はからない精神

 

ボンベイ・トーク

宗教的精神とは何でしょうか

 我々は死の意義について、宗教と瞑想とは何かについて、一緒に話し合う必要があります。それらを検討する前に、私は人が我々の精神、我々の頭脳に何が起こっているのかに気づいているのかなと思います、人は頭脳―それは思考の居場所です―がもたらしてきた途方もないことに気づいているのかなと思います。技術的に我々は発達してきました、とても急速に進化してきました、そして心理的には我々の振る舞い、我々の態度、我々の行動は大なり小なり未進化です。我々は依然として何千年にもわたって攻撃的であり、残忍であり、残酷であり、思慮を欠いています。明らかに人間は依然として大なり小なり四万年前に振る舞っていたのと同じように振る舞っています。もし我々が人の技術的な世界で使うのと同じエネルギー、同じ熱気を手にして、もし我々が我々自身を非常に非常に深く検討でき自分自身を超えていけるのなら、頭脳はそこでも限りない能力を秘めています。しかし非常に少数の人しかそのようなことに取り組んできませんでした、非常に少数の人しか精神、頭脳が余すことなく自由になりうるのかどうかを検討してこなくて、従って非常に少数の人しか思考の先に何があるのか、思考を超えた何かがあるのかどうかを非常に深く検討し探し出すことをしていません。
 あなた方の何人かは恐らく遺伝子工学のことを聞いています。遺伝子学の専門家は言います、彼らは何らかの要因を、創造的な要素を推定していると、父親から子へ受け継がれるある種の傾向、資質を推定していると。その人たちは言います、人は何千年も変わってきていないので、人は遺伝子的な介入によって変えられると推定すると。それは我々が議論しようとは思わない非常に複雑な問題です。しかし我々は何が起こっているのかを理解しなければなりません、人間が人間の性格、人間の生活様式、人間の暴力を深いところで変えてこなかったので、その人たちはある種の化学的プロセスなどによって遺伝子を、父から子へ受け継がれる要因を変えたいと望んでいることを我々は理解しなければなりません。そしてまた我々はコンピューターの世界で何が起こっているのかも検討すべきです。我々はこれら全てをなおざりにできません、遺伝子工学とコンピューターの世界で起こっていることです。その人たちは機械的な知能を作り出そうとしています、それはコンピューターによる究極的な知能で、我々よりも非常に迅速に、もっと正確に考えて、ロボットにそれらがなすべきことを伝えるでしょう。これはすでに起こっていることです、そしてその人たちはある種の機械を、ある種のコンピューターを、究極の知能をもったそれを生み出そうとしています。そのように、一方では遺伝子工学があり、他方では人間として活動するコンピューターがあって、次々に次世代のコンピューターを発明して進化するなどしています。私はそれら全てを検討するつもりはありません。そうすると人間の精神に何が起ころうとしているのですか? コンピューターが我々の行うほとんどあらゆることができると、我々に何が起ころうとしているのですか? それは瞑想できます、それは神々を発明できます、あなたのよりもずっと良い神々です、それは現在の教師よりも遥かに上手にあなたの子供たちを教えられ、教育できます、そしてそれは人のために沢山の余暇を作り出します。あなたはこれら全ての性質、これら全ての意義を理解しますか? つまり、我々の精神に何が起ころうとしているのですか? コンピューターと遺伝子工学が急速に進んでいくと、我々に何が起ころうとしているのですか? 我々はもっと余暇を手にするでしょう、コンピューターとロボットが我々の工場や我々の職場などで我々が今行っている多くのことを行うでしょう。そうすると人はもっと多くの余暇を手にするでしょう。人はどのようにそのような余暇を使うのでしょうか? どうかこのことを私と共にしばらく検討してください。もしコンピューターの考えることがあなたの考えることを凌駕するなら、コンピューターがあなたの記憶するよりも遥かに多く記憶するなら、驚くほどの速さで計算してあなたに余暇を与えるなら、あなたは娯楽である快楽の道―映画、宗教的娯楽、あなたはグルを含めたあらゆる娯楽産業を知っています―を追求するか、それともあなたは心理的に追求し、内面的に探索して、あらゆる思考を超えた何らかの途轍もない領域を自分自身で見つけ出すかのいずれかです。それらが我々に残された唯一の二つの道です―娯楽か精神の全構造を探索して行動するかです。宜しいですか、我々は問うています、我々の人間的精神、我々の頭脳とは何かを。我々は自分自身で明らかにしていきます。
 我々は最初に死の意義とは何かを問うことから始めます。それは全ての人間の問題です、あなたが非常に若かろうが非常に年老いていようが。死と呼ばれるその途方もないものの意味とは、意義とは何ですか? 昨夕我々は愛とは何か、慈悲心とは何かを含めたいくつかのことについて話しました、全人間存在だけではない生の関係性とは何か、その愛との関係性とは、その死との関係性とは、そしてあらゆる思考を超えた何かを見つけようと何千年にもわたる人間の全探究との関係性とは何かです。我々は死の意味を理解する必要があります、なぜなら我々はみな死んでいくからです。それは絶対に確実なことです。我々はそうしてそれを恐れるか、あるいは我々はそれを合理化します。あなたは「はい」と言います、私はそれを受け入れます、私は死を、私が痛みを受け入れるように、私が悲しみを受け入れるように、私が孤独を受け入れるように、受け入れます、そしてまた私は死を受け入れますが、それは死に屈することであり、死を患うことであり、人間の全存在が病や老齢や何らかの事故か何かで消滅するのを許すことです。我々は我々が生きているうちに死ぬとはどういう意味であるのかを、その深さを理解することがどういう意味であるのかを決して明らかにしません。あなたはそれを生の出来事として、生の事実として見ています、暴力が生の事実であるように、憎しみが生の事実であるように。もし我々が全く理性的で、正気なら、我々はこの死の問題を同じように見るのでなければなりません、それを受け入れるのでもなく、ただそれは避けられないとだけ言ったり、死を超えた何かを見つけ出そうとしたりするのでもなく、死んでいくことの性質を観察することです。
 ほとんどの我々にとって死とはどういう意味ですか? 間違いなく、それは消滅することを意味します、有機的にも生物的にも、我々がここまで維持してきたあらゆるもの、あらゆる傷、痛み、犠牲、抵抗、孤独、絶望の消滅を意味します―それら全ての消滅です、そしてそれが意味するのは、自己、“私”は継続するのか、それとも“私”は消滅するのかということです。我々は死が消滅することであると言いました。あなたは輪廻転生を信じています、ほとんどのあなた方がそうするように。もしあなたがそうするなら、あなたは継続するのは何なのかを問わなければなりません。何らかの継続するものがあるのですか、あるいは絶えず変化しているのですか―壊れて、消滅して、始まるのですか? もしあなたが生まれ変わっていくことを―ほとんどの人がここインドでは恐らく信じるように―信じるなら、生まれ変わっていくものとは何ですか? もちろん物理的な身体ではありません、しかしもしあなたがそのことを信じるなら、それは今のあなたの継続です、あなたの信念、あなたの活動、あなたの貪欲などの継続です、それは意識のひと束、自己である意識のひと束です。そのような自己は、それは本質的に意識ですが、思考によって、あなたの貪欲、あなたの嫉妬によって作り上げられます、あなたの宗教的信念、迷信、あなたの怒りなどです、それら全てが思考の活動です。あなたは思考の継続的な活動の結果です。もしあなたが輪廻転生などそれら全てを信じるなら、あなたはそれが幻想であるのか現実であるのかを明らかにしなければなりません。もしあなたがあなたの名前やあなたの姿かたち、あなたの観念、あなたの結論、あなたの経験であるなら、それらが次の世に“私”として継続する要素ですか? そのような“私”とは何ですか?
 我々の誰もが、我々は考えます、分離した実体であると、我々は我々がいわゆる個人であると考えます。そのような個人とは何ですか―名前、姿かたち、あなたが覚えていること、あなたの態度、あなたの孤独、あなたの痛み、あなたの不安、あなたの無秩序、あなたの悲しみや不確かさなどですか? あなたは素敵な家に住んでいるかもしれませんし、小さな部屋あるいは素敵なマンションに住んでいるかもしれませんが、あなたはそれら全てです。あなたは銀行口座です。あなたが銀行口座に執着していると、あなたはその銀行口座であり、あなたが家に執着していると、あなたはその家であり、あなたがあなたの身体に執着していると、あなたはそれです。あなたは素敵な家具を持っているかもしれません、そしてそれは驚くべき家具です、そしてもしあなたがそれに執着しているなら、あなたはその家具です。そのようにあなたはそれら全てです。あなたが椅子に、人物に、観念に、理想に、個人的な経験に執着しているとき、そのような執着の意味するものは何ですか? なぜあなたは執着するのですか、なぜなら死が言います、あなたは執着できません、それはその消滅ですと。あなたは未来を信じるかもしれません、しかし死が言います、あなたは消滅しました、あなたの執着は終わりです、あなたの銀行口座は終わりです、あなたのグルやあなたの追随の全てが消滅しましたと。そうすると継続するものは何ですか、生まれ変わるものは何ですか―記憶ですか、観念ですか? それは何ですか―死んだ何かですか、それとも継続するものは何一つないのですか? 考えてください、探求してください、どうかお願いします。継続するというのはそれ自身を修正しながら続いていくという意味です。あなたは何かになろうとしています、そしてそれを成し遂げて、更に何かを欲しがります。継続することは安全なこと、確かなことを意味します。あなたには何か確かなことがありますか? あなたの観念の中に安全性はありますか? 我々は継続することを願います。我々は継続するものを望みます、なぜなら継続するものの中に我々は安全性があると考えるからです。人は十年、十五年あるいは五十年結婚していて、何らかの継続するものがあります、しかしその継続するものの中には、争い、悲惨、不幸などそれら全てがあります。そうすると継続するものは全くありません。絶え間ない変化があります、もしあなたがそれに気づくなら。それが表面的なものであろうと全くの変質であろうと、それは変化です。完璧に存在していたものが変化を被ります。人はこのことの真理を自分自身で明らかにしなければなりません。人は議論で納得させられません、いわゆる証拠などで納得させられません。人は何事についても納得させられません。人は何が真実で何が幻想なのかを探し出し、追求して見つける必要があります。我々は我々が分離した実体であるというこの幻想と共に生きてきました、ところがもしあなたが非常に間近に検討するなら、あなたの意識は、それはあなたですが、全ての人間によって共有されています。人々はあなたが苦しむように苦しみます、人々はあなたが不確かであるように不確かです、人々はあなたと同様に孤独であり、悲惨であり、混乱していて、不安です。そのようにあなたの意識はあなたのものではありません。それは全ての人間の意識です。あなたは全人間です。それは単なる論理的結論や観察ではありません。それは事実です。我々は訓練されてきました、教育されてきました、宗教的にも教育的にも、我々が分離した個人であると。我々は個性が消滅するのを恐れます。そのような考え方やそのような個人という概念で人が死の問題に取り組むと、消滅することへの計り知れない恐怖が生じます。しかしもし人がその真実を見て取るなら、あなたはその他の全ての人類であるという真理を見て取るなら、死とは何ですか?
   あなたは消滅の性質とは何かを検討したことがありますか、何かを始めるための消滅ではなく消滅することです。つまり、あなたは執着しています、それはよくある事実です、あなたはあなたの子供たちに執着しています、あなたの夫、妻に執着しています、あなたは何かしらに執着しています。死がやってきてそれらの執着を拭い去ります。あなたはあなたのお金を天国へ持って行けません。あなたはそれを最後の瞬間まで持っていたいと思うかもしれませんが、あなたはそれを持って行けません、死が言います、それはできませんと。それでは我々は、生きているときに、全てのその恐れ、嫉妬、不安、所有意識などを伴う執着の性質を理解できますか、生きているときに、執着から自由になれますか? あなたが生き生きしているとき、何かを進んで、容易く、何の圧力とも無縁に、何の賞罰とも無縁に消滅させることです、消滅すると、その中に大いなる美が生まれます。そうすると人は自由の性質を理解します。消滅するときに、何らかの始まり、新しい何かが起こります。消滅することがあります、そして消滅すると、人間が何世紀にもわたって背負ってきた全ての重荷から余すことなく解放されるそのような感情が生まれます。あなたはこれら全てを聴いて、笑い、うなずいて同意しますが、あなたは執着し続けます。それは最も安易なやり方であり、最も心地よく最も痛々しいやり方ですが、あなたは続けます。そしてそれをあなたは現実的なやり方と言います。ところが、もしあなたが消滅の性質を理解するなら、あなたは非常に非常に競争的な世界の中であなたの野心を消滅させ、あなたの傲慢さ、あなたのプライド、あなたのステイタスが消滅するのを理解します。このいわゆる有機体が消滅するとき、人間の意識の内容は継続します、もしあなたがそのような意識の中に徹底的な変化を、何らかの変質をもたらして、あなたがもはや自己中心的な流れの中にはいなくて、あなたはもはや執着、不確かさなどの牢獄の中に囚われてもいず、閉じ込められてもいず、入れられてもいないということにならなければ、それは継続します。宜しいですか、全く異なる生き方があります。
 そしてまた我々は宗教について話すべきです。それは非常に複雑な問題です。一緒に我々は宗教的な精神を明らかにしていこうと思います、祈りやあらゆる儀式、信仰などそれら全てを行う精神ではありません。それは宗教ではありません。それらは全て思考の発明です。神はあなたの発明です、なぜならあなたは生をとても鈍重で退屈なものと見るからです。それはとても苦痛です。そこであなたは全能の、遍く愛する神を発明し、あなたはそれを崇拝します、あなたはあなたが思考によって作り出してきたそれを崇拝します。そのように思考はあなたを欺いています。しかしあなたは続けます、なぜならあなたは幻想の中に生きることを愛するからです。我々は宗教的精神とは何かを明らかにしなければなりません、なぜなら宗教的精神が新しい世界、新しい文明、新しい文化、新しいエネルギーの噴出をもたらすからです。人は自分自身で宗教的精神とは何かを明らかにしなければなりません、他の人に言われるのでも、指し示されるのでも、説明されるのでもなく、人は明らかにしなければなりません。それでは宗教的精神とは何ですか? あなたは、あなたがもし現在の全ての宗教的構造、宗教的信仰や観念を余すことなく否定するなら、見つけることができるだけです、なぜなら自由な精神のみが宗教的精神の質が何であるのかを明らかにできるからです。
 最初に、人は自由が最も重要であることを非常にはっきりと見て取れます、それは何かからの自由ではありません。囚人は自由を欲しがります、それははじめに囚人が牢獄の中にいるので、囚人はその牢獄から出る自由を得たいと思います。それはただの反射的な反応です。そのような反射的な反応は自由ではありません。自由はあらゆる幻想の余すことのない消滅を意味します、あらゆる信念、あなたの収集蓄積してきたあらゆる願望や欲望の消滅を意味します。宗教的精神は正気で、健康的で、事実に即した精神であり、それは事実に面と向き合います、観念にではありません。話し手は宗教的精神とは何かを説明し続けることができます。恐らくあなたはその定義を受け入れるでしょう、あるいはその定義を否定するでしょう、しかし単に議論したり、分析したり、問うたりすることは助けになるかもしれませんが、それは必ずしも宗教的精神をもたらすことにはならないかもしれません。そこで人は大いなる謙遜、知らないという感覚を身につける必要があります。そしてまた宗教的精神は行動します、なぜならそれは慈悲に溢れているからです。そのような行動は叡智から生まれます。叡智、愛、慈悲心は歩を共にします。それが瞑想です。突然背筋を真っ直ぐに伸ばして座って、姿勢を正さないでください。それには何の意味もありません。あなたは足を組んで座り、呼吸を整え、様々なシステムを実践するかもしれませんが、それは瞑想ではありません。
 我々は瞑想とは何かを自分自身で問うて、探し出していこうと思います。“瞑想”という言葉は、良い辞書によると、じっくり考えること、よく考えること、間近に見ること、思考によって発明された何か崇高なものに触れるのではなく、あなたの日常生活に間近に触れることを意味します。それが“瞑想”という言葉の通常の辞書的な意味です。そしてまた瞑想は“はかること”をも意味します。それがその言葉の意味です。それでは我々はなぜ我々がはかるのかと問うことから始めます。我々にとって“はかる”とはどういう意味ですか? なぜ我々の精神や心の中にこの絶えずはかるということが生じるのでしょうか? はかることは比較することを意味します。私は自分自身をあなたと比べます、あなたのようになりたいと思います、あなたのグルのようになりたいと思います、あなたのこの上ないお手本になりたいなど、あれやこれや思います。なぜ我々は生の中で比較するのでしょうか? 我々は我々が進歩するために比較すると言います。我々はいつも比較しています。あなたは美しくて、私はそうではありません。私はあなたのように美しくなりたい、力強くなりたいと思います。私はあなたのように聡明でありたいと思います。我々の中にいつもこの比較である競争が起こります。我々はそのような活動から決して自由ではありません、しかしもし我々が自由なら、そうすると我々は何でしょう? あなたは私の質問が分かりますか? 比較から自由になることができますか、比較を消滅させることができますか? もしあなたが比較しないなら、あなたは何の現実性もない大きな重荷を捨て去ります。なぜなら、そうするとあなたは現実のあなただからです。そこからあなたは始めることができます、しかしもしあなたがいつも比較しているなら、他の誰かになろうとしているなら、あなたは根本的に不幸であり、不安であり、恐れているなどその他の全てです。ですから、どうか自分自身に問うてください、あなたは比較することなく、どのような形であれ、はかることをしないで―それはかなり難しいことです、なぜなら我々が我々はこうだけれども我々はそうなるように訓練され、教育され、納得させられているからです―生きられるかどうかを。何かになるということは一つのはかるかたちです。何一つはかることをせずに生きることは瞑想の一部です。
 瞑想するほとんどの人が様々なシステムに従います。それぞれがそれぞれのグルを持ち、そのグルが何らかの瞑想システムを提示します、そしてあなたは実践し、何らかの文句を繰り返し繰り返し唱えます、そしてそれをあなたは瞑想と呼びます。あなたが繰り返し繰り返し何かを唱えると、あなたの頭脳に何が起こっていますか? あなたは益々鈍くなります。あなたは何らかの機械になり、あなたはそれを瞑想と考えます。あなたは話し手が言っていることをものともせずにそれを続けるでしょう。瞑想とは何かを検討するときには、いかなるシステムも、いかなる努力もありえません。努力は争いを意味します。あなたは、あなたの頭脳、あなたの感覚が鈍くなると悟って、システムや何かを実践することから自由でいられますか? あなたはシステムから自由でいられますか? 精神、頭脳は誰かに従うことが何を意味するのかを認識できますか、誰かが自分自身をグルというので、その人のあなたに言うことに従うことが何を意味するのか認識できますか? それら全てのことが宗教的精神の美を破壊してきました。瞑想はそのようなことでは全くありません、ヨーガを含めて。そうすると瞑想とは何ですか? あなたは経験したいと思います。あなたは何か不思議な体験に飢えています、いわゆる神秘的な体験です。あなたはこの世界で様々な経験を十分しています、痛み、不安、悲しみなどの経験です、そしてあなたは言います、我々はもっと何か、もっと偉大な経験をしたいと。経験は瞑想とは全く何の関係もありません。経験するためには、経験するものがいなければなりません、そしてもし経験するものがいるなら、その経験者は自己である過去の記憶の継続です。瞑想は“私”、自己、自我の全構造を理解することです、そして自己から余すことなく自由になりうるのかどうかを理解することです、何らかの超自我を探すことではありません。超自我は依然として自己であるにすぎません。そのように、瞑想は何かが培われる、意を決して行われる活動ではありません。自由がなければなりません、そして自由があると空間が生まれます。我々は物理的な世界とは別の空間をもっていますか? 我々は、ボンベイに住んでいて、空間をもっていますか? 恐らくもっていません。我々は小さなアパートか狭い部屋に住んでいて、我々の精神は徐々にそのような小さな空間を受け入れます。我々は壁のない空間のことを話しています。宜しいですか、あなたが海を見ると、スモッグがなくなっているとき、あなたは遥かな地平線を見ます、壮大な球形を見ます、そしてあなたが星空を見上げて、それらの途方もない輝きを見ると、壮大な空間が広がります、そしてあなたの精神の中の空間の何と小さいこと、何と狭いこと、そしてあなたの精神と心の中のそのような空間はとてもコントロールされていて、何らかの形に作り上げられています。あなたの中にはほとんど何の空間もありません。神聖なものを理解するためには、あなたの中に壮大な空間がなければなりません、海の彼方ではありません。空間は分離することではありません。空間は分断することではありません。あなたが分断すると、あなたとあなたの妻との間に空間ができます、インドとしてのあなたと他の国との間に空間ができます、しかしそれは空間ではありません。内面的な空間は争いが全くないときに存在しうるだけです。そうするとそのような精神の壮大な限りのない空間があるとき、そのような空間の中にのみ、エネルギーが生まれます、しかしそれは思考のエネルギー、思考の摩擦ではありません、なぜならそのようなエネルギーは自由から生まれるからです。そのような空間と沈黙とそのような計り知れないエネルギーがあるとき、名状しがたい、計り知れない、時間とは無縁のものが存在します、そうして神聖なものが存在します。しかしそれを見つけるためには、人は大いなる愛、大いなる慈悲心を抱かねばなりません、そしてそれは人の住む場所から始まるのでなくてはなりません。あなたはあなたの妻、あなたの子供たち、あなたの夫を愛するのでなくてはなりません。愛は執着と共存できません。もしそれが執着なら、あなたは生のあらゆる問題を抱えます。ですから、諸兄諸姉よ、それはあなたの生です。あなたが自分自身の中に大いなる徹底した心理的革命を起こすのか、それとも遺伝子の世界の専門家たちがあなたに何かを行わせようとするのかのいずれかです。そうなるとあなたは単なる機械になるでしょう。そうすると生には僅かの意味しかなくなるでしょう。しかし大いなる意義、大いなる意味があります、もしあなたが愛とは何か、慈悲心や叡智とは何かに気づくなら。そうするとそこから大いなる沈黙と壮大な空間がやってきます。それらはもし何らかの自己中心の影があるなら存在できません。そしてこれが瞑想です、そしてそれは何らかの言葉を繰り返すことでもなければ、意志による規律でもなくて、争いが全く生じないときにやってくる秩序の規律です。
                                                1983年1月30日
                                                      ボンベイ
                                                 中野 多一郎 訳