クリシュナムルティ 我々は話してきました、我々がここで出会って、今までの三回のトークで、我々は我々自身の中の根本的な根底からの革命の必要性について話してきました。我々が話しているのは個人としての自分自身の革命ではありません―あなた自身の固有の狭い精神のことではありません―他の全ての人間に余すことなく通ずる、人間としての自分自身の中の革命です。我々は意識的に自分自身を取るに足らない小さな個人にしているかもしれませんが、深いところで、意識せずに、我々は有史以来の人間の経験を引き継いでいます、単なる経済的あるいは社会的次元の表面的変化は―それらが多少の居心地の良さや便利さもたらしても―新しい社会については生産的ではありません。我々の関心は、人間の全性質の変質だけではなく、異なる社会を生み出すことにもあります、善き社会です、そして、善き社会は善き人間がいなければ不可能です。善き人間は牢獄の中では花開きません。善きことは自由の中で花開きます、専制支配の中ではありません、一党支配の制度の中ではありません、政治的にも宗教的にも。
自由は、社会にとって危険であると社会的に考えられています、なぜなら、自由の中で個人がその人固有の企てに邁進するからからです。その人の賢さや狡賢さによって、個人が、その人ほど積極的でない他の人たちを支配します、従って、自由は善き社会に反するという一般的な感情や観念や判断が生まれます。従って、専制政治が人間の精神を宗教的にも経済的にも社会的にも支配しようとします、それが精神を罰します、人を自由に考えさせないようにします。いわゆる民主主義社会には明らかにもっと自由があります、そうでなければ、我々は、こうして座って、このことを議論していないでしょう。いくつかの国では、それは許されないでしょう。しかし、自由は、それが何らかの抵抗の形をとると、民主主義の中でも否定されます。宜しいでしょうか、我々は政治的意味の抵抗について話しているのではなく、人間の善さの余すことのない開花について話しています、それのみが創造的な社会を生みうるだけです。
この人間の善さは、自由の中にのみ、余すことのない自由の中にのみ開花しえます、そして、自由の問題を理解するためには、人は、それを社会的秩序という観点からだけではなく、個人の社会に対する関係性という観点からも検討する必要があります。社会は何らかの疑似的秩序を維持することによって、延命を図ります。もし人が人の生きる社会を観察するなら、それが左翼のものであろうと右翼のそれであろうと中間のそれであろうと、人は、社会が何らかの秩序を求めるのが分かります、個人が無闇に他の人たちを食い物にしないような社会的な関係性です。しかし、秩序は正にその社会的構造のせいで否定されます、社会の基礎的心理的構造です。人はそうではないと主張するかもしれませんが、我々の知っている社会は、競争や欲望や嫉妬に基づいています、個人が自らの充足感や達成感を精力的に追い求めることを基礎にしています、そして、そのような社会の中には、本当の自由は全くありえません、従って、秩序はありえません。現にある社会は―それが左翼のものであろうと右翼のそれであろうと―秩序の乱れです、なぜなら、それは人間の精神の根本的な変質には関心がないからです。内面的変質あるいは革命は、自由の中にのみ起こりえます―私が言う自由は何らかの反射的反応ではありません、何かからの自由ではありません。何かからの自由は何らかの反射的反応です、それは自由では全くありません。
もし精神が、単にそれ自身を何らかの姿勢や観念から解放するだけなら、あるいは、自己表現の何らかの形から、それ自身を解放するだけなら、それは、そのような何かからの自由の中で―それは何らかの反射的反応です―別の同じような何らかの自己主張へ追いやられるだけです、それゆえ、それは自由では全くありません。そこで、人は、人が“自由”という言葉で何を意味しているのかをはっきりさせる必要があります。私は、この自由の問題が多くの書物の中で議論されてきているのを知っています、それは何らかの哲学や宗教的観念や概念そして数多くの政治的表現を生み出してきました。しかし、我々は、極めて破壊的で悲しみや惨めさや混乱に満ちている世界の中を生きているので、そして、我々は、自分自身の問題や欲求不満や絶望にがんじがらめになっているので、あなたと私が―他の人間たちと余すことなく関係している人間として―自分自身で自由とは何かを明らかにするのでないなら、善きことは開花しえません。善きことは単なる感傷的な言葉ではありません、それには途方もない意義があります、そして、それなしに、私は、人がどのように反射的反応とは無縁に行動するのか分かりません、そして、惨めさや恐れや絶望が、その反射的反応の中で生じます。
そのように、人間の精神は、善きこととは何であるのかの問題を余すことなく理解する必要があります。“善きこと”という言葉は、それが伝えようとするその当の事実ではありません、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません、我々は、その言葉やその定義に囚われないように、能々気を付けていなければなりません。むしろ、我々は善き状態にいなければなりません、あるいは、善き状態を理解しなければなりません。善きことは、自由の中を除いて、開花し満開になりえません。自由は何らかの反射的反応ではありません、それは何かからの自由ではありません、それは何かに“対する”抵抗や反抗でもありません。それは何らかの精神の状態です、そして、自由であるそのような精神の状態は、何らかの空間がなければ理解されえません。自由は空間を必要とします。
世界にはますます空間が無くなっています、都市はますます込み合っています。人口の爆発的増加が我々一人ひとりの空間を否定しています。ほとんどの我々は、他の数多くの部屋に囲まれて、小さな部屋の中で暮らしています、そして、恐らく、我々が田舎を散策するときを除いて、都市から遠く離れて、汚れた空気や道路の汚れやノイズから遠ざかっているときを除いて、空間はありません。そこには何らかの自由はあります、しかし、もし内面的な空間がないなら、内面の自由はありえません。もう一度言います、“空間”という言葉は、それが伝えようとするその当の事実とは違います、宜しいですか、あなたはその言葉に囚われてはいけません、その言葉を分析して、それを定義しようとすることに囚われてはいけません。あなたは辞書を広げて、空間についてそこに書かれていることを簡単に見ることができます。
宜しいでしょうか、我々は“空間とは何か”と自分自身に問うて、そこに留まることはできますか、その言葉を定義しようとするのではなく、その意味を手探りして、その意味を探究しようとしたりするのではなく、むしろ、その意味することを言葉にしないで見て取ることはできますか? 自由と空間は表裏一体です。ほとんどの我々にとって、空間は何らかの対象の周りにある空間のことです―椅子の周り、建物の周り、人の周り、あるいは精神的輪郭の周りです。
どうか、言われていることに、ただ耳を傾けて下さい―同意するのでも同意しないでもなく―なぜなら、我々は非常に微妙で、言葉にするのが難しいことを検討しようとしているからです。しかし、もし我々が自由とは何かを理解しようとするなら、我々はそれを検討しなければなりません。
ほとんどの我々は、空間をその対象によって知るのみです。何らかの対象の周りに、我々が空間と称するものがあります。このテントの中と周りに空間があります。あの樹木やあの雲の周りに空間があります。我々は、建物の四つの壁に囲まれた空間やその外側の空間あるいは何らかの対象の周りの空間を知るのみです。同じように、我々は、内面的にも、何かを見ている中心から空間を知るのみです。何らかの中心があります、何らかのイメージがあります―もし宜しければ、このことを思い起こして下さい、もう一度言います、“イメージ”という言葉は、それが伝えようとするその当の事実ではありません―そして、その中心の周りに空間があります。そのように、我々は、そのような空間の中の対象によって空間を知るのみです。
宜しいでしょうか、何らかの対象とは無縁の空間があるでしょうか、人間としてのあなたが、そこから何かを見る中心とは無縁の空間があるでしょうか? 空間は―我々の知るそれは―何らかのデザインや構造物に関係しています、それは一つの構造物と別の構造物、一つの中心と別の中心との関係の中で存在します。宜しいでしょうか、もし空間がその対象のせいでのみ存在するなら、あるいは、精神がそこから見る中心を持つがゆえに空間が存在するなら、そのような空間は限られた空間です、従って、そのような空間の中には自由は全くありません。牢獄の中の自由は自由ではありません。人の関係性の四つの壁の中の何らかの問題―つまり、人の抱くイメージや思考や活動や観念や結論などの限られた空間―から自由になっても、それは自由ではありません。
宜しいでしょうか、もう一度言わせて下さい、話し手の言葉を通して、あなたは、あなたが他の人との関係性の中で、あなたの周りに人間として作り上げてきた小さな空間を観察します、あなたは、破壊的で残虐な世界の中を生きている人間として、その小さな空間を観察します、あなたは、何らかの社会との関係性の中を生きる人間として、その小さな空間を観察します。あなた自身の空間を観察して下さい、それがいかに限られているのかを観察して下さい。私は、あなたが生活している部屋のサイズを言っているのではありません―それが小さい部屋なのか大きい部屋なのかということではありません―私が言っているのは、そういうことではありません。私が言っているのは、我々の誰もが自分の抱くメージや中心や結論の周りに作り出してきた内面的な空間のことです。そのように、我々が知っている唯一の空間は、その中心として何らかの対象が存在する空間です。
私は私の言おうとしていることが明確になっているのかどうか分かりません。私が言おうとしているのはこういうことです、何らかの中心の周りに空間がある限り、あるいは、空間を作り出す何らかの中心がある限り、自由は全く存在しないということです、そして、自由が存在しないとき、善きことは生まれないし開花しないということです。善きことは、空間があるときにのみ開花できます―何らかのイメージがその中心にない空間です。
別の言い方をしましょう―あなたは少し戸惑っているようです。宜しいでしょうか、自分自身のためだけではなく、他の人たちのためにも自由を求めるのは、正に健康で善き強靭な精神です。しかし、その自由という言葉は、様々な立場から解釈されてきました―宗教的、経済的そして社会的に。インドで解釈されてきたことと、ここで解釈されてきたこととは異なります。それでは、人間にとって自由とは何かの問題を検討しましょう。僧院に閉居すること、遊行僧になること、空想的な象牙の塔の中で暮らすこと―それらは紛れもなく自由ではありません、自分自身を何らかの宗教的あるいは思想的集団と一体化するのも同じように自由ではありません。それでは自由とは何かを検討しましょう、あらゆる関係性の中で、いかに自由が生まれうるのかを検討しましょう。
宜しいでしょうか、関係性の中の自由を理解するためには、人は空間とは何かのこの問題を検討しなければなりません、なぜなら、ほとんどの我々の精神は、狭くて、取るに足らなくて、限られているからです。我々はひどく条件づけられています―宗教によって、我々が生きる社会によって、我々の教育によって、何らかのテクノロジーによって条件づけられています、我々は、何らかの制限を受けていて、何らかのパターンに順応するように強いられます、そして、人はそのような閉じた領域の中には自由はないことが分かります。しかし、人は自由を求めます―完全な自由です、ただの部分的な自由ではありません。一日二十四時間牢獄の中にいて、時折牢獄の中の庭を歩くのは自由ではありません。現代社会の中を、それがもたらす混乱や惨めさ、争い、苦悩などを抱えて生きる人間として、人は自由を求めます、そして、この自由の要求は健康で正常な行為です。それでは、社会の中を生きるうえで―あなたの家族やあなたの財産やあなたの観念との関係性の中を生きていくうえで―自由とはどういう意味でしょうか? 精神は自由になれますか、もしそれがそれ自身の中に無限の空間がないなら―空間という観念によって作り出された空間ではありません、それ自身の周りに、中心としての限られた何らかの空間を拵えるイメージによって作り出された空間ではありません。間違いなく、人間として、人は、自由と空間の間に存在する関係性を明らかにする必要があります。空間とは何でしょうか? 何らかの中心とは無縁の空間があるでしょうか、何らかの空間を作り出す対象とは無縁の空間があるでしょうか?
あなたはこれらのことがお分かりでしょうか? 空間とは何かを自分自身で明らかにすることが非常に重要です、そうでないなら、自由はありえません、そうすると、我々はいつも何らかの拷問を受けることになります、我々はいつもお互いに争っています、そして、我々は社会にただ反抗するだけでしょう、それは全く意味をなしません。単に禁煙したり、あるいはビート族やビートルズや何やかやになったりするだけでは何の意味もありません、なぜなら、それらは全て牢獄の中の単なる反抗にすぎないからです。
宜しいでしょうか、我々は、何らかの反抗とは違う、精神の観念的な創造物ではない自由というようなものがあるのかどうか、事実として、そのような自由があるのかどうかを明らかにしようとしています。そして、それを明らかにするためには、人は空間の問題を深く検討しなければなりません。取るに足らない、さもしいブルジョアや中流階級の人々の精神―あるいは、同様に取るに足らない貴族的精神―は、それが自由であると考えるかもしれませんが、それは自由ではありません、なぜなら、それはそれ自身の空間の限られた領域―それがその中で機能するそれ自身のイメージによって作り出された限られた空間―の中を生きているからです。そのことは明らかでしょうか?
そのように、あなたは自由なしに秩序を手にできません、そして、あなたは空間なしに自由を手にできません。空間や自由そして秩序―それらは三位一体です―それらは別々ではありません。極端な左翼的社会は、独裁政府によって、何らかの政党の専制政治によって、秩序を作り出そうと願います、しかし、それは秩序を作り出すことはできません、経済的にも、社会的にも、いかなる方法でもできません、なぜなら、秩序には人間自身の中の自由―個人の取るに足らない薄汚れた矮小な精神の自由ではなく、二百万年以上を生きてきた、あるいは有史以来の人間の経験を内に秘めた精神の自由―が欠かせないからです。
秩序は徳です、そして、善きこととしての徳は、それ自身の中にいつも矛盾を抱えているいかなる社会の中にも開花できません。外側の影響―経済的調整や社会改革、技術的進歩、火星へ行くことなどその他の全て―からは恐らく秩序は生まれません。秩序を生むのは自由の探究です―知的な探究ではありません、我々の条件づけや我々の狭い観念を実際に打ち砕くのです、我々がその一部である社会の心理的構造を打ち砕くのです。もしあなたがそれらを打ち破るのでないなら、自由はありえません、従って、秩序は生まれません。それはちょうど矮小な精神が世界や生命や美の計り知れなさを理解しようとするようなものです。それはできません。それは想像できます、それはそれについて詩を書けます、絵を描けます、しかし、真実は、言葉とは異なります、イメージやシンボルや絵画とは異なります。
秩序は、秩序の乱れに気づくことによってのみ生まれます。あなたは秩序を作り出すことはできません―どうか、この事実を見て取って下さい。あなたは秩序の乱れを内にも外にも気づくことができるだけです。秩序の乱れた精神は秩序を生み出すことはできません、なぜなら、それはその意味が分からないからです。それは、それが秩序の乱れであると考えるものに、それが拵えた秩序と称するパターンに沿って、反射的に反応するだけです。しかし、もし精神が、それの生きている秩序の乱れを意識するなら―それはネガティブな何かに気づくことであり、いわゆるポジティブな何かを思い描くことではありません―秩序は途方もなく創造的で、活動的で、生き生きとした何かです。秩序は、あなたが毎日毎日従う何らかのパターンではありません。あなたが確立した何らかのパターンに従うことは、毎日毎日それを実践することは、秩序の乱れです―それは努力という秩序の乱れです、争いや貪欲、嫉妬、野心という秩序の乱れです、現代社会によって生み出されて条件づけられてきた、取るに足らない矮小な人間たちの秩序の乱れです。
宜しいでしょうか、人は秩序の乱れに気づくことができるでしょうか、いかなる選択もせずに、“それが秩序の乱れです、そして、これが秩序である”と言わずに、気づくことができるでしょうか? 人は、いかなる選択もせずに、秩序の乱れに気づくことができるでしょうか? それには途方もない叡智を要します、途方もない感受性を要します、そして、そのようないかなる選択とも無縁な気づきの中に、何らかの規律が生まれます、それはただ何かに順応することではありません。
私は性急にことを進めていますか? 私は一度に店を広げすぎていますか?
宜しいでしょうか、ほとんどの我々にとって、規律は―我々が好むと好まざるとに関わらず、我々がそれを実践しようがしまいが、我々がそれを意識しようがしまいが―何かに順応することです。世界中の兵隊たちが―そのような貧しい、惨めな人間たちが、左翼であろうと右翼であろうと―何らかのパターンに順応するように強いられます、なぜなら、その人たちが行うように想定されている様々なことがあるからです。そして、我々は、人々を破壊したり自分自身を守ったりする兵隊ではないけれども、規律は、環境や社会、家族、勤め先、日常生活の決まり事などによって、我々にも課せられています、あるいは、我々は自分自身に何らかの規律を課しています。
人が規律の全構造や意味を検討するとき、それが他から課せられた規律であろうと自ら課した規律であろうと、人は、それが何らかのパターンや記憶や経験に内的にも外的にも順応あるいは適応することであると分かります。そして、我々はそのような規律に反抗します。あらゆる人間の精神が馬鹿げた順応性に反抗します、そうするように仕向けるのが独裁者であろうと司祭であろうと聖職者であろうと神々であろうと何であろうと。それでも人は何らかの規律が生になければならないと分かります―単なる順応性ではない規律です、何らかのパターンに適応するのではない、恐れなどその他の全てに基づくのではない規律です、なぜなら、もし何らかの規律が全くないなら、人は生きていけないからです。そこで、人は、何らかの順応性ではない規律があるのかどうかを明らかにしなければなりません、なぜなら、順応性は自由を破壊するからです、それからは決して自由は生まれません。世界中の組織宗教や政治政党を見て下さい。順応性が自由を破壊するのは明白です、我々はその点を議論する必要はありません。あなたがそれを見て取るのか見て取らないのかのいずれかです―それはあなた次第です。
順応性の規律―社会的恐怖によって生み出される規律、社会の心理的構造の一部である規律―は不道徳であり秩序の乱れです、そして、我々はそれに囚われています。それでは精神は、何かをコントロールするプロセスではない、何かを形作るプロセスではない、何かに順応するプロセスではない何らかの規律の働きがあるのかどうかを明らかにすることができるでしょうか? それを明らかにするためには、人はこの途方もない秩序の乱れや混乱そして我々がその中で生きている惨めさに気づく必要があります―断片的にではなく、余すことなく、従って、選択の余地なく気づく必要があります―そのこと自体が正に規律です。
私は、あなたがこれらのことを理解しているのかどうか分かりません。
私は、私の行っていることに十分気づいています、もし私が選択の余地なく私の手の動きに気づいているなら、例えて言えば、そのような気づきは、その中にいかなる順応性も生じない、正に何らかの規律です。このことはお分かりでしょうか? あなたはこのことを単に言葉では理解できません、あなたは実際に自分の中で行う必要があります。秩序は選択する余地なく、従って、余すことなく気づくこのような気づきからのみ生まれます、思考のあらゆる働きを完全に感受するこのような気づきから生まれます。このように余すことなく気づくこと自体が、順応性とは無縁の規律です、従って、秩序の乱れを、このように余すことなく気づくことから秩序が生まれます。精神は秩序を生み出していません。
秩序を手にするためには、善きことや美の開花である秩序を手にするためには、自由がなければなりません、そして、もしあなたが空間を手にしていないなら自由はありえません。
宜しいでしょうか、私はあなたに問います―しかし、どうか私に答えないで下さい。空間とは何でしょうか? 自分自身に問うて下さい、いい加減にではなく、真剣に問うて下さい、私があなたに問うているように。空間とは何でしょうか? あなたの精神は限られた部屋の中の空間を知っているだけです、あるいは、何らかの対象がその周りに作り出す空間を知っているだけです。それがあなたの知っている唯一の空間です。そして、対象とは無縁の空間があるでしょうか? もし対象とは無縁の空間がないなら、自由はありえません、従って、秩序はありえません、美はありえません、善きことは開花しません、ただ果てしなく、あれこれもがくだけです。そうすると、精神は、何らかの言葉に耳を傾けるだけではなく、言わば、自分の手で見つける必要があります、中心とは無縁の空間が実際にあることを発見する必要があります。ひとたび、それが見つかると、自由が生まれます、秩序が生まれます、そうすると、善きことや美が人間の精神の中に開花します。
規律、秩序、自由そして空間は時間の理解なしにはありえません。時間の性質を検討することは非常に興味深いことです、時計的時間、昨日今日明日としての時間、あなたの働く時間、あなたの眠る時間などです。しかし、時計的時間ではない時間があります、そして、それを理解するのはとても難しいのです。我々は秩序を生み出す手段として時間を当てにします。我々は言います、“数年で私は良くなるでしょう、数年で我々は新しい世代を生み出すでしょう、数年で素晴らしい世界を作り出すでしょう”と。あるいは、我々は異なるタイプの人間を生み出すことについて語ります、完全な共産主義者や完全なこれやあれです。そのように、我々は秩序を生み出す手段として時間を当てにします、しかし、もし人が観察するなら、時間は秩序の乱れを生み出すだけであると分かります。
今朝は、これで恐らく十分です、それでは私の話してきたことについて議論しましょう。あなた方が暑くなければ良いのですが。
質問者 我々は他の人の惨めさや苦悩や絶望を共有できますか?
クリシュナムルティ あなたにとって共有するという言葉は何を意味しますか? 私はあなたと数フランを共有できます、私はあなたと私の幾つかの持ち物を共有できます、シャツであり、ズボンであり、私の余分の部屋などです。私は何らかの経験を言葉で共有できます、私はあなたに私の惨めさを語ることができます、私の生きてきたことや私の見てきた美について語ることができます。それでは共有するとどうなりますか? 何が始まりますか? 私は私の妻あるいは夫を愛しています、私の子供たち、私の家族、私の隣人を愛しています―いいえ、御免なさい、私は私の隣人を愛していません。たとえ私が私の隣人を愛すると言っても、聖職者たちはそのことを毎日声高に語っていますが、それは全くのナンセンスです、なぜなら、私はその人と争っているからです、私はその人をビジネスの面で、あるいは戦争を通じて破壊しているからです。私は私の家族を愛していると言います。そして、私は家族と何かを共有しているでしょうか、物理的な何かを除いて、所有物を除いて。お分かりでしょうか? 私は私の悲しみや惨めさを誰かと共有できるでしょうか? 私はその人にそれを語ることができます、そして、その人は言うかもしれません、“お気の毒に、御老人、大変でしたね”と、その人は私の肩を優しく叩くかもしれません、私の手を握るかもしれません。しかし、私はその人と私が経験している苦悶や不安を共有できるでしょうか?
あなたはこれまで誰かと何かを共有したことがありますか? お分かりでしょうか? 人はいつ誰かと実際に共有するのでしょうか―経済的にではありません、言葉を通じてではありません、何らかの観念を通じてではありません、あるいは、何らかの観念の交換を通じてではありません、議論などその他の全てを通じてではありません―しかし、人はいつ本当に誰かに言葉を介さずに心を開くのでしょうか、単なる物質的な共有ではなく、実際に。確かに、我々は誰かと何かを共有します、誰かと通じ合います、それは愛が生まれるときだけです。しかし、ちょっと待って下さい。その愛という言葉に、様々な人々が様々な意味を与えます。私は今それを検討するつもりはありません、なぜなら、それはとても複雑だからです。宜しいでしょうか、我々は何かを共有します―それは言葉では言い表せません、そして、それは何かを与えたり受け取ったりすることではありません―それは我々が何らかのことについて同じ次元で同じ瞬間の熱気を共有するときのみです。そうでないと通じ合うことはありえません、そして、それは、物理的なものや言葉、説明、知識あるいは馬鹿げた経験などを除いて、共有するものが何もないことを意味します。それは共有ではありません。
二人の人間がそのように通じ合えますか? あなたと私はそのように通じ合えますか? あなたは私を知りません、私はあなたを知りません。あなたはあなたの妻あるいは夫を知っているかもしれません、しかし、私はそれを疑います。他の人を知るということは大変なことを意味します。あなたと私は数時間あるいは一分でさえ何らかの熱気で、差し迫った何かで、同じ深さで、同じ時間を生きられますか? そのときにのみ通じ合えます、そのときにのみ何かを共有します、そうでないなら、それは単なる何かの交換にすぎません、それはまるで市場の取引か全く意味をなさない感傷的で情動的な取引です。共有するためには、感傷的なものや情動的なものがあってはなりません、そこになければならないのは、両者が真剣で、熱気を帯びていて、生き生きしている精神の状態だけです。そうすると、誰かと何かを共有するという問題は起こりません。花は、あなたや私と、その美や香りを共有しません。それはそこに咲いているだけです、そして、人々が、それを見たり、その香りを嗅いだりするだけです。