称される何かを、愛と分離していない美を、いつも新しくて、新鮮で、若々しく、決然としている何らかの働きが生まれる状態や異なる次元を見つけることができます。
なぜ我々はそのように容易く何かを受け入れるのでしょうか―それが何かは問題ではありません。なぜ我々はそのように容易く従って、何かに対して、“はい、そうです”と言うのでしょうか? 従うことは我々の伝統の一つです、群れを成す動物のように、我々はみな指導者たちや教師たち、そしてグルたちに従います、それによって権威が生じます。権威があるところには、明らかに、恐れが生じます。恐れは、成功をなし遂げるための、何らかの約束を果たすための、希望や幸福などを達成するためのエネルギーや駆り立てる力を生み出します。それでは、決して受け入れないで検討し探究することは可能でしょうか?
宜しいでしょうか、あなたがそこに座っていて、話し手が壇上にいるとき、彼に何らかの権威を与えないことは非常に難しいことです。否応なく、この上下の関係性は何らかの受容性の質を生み出します、つまり、“あなたは知っていて、我々は知りません”、“あなたは我々に何をすべきか言います、そして、我々はできる限り従います”。そして、これは、私にはそう思われます、精神が取りうる最も忌まわしい行為です―正に誰かに従うことです、他の誰かが打ち出したパターンを模倣することです。誰かから与えられた方式は否応なく何らかの葛藤や惨めさや心理的恐れにつながります、そして、それが我々の生き方です。そのような権威的な枠組みの一部は我々の生き方の受容性であり、それを超えることができないことを受け入れることです、我々は他の誰かが我々に何をすべきかを言って欲しいのです。
実際にある通りの我々自身を検討するためには、我々は謙虚さが必要です―虚栄心の強い人が育む過酷な謙虚さでもなく、規律に厳格な聖職者の過酷さでもありません。我々は見守るためには謙虚さが必要です、そうでないと我々は見守ることができません。我々は本来謙虚ではなく、我々はむしろ傲慢です、我々は我々が多く知っていると思っています。我々は年齢を重ねるほどますます傲慢になります、ますます我々は自信過剰になります。何らかの判断や価値評価、我々はこうあるべきという仮説、思想、何らかの方式などが生ずるところには謙虚さは生まれません。
我々の大きな問題の一つは悲しみです。我々は悲しみを一つの生き方として受け入れてきました、ちょうど、我々が戦争を一つの生き方として受け入れてきたように―戦場の戦争だけではなく、我々自身の中の戦争です、内面的にも外面的にも、絶えず、我々は格闘しています。我々は悲しみを一つの生き方として受け入れてきました、しかし、我々は悲しみを完全になくせるのかどうかを決して問うてきませんでした。
我々は一体なぜ苦しむのでしょうか? 我々は苦しみます、恐らく、我々は体が不調だからです、我々は多くの苦痛を抱えているからです、そして、恐らく治療法がないからです、あるいは、苦痛がとても耐えがたくて、とても身に染みるので、あらゆる理由を反故にするからです。その中には大いなる悲しみがあります、それは身体の病気や身体の無能力、あらゆる苦痛や老齢の恐怖を伴う加齢などの全問題の中にある悲しみと同様です。そのように、心理的存在の領域の中に、あらゆる心痛と苦痛があります―我々が愛されたいと思っても愛されないとき、何らかの明瞭性を欠くとき、我々が曇りのない目で“現にある通り”に見ることができないときに悲しみが生じます。無知の悲しみがあります―書物や技術のそれではなく、我々自身を理解することや、実際にある通りの我々を理解するという点での無知です。そのような無知は大いなる悲しみをもたらします、我々自身の中だけではなく、全世界の人々の、人種の全共同体の中に悲しみをもたらします。時間を何かを成し遂げるための手段として、何らかの将来の恩恵を受けるための手段として受け入れる悲しみがあります。そして、勿論、終わりを迎える生の悲しみがあります、そして、死の悲しみがあります―他の人の死や自分の死です。
身体的苦痛の悲しみ、愛とは無縁の悲しみ、そして、自己表現の欲求不満の悲しみ、決して来ない明日の悲しみ、既知の世界を生きる悲しみ、そして、不可知をいつも恐れている悲しみ―それら全てが我々の生き方です。我々はそのような生き方を受け入れてきました、そして、正にそのように受け入れることが、それを超えるための障害になります。精神が受け入れずに、いつも問うて、疑って、尋ねて、明らかにしようとしているときにのみ、それは実際にある通りのものに面と向かうことができるだけです、外面的にも内面的にも、そうして、恐らく、人の絶え間ない苦しみを超えることができるだけです。
それでは、悲しみを終わらせることができるのかどうかを一緒に検討して明らかにしましょう―言葉の上ではなく、知的にではなく、あるいは理論的にではなく。思考は決して悲しみを終わらせることはできません、思考は悲しみを生みうるにすぎません。考えることは悲しみを招くことです。思考は―論理を駆使する知的能力、どれほどそれが健全であろうと―悲しみをなくせません。このためには、我々は全く異なる能力を持たなければなりません、それは時間をかけて育まれた能力ではなく、見守る能力です。
なぜ我々は苦しむのでしょうか? 最初に、心理的苦しみを見てみましょう―心痛や孤独、苦痛、不安、恐れ、そして、自ら問題を生じさせる一時的な熱狂などです。もし我々がそれらの心理的悲しみを理解できるなら、恐らく、我々は身体的な苦痛や病気、そして能力やエネルギーや駆り立てる力の欠如をもたらす老齢などを扱うことができるでしょう。我々は、最初に、心理的悲しみを検討します、そうすると、それを正に理解する中で身体的なものも理解されるでしょう。
悲しみとは何でしょうか? あなたは何らかの悲しみを経験してきたはずです―涙となる悲しみや孤独の悲しみ、関係性を絶たれる悲しみ、大いなる自己憐憫の悲しみなどです。
もしあなたが自分自身を見つめて、こう問うなら、“悲しみとは何でしょうか”、あなたはどのように答えるのでしょうか。我々は身体的な悲しみを話しているのではなく、悲痛な感情や全く惨めな感情、無力な感情、そして、あなたが八方塞がりになっている感情などを話しています。
悲しみはあなたにとってどういう意味でしょうか? それはあなたがそれを避けて決してそれに全く触れないことですか? それを避けることが正に別の悲しみの形です、そして、それが我々の知っている全てです。死を例に取ります、正に、その言葉を避けること、決してそれを見ないこと、決して不可避なことに向き合わないことが悲しみの形です、そして、それは悲しみを醸成させる恐れの形です。そうすると、悲しみとは何でしょうか? ほとんどの我々は異なる悲しみ方をしてきました―自己表現とその成就を願っても、それが叶わないと、それが悲しみをもたらします、有名になりたいと願っても、それを成し遂げる能力がないと、それも悲しみをもたらします、孤独の悲しみがあります、愛してこなくていつも愛されたいと願う悲しみ、未来を願っていつもそれが不確かな悲しみがあります。どうか、それを自分自身で見て下さい。話し手が描写するのを待つのは止めて下さい。
ほとんどの我々は悲しみが何であるのか知っています。挫かれた情動、孤独、孤立、あらゆるものから切り離された感覚、虚脱感、生に全く向き合えない能力、絶え間ない争い―それら全てが悲しみをもたらします。我々はそれを理解して言います、“時間がそれを癒します”、“私はそれを忘れるでしょう”、“もっと重要な何か他の出来事が起こるでしょう、もっとずっと現実的な経験をするでしょう”と。そのように、我々はいつも悲しみの現実的な事実から時間を介して逃げます。つまり、我々は過去の楽しかった日々の記憶の中を、楽しい経験の思い出の中を生きます、我々はその中を生きます、それは時間の中です。そしてまた、我々は未来の中を生きます、我々は実際にそこにある悲しみを避けて将来の思想や希望、あるいは信念の中を生きます。我々はそのようなサイクルから逃げることができないできました、それを終わらせて打ち破ることができないできました。それどころか、西洋世界は悲しみを崇拝します―教会へ行くと、あなたは悲しみが崇拝されているのを見ます。東洋では、人々はそれを因果などの様々なサンスクリット語の言葉で説明します。我々がそれら全てを理解するとき、我々がそれを非常に明瞭に、事実として、それに触れて、それを受け止めるとき、我々は自分自身に問います、それら全てを乗り越えることは可能かどうかを。そして、どうすれば我々はそれを乗り越えることになるのでしょうか? それは我々の誰もが答えなければならない本当に非常に重要な問題です。
宜しいでしょうか、あなたが初めてそれらの山々を見るとき、遠くの、堂々とした、生の醜さから完全に解き放たれたそれらを見るとき、その輪郭の美やそれらを照らす夕日やその正に荘厳さが精神を沈黙させます。あなたはそれに度肝を抜かれます。しかし、それらの丘や山々、そして緑の谷が作り出す沈黙は極めて人工的です。これは玩具を手にした子供のようです、その玩具が子供を夢中にさせます、そして、それが十分に弄ばされて壊されると、子供はそれに興味を失って腕白になります。同じように、あなたは何か偉大なものや何か大きな問題、大きな危機に目を覚まされます、そして、それがあなたを突然静かにさせます。そして、あなたはその沈黙―それは数分あるいは数日続くかもしれません―から抜け出して再び元のあなたに戻ります。
人が決して乗り越えられないできた悲しみというこの途轍もない事実があります。人は飲酒や様々な形の逃亡でそれから逃げるかもしれませんが、それは悲しみを乗り越えていません、それはそれを避けているだけです。宜しいでしょうか、この事実があります―死の事実や時間の事実のように。あなたはそれを完全に沈黙して見守ることができますか? あなたはあなた自身の悲しみを完全に沈黙して見守ることができますか? それがとても大きくて、とても強くて、とても複雑なので、それがあなたを静かにさせるというのではなく、その反対です―あなたはその強さを知っていて、生や生きることや死が途方もなく複雑であることを知っていて、あなたはそれを見守ることができますか? あなたはそれを完全に客観的に、そして沈黙して見守ることができますか? 私はそれが出口だと思います。私は“思う”という言葉をやむを得ず使いますが、それが本当は唯一の出口です。
もし精神が沈黙して静かにしていないなら、どうしてそれは何かを理解しうるでしょうか、どうしてそれは死や時間そして悲しみを把握できるでしょうか、見守ることができるでしょうか、それに直に触れて、それを知悉することができるでしょうか? そして、“私は悲しんでいる”、“私は惨めである”、“私は何日も葛藤していて惨めでどうしようもなく絶望している”と言うその当のものは何でしょうか? “私は眠れない”、“私は具合が良くない”、“私はこれです、私はそれです”、“私は不幸です”、“あなたは私を見てくれないでいる”、“あなたは私を愛してくれていない”と繰り返し言い続けるその当のものは何でしょうか? それ自身に言い続けるその当のものは何でしょうか? 間違いなく、それは思考です。我々は当初のものに戻ります、思考です、それは何らかの快楽を追い求めてきて、挫折して、不平を言います、“私は私の愛した人を失って、私は孤独です、私は惨めです、私は悲しみに暮れています”と―それは自己憐憫であり、自己を憐れんでいます。再び、それは思考です―それは交際していた記憶や過ぎ去った楽しい記憶、そして、その中で自分自身の中の孤独や虚しさを隠してきた記憶としての思考です。そして、思考は不平を言い始めます、“私は不幸である”と―それは正に自己憐憫の性質です。
そのように、あなたは自分自身を完全に沈黙して見守ることができますか―あなた自身とはその複雑な当のものの全体です、自己憐憫や苦痛、不安、恐れ、攻撃性、残虐性、性的欲求そして何らかの衝動などを抱えた思考です。そして、あなたがそのようにあなた自身を見守るとき、あなたは、恐らく、問うはずです、“死とは何か”と。
(頭上に飛行機の音)あなたはあの飛行機の驚くべき音、轟音に耳を傾けましたか? あなたは、同じ沈黙の至福と共に生のあらゆるノイズに耳を傾けることができますか?
もし人が見守ることや耳を傾けることができるなら、人は正直に問うことができます、“死とは何か”と。死ぬとはどういう意味でしょうか? これは老人だけではなく、あらゆる人間にとっての問いかけです。人が“愛とは何か”、“快楽とは何か”、“美とは何か”と問うように。“いかなるイメージも抱かない本当の人間関係の性質とは何か?”、そのように、人はこの根本的なことも問わなければなりません、“死とは何か”と。あなたは、あえて、それを問いません、なぜなら、あなたは少し怖いからです。あなたは自分自身に言うかもしれません、“私は死ぬ状態を経験してみたい、私が死ぬとき、それを意識していてみたい”と。そうして、あなたは、そのとき目を覚ましているために、息が途絶える瞬間を見るために、薬物を手にします、なぜなら、あなたは命が途絶えるその途方もない瞬間を経験したいからです。そうすると、死とは何でしょうか、死ぬとはどういうことでしょうか、消滅するとはどういうことでしょうか―“死後、何が起こるのか”ではありません。それは問題外であり、そうすると、あなたはとても沢山の理論や信念、希望、方式などを発明できます。
死ぬとはどういうことでしょうか―老齢や病気によってではなく、有機組織が摩耗して、あなたが消え去るのではなく―あなたが生きていて、活力やエネルギーや気力が旺盛で、探究する能力があって実際に死ぬことです。死ぬとはどういうことでしょうか、明日ではなく今日です。それは気味の悪い問いかけではありません。あなたは深く知りたくはないのでしょうか、自分自身で、あらゆる神経やあなたの頭脳で、あなたの手にするあらゆるもので、愛するとはどういう意味かを。あなたはその途方もない至福を手にすることがどういう意味なのかを知りたくはないのでしょうか、そして、その同じ熱気と活力で、死とは何かを知りたくはないのでしょうか? どのようにあなたは明らかにしますか? 死ぬことは、違いますか、無垢の質です。しかし、あなた方は無垢の人たちではありません、あなた方は数多くの経験を手にしています、数多くの年月を経ています、それはみなそこにあります、正に頭脳細胞それ自身の中にあります。時間が攻撃性や残虐性、暴力、支配感覚そして多くの経験を育むのを助けてきました。あなた方の精神は無垢ではありません、明瞭でも新鮮でも若々しくもありません、それらは傷つき、苦しみ、捻じ曲げられてきました。
無垢とは何かを、そして、死とは何かを知るためには、あなたはそれを生きなければなりません。間違いなく、あなたが、あなたの知っているあらゆるものを、心理的に、内面的に、死んでやり過ごすときにのみ、あなたが、あなたの過去を、自然に、自由に、嬉々として、死んでやり過ごすときにのみ、無垢になります、新鮮になります、そして、決して汚れていない目になります。人はそのようにできますか? 人は、易々と、努力とは無縁に、人の執着してきたものを脇へ除けることができますか? 愉快そして不愉快な記憶、“私の家族”や“私の子供たち”、“私の神”、“私の夫”、“私の妻”などの感覚そして現行のあらゆる自己中心的活動―人はそれら全てを脇へ除けることができますか? あなたは、それを進んで、強制されるのではなく、あるいは恐れからではなく、何らかの必要に迫られてではなく、争いの尽きない生の問題を見て取る平易さで、脇へ除けることができますか? あなたは、それら全てを消滅させ、それから抜け出して、“アウトサイダー”になれますか? この問いかけにどうか耳を傾けて下さい。あなたはそのようにできますか? あなたは言うかもしれません、“いいえ、私はできません、それは不可能です”と。あなたがそれはできないと言うとき、あなたはこのように言っています、もしそれら全てが消滅するとき何が起こるのかをあなたが知ってさえいれば、それは可能ですと。つまり、あなたは一つのことを別のことが確かなときに手放します。あなたは、あなたが“不可能”のどういうことかを知らないという理由だけで、それはできないと言っています。そして、それを明らかにすることは、可能と“不可能”の両者に気づいて、それを超えることです。そうすると、あなたは、自分自身で、あらゆるあなたの心理的な収集蓄積が易々と脇へ除けられるのが分かるでしょう、そうするときのみ、あなたは、正に生きることがどういうことであるのかを知るでしょう。
生きることは、死ぬことです、生きることは、あなたの戦ってきた、収集してきたあらゆるものを、あなたの尊大さを、自己憐憫を、悲しみを、快楽そして生と称するこの苦悶を毎日死んでやり過ごすことです。それがあなたの知っている全てです、それら全てを見て取るためには、精神が途方もなく静かでなければなりません。正に、その全構造を見て取ることが規律です、正に、見て取る規律です。そうすると、恐らく、あなたは死ぬことが何を意味するのか知るでしょう。あなたは、そうすると生きることが何を意味するのか知るでしょう、この痛めつけられている生ではなく、全く異なる生です、それは、深い心理的な革命によって―それは生からの逸脱ではありません―誕生した生です。
私は、次の機会に、愛や愛の美そして死の意義と本当に同様に重要なことを話したいと思います―それは瞑想です。我々のすべきことは、我々がどのように全く異なる生き方をするのか、どのようにして、この計り知れない心理的な革命を生み出して、攻撃性とは無縁の叡智を誕生させるのかのこの問いを検討することです。叡智は攻撃性と非攻撃性の両者を超えることができます、なぜなら、それは攻撃性や暴力の有様を理解するからです。そのような革命は、この上ない感受性、従って、この上ない叡智の生をもたらします。私はそれが唯一の問いだと思います―どのように至福の生、大いなる熱気の生を生きるのかです、そうすることによって、人の存在の性質と構造を知って、人はそれを超えていきます。