アウトサイダー

“朝顔

        アウトサイダー

1964年トーク

ザーネン 7月21日

クリシュナムルティ 今朝、私は、もし宜しければ、私にとって非常に重要に思われることを話したいと思います。それは何らかの観念や概念や実践される何らかの方式ではありません。概念や方式や観念はありのままの事実の深い理解を実際に妨げます。私が事実を理解すると言うとき、それは何らかの活動を正に観察することを意味します、思考や感情の働きを正に観察することです、そして、正にその働きの意義に気づくことです。現にある通りの事実に気づくのは、その事実が正に起こっているそのときに違いありません、そして、もし人が事実を深く理解しないなら、人はいつも何らかの恐怖に付きまとわれるでしょう。
 ほとんどの我々が、私は思います、意識的にも無意識的にも、そのような恐れを抱いています。今朝、私はこの問題をあなたと一緒に検討したいと思います、我々は余すことなく理解して、恐れを完全に解き放すことができるのかどうかを見てみたいと思います、そして、人がこのテントを出るとき、人は文字通り実際に恐れから解放されているのかどうかを見てみたいと思います。従って、どうか、あなたは私と心の中で議論しないで静かに耳を傾けていただきたいのです。我々は少し後で議論します、言葉を戦わせます、我々の思考や感情を言葉にします。しかし、しばらくの間、否定的に耳を傾けて下さい、つまり、肯定的に何かを主張して話を聞くのではなく―ただ耳を傾けて下さい。私は何かをあなたに伝えています―あなたが私に何かを伝えているのではありません―私はあなたに何かを話しています。私の伝えたいことを理解するためには、あなたは耳を傾けなければなりません、そして、そのように耳を傾けていると、あなたと話し手はお互いに通じ合うことになるでしょう。
 不幸にも、ほとんどの我々は、そのように否定的に静かに耳を傾けることができません、ここだけではなく、我々の日常の生活でもそのようにできません。我々が散歩していても、我々は鳥の声に耳を傾けません、樹木の声に耳を傾けません、小川の囁きに耳を傾けません、我々は山々や空の彼方に耳を傾けません。自然や人々に直に“触れる”には、あなたは耳を傾けなければなりません、あなたが耳を傾けることができるのは、あなたが否定的に静かにしているときだけです、つまり、あなたがいかなる努力もせず、いかなる思考もせず、何も言葉にせず、何も口論せず、何も議論せずに耳を傾けているときです。
 私は知りません、あなたが、余すことなく完全に、あなたの妻や夫や子供たちに、通りの車に、あなた自身の思考や感情に耳を傾けたことがあるのかどうかを。そのように耳を傾けているときは、ただ耳を傾けているだけです、他に何もしません、それを言葉にしません、そして、そのように正に耳を傾けることによって、途轍もない革命が精神の深部に起こります。
 しかし、ほとんどの我々は耳を傾けることに不慣れです。もし我々が我々の思考の習慣に反する何かを耳にすると、あるいは、もし我々の大事にしている理想の何かが攻撃されると、我々はひどく苛立ちます。我々は何らかの観念や理想を後生大事にしています、我々の財産や経験や知識を後生大事にするように、そして、その何かが疑問視されると、我々はバランスを失って言われていることに抵抗します。
 宜しいでしょうか、もしあなたが今朝言われていることに本当に耳を傾けているなら、何の選択もせずに注意深く文字通り気を付けて耳を傾けているなら、あなたは分かるでしょう、あなたが話し手に耳を傾けているとき、あなたはそれを自分の言葉に置き換えて聞いていないことが―つまり言葉による分析です―従って、あなたは言葉を超えた意味や意義に耳を澄ましていることが分かるでしょう。それはあなたが眠っていることを意味しません、あるいは、あなたが自己満足的な感傷に心地よく浸っていることを意味しません。それとは反対です、耳を傾けるためには、余すことなく文字通り気を付けていなければなりません―精神集中ではなく、文字通り気を付けているのです。その二つは全く異なります。もしあなたが文字通り気を付けて耳を傾けているなら、恐らくあなたと私は創造の深部へ近づくことになります。そして、このことは間違いなく重要なことです、なぜなら、表面的で不安を抱えた、絶えず多くの問題に悩まされている精神は、恐らく恐れを理解できないからです、そして、それは生の最も根本的な問題の一つです。もし我々が恐れを理解しないなら、愛は生まれません、創造もありえません―それは何かを作り出す行為ではありません、それは言葉や絵画や書物では表現できない、時間とは無縁の創造です。
 そのように、人は恐れから解放されなければなりません。恐れは抽象的なものではありません、恐れは単なる言葉ではありません、ほとんどの我々にとって、言葉が事実よりもずっと重要になっています。私は知りません、あなたが恐れを余すことなく完全に取り除くことを考えたことがあるのかどうかを。恐れを取り除いて、その不安が完全に消え去ることは可能です、なぜなら、精神がいつも先回りするからです、つまり、生じた恐れを追いかけて、それを乗り越えようとする代わりに、精神が先回りして恐れから自由になるのです。
 宜しいでしょうか、恐れを理解するためには、人は比較する問題を検討しなければなりません。なぜ我々は様々なことを比較するのでしょうか? 技術的なことでは比較することによって進歩します、そして、それは相対的なものです。五十年前には原子爆弾はありませんでした、音速飛行機はありませんでした、しかし今はそれらが存在します、そして五十年後には我々の知らない他の何かが存在するでしょう。それを進歩と称します、そして、それはいつも比較される何かで相対的です、そして、我々の精神は、そのような考え方に囚われています。外面的なことだけではなく、内面的にも、我々の精神構造は相対的です。我々は言います、私は今こうです、私はこれまでそうでした、私はこの先はもっと何かでしょうと。このような相対的思考を我々は進歩と称します、進化と称します、そして、我々の全活動―道徳的にも、倫理的にも、宗教的にも、ビジネスの世界においても、社会的人間関係においても―はそれに基づいています。我々は自分自身を社会との相対的な関係の中で観察します、そして、社会そのものがこの正に相対的な争いの結果です。
 比較することによって、恐れが生じます。この事実を自分自身に照らしてよく観察して下さい。私はもっと良い作家でいたい、もっと奇麗でいたい、もっと賢い人間でいたい。私は人よりももっと多くの知識を手にしたい、私はこの世界で成功したい、ひとかどの人間になりたい、有名になりたい。成功することや名を成すことは、心理的に正に比較する本質です、そうすることによって、我々は絶えず恐れを生じさせます。そして、比較することによって、我々は争ったり奮闘努力したりします―それが大いに社会的に期待されます。あなたは言います、この世界で生き残るためには競争しなければならないと、そうやって、あなたはビジネスの世界でも家族の中でも、いわゆる宗教的なことでも、比較し競争しなければなりません。あなたは天国へ行ってイエスあるいは何らかの救世主のそばに座らなければなりません。競争心は聖職者の世界にもあります、大司教、枢機卿そして最後は教皇です。我々はこのような精神を非常に粘り強く生涯を通して育みます、もっと良くなるように励みます、人よりも高い地位につけるように励みます。我々の社会的倫理的構造はそのことに基づいています。
 そのように、我々の生の中に、この絶えず比較したり競争したりする活動があります、人がどのような人間になろうと、いつも奮闘しています―あるいは、何ものにもなるまいと奮闘しています、それは同じことです。これが、私は感じます、あらゆる恐れの根本であると、なぜなら、それが嫉妬や妬みや憎悪を生むからです。憎悪が生まれるとき、愛は明らかに生まれません、恐れがますます増幅します。
 私が言ったように、ただ耳を傾けて下さい。聞かないで下さい、比較しないようにするにはどうすればよいのかと、比較するのを止めるには何をすればよいのかと。あなたは何もできません。もしあなたが何かを行うなら、あなたのその動機もまた比較することから生じています。あなたができるのは、ただその事実を見て取るだけです、我々が我々の存在と称するこの複雑なものは、比較し奮闘する何かであると見て取るだけです、そして、もしあなたがその種の行動でそれを変えようとしても、あなたは再び比較し競争する精神に囚われます。重要なことは、ただ歪めることなく耳を傾けることです、あなたがそのことで何かを行いたいと思うや否や、あなたはあなたが耳にしていることを歪めるでしょう。
 そのように、人は、このような生の比較する価値観の意味や、その意義を見て取ります、比較することが、何らかの理解をもたらすという考えの幻想を見て取ります、つまり、二人の画家や作家の仕事を比較したり、自分自身をそれほど賢くない人や仕事の遅い人やもっと奇麗な人などその他のあらゆる人と比較したりすることなどです。それでは、人はこの世界を外面的にも内面的にも全く比較することなしに生きられますか? 宜しいでしょうか、いつも比較している精神の状態に気づくには―それが事実であることに気づいて、その事実から逃げないでいるには―余すことなく文字通り気を付けていなければなりません。そのように気を付けていることが、それ自身の規律になります、それは途方もなく柔軟であり、それにはいかなるパターンもなく、それは何の強制も受けません、それは、恐れの全問題をさらに理解することを願って行うコントロールや服従や否定とも無縁です。
 比較するこの生き方が精神の劣化する主な要因です、違いますか? 精神の劣化とは、その鈍さや感受性の欠落や腐敗を意味します、従って、叡智の全くの欠落です。身体は年齢を重ねるとゆっくりと劣化します、そして精神もまた劣化します、精神の劣化の原因は、比較することや争うことや競い合う努力です。それは少なからず摩擦を起こして回転するエンジンのようです―それは正しく働きません、それがいつもそのように回転していると、急速に劣化します。
 我々が見てきたように、比較や争いや競争は精神の劣化を生むだけではなく、恐れをも生みます、そして、恐れが生じると、精神が暗くなって、愛情や理解や愛が生まれません。
 宜しいですか、恐れとは何でしょうか? あなたはこれまで恐れと直に向き合ったことがありますか、それとも、あなたが向き合ったのは恐れという観念でしょうか? その二つには違いがあります、宜しいですか? 実際の事実としての恐れは、恐れの観念とは全く違います。ほとんどの我々は、恐れについての意見や判断や価値評価を口にして、恐れについての観念に囚われています、そして、我々は決して恐れそのものの実際の事実に直に触れません。私は、このことを我々はかなり広く深く理解しなければならないと思います。
 私は蛇のことを話したいと思います。私はあるとき蛇に出くわしました、そして、私は蛇が恐ろしくなり、その経験が脳裏に焼き付きました。日が暮れてから私が散歩に出ると、その記憶が蘇ります、そして、私はすでに蛇に会うことが怖くなっています、そのように、恐れる思いの方が実際の事実よりもずっと迫力があって強力です。それは何を意味しますか? 我々は直に恐れに触れていないのです、我々が相手にしているのは恐れる観念です。この事実を自分自身で観察して下さい。あなたは、その観念をどのように小細工しても取り除けません。あなたは言うかもしれません、今度こそ、私はその観念を捨てて恐れに向き合ってみることにしようと、しかし、あなたはそうできません。一方、もしあなたが本当に見て取ると、記憶や何らかの思考のせいで、あなたがその事実―恐れの事実、嫉妬の事実、死の事実―と直に触れなくなっていることを見て取ると、あなたは分かります、その事実とあなたとの間に全く異なる関係の生じることが。
 ほとんどの我々にとって、観念が実際の行動よりもはるかに重要です。我々は決して完全に行動しません。我々はいつも行動を観念によって制限しています、何らかの方式や概念に従って行動を調整したり解釈したりしています、従って、それは本来の行動ではありません、むしろ行動が不完全なので問題を生じさせます。しかし、あなたがこの途方もない事実を理解すると、行動が驚くほど生き生きとします、なぜなら、それはもはや何らかの観念に近づけて行動していないからです。
 恐れは何らかの観念ではありません、それはいつも何かとの関係で生じます、私は死を恐れる、私は世論を恐れる、私は不人気を恐れる、私は無名を恐れる、私は何かを成就できないのを恐れるなどです。恐れという言葉は、事実そのものではありません、それは、その事実を伝えるシンボルにしかすぎません、ほとんどの我々にとって、シンボルが事実よりもはるかに重要です―宗教についても他のことについても。宜しいでしょうか、精神は言葉やシンボルや観念から自身を解放できますか、そして、事実を何の解釈もせずに観察できますか、言いません、私は事実を見なければならないと、事実についてのいかなる観念とも無縁に観察できますか? もし精神が事実をその事実についての何らかの意見を交えて見るなら、それは単に観念を扱っているにすぎません、違いますか? そのように、このことを理解するのは非常に重要なことです、つまり、私が事実を何らかの観念を通して見ると、事実に触れることが全くできません。もし私が事実に触れたければ、観念が完全に消えていなければなりません。それでは、そこから歩を進めて、我々がどこへ行くことになるのか見てみましょう。
 あなたは死を恐れるという事実があります、あなたは誰かの言うことを恐れます、あなたは様々なことを恐れるという事実があります。それでは、あなたがもはやそのような事実を何らかの観念や結論や概念や記憶などを通して見ないとき、実際に何が起きますか? 最初に、観察者と観察されるものとの間の分断がなくなります、観察されるものから分離した“私”は存在しません。その分離の要因が取り除かれました、従って、あなたはあなたが恐れと称するその感覚に直に触れています。何らかの意見や判断や価値評価や概念や記憶などを抱えた“あなた”―それら全てが消えてなくなり、観察されている対象のみが存在しています。
 我々が行っていることは容易いことではありません、それは早朝の嗜みではありません。私は感じます、人がこのテントを今朝去るとき、人は深く完全に恐れから解放されていると、そうすると、人はそのとき正に人間になっています。
 そのように、あなたは、今、事実に向き合っています、あなたが恐れと称するその感覚や不安です、何らかの観念がもたらしたそれです。あなたは死を恐れます―私はそれを例に取っています。通常、死はあなたにとって単なる観念にすぎません、それは事実ではありません。その事実は、あなた自身が死ぬときにだけ露わになります。あなたは他の人の死について知っています、そして、あなたもまた死ぬと分かると、それが恐れを生む観念になります。あなたは事実についてのあなたの観念を通して事実を見ます、そうすると、あなたは事実に直に触れていません。観察者と観察されるものとの間にはある種の間隙があります。この間隙の中に思考が生じます、その思考する観察者が、それを言葉にすると、それが記憶されて事実を歪めます。しかし、このギャップが存在しなくて、つまり、思考が全く関与しないで時間とは無縁であるとき、あなたは余すことなく事実に触れます、そうすると、事実があなたに働きかけます―あなたからは事実に対して何もしません。
 私は、あなたがこれらのことを理解するのを願います。暑くなってきた朝には、それは重荷でしょうか? 
 宜しいでしょうか、私は感じます、恐れて生きることは、それがいかなる種類の恐れであろうと、もしこの言葉を使わせてもらうなら、邪悪です。恐れて生きることは邪悪です、なぜなら、それは憎悪を生むからです、あなたの考え方を歪めるからです、そして、あなたの生をことごとく損なうからです。そのように、宗教的な人間にとって、恐れから完全に解放されることが絶対的に必要です、外面的にも内面的にも。私は物理的な危険に際しての身体の自然発生的な自己防御のことを言っているのではありません、それは自然な反応です。それは自然なことです、あなたが、突然、蛇に出くわして、飛び跳ねるのは。それは単なる自己防衛的な身体の反応にすぎません、そのように反応しないのは健全ではありません。しかし、内面的に心理的に、あらゆる次元で安全を願うと、何らかの恐れが生じます。人は自分の周りに恐れによって引き起こされたものを見て取ります、そして、人は理解します、精神がいかなるときでも恐れの温床にならないようにすることが極めて大切であることを。
 もしあなたが今朝言われていることに文字通り気を付けて耳を傾けていたなら、あなたは見て取っているでしょう、恐れは決して今のことではなくて、いつも未来のことであると、それは思考によって引き起こされます、明日あるいは次の瞬間起こるかもしれないことを考えることによって生じます。そのように、恐れと思考と時間は手に手を取り合っています、そして、もしあなたが恐れを理解して、それを超えようとするなら、あなたは思考だけではなく時間も理解しなければなりません。あらゆる比較する思考が退場しなければなりません、努力する感覚―それは競争心や野心、成功の賛美、社会的に賞賛されるための奮闘努力などです―をやり過ごさなければなりません。そして、それら全プロセスが理解されると、争うことは全くなくなります、違いますか? 従って、精神はもはや劣化していません、なぜなら、それは恐れと向き合うことができるからです、それはもはや恐れの温床ではないからです。宜しいでしょうか、恐れから解放されたこの状態が絶対的に必要です、もし人が創造とは何かを理解しようとするなら。
 ほとんどの我々にとって、生は決まりきった退屈な何かです、新しいものはありません。新しいことが起こると、我々はすぐにそれを退屈なものにしてしまいます。誰かが絵を描きます、一瞬それは新しい絵ですが、それだけのことです。楽しみや苦痛や努力―それらはみな決まりきったもの、退屈なものになります、ほとんど意味のない、いつ終わるとも知れない戦いになります。我々はいつも新しいものを追い求めています、新しい映像であり、新しい絵画です。我々は新しい何かを感じたいのです、新しい何かを表現したいのです、すぐに旧来の価値観で解釈されない何かです。我々は何か巧妙な仕掛けや技術を見つけたいと願うのです、それによって自分自身を表現できて満足できる何かを見つけたいのです、しかし、それもまたひどく詰まらないもの、醜いもの、蹴飛ばしたい何かになります。そのように、我々はいつも何かを認識するようになっています。新しいものはすぐに認識されて古いものの中に吸収されてしまいます。認識するプロセスが、ほとんどの我々にとって驚くほど重要です、なぜなら、思考はいつも既知の領域から機能するからです。
 あなたが何かを認識するや否や、それは新しさを失います。お分かりでしょうか? 我々の教育、我々の経験、我々の日常生活―それら全てが認識のプロセスです、絶えず繰り返されるプロセスです、そして、それが我々の存在に継続性を与えます。このプロセスに囚われた精神で我々は新しい何かがあるのかどうかを問います―我々は神が存在するのか否かを明らかにしたいと思います。既知から我々は未知の何かを探し求めます。既知が正に未知の恐れの原因です、そこで我々は言います、私は未知なるものを明らかにしなければならない、私はそれを認識して既知にしなければならないと。それが我々の絵画や音楽などあらゆるものの中で追究していることです―新しいものの探究です、そして、それはいつも旧来の価値観から解釈されます。
 宜しいでしょうか、この認識と解釈のプロセス、行動して成就するプロセスは創造ではありません。あなたは恐らく未知なる何かを表現できません。あなたが表現できるのは、あなたが未知と称するものの何らかの解釈や認識です。そのように、あなたは自分自身で創造とは何かを明らかにしなければなりません、そうでないと、あなたの生は単なる決まりきったものになって、何の変化も変質も生まれずに、あなたは瞬く間に退屈になります。創造は正に創造そのものの働きです―それは、カンバスや音楽や書物あるいは関係性の中で解釈されるものではありません。
 結局、精神はその中に何百万年もの記憶や本能が叩き込まれている何かです、そして、それら全てを超えようとする衝動も依然としてその精神の一部です。この既存の背景の中から新しいものを認識しようとする願望が起こります、しかし、新しい何かは、それとは全く異なります―それは愛です―それは、新しいものを認識しようとする既存のプロセスに囚われた精神によっては理解できません。
 これは伝えることが最も難しいことの一つです、しかし私はそれを伝えたいと思います、もし私にできるなら、なぜなら、精神がそのような創造の状態にないなら、それはいつも劣化のプロセスだからです。その状態は時間とは無縁であり、永遠の何かです。それは比較される何かではありません、それは役に立つ何かではありません、それは何かを行うという点では何の価値もありません、それは、あなたが鼻持ちならない詰まらない絵を描こうとしても、あるいはあなたが驚くべきシェイクスピア風の詩を書こうとしても役に立ちません。しかし、それなしには本当の愛は決して生まれません。我々の知っている愛は嫉妬です、それは憎悪や不安や絶望や惨めさや争いに取り囲まれています―それらのいずれも愛ではありません。愛は絶え間なく新しい何かであり、認識できない何かです、それは決して同じではありません、従って、それはこの上なく不確実な何かです。そして、そのような愛によってのみ、精神はあの創造と称される途方もない何かを―それを神と言おうと何と呼ぼうと―理解できます。既知の限界を理解した精神、従って、既知から解放された精神、そのような精神だけが、劣化とは無縁の創造の中にいられます。
 今朝、我々が話してきたことについて、あなたは何か問いたいことがありますか?
質問者 自分を個人と感じることが恐れの原因ですか?
クリシュナムルティ 恐らくそうです。しかし、あなたにとって個人という言葉は何を意味しますか? あなたは個人ですか? あなたには身体があり、名前があります、あなたは銀行口座を持っています、しかし、もしあなたが内面的に何かに縛られていて、不自由で、あなたには何らかの限界があるなら、あなたは個人ですか? 他の人と同じように、あなたは条件づけられています、違いますか? そして、あなたが個人と称する、そのような条件づけられていて限られた領域の中で、あらゆることが生じます、あなたの悲惨や絶望や嫉妬や恐れが生じます。そのような個人的な精神や意思を持った、狭くて断片的なもの、それら混乱の要因である取るに足らないもの―それをあなたは非常に誇らしく思います。そのようなもので、あなたは神や真理や愛を露わにしたいと思います。あなたはそうできません。あなたができることは、あなたの断片やあなたのもがき苦闘することに気づくことです、そして、そのような断片は決して全体にはなりえないことを見て取ることです。どうやってもスポークは車輪になることはできません。そのように、人は個人と称するこの分離した、狭い、限られた存在を検討して理解する必要があります。
 これらのことで重要なことは、あなたの意見でも私の意見でもなく、真理とは何かを明らかにすることです。そして、真理とは何かを明らかにするためには、精神が恐れとは無縁でなければなりません、恐れから完全に解放されていて、余すことなく無垢でなければなりません。そのような無垢からのみ創造が生まれます。