クリシュナムルティ 重要なことは、言葉や議論や説明を積み重ねることではなく、むしろ、我々一人ひとりの中に深い革命をもたらすことで、深い心理的な変質をもたらすことで、異なる社会を生み出すことです、人と人の間に、現在のような不道徳に基づかない、全く異なる関係性を生み出すことです。そのような革命は、その言葉のこの上なく余すことのない根本的な意味で、いかなるシステムによっても、いかなる意思による行為によっても、いかなる習慣と先見の明の組み合わせによっても起こりません。
最も困難なことの一つは、我々が習慣に囚われていることです。そして、習慣は、それがどれほど洗練されていようと、どれほどきめ細かく、深く確立されていて根付いていようと、愛ではありません。愛は決して習慣的なものではありません。快楽は習慣や継続する欲求になりえますが、私は、愛がどのように習慣になりうるのか分かりません。そして、我々の話している、深い根本的な変化は、この愛の質に出会うことです、その質は情動主義や感傷主義とは全く何の関係もありません、それは、伝統や我々の社会に深く確立された文化とは全く何の関係もありません。ほとんどの我々は、この途方もない愛の質を欠いているので、“正しい”習慣にそっと忍び込みます、しかし、習慣は決して正しくはありえません。習慣は良くも悪くもありえなくて、それは何らかの習慣にすぎません、それは何らかの繰り返しや模倣、過去や伝統への順応にすぎません、それは受け継がれてきた本能や獲得された知識にすぎません。
もし人が何らかの習慣の中で何かを追い求めたり生きていたりすると、否応なく、恐れが増大するはずです、そして、それが我々の一緒に話していることです。習慣に嵌っている精神は、ほとんどの我々の精神がそうであるように、いつも恐れを抱いて生きているはずです。私の意味する習慣は、何らかの繰り返しだけではなく、利便性や、人が夫や妻、共同体や個人、国家間などの間に何らかの形の関係性を忍び込ませる習慣でもあります。我々はみな習慣の中を、伝統的でよく確立された行動や振舞の仕方の中を、社会的に望まれる生の見方の中を、何らかの偏見として深く染み込んだ、深く根付いている意見の中を生きています。
精神が鋭敏で、注意深くて、機敏でない限り、それは生の現実を生きることはできません、生はとても流動的で絶えず変化を遂げています。心理的に、内面的に、我々は生の働きに従うことを拒絶します、なぜなら、我々が習慣や伝統に深く根差しているからです、我々が我々に語られてきたことに従順だからです、我々は受容するからです。そのことを理解してそれから抜け出すことが非常に重要であると私には思われます、というのは、私は人が愛なしにどのように生き続けうるのか分からないからです。愛がないと、我々は互いに破壊し合います、我々は断片を生きています、一つの断片が別の断片と争っています、一つのそれが他のそれに反抗しています。そして、習慣は、いかなる形にせよ、否応なく、恐れを生むに違いありません。
もし宜しければ、どうか、単に話し手の言うことをそのまま受け入れて、こう言わないでください、“はい、我々は様々な習慣を生きています、我々はどうすればよいのでしょうか”と。しかし、むしろ、それらに気づいて下さい、それらを意識して下さい、あなたの行っている様々な習慣に目覚めて下さい、喫煙や肉食、飲酒のような物理的習慣だけではなく、受け入れたり、信じたり、望んだり、そして、絶望したり、苦悶したり、悲しんだりする精神の中に深く根を張った習慣にも気づいて下さい。もし我々がそのような習慣そして恐れの問題をも一緒に検討できて、そして、恐らく、そうすることによって、悲しみを消滅させることができるなら、我々が全く知らなかった愛の可能性、快楽の手の届かない至福の可能性があるかもしれません。
ほとんどの我々は、意識的であれ無意識的であれ、習慣の深みに嵌っています、我々は考えます、様々な習慣は正しかったり間違っていたり、良かったり悪かったりすると、そして、社会的に望まれていなかったり、不道徳と考えられていたりすると。しかし、社会の道徳そのものが不道徳です。我々はそのことを非常に簡単に見て取れます、なぜなら、社会が、すべての文化制度が攻勢的であることや貪欲さや他者を支配する感覚などに基づいているからです。我々はそのような道徳を受け入れてきました、我々はそのような道徳の枠組みの中を生きています。我々はそれを避けがたい何かとして受け入れます、そして、それが習慣になってきています。そのような習慣を変えることは、それが途方もなく不道徳であると見て取ることは―そのような不道徳が社会的に強く望まれてきているけれども―そして、もはや習慣に囚われない精神で行動することは、全く異なる生き方で行動することは、我々が恐れの性質を理解するときにのみ可能です。我々は、非常に容易に、深く根差したあらゆる習慣を、我々が深く嵌っているあらゆる習慣を変えたり打ち破ったりするでしょう、もしそれを打ち破るときに、我々が更に苦しんだり、更に不確かになったり、更に不明瞭になったりするという恐れが払拭されるなら。どうか、自分自身を見守って下さい、あなた自身の精神の状態を見守って下さい、そして、ほとんどの我々が、容易に、嬉々として、習慣を打ち破るだろうことを見て下さい、もしその先の恐れや不確かさが払拭されるなら。
ほとんどの我々を我々の習慣に固執させるのは恐れです。そこで、この恐れの問題を検討しましょう、知的にではなく、言葉の上ではなく、我々自身の恐れに気づくことによって、それを検討しましょう。つまり、恐れにそれが開花する余地を与えて、それが正に開花するとき、それを見守りましょう。宜しいでしょうか、恐れは非常に奇妙な現象です、生物的にも、心理的にも。もし我々が心理的な恐れを理解できるなら、生物的な恐れは容易に癒され理解されえます。不幸にも、我々は物理的な恐れから始めて、心理的な恐れに取り組むのを怠ります。我々は非常に病気や苦痛を恐れます、我々の精神はそれに全く気を取られます、そして、我々は一連の精神の葛藤を生じさせずに、我々自身の中に葛藤を生じさせずに、その苦痛にどうやって正面から取り組むのかが分かりません。一方、もし我々が心理的な恐れから始めることができるなら、恐らく、物理的な恐れは理解されて、健全に対処されえます。
明らかに、恐れを見るためには、それから逃げてはいけません。あなたは恐れを避ける逃げ道を育んできました。恐れを避けることは、恐れを正に増幅させるだけです、それは再び非常にシンプルなことです。そのように、最初に、恐れから逃げることは、恐れの一つの形であると見て取ることです。あなたがそれを避けるとき、あなたはそれに単に背を向けているだけです、しかし、それはいつもそこにあります。そのように、まず理解することです、言葉の上ではなく、あるいは知的にではなく、実際に、あなたはそれから恐らく逃げられないと。それは舌炎や何らかの傷のように、そこにあります、あなたはそれを避けられません。それは一つの事実です。そこで、あなたは、恐れが開花する余地を残さなければなりません。あなたが善きことの開花する余地を残すように、あなたは、恐れが表に現れ出るための余地を残さなければなりません、そうすると、あなたはそれを見守ることができます。宜しいでしょうか、もしあなたが成長の早い蔓を植えて、その日のうちに、そこへ戻ってみると、あなたは、それがすでに双葉を付けているのが分かるでしょう、それはすでに成長しています。同じように、恐れを見守って、それにそれが露わになるための余地を残すのです。それはあなたが全く恐れないで、それを見守ることを意味します。それは、一人でいることを恐れて、他の人たちに依存する人のようです、そして、他の人たちに依存するので、一連のあらゆる偽善的な行動が生じます。偽善的な活動に気づいて、それらを脇へ除けると、その人は、その人が一人でいることをいかに恐れているのかが分かります、そうすると、その人は、その恐れといられます、その人は、それを自由にさせます、それを発展させます、その性質や構造そして質を見て取ります。
あなたが恐れを全く避けることなく見守ることができるとき、その恐れに異なる質が生じます。私はあなたがそのように行っていることを願います、私は、あなたがあなた自身の何らかの恐れを取り上げていることを願います、それがどれほど深く心に刻まれていようと、それをあなたがどれほど注意深く避けていたかもしれなくても、あなたがそれをいかなる形の逃亡や判断、非難、正当化などとも無縁に見ていることを願います。そうすると、この問いが生じます―もし人がそこまで踏み込むなら―恐れを観察しているのは誰なのかと。あなたは恐れています―死を、失職するのを、年を取るのを、病気を、そして、あなたは恐れていても逃げません、それはそこにあります。あなたはそれを見守ります、そして、何かを見守るためには、スペースがなければなりません、もしあなたがそれに近すぎるなら、あなたはそれを見守ることができません。そして、あなたが恐れを見守るとき、それにそれが生きて活動するようなスペースと自由を与えます、そうすると、恐れを見守っているのは誰ですか? “私は恐れから逃げ出していません、私はそれを見守っています、近づきすぎないように見守っています、そうすると、それは活動することができます、それは生きて活動します、そして、私はそれを私の不安から隠蔽しようとしません”と言うのは誰ですか? それを見守っているのは誰ですか? 観察者とは誰ですか―観察されているのは恐れです。観察者は、明らかに、一連の習慣や伝統です、観察者はそれを受け入れてきて、その中で生きています、観察者はその行動パターンであり、その信念あるいは信念の忌避です、観察者はそれです。そうではありませんか? 観察者が、正にその当の文化です、文化になった、様式化された、システム化された精神、習慣の中で機能している精神が恐れを見ている観察者です。従って、観察者はそれを、直に、全く見ていません。観察者は、それを観察者の文化、観察者の伝統的な思想で見ています、従って、観察者のあらゆる背景や条件づけを抱えた観察者と観察されるもの―それが恐れです―との間に何らかの齟齬が生じます。観察者はそれを直に見ていません、それを受け入れないための理由を探しています、従って、観察者と観察されるものとの間に絶えず齟齬が生じます。観察されるのは恐れです、そして、観察者は思考でそれを見ます、思考は記憶や伝統そして文化の反応です。
そうすると、あなたは思考の性質を理解する必要があります。我々はそれを検討できますか? 宜しいでしょうか、それは非常にシンプルです。あなたは明日何が起こるのか知りません。あなたは職を失うかもしれません。明日何かが起こるかもしれません、そこであなたは明日のことを恐れます。その恐れを生み出しているのは正に思考です、それが言います、“私は職を失うかもしれません”、“妻は私から去っていくかもしれません”、“私は一人かもしれません”、“私は私が昨日感じたその苦痛を感じるかもしれません”などと。思考は、明日のことを考えると、それが不確かなので、恐れを抱きます。それは非常に明瞭です、違いますか? もし何かが瞬時に起こるなら、それは衝撃です、思考が介入する暇がありません、恐れは生じません。何らかの出来事とその反応との間に何らかの間隙が生じるときにのみ思考が介入して言えます、“私は怖い”と。あなたは死を恐れます、死を恐れる習慣があります、それはあなたがその中で育てられてきた文化です。そのように、思考が言います、“私はいつか死にます、後生だから、私にそのことを考えさせないでくれ、それを遠くに追いやってくれ”と。しかし、思考はそれを恐れます、それはそれ自身とその避けられない日との間に何らかの距離を設けてきました、そして、恐れが生じます。
そのように、恐れを理解するためには、あなたは思考の全構造と性質を検討しなければなりません。再び、思考が何かを見て取るのは非常にシンプルなことです。思考は記憶の反応です―何らかのものを残してきた数多くの経験であり、頭脳細胞自身に残された何らかの痕跡です。思考はそれら頭脳細胞の反応です、そして、それは非常に物質的です。それでは、あなたは、観察者は思考を呼び起こさずに、刺激せずに、あらゆる文化的背景や説明を携えた思考とは無縁に、恐れを見守ることはできますか? あなたは、それら全てとは無縁に恐れを見守ることはできますか? そうすると恐れは生じますか?
あなたは恐れます、なぜなら、あなたは恐れを見守ってきていないからです、あなたはそれを何としても避けてきました。そのような忌避は恐れや何らかの争いや葛藤を生むだけであり、それは様々な形の神経症的行動や暴力、憎悪、悲しみなどをもたらします。宜しいでしょうか、思考とは無縁に見るためには、あなたは物理的にも心理的にも非常に鋭敏でなければなりません、それは、あなたが思考の限界の中で機能しているときは不可能です。思考を超えることは、それはほとんどの我々にとって“不可能”ですが、思考から自由に“なりうる”のかどうかを発見することです。
ほとんどのあなた方は物理的に鈍感です、なぜなら、あなたは過食するからです、喫煙するからです、様々な形の感覚的楽しみをほしいままにしているからです―あなたはそうすべきではないというのではありません。しかし、精神はそうすると鈍くなります、そして、精神が鈍くなると、身体は更に鈍くなります。それがあなたの生きてきたパターンです。あなたは、あなたの食事を変えることがいかに難しいか分かります。あなたは何らかの形の食事や味に慣れていて、あなたはいつもそのようにしなければなりません、もしあなたがそうしないと、あなたは病気になると感じます、そして、あなたはひどく恐れます。物理的習慣は鈍さを生みます、明らかに、薬物や飲酒や喫煙のような習慣は身体を鈍感にします、そして、それは精神―感覚の余すことのない全体の精神、非常に明瞭に混乱することなく見なければならない、いかなる葛藤もあってはならない精神―に影響します。葛藤はエネルギーの浪費だけではなく、それは精神を鈍く、重く、愚かにもします。そのような習慣に囚われた精神は鈍感です、その鈍感さから、鈍さから、それは新しい何かを受け入れないでしょう、なぜなら、何らかの恐れを感じるからです。
習慣の中を生きるこの全プロセスが、いかに鈍感さを生んだり、いかに精神の即座の気づきや即座の理解や即座の働きを不可能にしたりすることを理解すると、あなたは恐れを実際にある通りに理解し始めます。あなたはそれが思考の産物であると分かります。そうすると、あなたはあなたが思考のあらゆる機能を働かせずに何かを見ることができるのかどうかを問います。私はあなたが思考の機能とは無縁に何かをこれまでに見たことがあるのかどうか知りません。それは白昼夢を意味しません、それはあなたがぼんやりしていることを意味しません、あるいは、あなたが感覚を麻痺してさまよい歩くことを意味しません。その反対です、それは思考の全構造を見て取ることです―思考はある次元では何らかの価値があります、そして、他の次元では全く価値がありません。恐れを見守ること、樹木を見守ること、あなたの妻や友人たちを見守ること、触る思考とは無縁の目で見守ること―あなたがそのように行ったとき、あなたは恐れが何の現実性も持っていないこと、それは思考の産物であること、あらゆる思考の産物と同じように―技術的なそれを除いて―それには何の根拠もないことが分かるでしょう。
そのように、恐れを見守り、それに自由を与えることによって、恐れが消滅します。私は願います、これら全てのことに耳を傾けることによって、実際に文字通り気を付けていることによって―言葉や議論にではなく、論理的あるいは非論理的な展開にではなく―あなたが真理を見て取ることを。そして、もしあなたがこのことの真理を見て取るなら、言われていることの真理を見て取るなら、あなたは、あなたがこのテントを出るとき、恐れから解放されるでしょう。
宜しいでしょうか、この世界は恐ろしさに取り巻かれています、そして、それが我々の誰もが抱く最も空恐ろしい問題の一つです、つまり、発見される恐れ、自分が暴かれる恐れ、何年も前にあなたの言ったことが繰り返されるかもしれない恐れです。あなたは恐れの途方もない性質を知らなければなりません、そして、あなたが何かを恐れて生きるとき、あなたは闇の中を生きるということを知らなければなりません。それは恐ろしいことです。人はそれに気づきます、人はそれをどうしてよいのか分かりません―生の恐怖、死の恐怖、夢の恐怖です。夢に関して、人はいつも人が夢を見るのは普通のこととして受け取ってきました、人が夢を見るのは何らかの習慣であると、それは避けられないことと受け取ってきました。ある心理学者たちは言います、もしあなたが夢を見ないなら、あなたは気が狂うでしょうと。つまり、その人たちは言います、不可能なのは夢を全く見ないことであると。しかし、人は決して問いません、“なぜ私は夢を見るのでしょか?”、“夢を見ることの意義とは何でしょうか?”と。問題は、どういう夢なのか、そして、それらはどのように解釈されるのか、ではありません、それはとても複雑です、そして、実際にはほとんど意味がありません。しかし、人は明らかにできます、夢を全く見ないことは可能かどうかを、そうして、人が眠るとき、完全に充足して、完全に安らいで眠るとき、次の朝、精神は新鮮に、あらゆる葛藤とは無縁に目覚めることは可能かどうかを。私は可能だと思います。
我々が言ったように、あなたはあなたが“不可能”を超えるときにのみ、可能であることを明らかにします。なぜあなたは夢を見るのでしょうか? あなたは夢を見ます、なぜなら、日中、意識的精神、表面的精神は仕事や会社へ行くこと、あるいは工場へ行くこと、料理やその後片付けなどで塞がれているからです。それは表面的に塞がれています。そして、より深い精神は覚めているけれども意識的精神に何かを伝えることができません、なぜなら、それは表面的に塞がれているからです。これはシンプルなことです。あなたが眠るとき、表面的精神は大なり小なり穏やかですが、完全にそうではありません。それは会社のことやあなたがあなたの妻に言ったこと、妻の文句などを気にかけています、しかし、それは極めて穏やかです。この相対的に穏やかな中に、無意識が思い描いたそれ自身の欲求や願望や恐れを暗示させます、そうすると表面的精神はそれを夢の中で解釈します。
あなたはこのことを実験してみたことがありますか? それは極めてシンプルです。夢を解釈することやあなたは夢を見なければならないと言うことは重要ではありません。しかし、もしできるなら、夢を全く見ないことが可能かどうかを明らかにして下さい。それは、もしあなたがそうするなら、そして、そのときにのみ可能です、つまり、あなたは日中あらゆる思考の働きに気づいています、あなたの動機に気づいています、あなたの歩き方、あなたの話し方、あなたの言うこと、あなたがなぜ喫煙するのか、あなたの仕事の意味に気づいています、丘や雲、樹木、道路のごみ、そして、あなたの他の人との関係性などに気づいています。あなたはいかなる選択もせずに気づいています、そうすると、あなたは見守っています、見守っています、ひたすら見守っています。そして、そうする中で、文字通り気を付けていないこともあるのにあなたは気づきます。もしあなたが一日中そうするなら、あなたの精神―表面的精神だけではなく全意識―は途方もなく鋭敏に注意深くなります、なぜなら、それは隠れた一つの思考も見逃さないからです、触れられない、露わにされない精神の奥の一つもないからです。そうすると、あなたが寝るとき、あなたの精神は途方もなく穏やかになります。夢を全く見ません、そして、全く異なる活動が生じます。日中余すことなく文字通り気を付けて生きてきた精神はそれらの言葉に気づいています、そして、もしそれがミスを犯すなら、そのミスに気づいてこう言いません、“私は何々をしてはいけない”、“私はそれと戦わなければならない”と。それはそれをただ見守っていて、それを見ていて、そのミスに完全に気づいています。そのような精神は意識の全性質に目覚めています、そして、それが眠るとき、それは昨日のあらゆる古いものをすでに投げ捨ててしまっています。
恐れは解決できない問題ではありません。恐れを理解するとき、その恐れに関するあらゆる問題が理解されます。恐れが存在しないとき、自由が生じます。そして、この完全な心理的、内面的自由や非依存性が生じるとき、精神はいかなる習慣によっても触られません。宜しいでしょうか、愛は習慣ではありません、愛は育てられません、習慣は育てられます。そして、ほとんどの我々にとって、愛はとても遠くにある何かで、我々はその質を決して知ることはありませんでした、我々はその性質さえ知りません。愛と出会うためには、自由がなければなりません。精神がそれ自身の自由の中で完全に鎮まっているとき、愛という“不可能”が生まれます。