クリシュナムルティ(K) このテントの中が暑くないことを願います。木曜日に我々が話していたことを続けても宜しいですか? 我々は木曜日に話していました、人間は世界中で安全性を探してきました、そして人間は安全でなければなりません、生物的にも、物理的にも、そしてさらに、人間は心理的な安全性をも探し求めてきました。人間はあらゆる種類のイメージや理論や仮説など様々なものを発明してきました。それらの中に人間は心理的な安全性を追い求めてきました。そして物理的に世界中の全ての人の衣食住が満たされる必要のあることは明らかなことです。そしてそれが様々な形の分断によって否定されます―人種的分断であり、国家的分断です、それは根深い“部族主義”であり、そしてそれは思想的違いでもあります、そしてそれが多くの、何千という戦争をもたらしてきました。歴史的に戦争が繰り返されてきました。そのように人間は物理的な安全性というものを手にしていません、例外は既得権益を手にして、資産を蓄え、伝統に寄り添う、保守的な人たちなどです。しかし、心理的には、内面的には、我々は安全性を様々な形の幻想の中に追い求めてきています―神の中に、様々な観念の中に、何らかの関係性の中に、様々な概念や偏った見方や、何らかの結論や信念の中に。そしてそれら全ては人間の内面の安全性を生み出してきていません。我々はそのことを前回ここでかなり踏み込んで検討しました。
そして我々は言いました、人間の安全性というものがそもそも存在するのかと。ここへ始めてこられた方々はどうか心に留めておいていただきたいのです、これは何らかの講義ではありません、講義というものは、講話というものは、何らかのテーマについて話すことであり、何かを教授されたり、何かを伝達されたりするものです。したがって、これは講義ではありません、これは思想的な何かではありません、哲学的な何かではありません、東洋の神秘的な何かではありません。そうではなく、我々が言ったように、我々は二人の友人として人間の存在について話し合っています、なぜ人間は科学技術的に高度に進歩しているのにもかかわらず何千年も何千年も依然として心理的に未開のままなのかを話し合っています。人間は月にまで行っています、とてもたくさんのものを発明してきました、高速通信、高度の外科手術や医療―あなたがそれらを信じるなら―そしてコンピューターです、それは恐らく我々の頭脳の全ての働きにとってかわるかもしれません―全てではありません、そのほとんどです。そのように我々はこれまでの幾つかの集まりの中で話し合っていました、我々はここにこのようにいて、なぜ人間は進化といわれる長い時を経てもなお、我々人類はなぜ現にこのような存在なのかと。人間は依然として暴力的であり、野蛮であり、原始的であり、執拗に“部族的”な戦争を繰り返しています、それらは国家間の戦争であったり、経済的戦争であったりなどします。そして明らかに世界には平和というものが存在しません。政府というものは、どの国のそれであろうと、平和をもたらすことはできません。我々はそのことについてたくさん話し合ってきました、私はそのことに再び踏み込むつもりはありません、なぜなら我々にはあと二回の集まりしかないからです―火曜日と木曜日です―ですから我々は我々が話してきたことに何回も何回も戻ってはならないのです。
そして我々は二人の友人として話しています、宜しいでしょうか、話し手は何らかの断定をしているのではありません、何らかの観念を指示しているのではありません。彼は権威とは無縁です、彼は友人として人間の悲惨や人間の苦しみ、苦痛、不安、孤独、絶望、憂鬱、不確かさなどそれら全ての生の混乱について一緒に話しているだけです。そのように先日我々は安全性というものが一体あるのかどうか、心理的なそれがあるのかどうか話していました。そして我々はあらゆる幻想の中に、何らかの執着や結びつきなどの中に、心理的な安全性を見つけようと試みてきました。それら全ての活動の中には安全性というものはありませんでした―安全性とは安定していて、確かで、変化することのない、変動することのない、変わらない安定している何かであり、動揺しない落ち着いた何かであり、大いなる力強さと活力に満ちた何かです。そして我々は言いました、叡智の中にのみ余すことなく安全な何かが存在すると。
それでは我々は一緒に探求します、一緒にです、あなたと話し手が叡智とは何かを見ていきます。辞書によると、その言葉の普通の使い方は何かを理解すること、見極めること、素早くつかみ取ることであり、何らかの言明であり、何らかの観念であり、何かを提示することであり、何かを素早く理解することです。そしてそれは賢明であること、何かを素早く見極める能力を持ちうることです。我々のだれもがその“叡智”という言葉を聞くと、我々はそれを我々の条件づけに従って、我々の偏った見方によって言い換えます。我々は言います、それは“賢いこと”が書いてある本だ、彼は“賢い”人間だと。つまり、何かを探求できる、観察できる、思考を突き詰める人のことです。その叡智という言葉は、その言葉の元々の意味は何かを見極めたり、何か新しいかもしれないものが提示されるとそれを素早くとらえることができたりするだけではなく、それを理解すること、それらの行間を読むこと、思考の背後を読み取ること、ページ上の文字になっていない行間を読むことをも意味します。そして叡智には、その言葉には正に途方もない響きが備わっています。あなたがその言葉を聞くとき、我々一人ひとりにとってそれは何を意味しますか? 最初に、我々はその言葉を聞きます、その言葉の響きです。なぜなら、その言葉だけでは叡智ではないからです。言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。このテント、その“テント”という言葉は実際のそれではありません。そのように言葉にはその固有の意義が言語的に備わっていますが、言葉は、それだけではなく、その背後にその音が響きます。その音はその言葉のより深い意義を含みます。お分かりでしょうか。なぜなら音が非常に重要だからです。音楽は音です。川は勢いよく流れて音を出します。我々はほとんど音に耳を傾けません。我々は我々の偏ったものの見方のせいで、コミュニケーションのため使われるお互いの言葉に耳を傾けないだけではなく、その言葉の響きをもとらえようとしません。それは、その言葉がそれ自らその余すことのない意義を露わにするように、人が非常に、非常に注意深く耳を傾ける必要のあることを意味します。そしてあなたが耳を傾けることができるのは、その言葉がもたらす正に声音が存在するときのみです。音は雑音ではありません。音は音符と音符との間にあるのではありません。音には大いなる深さがあります。つまり、人が非常に明瞭に耳を傾けるとき、いかなる先入観も抱かずに、何の偏った見方もしないで、何らかの意見や結論を脇へ除けて耳を傾けると、あなたは言葉の途轍もない意義をとらえます、叡智をその言葉の音の響きと共にとらえるように。私は我々がこのことを一緒に行っていることを願います、なぜなら我々は今朝たくさんのことを話そうとしているからです、そして人は言葉で通じ合う必要があるだけではないからです、というのも我々は幸か不幸か英語で話しています、そして英語には英語の確立した意味が備わっています。そしてそれらの言葉を我々は使わなければなりません、つまり、“良い日和です”“美しい朝です”という英語の言い方をします。しかしそれらの言葉は美しい朝そのものではありません。言葉はその当の山ではありません。しかしもしあなたがその言葉に耳を傾けるなら―“美しい朝”―その朝の意義を余すことなくとらえます、その全ての途方もない美とともに、その影とともに、新鮮な空気とともに、それら山々をとらえます。その音の響きの中に全てが存在します。
そこで我々は一緒に話し合います、叡智とは何かを。そのような問いかけに我々はどのように取り組むのですか? 我々のだれもが我々の能力に従ってそれに異なる意味を与えます、もしあなたがたくさんの書物を、偉大な多くの書物を読んでいるのなら、あなたがたくさんの言語を話すのなら、あなたがあなたの才能を多方面に発揮しているのなら、あなたはそれを叡智と称するでしょう。そして他の誰かが言うかもしれません、あなたには選択の余地なく行動を見極める能力があるに違いないと。ある人は言うかもしれません、複雑なコンピューターを組み立てることが叡智であると。そのように一人ひとりがそれぞれの固有の好みに従って、それぞれの偏った見方や先入観や結論に従って言うでしょう、“これが叡智である”と。しかし何が本当の叡智なのかを探究するためには叡智ではないものを我々は否定しなければなりません、違いますか?
我々は叡智が何であるかを見出すために叡智ではないものを探究しなければなりません。叡智が何であるかを探究するためには我々は最初にそれではないものを理解しなければなりません、違いますか? 私はこのことが明瞭であることを願います、我々は叡智ではないものを探究しています。否定を通じて肯定に行きつきます。しかしもしあなたが肯定から始めるとあなたは否定で終わります。もしあなたが子供のころの信念から始めると、何らかの幻想などを信じて始めると、あなたは成長するにつれて必ず何も信じなくなるでしょう。
そのように我々は叡智ではないものを今最初に明らかにしようとしています、宜しいですか? それが我々の一緒に考えていることです、話し手が叡智ではないものをあなたに語っているのではありません、そうではなく、一緒に、あなたと話し手が、二人の友人としてこの途轍もない問題を探究しています、それは非常に複雑な問題です、叡智とは何かを自分たちで明らかにしようとしています。そしてそうするためには叡智ではないものを否定するのでなければなりません、違いますか? このことは宜しいですか? もし宜しければ我々は先へ進めます。
叡智とは何ですか? 戦争は叡智ですか? あらゆる残忍さ、胸の悪くなる出来事、醜悪さ、怒号、残虐さ、流血、殺戮―それは叡智ですか? 地球上の全てのものを殺すこと、動物たちや海中のクジラたちを殺すこと。我々は絶えず殺戮しています、自然だけではなく我々自身も殺戮しています。我々の頭脳は堕落しています。あなたがこの問題にこれまで踏み込んできたかどうか私は知りません。我々は戦争が叡智とは言えないことは分かりますが、我々はそれを追い求めています。我々の誰もがそのことに責任があります―違いますか? あなたがそのような責任を認めるのかどうか私は知りません。ベイルートで戦争が続いています、現在世界中で四十の戦争が起こっていると私は信じます。何らかの観念や理想や自己の立場の主張や国家としての力の誇示や侵略されないためや包囲されないために殺戮し合います。お分かりでしょうか、それらのことが起こっています。それは叡智の働きですか? 長い時を経て進化してきた人類はこの前二つのぞっとする戦争を経験しました、それでもなお人間は戦争を準備しています。それは全くの愚かな行為です、違いますか? それは明らかです。その原因は―その原因の一つは―ナショナリズムです、それは祭り上げられた根深い“部族主義”です―違いますか? 私たちの国、私たちの空間、私たち国民、私たちの伝統、私たちの神、つまり、それら全てが愚かな行為です。それは叡智ではありません。私はあなた方の誰もがそのことに同意すると思います。しかし我々はその事実に面と向かいますか、それは愚かであると単に言葉で主張するのではなく。
それでは我々の責任とは何ですか―我々は正に核心に迫ります―あなたがこのようなことを目の当たりにするとき、我々の責任とは何ですか? もし私がナショナリズムと称して何らかの民族に属するなら、何らかの宗教的な宗派に属するなら―それは何らかの分断を引き起こして争いをもたらしますが―私はその争いを受け入れて、そのような通常の伝統的な道を歩むのか、それとも私はもはやどのような国にも属さないのかのいずれかです、実際に私はいかなる国にも、いかなる民族にも、いかなるグループにも、いかなる宗派―宜しいですか―いかなる宗教にも属さないのかのどちらかです。なぜならそれらが分断の要因だからです、したがって争いの要因だからです。そしてそれが頭脳の堕落の要因です、それが我々皆に起こっています、我々が誕生してまだ幼いときに、それはすでに堕落し始めています。争いが要因の一つです、あるいはそれが主な要因です、頭脳の堕落の主な要因です。争いです。人間は子供の時から死ぬまで、あれやこれやで絶えず争っています、そしてそのような争いは何らかの矛盾が生じるときに起こります、つまり、あなたが何かを言って、それとは全く異なることを行うときです。それは偽善です。あなたは聞いていますか? 友人として我々は互いに耳を傾けていますか? それとも、あなたはただこう言うのですか、“はい、その通りです、同感です”と、そしていつものあなたのままですか?
先日我々が言ったように、これは真剣な集まりであって、何らかのエンターテインメントではありません、何らかの知的な刺激ではありません、あるいはロマンチックな何か、感傷的な何かではありません、それら全てのナンセンスではありません。これは非常に真剣な集まりです。そしてほとんどの人にとって生がとても危険なものになっています。そして生の意義が見たところ全く喪失しています。そしてもし我々が生を真剣なものとして受け取るなら―もし我々に叡智が備わっているなら、我々はそうしなければならないのですが―我々はこれら全てのことに関心を寄せるべきです、単にその一つの局面だけではなく、それら全てに関心を持つべきです。我々は生まれてから死ぬまでの人間の全存在に関心があります。我々は何らかの馬鹿げた瞑想には関心がありません、どこかのグルに従ったりはしません、何らかの理論や理想を受け入れて、それに縛られたりはしません。これは検討すべき重要な事です。それは何が真実で、何が幻想で、幻想とは何なのかを、人が自分自身で自分の頭脳を使って明らかにすることを意味します。そしてどのようなナショナリズムも、戦争をもたらし分断をもたらすナショナリズムはどのようなものであれ、明らかにそれは叡智の働きではありません。そのようにあなたが真実である何かを見て取るとき、偽りは消え去ります。争いはもはや生じません、あるいはナショナリストにならないように決意することももはや不要です。あなたはパスポートを手にしているかもしれませんが、パスポートは、何というか、不幸にもそれは旅行する際に必要ですが。そのようにナショナリズムは争いの要因の一つです。
そしてまた偏った見方にこだわることです。偏見という言葉は前もって考えられた意見という意味です、違いますか? そして我々はそのような偏見に満ちています。あなたの意見対他の人の意見です、違いますか? そして政治的な意見があり、世界中で人々を分断しています。我々の意見―意見というのは提言を意味していて、根拠を欠き、何らかの情動的な反応に基づき、何らかの結論への執拗なこだわりです、そしてこのようなことでも人々は分断していて争いが生じます。それでは我々は―どうか聞いてください、友人として―我々は意見を抱かずに生きることができますか? 何らかの偏った見方とは無縁に生きられますか? 結局、あなたが何らかの神を信じるとき、それは何らかの偏見です。あなたがクリスチャンとして、そして他の誰かがヒンズー教徒あるいは仏教徒として救世主を信じないで、あなたがクリスチャンとして救世主を深く信じるとき、他の誰かはそうしません。それは単に信仰の問題であり、根拠のない信念です、そしてあなたのある人物への信心は世界に平和をもたらしていません。あなたがこれらのことを見て取るとき、つまり、何らかの信仰や偏見、結論、理想がいかに人々を分断していて、それによって争いが起こるということ、そうするとそれらの出来事は明らかに叡智ではありません。そこであなたがそのことに耳を傾けるとき、あなたはあなたのあらゆる偏った見方を捨てますか? 人はこうである、人はこうではない、あなたはこうあるべきなど、それら全てがあなたの意見です。あなたはそれら全てを捨て去りますか、そうしてあなたは自由な精神を、混乱していない精神を手にしますか? もしあなたが、“それは不可能です”と言うなら、あなたは決して自分で明らかにしないでしょう―我々は友人として話しています―あなたは叡智とは何かを決して明らかにしないでしょう。従って、あなたはいつも何らかの幻想の中に安全性を探し求めるでしょう、そしてあなたは決して安全性を見つけないので、あなたはひどく動揺し、混乱し、神経症に陥り、感傷主義やロマンチシズムあるいは官能的な何かに逃げ込むでしょう。それが起こっていることです―違いますか?
そのように、我々は言いました、頭脳の堕落の主な要因の一つが、争いを生じさせるこの絶え間ない分断であると。宜しいですか? なぜ我々の中に分断が生まれるのですか、何らかの断片化があるのですか? 私は我々がこのことをお互いに問うていることを願います。話し手が問うているのではありません。我々はお互いにこのことを問うています。あなたがその問いを発しています。なぜ世界中の人間の中にこの矛盾が存在するのですか、この断片化が生じるのですか、従って、なぜそれら全ての断片を繋ぎ合わせて何かを成し遂げようとする衝動が生じるのか、ということです。 そこで我々は検討していきます、なぜなら我々は本当の叡智とは何かを、霊妙な叡智の働きとは何かを見てみたいからです、思考のそれではありません、知識のそれではありません、経験のそれではありません、なぜなら、思考のそれは限られているからです、経験は限られているからです、知識は限られているからです、従って、限りのあるものはどのようなものも叡智ではありません。私は願います、我々が二人の友人として出会って、小道を歩き、ベンチに静かに座り、小鳥の声に耳を澄まし、川のせせらぎに耳を傾け、静寂の中に佇む山々を眺めながら、この叡智の霊妙な働きとは何かを互いに探究しあって生の中に生かすことを、そしてそれは単に知的に言葉で理解するのではないことを。
なぜ我々の中にこの二重性が生まれるのですか、それら相反するものが生まれるのですか? 何かを欲すること、欲しないこと、“現にあること”と“あってはならないこと”あるいは“現にあること”と“あるべきこと”などの二重性です―これらのことがお分かりですか? 貪欲ということで言えば、人は貪欲である、人は貪欲であってはならないという二重性です。暴力について言えば、人は暴力的である、人は暴力的であってはならないという二重性です。人は鈍く、愚かで、何かに同調したり模倣したりします、人は自分自身を、自分の愚かさを愚かでない誰かと比較します。そのように我々は絶えずこのようにもがいています。これは明らかな事実です。あなたはこれらのことに興味がありますか?
参加者(A) はい。
K 本当にそうですか?
A はい。
K それでは眠らないでください。もしあなたが本当にそのことに興味があって、それをとことん追究して、それを葬り去るなら、“どうでもいいけど興味がある”とはどうか言わないでください。あなたはお金を稼ぐことにどうでもいいけど興味があるとは言えません。あなたはセックスをするときどうでもいいけど興味があるとは言えません。あなたは仕事に就くときどうでもいいけど興味があるとは言えません、あなたは仕事に就く必要があり、お金を稼がなければなりません。宜しいでしょうか、このことは仕事やセックスなどその他のことよりもはるかに重要です、なぜならその叡智が生まれるとき、それは我々の生のあらゆる場面で働くからです、我々のすべての領域で働くからです。しかし我々はその行きつく先まで決して行きません、不幸にも。それが我々の凡庸である所以です。そのように言って御免なさい。凡庸という言葉は丘の途中まで行って、決して丘の頂上へは行かないことを意味します。我々は叡智を理解してその生を送ろうとしています。そしてそうするためには、人は争いの要因が何であるのかを見て取るだけではなく、その要因を葬らねばなりません。
事実とは何ですか、そして事実ではないものとは何ですか? それが事実であるときにのみ、そこに二重性は存在しません。お分かりですか? 事実にはその対極がありません。愛に憎しみという対極は存在しません。そのように事実は起こったことであり、それが事実です。あるいは今起こっていること、それが事実です。しかし我々は起こったことから何らかの結論を引き出してその結論にしがみつきます。そのような結論は事実ではありません、違いますか? あるいは今起こっていること、それが事実ですが、我々はその事実を決して見ないで、その事実をいつも何らかの観念に抽象化して、事実ではないその観念を追い求めます、違いますか? このことは宜しいですか? それとも私は独り言を言っているのですか? そのように我々は事実のままでいられますか? 私は嫉妬深いです。それは事実です―私個人のことではありません、私は嫉妬深くありません、それはどうでもいいことですが―お分かりですか? 仮に人が嫉妬深いとすると、それが事実です、それが実際に起こっていることです、それが我々の嫉妬と称する人の反応です。そしてその事実から我々はある種の結論を引き出します、我々は嫉妬深くてはいけないと、そうして我々はその事実とは違うものを追求して、現にあることとは反対の何かを作り出します、宜しいですか? そこでもしあなたがその事実とは異なる何かを追求しないで、その事実のままでいるなら、その事実があなたです、あなたはその事実と分離していません、違いますか? このことを見て取るのはあなたにとって難しいことです、なぜならほとんどの我々が言うからです、“私”はその行為とは別の何かです、“私”はその反応とは違う何かです、“私”は私の怒りとは違う何かです、私の嫉妬などとは違う何かですと。それが我々の条件づけです。それは我々が争うことに条件づけられていることを意味します。そこで誰かがやって来て言います、“宜しいですか、頭脳の堕落を葬るのです―そのときにのみ頭脳の叡智が働きます”と。その堕落の要因を葬ることは事実のままでいて事実とは違う何かを葬り去ることです。何らかの理想、何らかの結論、何らかの偏った見方を葬り去ることです、お分かりでしょうか、ただ事実のままです。事実は人が正に嫉妬なのであり、嫉妬深いのです。それではもしあなたが事実のままでいるなら、そのことは何を意味しますか? そうしないで、あなたが事実ではない何かを追い求めると、それは時間を要します。あなたはこのことを理解するでしょうか。私はこのことを難しくしていますか? 私が暴力的であるとき私が暴力ではない何かを追求すると、暴力的ではない何かを成し遂げようとするには時間を要します、違いますか? 暴力的ではない何かになるためには時間を要します。しかしもしあなたが事実のままでいるなら、時間の入る余地はありません。あなたはこのことを見て取るでしょうか。このことは重要です、宜しいでしょうか。そこで私は今探究しなければなりません、時間とは何かです。
あなたはこれらのことに踏み込んでいきたいですか? それはあなた次第です、しかし私は続けます。どうか心に留めておいてください、我々は友人として話し合っています。あなたはただ言われていることを聞いているだけではなく、あなたは言われていることを共有しています。それが友人の行うことです。あなたは見知らぬ人と話しているのではありません、恐らくその人には興味がありません。しかし友人として我々はこのことを話しています、時間とは何かです。なぜなら我々の生はすべて時間に基づいているからです。何千年もの進化の過程は時間を意味します。我々は時間を費やして何かになっています、ここから家に帰るために要する時間だけではなく、何かになる、秘書から社長になるための時間だけではなく、我々には時間が必要です。もしあなたに技量や才能、狡賢さなどその他のすべてが備わっているなら、あなたは頂上へ上りつめます、あなたが望むなら。それら全てには時間を要します。言葉を覚えるには時間を要します。そのように時間はある領域では必要です。あなたが電車に乗ろうとするなら、あなたはその時刻にそこにいなければなりません。それでは心理的な時間というものがありますか―心理的な明日という時間がありますか? どうかこのことを真剣に理解してください、そうしないと我々はあらゆる種類の災いをもたらす観念を生み出します。宜しいですか、時間のことです。時間は希望です、心理的には。時間は心理的に何かになるために必要です。人は嫉妬深いのです、そして嫉妬深くなくなるためには時間がかかります。そのように我々の頭脳は時間に条件づけられています、時間に縛られています、違いますか? そのことは宜しいですか? 我々は何千年という経験を擁しています―そのような全ての経験を蓄えるには時間を要します。膨大な知識を擁するには、心理的な知識を擁するには時間を要します。記憶の連なりは、宜しいですか、時間です。そのように記憶は、何というか、思考は記憶の反応です、そしてそれは時間です。そのように思考は時間です。これが全てです、違いますか? おーっ、宜しいですか?
宜しいでしょうか、私の言いたいのはこれです、つまり、このことを即座に把握するあなたの何らかの働きです、その真理を見て取る何らかの働きです。つまり、経験はいつも限られています、違いますか? あなたはどのようなことであれ完全な経験というものを手にすることはできません。そのように経験は限られています、従って知識は限られています。それは好むと好まざるとにかかわらず事実です。そして記憶は知識に基づいているのですから記憶は限られています。あなたは若いころから多くのことを記憶しているかもしれません、長い時間が経過しています、過去の記憶です―それらは限られています。そのように思考は一様に、どのような状況の下でも、限られています。違いますか? そのように思考が生み出した全てのものは限られています。思考によって編み出された世界中の全ての宗教的仕組みは限られたものです。あなたはこのことを理解するのでしょうか。もしあなたがインドに生まれるなら―私はあなたのキリスト教世界のことは話しません、なぜならあなたは憤慨するかも知らないからです―もしあなたがインドあるいは仏教国に生まれるなら、ブッダやヒンズー教の誰かの言ったことは絶対です、それで話は終わりです。その人たちは何らかのイメージを崇拝していて、それが絶対的な何かで、永遠で、不朽の真理であると考えます、あなたがあなたのこの国でそうするように、もしこのように指摘させてもらえるなら。そしてこれら全てが思考の働きです。人々は誰もが言います、それは直々の真理の啓示であると、違いますか? どの宗教も宗教組織も言います、それは真理の啓示であると。しかし真理は書物や人物、観念、儀式あるいは信仰によって露わにされうるものではありません。真理は見出されなければなりません、それについて教えられるものではありません。従って完全な自由があるのでなければなりません。そして完全な自由が生まれるとき、争いは止みます。それは人がこのように悟るときのみです、つまり、頭脳がその唯一の装置である思考とともに悟るときです、思考は我々の生の唯一の装置であり、そして全ての思考は限られていて、必ず争いをもたらすに違いないと。私が一日中私の獣のような、取るに足らない自分のことを考えているとき、多くの人たちがそうしているように、私の頭脳は非常に限られたことで占領されています、それは明らかです、違いますか?
そのように時間は思考の活動です、物理的にも心理的にも。時間は過去と未来と現在だけではありません、違いますか? それは過去から現在を経て、それ自身を修正し、そしてさらに進む全活動です。その全活動が思考と時間です、違いますか? このことが分かりますか?
そこで人は問います、もし思考が時間のプロセスであるなら、そしてそれは限られているのですが―あなたがこれらのことを理解していると願います―それが限られていると、それは争いを作り出すに違いないと、従ってそれが頭脳の堕落の要因の一つであると。そうすると、頭脳が堕落しないでいられるかどうかを検討するためには、人は“今”とは何かを理解しなければなりません。あなたはこれらのことが分かりますか? あなたにとって“今”とは何ですか? “今”とはあなたがそこに座って耳を傾け、このことに加わり、何かを共有していることですか、それが“今”ですか? よく見てください。そこへ踏み込んでください、言わないでください、“はい、それはその一部です”と。“今”は過去だけではなく現在でもあります、宜しいですか、過去とはあなたがここへ来ることを決めて、ここに座っていることです。そして未来とはあなたがテントを出て立ち去ることです、違いますか? そのように“今”は過去、現在そして未来を含みます。過去とはあなたがここへ来ることを決めて、この哀れな男に耳を傾けて、そこに座っていることです、そしてまた“今”はあなたがこれらのことを終えて立ち去るときです。そのように“今”は過去、現在そして未来を含みます。つまり、“今”には時間がありません。
そうすると、あなたが“今”の中にとどまると、あなたはあなた自身の中に内在する全人間の経験である過去を理解します、違いますか? あなたの意識は、その内容は、過去、現在そして未来ということになります、違いますか? あなたの意識はそれです―あなたが信じるもの、誰それに教えられたとあなたが信じるもの、政治や宗教、教育などの専門家によってあなたがプログラムされているもの、それは過去です、違いますか? あなたはこれらのことが分かりますか? そして過去は今そこにあります、そして未来は過去の産物です、違いますか、それはすでにそこにあります。そのように“今”は過去、現在そして未来として全時間を含みます。このことを深く理解すると、“今”は全てのものを含みます、全存在が“今”です。従って、“今”から分離した活動というものは存在しません。事実から分離した事実ではない活動というものは存在しません。事実から分離して事実ではない何かに向かう活動は消滅しました。従って争いが起こりません。あなたはこれらのことが分かるでしょうか。言葉の上ではなく、どうかそれを言語的に受け取らないでください。その真理を見て取ってください。そうすると頭脳は、何というか、それは何千年も生きてきました、それはあなたの頭脳ではありません、それはあなたの思考ではありません、それは全人類の思考です、我々はそのことをここ数日非常に注意深く検討しました。
そのように事実が“今”です。そして事実は全ての過去、現在そして未来を含みます。そしてそのような事実に耳を傾けるのです、事実がその内容を自ら露わにするように耳を傾けるのです。あなたがその内容が何であるのかを事実に言って聞かせるのではないのです。あなたはこれらのことを理解するのでしょうか。我々は一緒に考えていますか? それともあなたはただ話し手の幾つかの言葉を聞いて困惑しているのですか? 我々は一緒に考えていますか? 我々は今過去の何かだけではありません、つまり、全ての記憶、全ての活動、痛み、不安、傷、孤独、苦悩、苦痛、恐れです。あなたは今それら全てです、違いますか? そして未来はこの今です、違いますか? それは明らかです。そのように未来と過去は現在のあなた故に今存在します。このことはとても信じられないように思われます―何が難しいのですか? 何が難しいのか言っていただけますか? 宜しいですか、それは非常にシンプルです、それを複雑にしないでください。あなたは過去の何かではないのですか? 違いますか? あなたの受けた教育です、あなたはスイス人として、イギリス人として、ドイツ人として、インド人として、アメリカ人として、ロシア人などとしてプログラムされています、あなたはプログラムされてきています。そのようなプログラムは過去を意味します、違いますか? そのように過去はあなたの収集蓄積された記憶を意味します、違いますか? そのような記憶があなたの頭脳に蓄積されています。そのように過去は今です、違いますか? そして今は未来をも含みます、もし何らかの根本的な変質が起こるのでなければ、お分かりですか? つまり、頭脳の正に脳細胞の中に完全な変質が起こるのでなければ、あなたは過去の記憶のまま未来にもその記憶として継続します。未来は従って今であり、過去は今です。このことは宜しいですか? もし根本的な変化がないならそうなります。つまり、それはこのような人間の頭脳の条件づけが存在するときです、違いますか? そのような条件づけは記憶です、違いますか? 私はカトリック教徒です、私はプロテスタント教徒です、私はヒンズー教徒です、私は仏教徒です、私は神を信じません、しかし私はマルクス、レーニンを信じます―それは同じことの違う表現です。私のグルはあなたのそれより上等です、などその他の全ての類です。そのように我々一人ひとりの頭脳は条件づけられています、プログラムされています、それは過去の膨大な収集蓄積です。それはとてもシンプルなことです。そのように我々は正に記憶に他なりません、違いますか? あなたは思うかもしれません、私は単に記憶よりも優れた何かであると、しかしあなたはそうではありません、あなたが自分はそれよりも優れていると考えるとき、その思考が正に記憶です、違いますか?
そのように記憶は時間の活動です、現在の中の未来である時間です。そのようにもしあなたがその事実の中にとどまるなら、それから離れないなら、正にあなたが“今”です。あなたがその他の全ての時間です。宜しいですか? そうするとあなたがそう悟るとき、あなたがそれであるという事実が露わになるとき、そしてあなたがそのことに余すことなく気をつけていると、その事実から逃げないでいると―お分かりですか?―そのような記憶が正にあなたです。あなたはそのような記憶と異なる何かではありません、違いますか? そのようにあなたと記憶との間に分断は生じません。分断が生じれば心理的な争いが起こります。そのように観察者が正に観察されている当のものです。経験者が正に経験されている当のものです。分析者が正に分析されている当のものです。他のことも同様です。そうすると心理的な争いが止みます。心理的な争いは分断が生じるときのみ起こります、従って頭脳は争いを起こしません、従って頭脳の堕落が起こりません。しかしほとんどの我々の頭脳は堕落してきました、あるいは堕落しています。それは事実です。そこで人はその理由を発見しなければなりません、堕落の要因が何なのか発見しなければなりません、そしてそれは本質的に心理的な争いです。恐れている精神、恐れの中を生きる頭脳―我々はそのことを次の機会に議論します、恐れやその他の全てです―そのような頭脳は堕落するに違いありません。絶えず官能的な何かを、性的な何かを追い求めている頭脳は堕落するに違いありません。それらは事実です。
そうすると、何らかの生き方を見出すこと、そしてそれは極めて、何というか、心理的な争いの影が微塵もない生き方を見出すことは可能です。そうするとあなたの頭脳は途方もなく生き生きとします。その働きはそうすると全体的な何かです、なぜならそれは自由だからです。そして自由という言葉は愛を意味します。愛にその対極となるものは存在しません。愛にはその、何というか、愛は欲望ですか? 愛は思考の働きですか? もしそうなら、ほとんどの我々がそうであるように、それは愛ではありません。もし関係性の中に、親しい関係性の中に思考が働いているなら、愛は生まれません。そこへ踏み込んでください。我々は他の機会にそのことを検討します。立ち上がってもいいですか? 立ち上がっても宜しいでしょうか?
1983年 7月17日 ザーネン
中野多一郎 訳