クリシュナムルティ 今朝、私は、もし宜しければ、私が非常に重要だと考えることを検討したいと思います。我々はこれまであらゆる生の多くの側面、様相あるいは断片を扱ってきました。しかし、少なくとも私はそう考えますが、周辺的な活動よりも、余すことのない全体の根本に至る方が遥かに重要であると思います。我々は、今まで、我々の思考や感情の境界周辺の活動と我々の日常生活で起こる様々な活動を検討してきています。しかし、生の根本を明らかにして、そこに生きることが肝要であるように私には思われます。しかし、そこに至るには、人は、最初に、言葉の大いなる混乱を正さなければなりません。多くの言葉やシンボルが偏見に満ちています、伝統に囚われています、そして、人は、不幸にも、キリスト教やヒンズー教などのシンボリズムによる偏見や予断を含む何らかの言葉を使わなければなりません。言葉はそれが伝えようとするその当のものでは決してありません、シンボルはそれが表そうとするその当の本質や真理では決してありません。もし我々が何らかのシンボリズムや言葉に囚われているなら、それは非常に不幸なことです、なぜなら、シンボルや言葉は決して真実ではないからです。言葉やシンボルが重要になると、真実が消え去ります、その実質や根拠が無くなります。
今朝、我々は自分自身でその本質、その真理を発見しようと思います、そして、我々はシンボルや言葉に囚われないようにしようと思います。そのような真実と出会うためには―それは言葉やシンボルによっては捉えられません―我々は、明らかに、我々の精神から何らかの言葉の伝統的な意味や宗教的な意味合いを取り除かなければなりません。人間は、何世紀にもわたって、自分自身を超える何かを探し求めてきました、人間の醜い、専制政治が支配する、悲しみに満ちた世界から逃げる手段として使える何かを探し求めてきました、あるいは、人間の痛々しい、惨めな、混乱した存在を相殺するための何かを探し求めてきました。この世界を幾分かは健全に生きるために、もし我々がそのように生きることができるとして、あなたと私は―我々の虚栄心から、我々の恐れから、我々の苦悩から―我々を導く原理として、我々を正すことになる何らかのイメージや個人的な神や人間離れした力を作り出してきました。そのようなイメージは、東洋のそれと西欧のそれとは多少異なりますが、それはどこであろうと人間の精神の産物です。そこには神聖なものは何もありません。西洋のそれであろうと、東洋のそれであろうと、何らかの儀式の中に聖なるものは存在しません、というのも、それらは全て人間の絶望や苦悩や恐れや不安の中で人間が作り上げてきたものだからです。それらの儀式やシンボルや祈りは喜ばしいかもしれません、人を高揚した気分にさせるかもしれません、人に何らかのインスピレーションを与えるかもしれません、人を何らかの幸福な気分にさせるかもしれません、しかし、それらの背後には何の真理もありません、なぜなら、それらは苦悶する人間によって作り上げられるからです。
人間はいつも探し求めてきました、そして外見上は見つけてきました、そこで我々は今それら二つの言葉を検討しようと思います、“探し求める”と“見つける”です。我々は我々自身の混乱ゆえに探し求めます。我々は何か永久なものを探し求めます、なぜなら、我々は我々の周りに永久なものは何一つないと分かるからです。我々は精神的な愛、天上の慰安、神意を探し求めます、なぜなら、我々自身がとても混乱しているからです、とても悲しみや苦悩に満ちているからです。言い換えれば、我々は極度に混乱した状態から何かを探し求めています、そして、我々が見つけるのは、そのような状態から生まれる何かです。そのように、人はこの事実を理解しなければなりません、何かを探し求めて見つけることはエネルギーの浪費であるだけではなく、それは実際には何らかの妨害であり障害である事実です。
宜しいでしょうか、あなたは言われていることに同意しないかもしれませんが、これはあなたが同意したり同意しなかったりする何かではありません。我々がそれを探究するには我々の大いなるエネルギーを要します、我々の鋭敏な感受性を要します、我々は文字通りよく気を付けていて気づく必要があります。このことは我々がそれを明らかにするためにあらゆるものを脇へ除くことを意味します―我々のあらゆる主張、我々のあらゆる教条、我々のあらゆる肯定的認識です。世界中のあらゆる宗教が、何らかの方式やメソッドや伝統を確立してきました、そして、何かを明らかにするにはそれらを実践しなければならないと主張します。人はいつも探し求めてきました、オリジナルな何かを見つけようと願って、自分自身の想像を超えた何か、自分自身の虚栄心を超えた何か―人を導き、救い、慰める神や至高の存在や神聖な本質―を見つけようと願ってそうしてきました。しかし、何らかの慰安を見つけようとするその衝動の背後に、人の自分自身の無知、人の絶望の要因、永遠の何かを見つけようとする絶え間ない欲求などが蠢いています。
もし人に幾分か叡智があり気づくなら、そして、もし人がこの儚い世界に満足していないなら、人は永遠な何かを願います、従って、人はいつも何かを探し求めます―何らかの活動に参加します、そのような党や活動などに身を投じます。人はいつもそのような探究に励みます。しかし、そのような探究は一様にあらかじめ定められた結果に行き着きます。人が願うのは慰安であり、永遠であり、決してかき乱されることのない精神の状態です、そして、人はそれを平和と称します、そして、人は人の探し求めているものを見つけるでしょう、しかし、それは真実ではないでしょう、それは真理ではないでしょう。
そのように、真実を、真理を発見する精神は、そのように探し求めることや見つけようとするそのような欲求を余すことなく止めなければなりません。我々が混乱していたり、不安であったり、惨めであったり、悲しみに暮れていたりすると、我々は安心できる何かを我々以外の何かの中に探します、書物であり、教師であり、グルであり、救世主であり、組織宗教などです、そして、何らかの慰めや安心を見つけると、我々はそれに必死にしがみつきます。しかし、そのように探し求めることやそのように見つけることは一様に精神の堕落をもたらします、なぜなら、精神は大いに活動的で、殊の外鋭敏で、よく気づき、精力的である必要があるからです。そのように探し求めることや見つけることを止めるのは、悲しみに終止符を打つことです、なぜなら、そうすると精神は自ら解きほぐして理解するからです、そして、それが正に宗教的な働きの本質です。
自己を知ることなしに何かを単に探し求めることは幻想を招くだけです。人間は更に多くの経験を望みます。我々みながもっと多くの経験を欲します―火星へ行くことや新しい銀河を発見することから生まれる経験だけではなく、我々は内面的にも、もっと経験したいと思います、なぜなら、日常生活の経験がもうそれ以上は意味をなさないからです。我々はセックスをしてきて、その快楽を手にしています、そして、それを毎日毎日繰り返していて、それが少し単調になって退屈しています、そこで我々は何か他の経験、何か新しい社会的な活動を欲します。我々は共同体から賞賛されたいと思います、我々は世界的に有名になりたいと思います、我々は何らかの働きで地位を得て特権を手に入れたいと思います。そして、我々がもっと経験を欲するので、我々は薬物に、LSDに手を出します、そして、それが精神を更に敏感にします、更に活動的にします、そうすることで、我々はより広い、より深い、より強烈な経験をします。
宜しいでしょうか、私が先日言ったように、話し手は重要ではなく、彼の言うことが重要です、なぜなら、彼の言うことは、あなた自身の声を代弁しているからです。話し手が使っている言葉であなたは自分自身に耳を傾けています、話し手にではありません、従って、耳を傾けることが途方もなく重要になります。耳を傾けることは学ぶことであり、収集蓄積するのではありません。もしあなたが知識を収集蓄積して、その収集蓄積から学ぶなら、そのようにあなたの知識的背景から学ぶなら、あなたは耳を傾けていません。あなたが学ぶのはあなたが耳を傾けているときだけです。あなたは自分自身について学んでいます、従って、あなたは文字通り気を付けて耳を傾ける必要があります、途方もなく文字通り気を付けている必要があります、そして、あなたが聞いていることを正したり、非難したり、あるいはあなたの聞いていることを価値評価したりするとき、あなたは文字通り気を付けていません。そうすると、あなたは耳を傾けていません、あなたは気づいていません、あなたは見て取っていません。
もしあなたが嵐の過ぎ去った後に川の岸辺に座ると、あなたは様々な残骸が流れ去って行くのを見ます。同じように、あなたはあなた自身の活動を見守る必要があります、あなた自身のあらゆる思考、あらゆる感情、あらゆる意図、あらゆる動機―それをただ見守るのです。そのように見守ることも耳を傾けることです。それはあなたの目で、あなたの耳で、あなたの叡智で人間の作り出してきたあらゆる価値―それにあなたは条件づけられています―に文字通り気を付けていることです、そのように正に余すことなく文字通り気を付けていることが、探し求める全ての行為に終止符を打ちます。
私が言ったように、探し求めることや見つけようとすることはエネルギーの浪費です。精神それ自身が不確かで、混乱していて、何かを恐れていて、惨めで、不安なとき、その探し求める行為に何の意味がありますか? その極度の混乱から、あなたは更なる混乱以外に何を見つけるのですか? しかし、内面が明瞭になると、精神が何も恐れなくなると、何らかの安心を求めないと、精神は何も探し求めたりしなくなります、従って、何も見つけようとしなくなります。神や真理を探し求めることは宗教的な行為ではありません。宗教的な働きは、このように自己知によって内面が明瞭になることです、つまり、人のあらゆる微妙で隠れた欲望に文字通り気を付けていて、それらを解き放つことです、それらを決して正したり、コントロールしたり、あるいはそれらに耽らないで、いつもそれらを見守っていることです。そのように絶えず見守っていることから、途方もない明瞭性や感受性が生まれて、途轍もなくエネルギーが蓄えられます、そして、人は無限のエネルギーを手にしなければなりません、なぜなら、全ての行為がエネルギーだからです。我々が惨めなとき、不安なとき、喧嘩しているとき、嫉妬しているとき、我々が何かを恐れているとき、我々が侮辱されたと感じるとき、あるいは、お世辞を言われたと感じるとき―それら全てはエネルギーの散逸です。病気のときも、物理的にも内面的にも、エネルギーの散逸です。我々の行うこと、考えること、感じることの全てがエネルギーの消費です。宜しいでしょうか、我々はエネルギーの散逸を理解して、その理解からあらゆるエネルギーを自然に引き出すのか、それとも我々は様々に矛盾するエネルギーを―周辺領域から本質へ―導こうともがいて、我々の生を浪費するのかのいずれかです。
宗教の本質は聖性です、それは宗教的組織とは何の関係もありません、そして、それは何らかの信仰や教条に囚われて条件づけられている精神とも何の関係もありません。そのような精神にとっては、それが作り出した神やその儀式、そして、その祈りや礼拝や信心から生み出される様々な賞罰以外に聖なるものはありません。しかし、それらは聖なるものでは全くありません。教条主義や儀式主義や感傷主義や情動主義の中に聖性はありません。聖性は宗教的精神の精髄です―そして、それを我々は、今朝、発見しようとしています。我々は聖なるものと一般に受け取られているものには関心がありません―何らかのシンボルや言葉、人物、絵画、経験などです、それらは全て子供じみています―我々の関心は、その精髄にあります、そして、そのためには、我々一人ひとりの何らかの理解が必要です、それは、最初に、我々の外にあるものを見守ることによって、それに文字通り気を付けていることによって生じます。精神は、最初に、外面的な振舞や外面的な態度、服装、形、樹木の大きさや色彩、人や家の外見などに文字通り気を付けていなければ内面的な気づきの波に乗れません。それは潮の満ち引きと同じです、そして、もしあなたが外面の潮の働きが分からなければ、あなたは内面の潮の働きも決して分からないでしょう。
どうかこのことに耳を傾けて下さい。ほとんどの我々は考えます、気づきというのは実践を伴う神秘的な何かであると、そして、我々は気づきについて語りあうために毎日集うべきであると。宜しいでしょうか、あなたはそのようにして気づくのでは全くありません。しかし、もしあなたが外面的なものに気を付けているなら―道路の曲線、樹木の形、他の人の服装の色彩、青空を背にした山々の輪郭、花の繊細さ、通り過ぎる人の顔に浮かぶ苦悶、他の人たちの無知や妬みや嫉妬、大地の美しさ―それら全ての外面的なものをいかなる非難も選択もせずに見て取ると、あなたは内面の気づきの波に乗れます。そうすると、あなたは自分自身の反射的反応に、自分自身の取るに足らなさや嫉妬などに文字通り気を付けているようになるでしょう。外面的な気づきから、あなたは内面的にも気づくようになります、しかし、もしあなたが外面的なものに文字通り気を付けていないなら、あなたは恐らく内面的に気を付けることはできません。
あなたの精神や身体のあらゆる働きに内面的に気づくとき、あなたがあなたの思考や感情に文字通り気を付けていると、隠れているそれであろうと表面に現れているそれであろうと、意識的なそれであろうと無意識なそれであろうと、そのような気づきから精神によって導き出されたり作り出されたりするのではない明瞭な何かが生まれます。そして、そのような明瞭性なしに、あなたが何を行おうと、あなたが天や地や海を探索しようと、あなたは決して真実を明らかにしないでしょう。
そのように、真実を発見する人には、気づく感受性がなければなりません、それは気づくように実践するのではありません。気づくように実践すると、それが習慣になるだけです、そして、習慣はあらゆる感受性の破壊です。そして、習慣は―それがセックスのそれであろうと、飲酒のそれであろうと、喫煙のそれであろうと何であれ―精神を鈍くします、そして、鈍い精神は、エネルギーを散逸させるだけではなく、鈍感になります。鈍い、浅はかな、条件づけられた、取るに足らない精神は薬物に手を出します、一瞬それは驚くべき経験をもたらすかもしれませんが、それは依然として取るに足らない精神です。そして、我々が行っていることは、精神の取るに足らなさにいかに終止符を打つかを明らかにすることです。
取るに足らなさは、情報や知識を更に集めても、良い音楽を聴いても、世界の景勝地を見るなどしても依然としてそのままです―それはそれらとは何の関係もありません。取るに足らなさが無くなるのは、自己を明瞭に知ることによってです、いかなる制約も受けない精神の働きによってです、そして、そのような精神こそが宗教的な精神です。
宗教の本質は聖性です。しかし、聖性はいかなる教会の中にも、いかなる寺院の中にも、いかなるモスクの中にも、いかなるイメージの中にもありません。私はその本質について話しています、我々が聖なるものと称するものについて話しているのではありません。そして、人が宗教の本質を理解するとき―それは聖性です―生は全く異なる意味をもちます、そうすると、あらゆるものが美を湛えます、そして、美は聖性です。美は何らかの刺激ではありません。あなたが山や建物、川、谷、花あるいは人の顔を見るとき、あなたはそれを美しいと言うかもしれません、なぜなら、あなたはそれによって何らかの刺激を受けているからです。しかし、私が話している美は何の刺激ももたらしません。それは、いかなる絵画やシンボル、言葉、音楽などの中にも見いだせない美です。そのような美は聖性です、それは宗教的な精神の精髄です、自己を明瞭に知る精神の精髄です。人がそのような美に出会うのは、何らかの経験を望んだり、欲したり、切望したりすることによってではなく、そのような願望が全て消え去ったときだけです―そして、それは理解するのが最も難しいことの一つです。
私が先に指摘したように、経験を追い求める精神は依然として周辺領域の活動です、そして、経験のあらゆる解釈はあなた固有の条件付けに拠るでしょう。あなたがキリスト教徒であろうと、仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、あるいは共産主義者であろうと何であろうと、あなたの経験は明らかにあなたが育った環境に条件づけられて解釈されるでしょう、そして、あなたが更に経験を求めると、あなたは更にあなたの育った環境の影響を強めるでしょう。そのようなプロセスは悲しみを解き放つことでも、悲しみに終止符を打つことでもありません、それは悲しみからの逃亡にすぎません。自己を明瞭に知る精神には、明瞭さと叡智の精髄である精神には、経験は必要ありません。それは現にある通りのそれです。
そのように、明瞭性は自己を知ることによって生まれます、他の人の“教え”によるのではありません、それが賢い作家であろうと、心理学者であろうと、哲学者であろうと、あるいはいわゆる宗教的教師であろうと。
私が先日言ったように、愛なしには、そして死の理解なしには聖性はありえません。宜しいでしょうか、何かを思いがけず自然に発見することは、生の中で最も驚くべきことの一つです―予期せずに何かに出会うことです、そして、即座にその美、その聖性、その真実を見て取ることです。しかし、見つけようと願って追い求めている精神は決してそうではありません。愛は育まれる何かではありません。愛は、謙虚と同様に、精神によって作られません。謙虚でいようと試みるのは正に虚栄心を内に秘めた人です、プライドを捨てようと模索して謙虚になることを実践するのはプライドを内に秘めた人です。謙虚でいようと実践するのは依然として虚栄心です。耳を傾けて学ぶためには、謙虚の自然な性質がなければなりません、そして、謙虚の性質を理解した精神は、決して何にも追従しません、決して、何にも従いません。というのは、どうして完全にネガティブで空虚な精神が、誰かに従ったり追随したりするでしょうか?
自己を明瞭に知ることで愛が何であるのかを発見した精神は、死の性質と構造にも気づきます。もし我々が過去を、昨日のあらゆることを死んでやり過ごさなければ、精神は依然としてその願望に、その記憶の影に、その条件付けに囚われています、従って、その明瞭性は生まれません。昨日を苦も無く、進んで、いかなる議論や弁明とも無縁に死んでやり過ごすためにはエネルギーが必要です。議論や弁明そして選択はエネルギーの浪費です、そのように、人は決して数多くの過去を死んでやり過ごさないので、精神が新鮮で新しくなりません。自己を明瞭に知ると愛がその優しさと共に生まれて、謙虚の性質が自然に備わります、そして、死によって過去からも解放されます。そして、これらのことから何かが創造されます。創造は自己表現ではありません、それはカンバスに絵を描くことではありません、書物の中に言葉を書き連ねることではありません、台所でパンを焼くことではありません、子供を身ごもることではありません。それらは創造ではありません。愛と死があるときにのみ何かが創造されます。創造は毎日あらゆることを死んでやり過ごすときにのみありえます、従って、そこには記憶としての収集蓄積はありません。明らかに、あなたには衣服や家事や財産についての何らかの収集蓄積が必要です―私はそのようなことを話しているのではありません。精神の内面的な収集蓄積と所有―それらから何らかの支配や権威、順応、従属などが生じます―が正に創造の芽を摘みます、なぜなら、そのような精神は決して自由ではないからです。自由な精神のみが、死が何であるのか、愛が何であるのかを知ります、そして、そのような精神のためにのみ何かが創造されます。その状態の中の精神は宗教的です、そして、その状態の中に聖性が生まれます。
私にとって聖性という言葉は、途方もない意味をもちます。宜しいでしょうか、私はその言葉を喧伝しているのではありません、私はあなたを何かで説得しようとしているのではありません、そして、私はあなたを言葉で真実を感じさせたり経験させたりしようとしているのではありません。それは不可能です。あなたは自分自身でそれらを言葉ではなく実際に経験する必要があります。あなたはあなたの知っているあらゆることを実際に死んでやり過ごす必要があります―あなたの記憶であり、あなたの惨めさであり、あなたの快楽などです。そして、いかなる嫉妬も妬みも貪欲も絶望の苦悶も生じないとき、あなたは愛が何であるのかを知るでしょう、そして、あなたは聖なるものと称されるかもしれないものに出会うでしょう。そのように、聖性は宗教の精髄です。宜しいでしょうか、大河は都市の中を流れると汚染されるかもしれませんが、もしその汚染がよほどひどくなければ大河には自浄作用があります、それは数マイル流れると再び澄んだ奇麗な水になります。同様に、精神がこの聖性に出会うと、あらゆる行為が自浄作用の働きをします。正にその働きによって精神は無垢になります、従って、それは収集蓄積していません。この聖性を発見した精神は絶えず革命を起こしています―経済的あるいは社会的革命ではなく、絶え間なく自己を浄化する内面的な革命です。その行為は何らかの観念や方式に基づいていません。途方もない水量を湛えた大河の自浄作用のように、精神がこの聖性に出会うと自己を浄化します。
これから数日間、我々は議論をすることになります、そして、我々は今日そのような議論を開始します。しかし、もしあなたが何かを主張し、私も何かを主張するなら、もしあなたがあなたの意見や教条や経験や知識に執着するなら、そして、私が私のそれらに執着するなら、本当の議論にはなりません、なぜなら、そうすると我々の誰もが検討する自由を手にしていないからです。議論することは我々の経験をお互いに共有することではありません。共有するのでは全くなく、真理の美があるだけです、そして、あなたも私もそれを所有できません。それはただそこにあります。
叡智を働かせて議論するためには、何らかの愛情だけではなく、躊躇する精神もなければなりません。宜しいでしょうか、もしあなたが躊躇しないなら、あなたは検討できません。検討することは躊躇することを意味します、自分自身で明らかにして、一歩一歩発見していくことを意味します、そうすると、あなたは誰にも従う必要はありません、あなたの発見を誰かに正してもらったり、認めてもらったりする必要はありません。そうするには、大いなる叡智と感受性を要します。
そう言いましたが、私はあなたが問うのを止めてしまわないことを願います。宜しいでしょうか、これは二人の友人が話し合っているようなものです。我々は何かを主張しているのでもなければ、お互いが相手を支配しようとしているのでもありません、我々はお互いに何かを発見しようと友人として気さくに心地よく話しています。そして、そのような精神の状態の中で我々は何かを発見します、しかし、私はあなたに念を押そうと思います、我々が発見するものには僅かの意味しかないと。重要なことは発見することです、そして、発見した後、それを続けることです。あなたが発見したことに留まると、それは何らかの障害になります、というのは、そうすると精神はそこで閉じてしまって何もしなくなるからです。しかし、もしあなたがあなたの発見したものを、あなたがそれを発見するや否や、死んでやり過ごすなら、あなたは豊富な水を湛えた河のように、その流れに乗っていくことができます。
質問者 あなたは我々の中の環境を水に流すように喧伝しています。なぜそのように言うのですか? 何のためですか?
クリシュナムルティ 私はいかなることも喧伝していません。しかし、宜しいでしょうか、コップはそれが空のときにだけ役に立ちます。ほとんどの我々の精神は非常に沢山のことが詰まっていて、ごたごたしています、心地よい経験や不快な経験、知識、立ち居振舞いのパターンや型などです。それは決して空ではありません。そして、創造は精神が余すことなく空のときにのみ生まれえます。創造はいつも新しく、従って、精神は絶えず新鮮で若々しく無垢な精神です、それは何かを繰り返しません、従って、それはいかなる習慣とも無縁です。
私はあなたが何らかの問題を抱えているとき、それが数学の問題であろうと心理学的な問題であろうと、何が時々起こるのか気づいたことがあるのかどうか知りません。あなたはそのことで頭を巡らします、あなたは、盛んに骨を弄んでいる犬のように、そのことが頭から離れません、しかし、あなたは答えを見つけられません。そうすると、あなたはそれを放っておきます、あなたはそれから離れます、あなたは散歩に出ます、そうすると、突然、何もない中から答えが浮かびます。このことは我々の多くが経験しているに違いありません。宜しいでしょうか、どうしてそのようなことが起こるのでしょうか? あなたの精神は、その限られた領域の中で、その問題に必死に取り組んでいました、しかし、あなたは答えが見つかりませんでした、そこで、あなたはその問題を脇へ置きました。そうすると、あなたの精神は幾分か落ち着きます、静かになります、空になります、そして、その静まった空の中で問題が解けます。同様に、人が内面的な環境や内面的な献身、内面的な記憶、内面的に秘めたことや苦悶などを一瞬一瞬死んでやり過ごすと、その中でのみ新しい何かが起こりうる内面的な空虚が生まれます。私はそれを喧伝しているのではありません、私はそのような空虚の宣伝活動をしているのではありません―それはお門違いです! 私はこう言っているだけです、もしそのような空虚が生まれなければ、我々は我々の悲しみや不安、絶望などを継続することになると、そして、我々の活動は益々混乱をもたらすでしょうと。
異なる人間を生み出すためには、従って、異なる社会、異なる世界を生み出すためには、悲しみが消滅しなければなりません、というのは、悲しみの消滅によってのみ新しい生が誕生するからです。