はからない精神

 

ニューデリ―・トーク

混乱の根本的要因

 これは講話ではありません、これはむしろ二人の間の会話です、あなたと私の間の会話です、そしてそれは何か特別なテーマについて話し合っているのではないし、あなたに何かを教えて、あなたにそのような考えや意見を持たせようとしているのでもありません。我々は友人であり、公園のベンチに座って、我々の問題について話し合っています、我々は世界で起こっていることに、世界中に存在する無秩序と混乱に深く感心を抱いています。あなたには話し合える友人がいるのでしょうか、あなたには自分自身の感情やあなたの概念やあなたの考えていることや幻滅などを打ち明ける友人がいるのでしょうか。我々はそのように互いに話し合おうとしています―どのような偏った考え方にも与せずに、良き友人として、探究し検討します、そしてそれは、大いなる愛情を抱いて、お互いに敬意を払い、それぞれが隠した考え方や隠れた動機を持たないことを意味します。
 はじめに、我々の周りで何が起こっているのか見てみましょう、外的に何が起こっているのか見てみましょう、どのような偏った見方もせずに、インド人としてでもなく、ドイツ人やイギリス人、アメリカ人、ロシア人としてでもなく、見てみましょう。我々は人間です、我々がどの国に住んでいようと、我々は人間です。人は国々が大変な混乱の中にあることを、大変な不確さの中にあることを、国々に無秩序が存在することを目にします。人々は方向性を失っています。そして、不幸なことに、我々は条件づけられています、我々は混乱していて、不確かで、安全性を欠いています、そこで我々は過去の中に解決策を見つけようとします、我々の伝統に立ち返ろうとします。これが世界中で起こっていることです。人々の中には聖書を彼らの権威として受け入れる原理主義者たちがいます、あるいはコーランに頼るイスラムの原理主義者たちがいます。マルクスに頼る原理主義者たちがいます。そのように、我々が不確かで、混乱していて、大いに動揺しているときは、我々は何らかの方向性を見出そうと、過去に目をむけます、ある種の権威に頼ります、何らかの書物に頼ります。そして、この国では、見ての通り、とてもたくさんの書物が存在し、それらのタイトルが溢れています。そのように、ここでは伝統は不確かなものです。あなたはあらゆるリーダーを手にしています、あらゆるグルを手にしています、しかし、いわゆるあらゆるグルは人類を助けていません。
 これら全ての根源的要因は何ですか? 人がその要因を見つけることができると、人はそれを終わらせることができます。要因が消滅します。我々はその要因は何かと問うています、あるいはこの混乱の要因は何かと、この誠実さの欠如は何かと、この絶望的な腐敗の感覚は何かと問うています。これら全ての根源は何ですか? ほとんどの我々は現象と戯れます。過剰な人口のせいであるとか、政府が悪いと我々は言います。世界中でそれは同じです―リーダーの欠如であり、倫理の欠如です。それらは全て現象です。これら全ての要因は何であるかと人は決して問いません。我々が要因を検討し始めると、我々は我々の異なった意見を持ち出します。我々に教養があればあるほど、その要因或いはそのいくつかの要因の主張がより強まります。しかし我々はそれほど教養のある人間ではありません。我々は普通の人間であり、専門家ではありません、我々はそれほど利口でもないし聡明でもありません。そして、我々は世界中に存在する、そしてこの国に存在する、この大変な混乱の渦中にいます。どの国も、どのグループも戦争を準備しています。全ての国が、とりわけ工業国が他の国々に武器を輸出しています。誰も問いません、「なぜ我々は戦争をしなければならないのか、なぜ我々は互いに殺しあわなければならないのか」と。彼らは核戦争を止めることについて話していますが、全ての戦争を終わらせることについては話しません。なぜ人間は自分自身をこのように条件づけてしまったのですか? この問いは非常に重要です。なぜ我々は他の人々を殺さなければならないのですか? それはあなたの国のためですか、あなたの属するグループのためですか? 戦争は歴史的プロセスであるという観念を我々は受け入れてきました、そしてそれが現実になっています。しかしその根源は我々が幻想の中を生きているということです、我々の国は守られなければならないという幻想です。あなたの国とは何ですか? あなたは何を守っているのですか―あなたの家ですか、あなたの家庭ですか、あなたの観念ですか、あなたの銀行口座ですか? 全世界が腐敗しています、バラバラになっています、そして我々は根本的な要因を検討しません。
 それでは、その要因は何ですか? あなたがこれまで政治的リーダーに、宗教的リーダーに、経済的リーダーに頼ってきたからですか、あなたを助けるための彼らの特殊な観念や彼らの特殊なシステムに頼ってきたからですか、そのためにあなたはいつもあなたをガイドする、あなたに何をすべきか語る他の人達に依存しているからですか、それが要因ですか? それがこのことの根源的要因ですか、それともあなたは環境を咎めるのですか? その環境とはリーダーにふさわしい人間や高潔な指導者を欠いた政府のことです。それが環境です―あなたの外にある何かです。それがこの要因ですか、それはあなたが権威に全く頼ってきたことを意味します―伝統の権威であり、書物の権威であり、リーダーや指導者などの権威です。あなたが依存すると、あなたは次第に弱くなります、あなたは弱々しくなります。あなたは明確に考えることができません。それは事実です。新聞があなたに何を考えるか教えます。あなたの参加するあらゆる集会や講演会があなたに教授します。そうして自分を頼みとしなくなり、自分で責任を負うということをしなくなります―それがこれら全ての根源的要因かもしれません。我々が依存するので我々は無責任になっています。
 人は自分自身の光でいて、ただの一人にも依存しないことは可能ですか? あなたは牛乳配達の人に依存しなければなりません、郵便配達の人に依存しなければなりません、交差点の秩序を保つために警察官に依存しなければなりません。あなたは外科医に、医者に依存しなければなりません。しかし、内面的には、心理的には、人は自分自身で明確に考えるために、自分自身の反射的な振る舞いや反応を観察するために、誰かに依存する必要はありません、もし人が完全に自分自身の光でいられるなら。あなたはそれの意味することが分かりますか―自分自身の光でいることです。それは自信をもつことでも、自分を頼りにすることでもありません。自信というのは自分本位の一部です。それは自己中心癖の一部です。しかし自分自身の光でいるためには、大いなる自由が、非常に明確な頭脳が、条件づけされていない頭脳が要求されます。しかし、活動的な頭脳を持つことは、挑戦することは、問うことは、疑うことは、何らかのエネルギーを手にすることを意味します。しかし、あなたが他の人たちに頼っていると、あなたはエネルギーを失います。
 それでは、そこから歩を進めましょう。あなたの精神は、あなたの頭脳は条件づけられていますか? あなたはその条件づけられているという言葉が分かりますか? 我々が生まれた瞬間から、頭脳は条件づけられています、伝統によって形作られます、宗教によって、あなたが読む文学によって、新聞によって、両親によって形作られます。頭脳は何百万年と生きてきました。それはとても沢山の経験をしてきました。それは数々の戦争を見てきました、悲しみや快楽、苦痛、苦悶、大いなる混乱を見てきました。そして、それはヒンズー教徒として、シク教徒として、イスラム教徒として、キリスト教徒として条件づけられています。なぜそれは条件づけられるのですか? 我々は真剣に問うています、条件づけられているあなたの頭脳は―もしあなたがそれに気づくなら―そのような条件づけは解かれるのですかと。我々は我々が条件づけられていることを実際に目にしますか? 我々は共にこのことに少なくとも同意しますか? もしあなたが条件づけられているなら、それはあなたの存在が機械的になっていることを意味します―あなたはあなたがヒンズー教徒であることを、あなたがイスラム教徒であることを、あなたがマルキストであることなどを繰り返し主張します。あなたの頭脳は機械的になっていて、同じことを何度も何度も繰り返します。そこで、はじめに、我々は、友人として話し合っている我々二人は、我々の頭脳が条件づけられていることを実際に悟りますか? そうして我々は頭脳をヒンズー教徒やイスラム教徒、キリスト教徒、マルキストであることから自由にできるかどうかを問います。我々は人間であり、我々に張り付けられたラベルではないのです。しかしラベルがとても重要なものとして扱われます。それが起こっていることです。
 条件づけがあるときには、自由はありません。愛はありえません、愛情はありえません。我々が条件づけられている頭脳に関心を抱くのは、人間の将来にとってどうしても避けられないことであり、絶対的に本質的なことです。もし人がこのことに気づくなら、我々は頭脳を自由にすることが可能かどうかを問うことに進んでいけます。頭脳が完全に自由なとき、頭脳と精神の関係が起こりえて、理解されます。そうすると頭脳は精神です。我々はそのことを歩を進めていくうちに検討します。
 我々は条件づけられています、そして我々は自由でいられるのかどうかを問うています。ただ条件づけられているとかいないとかと単に言わないでください、なぜならそれは馬鹿げているからです、一方、もしあなたがそれを検討しているなら、あなたは探究している中で学んでいます。あなたは頭脳をその条件づけから自由にできるかどうかをどこから検討し始めますか、ヒンズー教徒やイスラム教徒やシク教徒ではなく、あなたが人間のあらゆる困苦、不安、不確かさ、深い悲しみと苦痛を抱えた人間であることをどこから検討し始めますか? あなたはあなたの外にそれを検討し始めますか、それともあなたの内にそれを検討し始めますか? つまり、外の世界は我々が生きる内の世界と異なりますか? あなたはその問いかけが分かりますか? 社会、その倫理、外側の世界―それはあなたと異なりますか、それともそれはあなたが作り出してきたのですか? どうかこのことを見てください、世界はあなたであり、あなたは世界です。このことを理解することはとても重要です。我々の秩序の乱れの中で、我々の混乱の中で、我々の安全願望の中で、我々は我々の外側に社会として一つの世界を作り出してきました、そしてそれが腐敗しています、倫理が崩壊しています、混乱しています、絶え間なく戦争しています、なぜなら我々が我々の内側で内面的に混乱しているからです、我々が我々の内側で内面的に争っているからです。
 それでは、どこからあなたは始めますか、あなたはあなたがこの世界を作り出してきたことを知っています。あなたは自分自身から始める必要があります、外の世界の変更ではないのです、その社会の変更ではないのです。それが意味するのは、新しいリーダー、新しいシステム、新しい哲学、新しい指導者を探すことではなく、あなた自身を現にあるとおりに見つめることです。自分の顔を鏡で観察するように自分自身を観察できますか? あなたは自分の反射的な振る舞いや自分の反応を観察できますか、なぜならあなたの反射的な振る舞いやあなたの反応が現実のあなただからです。それではそれを検討することから始めましょう。
 生は関係性のプロセスです。関係性なしに生はありません。それは事実です。あなたは世捨て人かもしれませんし、あなたは僧侶かもしれませんし、あなたはあらゆる社会から引きこもっているかもしれませんが、あなたは何らかの関係性をもっています。人間として、あなたは何らかの関係性をもっていることから逃れられません。あなたはあなたの妻と関係性をもっています、あなたの夫と関係性をもっています、あなたの子供たちと関係性をもっています、あなたの政府と関係性をもっています、あなたは世の中から引きこもった世捨て人と関係性をもっています、なぜならあなたがその人に食べ物を与えているからです、そしてその人はその人の観念と関係性をもっています。そのように関係性は人間的存在の基礎です。関係性なしに存在しえません。あなたは過去と関係性をもっているか、つまり、全ての伝統や全ての記憶や僧侶たちと関係性をもっているか、それとも未来的な想念で未来と関係性をもっているかです。そのように関係性は生の中で最も重要なものです。あなたはその真理がわかりますか、言語的にではなく、知的にではなく、実際にあなたの心と精神で。
 我々は検討しています、あなたの他の人との関係とは何なのかと、それが親しいものであろうとそうではなかろうと。あなたは子供の時から傷ついていて、心理的に傷を負っていて、従ってそのような傷から、そのように負った傷からあなたは暴力に至るのですか? 傷ついていることから、傷を負っていることで、あなたは傷つかないように更に更に内に閉ざすのですか? そうしてあなたの他の人との関係は非常に狭く限られたものとなります。我々はあなたが決して傷つくことがないことを発見できるかどうかをはじめに検討しなければなりません。傷つく根源は何ですか? その要因は何ですか? 私が私は傷ついていると言うとき、それはどういう意味ですか? 私の先生が私を傷つけました、私の両親が私を傷つけました。我々はみな傷ついています。我々はみな何らかの出来事によって、言葉によって、視線によって、ある種の振る舞いによって傷を負っています。それでは傷つくのは何ですか? 私が私は傷ついていると言います。傷ついているその“私”とは何ですか? それはあなたが自分自身について築き上げてきたイメージではないのですか?
 我々は非常に真剣な問いかけをしています、傷つくのは何ですかと。頭脳はイメージを作り出す能力をもっています。イメージは幻想です。我々は幻想を抱いています、戦争は幻想です、そして我々はそれを受け入れます。あなたは他の人間を殺すことを、他の生命を殺すことを受け入れます、あなたが抱いているイメージの一部として。あなたはそれはもう沢山のイメージを抱いています。そしてそれらのイメージの一つが、私は傷ついているというものです。我々は検討しています、傷ついている当のものは何ですかと。それは私が自分自身について築き上げてきたイメージです。私は自分が偉大な人間であると言います、そしてあなたがやって来て私に言います「馬鹿な奴」と。私は傷つきます。比較すると傷つきます。私が私を私よりも賢くて頭がよくて聡明な人と、つまり、人がはかることをすると人は傷つくに違いありません。そこでどうか、比較することなく、はかることなく生きられるかどうかを検討してください。我々はいつも自分を誰かと比較しています。それは学校で少年があなたのお兄さんのようによい子でいなさいと言われるとき始まります。それが比較することであり、はかることです、そしてそのようなプロセスが一生続きます。
 それでは、比較せずに、はかることをせずに生きることは可能ですか? これは途轍もなく複雑な問いかけです。なぜなら、“より良い”という言葉ははかることだからです。“より良く”という言葉ははかることです。自分が向上するということははかることです。はかることをしないで生きられるかどうかを見つけてください、それは比較をしないで生きることを意味します。瞑想の一部は何かになろうとしないことを問いかけることです、というのは何かになることがはかることだからです。我々はお互いの関係の中で、それがどれほど親密であろうと、はかることをしないでいられますか? それはあなたの頭脳があなたの関係性の中で非常に活動的でなければならないことを意味します、それはあなたの関係性を問いかけなければなりません、その関係性の中に傷があるのかどうか、そしてその傷がより大きな恐れをもたらしていないかどうか、自分の中に益々閉じこもっていないかどうか、従って孤立していないかどうかを問いかけなければなりません。そして内的にも外的にも孤立している限り、争いが生じるはずです。
 我々は言っています、頭脳はヒンズー教徒、仏教徒などとして孤立していることを条件づけられてきたと。頭脳がそれ自身の条件づけを解くことができるのかどうかのこの問いかけを見てみるためには、我々は関係性を検討しなければなりません。あなたの他の人との関係性とは何ですか、あなたの妻との、あなたの夫との、あなたの子供たちとの関係性とは何ですか? そこから始めてください、ごく身近なところから始めてください、はるか遠くの方からではなく。宜しいでしょうか、非常に遠くへ行くためには、あなたは非常に非常に近くから始めなくてはなりません。非常に遠くへ行くためには、あなたは自分の家を整えなければなりません。あなたは気づけますか、気を抜くことなく、あなたがあなたの関係性を見守っていて、そのような気づきからあなたがどのように反応するのか、どのような反射的な振る舞いをあなたがするのか学んでいることができますか? それが生であり、それが日常の生活です。そのためにはあらゆる反射的反応やあらゆる思考に絶えず気をつけていることが要求されます。しかしほとんどの我々は怠惰です。我々は他の人に頼っているので怠惰になっています。
 我々は、二人の友人として、関係性の問題を検討してきました、そして我々はその関係性の性質をさらに問います。人間の頭脳はあなたの頭脳ですか、それともそれは人類の頭脳ですか? これは本当に非常に真剣な問いかけです。あなたの頭脳は一個人の頭脳ですか、それとも人間の頭脳ですか? あなたがそれは私の頭脳であるというとき、それは私の意識であるというとき、本当にそうですか? それともそれは人類の意識ですか? それを問うてください。あなたは苦しんでいます、あなたは不確かです、あなたは不安です、あなたは苦悶しています、苦痛を抱えています。それが現実のあなたです。あなたには信念や知識や性格があります、それが現実のあなたです。そしてそれは正にあなたの隣人の現実です。あなたの隣人は苦しんでいます、その人は苦悶しています、悲しみや苦痛や問題を抱えています。そうすると、あなたの意識は他の全ての人間と分離していますか? いいえ、もちろん分離していません。もしあなたがそのことを認めるなら、もしあなたがそのことの真理を見て取るなら、あなたはいわゆる一個人ですか? 自分は一個人であるとあなたは思うかもしれません、なぜならあなたは褐色の肌をしていて、背が低いからです、なぜならあなたの表面的な目に見える活動があなたを自分は一個人であると思わせるからです、しかし、深いところであなたは他の全ての人間ではありませんか? あなたがそのことを悟ると、その真理を悟ると、あなたは決して他の人を殺しません、なぜならあなたは自分自身を殺しているからです。そうしてそのことから大いなる慈悲心、愛がやってきます。
質問者 個人的ではない行動とは何ですか?
クリシュナムルティ 個人的ではない行動とは何か? 最初に、行動とは何ですか? その“行動”という言葉はどういう意味ですか? あなたは何らかのパターンに従って行動するか、何らかの観念に従って行動するか、それとも過去であるあなたの経験に従って行動するか、未来の何らかの理想に従って行動するか、あるいは過去であるあなたの知識に従って行動するか、それとも何らかの都合に合わせて行動するかです。それでは、その言葉はあなたにとってどういう意味ですか? その言葉は行うことを意味していて、行動してきたとか行動するだろうということではないのです。正に行動は現在の行動を意味します。そのような行動が正しくて、真実で、実際の行動であるかどうかはあなたの頭脳の質に、あなたの心の質によるのであり、ただ単に理論によるのではないのです。それでは、宜しいでしょうか、行動とは何かを問うてください。我々はみな朝から晩まで行動しています。あなたはそこに座っています、そして話し手はここに座っています。そしてあなたは耳を傾け、彼は話しています―それが行動です。もしあなたが耳を傾けるなら、それは行動です、あるいはもしあなたが耳を傾けないなら、それが行動です。あなたがどのように耳を傾けるのかが行動です。
 個人的ではないということはどういう意味ですか? 宜しいですか、我々は何らかの概念を抱いています。個人とはどういう意味ですか―言葉ですか、名前ですか、姿かたちですか? あなたは自分自身を個人と言って「私は個人ではなくなれますか」と問う一個人ですか? あなたは一個人ですか? あなた方はみな自分は個人であると思います。あなた方の全伝統、宗教があなたは個人であると告げます。そうですか? あなたは何世紀もの人間の懸命な努力の結果ではありませんか? あなたはそれら全てを問いたくありません。あなたは恐れています。もしあなたがいわゆる一個人ではないなら、あなたに何が起こるのでしょうか? 個人性は孤立の形です、従って我々は生涯を通じて互いに相争っています。我々はお互いを愛していません。我々は神の愛を語ります、しかし我々はお互いを愛していません。そのうえ、神は人間の発明です。私はあなた方がみな神を信じているのを知っています、しかしあなたがそれを発明したのです。もし神が存在するなら、そしてもし彼が我々を作り出したのなら、彼は酷く惨めな神に違いありません。あなたはそれをそのようには見たくありません。あなたは幻想を崇めます、あなたはその幻想が好きです、そしてあなたは幻想の中に安全性があると考えます。そしてあなたは幻想の中に安全性はないと発見しています。あなたの神はあなたを裏切りました、それでもあなたは彼を崇めます―キリスト教の神、ヒンズー教の神、イスラム教の神などです。それら全てがとても馬鹿げていて子供じみています。
 そこで、我々が自分自身の光でありえるのかどうかを、心理的にも内面的にも誰にも依存しないでいられるのかどうかを、あなたの妻、あなたの夫、あなたの指導者や書物に依存しないでいられるのかどうかを、生を自由に生きられるのかどうかを、活力やエネルギーにあふれているのであなたの頭脳が活動していられるかどうかを、機械的にではなく活動していられるかどうかを、我々は自分自身で見つけ出すことにしましょう。我々の頭脳は今コンピューターの形になっています。どうか異なった生き方を問うてください。
                                               1982年10月30日
                                                    ニューデリー
                                                 中野 多一郎 訳