アウトサイダー

“朝顔

        アウトサイダー

1964年トーク

ラージガート 11月26日

クリシュナムルティ 今朝、私は、もし宜しければ、あなたの馴染みのないことについて、あなたがあまり考えたことのないことについて話したいと思います。しかし、それはよく考えなければならないことです、それは、その真理を自分自身で見つけるために検討されなければならない、そして探究されなければならないことです。単に言葉に満足したり、言われていることをあなたのすでに知っていることと照らし合わせたり、それをあなたのすでに書物で読んで知っていることと比較したりすることは、更なる理解や探究を妨げるだけでしょう。そこで私はこのことを検討する前に―もし私がこの言葉を使わせてもらえるなら―あなたが何かと比較するのを阻止したいと思います。あなたが何かと比較するとき、あなたがあなたの聞いてきたことに照らし合わせるとき、あなたがあなたのすでに書物で読んできたことに照らして聞こうとすることは、あなたの即座の理解を妨げます。そして、即座に理解することは、単なる知識の収集や比較や何らかの結論よりも遥かに重要です。
 我々は自由を検討しようと思います。我々は、愛の質をもつそのような途方もない精神の状態を検討したいと思います。そして、我々がそれを検討しようとするとき、我々は言葉を使わなければなりません。言葉は、正に直に触れることを妨げます、なぜなら、言葉はそれが伝えようとするその当のものではないからです、それは決してそうではないからです。あなたが聞くことは、“現にある何か”ではありません。もし人が言葉の意義を深く理解していないなら、言葉やその影響やその情動的内容に囚われていないのでないなら―言葉から解放されている何らかの質がないなら―人は言葉に囚われています、そうすると、更なる探究や理解は終了します。そのように、人は言葉の途方もない難しさに気づかなければなりません。
 人は世界中で組織化されています―経済的に、社会的そして宗教的に。人は込み合った都市の中で生活しています、あるいは高層住宅に住んでいます、机の引き出しのような箱の中に住んでいます。そして、人々は月へ行きます、海中に住みます、海中に住むための小屋を海の底に建てました、そこに一か月あるいは一週間過ごします。そして、この途方もない効率の組織化に囚われて―そして、効率的でなければなりません―人はいつも更なる地平、更なる空間を追い求めてきました、それは地平線も境界もない無限の空間感覚です、そこには大地も空も地平線もありません。人はいつも空間を追い求めてきました。そして、空間なしにあなたも私も存在できません。
 どうか、このことを理解して下さい。我々が話しているのは、何か空虚で抽象的な類のことではありません。我々はこの“空間”と称するものを理解する必要があります。もし空間がなければ、あなたは見ることも聞くこともできないでしょう。もしあなたと話し手の間に空間がなければ、あなたは話し手を見ることもできなければ、話し手の使う言葉も聞こえません。あなたとあの樹木との間に空間がなければなりません、あなたとあなたの妻との間に、あなたとあなたの隣人との間に空間がなければなりません。そのように、空間は存在します。そして、人はますます組織化されています、政府は人の思考をコントロールしています、そして、宗教は人の自由を否定してきています。宗教は別の世界の自由を主張するかもしれませんが、精神の自由をあらゆる宗教が否定してきました、実際に否定してきました、なぜなら、それらは精神に信仰や教条、儀式、恐怖などを課してきたからです。そして、人口が爆発的に増加すればするほど―この国、そして世界中で起こっているように―ますます人々は込み合った都市の中での生活を余儀なくされます、ますます人々は組織化されます、コントロールされます、効率的な生き方を強いられます、そして、人々はますます空間を失います。空間は、もしあなたが観察するなら、その対象によって生まれるだけではなく、いかなる対象とも無縁に存在します。
 どうか、受け入れたり拒絶したりしないで下さい、ただ観察して下さい。対象―あなたがそこに座っていて、私はここに座っています―がその周りに空間を作り出します。このマイクロホンはその周りに空間を作り出します、そうしなければ、それは存在できません。そのように、我々は空間を作り出す対象によって空間を知るだけです。地球と月との間に空間があります、この空間は地球が月から離れているがゆえに存在します。対象があり中心があります、そして、観察者がその中心です、観察者は、それが観察しているその対象に他なりません。
 我々が議論しようとしているのは―私が話そうとしているのは―非常に難しい問題です。あなたは余すことなく文字通り気を付けている必要があります、なぜなら、もしあなたがこのことに付いてこないなら、あなたはその行き着く先まで行かないでしょう、あなたはそれと共に歩まないでしょう。人はいつも外面的な空間を追い求めてきました、ニューフロンティアや新国家などです。そして、全地球が征服されると、探検されると、現に起こっているように、人は宇宙空間に出て行きます―地球と太陽との間の空間、月と星々との間の空間です。人はいつも外へ、外へ、外へと歩みを進めて、何らかの空間を探し求めています。そして、内面的には、宗教や社会、個人的関心、恐れ、家族、環境、何らかの緊張感、差し迫る人口増加などが内面的な空間の発見を阻んできました。そして、もしあなたの中に内面的な空間が存在しないなら、あなたには自由はありません。もし対象のみが空間を作り出すなら、精神はその対象がもたらす空間に囚われます。従って、もし人が空間は何らかの対象によってのみ作り出されると一度認めると、あるいは許すと、あるいは認識すると、そこに自由はありえません。
 つまり、その周りに空間を作り出す中心がある限り、そして、対象がそれ自身の周りに作り出す空間以外の空間が存在しない限り、人間に自由はありえません。お分かりでしょうか? 中心は“私”です、それは物理的でもあり情動的でもあり知的でもあります。“私”がそれ自身の周りに空間を作り出します、なぜなら、“私”という中心が存在するからです。そして、中心が存在するので、それが空間を作り出します、そして、もしそれが人の知りうる唯一の空間なら、自由は全く存在しません。そして、もし人に自由が存在しないなら―抽象的な自由ではなく日常生活の中の自由です、仕事に行くこと、日常生活の営みです、楽しかろうと苦痛であろうと―もし日常生活の中に自由がないなら、人は永久に何らかの奴隷です、環境の奴隷です、何らかの快楽の奴隷です、何らかの社会的影響の奴隷です。そして、もし対象のみが空間を作り出すなら、自由はありえません。明らかに、中心とは無縁に、対象とは無縁に空間が存在するときのみ、自由が存在しえます。そして、それが、今朝、我々の検討しようとしていることです。
 あなたには空間がなければなりません、そうでないと、あなたには自由がありません。たとえ小さな部屋でも、それがいくら小さくても、あなたがその中で動き回るには空間が必要です、ものを置いたり、運動をしたり、遊んだりするためには空間がなければなりません。あなたが生活の中で何かを行うためには、空間がなければなりません。そして、我々はこの空間を外に求めます、より良い家や、より広い遊び場、森、林、樹木、舟遊びなどです。しかし、内面的に、我々は決して空間を求めません、我々の精神は空間を拒絶します、なぜなら、我々は恐れるからです。
 我々は検討しています、抽象的にではなく、精神が完全に自由であることが可能かどうかを検討しています、従って、何らかの中心とは無縁に、精神が空間を手にすることが可能かどうかを検討しています―中心とは無縁の、そのような空間のみが自由です。空間は科学者によって、何らかの場として解釈されています―電磁場、重力場、原子核の場などです。我々は科学者が知っているような場のことを話しているのではありません。我々が話しているのは、科学者が知っている場の科学的探究を超えた空間です、我々はもっとずっと人間的な何かを検討しています、それは人間の思考に関することであり、単なる科学的事実を探究しているのではありません。そのように、あなたは、最初に、問題を非常に明確にとらえる必要があります、たとえそれが知的であっても、言葉によるものであっても、つまり、人には何らかの空間がなければならないということです。現代社会は、人口の爆発的増加や核兵器の恐怖、戦争、様々な脅威などによって、人の目を外へと向かわせます。
 そして、我々が知っている空間は、中心である観察者とその対象が作り出す空間だけです。家具はその周りに空間を作り出します―壁や家も同様です―それがあなたの知っている唯一の空間です、あなたが地球から月や星々を見るときに、自分の目で観察する空間です。
 そのように、我々はこの空間の問題を、対象とは無縁に検討しようとしています。そして、その中にのみ自由があります、対象とは無縁な、そのような空間が、正に自由です。空間と自由を検討する中で、我々は愛とは何かも自分自身で発見しようとしています。なぜなら、愛なしには自由はないからです。愛は感傷的なものではありません、愛は情動的なものではありません。愛は情動的な何かでも献身的な何かでもありません。
 そのように、我々は自分自身で明らかにしようとしています。明らかにするためには、精神の中に我々は空間を作り出す必要があります。我々は空間を生み出すために、精神を明らかに空にしなければなりません―思考の限られた領域の中の空間ではなく、限りのない内なる空間です、もし我々がそのように区別できるなら―つまり、精神と心の中の空間です、そうでないなら、愛は生まれません、自由は生まれません。そして、愛と自由がないと、人の命運は尽きています。あなたは超高層ビルの十五階に住んで非常に安楽に暮らしているかもしれません、あるいは、汚れた小さな村で、この上なく惨めに暮らしているかもしれません、しかし、もしこの途方もない無限の空間が精神と心の中にないなら、あなたの全存在の中にないなら、あなたの命運は尽きているでしょう。
 宜しいでしょうか、私が言ったように、我々は検討しています。私はそれを検討しようとしています。恐らく、あなたはそのことについて考えたことが全くありません。私はそれを検討しようと思います、そして、あなたは十分に文字通り気を付けている必要があります、注意深く見守って、力強く熱気に満ちていなければなりません、もし我々が一緒に歩を進めるのであるなら。しかし、もしあなたが、ただそこに座って、同意したり同意しなかったり、首を縦に振ったり横に振ったりしているだけなら、あなたは取り残されるでしょう。
 宜しいでしょうか、このような空間の探究が瞑想です。どうか、文字通り気を付けて耳を傾けて下さい。私は瞑想という言葉を使っていますが、それはあなたの考えているそれではありません―ですから、すぐに何らかの姿勢を取らないで下さい、背筋を伸ばさないで下さい。私は言いました、この空間の探求と理解には瞑想を要すると。しかし、何らかの姿勢や呼吸法、何らかの言葉を繰り返し唱えることや精神集中、様々な幻覚、高揚した感受性などは瞑想ではありません。それらは全て自己催眠です。あなたは言うかもしれません、あなたはひどく大雑把に言っていませんか、非常に一般的なことを言っていませんかと。そういうことはありません。我々には、今朝、それを一つ一つ検討する時間はありません。そこで私はそれを非常に手短に検討します、なぜなら、そのためには、非常に明らかなことを単に繰り返すよりも遥かに沢山のことを話す必要があるからです。
 そのように、瞑想は、この空間を中心とは無縁に探求すること、発見することです、従って、それは何らかの経験では全くありません。お分かりでしょうか? もしあなたがその空間を経験するなら、あなたにはそれを経験する中心があります、従って、あなたはその空間を作り出す中心の奴隷です、従って、あなたは自由ではありません。そのように、あなたは人が求めるそれを理解する必要があります、つまり、経験です。人はますます何らかの経験を求めます、なぜなら、人は日常の決まりきった経験にうんざりしているからです、仕事へ行くことやセックスなど毎日の退屈な生活です。人が更に何らかの経験を求めるとなると、人は何らかの薬物、様々な刺激物に手を出します、そして、それが人に新しい経験やビジョンや新規の高揚した感受性を与えます、そして、それが更なる経験をもたらします。
 そのように、更に経験を追い求める精神は、空間を作り出す中心を維持しているのにすぎません、従って、それは決して自由ではありません。そして、経験は何らかの問題に反射的に反応するときにのみ生じます。そして、その反射的反応の不十分さが更なる経験を要求します。宜しいでしょうか、あなたはこれらのことについて考えたことがありません、ただ耳を傾けて下さい、それを検討して下さい、私と同じように。そのように、経験を追い求める精神はその経験を願って、欲して、それを理解していません―このことは更に精神を奴隷状態にします。あなたは四十年あるいは五十年仕事へ行く経験をしてきました。あなたは飢えやセックスの経験をしてきました。あなたは奇妙な物理的あるいは精神的偶像へ身も心も捧げる奇妙な経験をしてきました。そして、あなたはそれらを経験していても、すぐにそれらに飽きて退屈します―それがイエスであろうとクリシュナであろうと、あるいは人の手になる他の何かであろうと。そうして、あなたは更なる経験を欲します、それらの馬鹿げたものとはかけ離れた経験を欲します。そうして、あなたはそれを神秘的な途方もない状態と称します。何らかの経験を追い求めていて、それを神秘主義と称する人は、自分自身を欺いています、その人はその人自身の欲望を投影しているのにすぎません、その人自身の条件付けや満ち足りなさ、懊悩する欲望を投影しているのにすぎません、それらを徳や気品やビジョンで包んで投影しているのにすぎません。
 そのように、人はこの経験を追い求めることから解放されなければなりません、なぜなら、私が説明したように、あなたが何らかの経験を欲するや否や、あなたは中心を、観察者を強めるからです、そして、その周りに小さな空間を作り出して、その中を生きるからです。その中で、あなたは何らかの関係性を築きます、あなたの家族を築きます、あなたの道徳観などあらゆるものを作り上げます、そして、そのような小さな空間は、決して自由をもたらしません、あなたが何を行おうと。
 同じように、何らかの祈りや何らかの言葉を繰り返し唱えることによる逃亡も極めて明らかです。なぜなら、あなたは生に満足していないからです、あなたには何らかの苦悩、悲惨、争い、生の懊悩があります。そして、あなたはあなたに慰安を与えてくれる誰かに―あなたが神と称する何かに―祈りを捧げます。あなたは涙を流します、あなたは懇願します、あなたはあなた自身の無知の渇きのために息が詰まります、あなたは祈りますが、あなたは決して満たされません。あなたが祈りをささげるとき、あなたは哀願しています、あなたは請うています、あなたは哀願しています、あなたを満たしてくれるように誰かに手を差し伸べています、そして、いつでも誰かが現れます―それはこの上なく奇妙な生の現象です―それはいつも誰かによって満たされます。なぜなら、あなたはあなたが満たされるように何かを追い求めているからです、あなたは請うています、懇願しています、あなたはあなたの胸や心や精神を満たす何かをあなたに与えてくれる誰かを探しています、そして、あなたは満たされます。冷蔵庫が欲しいと祈る人たちがいます。笑わないで下さい、その人たちはあなたと正に同じです、その人たちの祈りの対象がもっとずっと具体的なだけです。あなたは幸福を願います、あなたは経験を欲します、あなたはあなたが世俗的なものよりもずっと上級であると称するものを欲します―それは冷蔵庫や良い家を欲しがることと何の違いもありません。そのように、何かを懇願する精神は決して自由にはなりえません。
 宜しいでしょうか、我々は自由と空間と愛を探究しています、そして、このような探求が瞑想のプロセスです。従って、私は瞑想とは異なるものを脇へ除けています、経験や祈り、何らかの言葉を繰り返し唱えること、マントラ、ひたすら数珠を手繰ることなどです。何らかの言葉を繰り返し唱えることや数珠を手繰ることは精神を鎮めます。お分かりでしょうか、もしあなたが何かを繰り返し機械のように続けるなら、自然とあなたの精神は鎮まります、つまり、あなたの精神は鈍く愚鈍に重たくなります。しかし、それは瞑想ではありません。何らかの姿勢をとって背筋を伸ばし呼吸を整えると―それは身体に何らかの落ち着きをもたらします、しかし、それは瞑想ではありません。もしあなたが背筋を伸ばして座ると、血液が頭脳によりスムーズに運ばれます、それはそれだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもありません。取るに足らない精神、浅薄な精神、狭小な精神、嫉妬する、怒り狂う、腹を立てる、辛辣な、懊悩する、息苦しい精神、美に鈍感な精神―そのような精神が背筋を伸ばして座って呼吸を整えて、あらゆる手練手管を弄するのです、そして、そのような精神は考えます、それは瞑想を行っていると―それは瞑想ではありません、それは自ら堕落して死んでいきます。それらはいずれも瞑想ではありません、なぜなら、瞑想は自然に生まれる何かだからです―あなたはそれを追い求める必要はありません。瞑想するために意図して座る人は、単に何らかの習慣を育んでいるだけです、何らかの経験、何らかの精神状態を願っているだけです―そして、その人はそれを手にするでしょう。しかし、それは瞑想ではありません、それは一つの催眠の形にすぎません。
 そのように、我々はこの対象とは無縁な途方もない空間を探究しています。そして、そのような空間が存在しなければなりません、そうでないと自由も愛もありえません。そして、あなたが誤りを誤りとして見て取るとき、そして、それを誤りとする真理を真理として見て取るとき、あなたは精神を空にし始めます、つまり、そうすることによって、精神がそれ自身を空にしています。そうすると、あなたは経験があなたを解放するという誤りの真理を見て取るでしょう。あなたが経験の真理を、経験が意味する全てを見て取るとき、あなたはそれから解放されます、あなたはもはや経験を請いません、要求しません、渇望しません―それは、あなたが満足していることを意味するのではありません、牛のように満ち足りたあなたを意味するのではありません。そして、あなたが祈りの誤りとそれが誤りである真理、何らかの姿勢をとることの誤りとそれが誤りである真理、人の発明による明確な目的をもった意図的なメソッドの誤りとそれが誤りである真理、あなたが様々な言い方をする何らかの実践法の誤りとそれが誤りである真理を見て取るとき―それら全てが精神を鈍く愚鈍に重たくして、精神は決して自由にならないと見て取るとき、そのようにあなたが誤りとそれが誤りである真理を見て取るとき、あなたはそれから解放されます、そうすると、あなたはもはやもがく必要はありません、あなたはこう言う必要はありません、“この馬鹿げたものを取り除くには私はどうしたらよいのでしょうか”と。なぜなら、あなたがそれは馬鹿げていると見て取ると、それが消滅するからです。
 そのように、精神は悟ります、空間なしには、無限の空間なしには自由はありえないと、何らかの空間を作り上げる対象が存在しないときのみ無限の空間が生まれると。その美がお分かりでしょうか? 対象がなくなるや否や空間が無限になります、従って、自由に限りがありません。そして境界のない、限りのない、無限の空間に気づくとき、無限の何かが愛になります―神の愛ではありません、人間の愛ではありません、それは共有する、見守る、育む、守る、導く、助ける愛です、それが露わになります。
 瞑想は、人が発明した玩具に没頭することではありません。宜しいでしょうか、子供は玩具に夢中になります、そして、その玩具がとても面白いので、子供は静かになります、その子は、その玩具に心奪われて、悪戯をしません、その子はしばらくの間よい子にしています、なぜなら、それが新しくて面白い玩具だからです、そして、その子はそれに全神経を集中しているからです。そして、大人も同じです、大人には大人の玩具があります、イメージの玩具、観念の玩具、グルの玩具、絵画の玩具、ビジョンの玩具です。それらのビジョンに、それらのグルに、それらの玩具に大人は心奪われます、そして、その間、大人は非常に気高く穏やかに上品に振舞います。そのように、玩具に心奪われるのは、瞑想ではありません。
 精神集中も瞑想ではありません。我々はみな精神集中することを習います。見たところ、それが様々な馬鹿げた学校で教える最も重要なことの一つです、そこでは瞑想を説き、語り、教えます。誰かに瞑想の仕方を教えている人を考えてみて下さい―あなたがそれを教えてもらえるかの如く。その欺瞞性を見て下さい。あなたは学べます、あなたは車の運転の仕方や外国語や何らかの技術を身に着けることを教えてもらえます。しかし、あなたは瞑想の仕方を―何らかのメソッドやシステムを通して―教えてもらえません。もしあなたが教えられると、もしあなたが瞑想の仕方の何らかのメソッドを学んだとすると、あなたはそれに囚われます。従って、再び、そこに自由はありえません。
 そのように、経験を理解することによって、そして、その真理を見て取ることによって、精神は経験を欲することから解放されます。祈りや様々な姿勢の取り方や呼吸法の誤りを理解し観察し見て取ることによって―その誤りとそれを誤りとする真理を見て取ることによって―あなたは自由になります。そして、あなたはその懇願からも解放されます、玩具に心奪われることからも解放されます―他の誰か、あるいは、あなた自身が作り出した玩具です。そして、あなたは精神集中というその恐ろしいものからも解放されます、なぜなら、“精神集中”は排除のプロセスだからです。あなたがあなたの正しいと思う何かに、あなた自身が抱くイメージに、神あるいは観念に、何らかの言葉に精神を集中させたいとき、あなたはあなたの精神をそれに集中させます。しかし、精神は彷徨います、そして、あなたはそれを引き戻します、そして、再びそれは彷徨います、そして、再び、あなたはそれを引き戻します。あなたはこのゲームを死ぬまで行います。そして、それをあなたは“瞑想”と称します、この戦いです、精神が何かに興味を持つと、あなたは強引になります、あなたはそれをコントロールしようとします。そして、もしあなたがそのことを見て取るなら、もしあなたがそのことの真理、あるいはそのプロセスの誤りを理解するなら、あなたは決して精神を集中させないでしょう、学校で何かを学んでいようが、あなたが学校で何かを教えていようが。精神を集中させないで下さい―あなたが仕事をしているとき、あるいは、あなたが瞑想しようとしているとき。精神を集中させないで下さい、それは何かを排除するだけです、何らかの抵抗を生むだけです、何かに焦点を当てるだけです、中心をより強力にするだけです、従って、限られた空間を生むだけです。
 宜しいでしょうか、もしあなたがこれら全てを理解するなら、その理解から気づくことがあります、それは神秘的でも何でもありません。ただ文字通り気を付けているのです、あなたが川の近くにいるとき、その川に文字通り気を付けているのです、ここからではありませんが、帆走する船を見守るのです、川の流れを見守るのです、その橋を見るのです、音を立ててその上を走る列車に耳を澄ますのです、樹木を見るのです―ただそれを見るのです、それを何かと比較しないのです、その価値を評価しないのです、私は好きだとか好きではないなどと言わないのです―ただ観察するのです。そして、あなたは外から内へと向かい、あなたは部屋に入ります、そして、あなたは部屋の形を観察します。それを何かと比較しないで下さい、言わないで下さい、それは醜い、それは美しい、そこに住めたらいいのに、その絨毯やその家具があったらいいのにと、そうではなく、ただその色彩を見て下さい、その形や美しさを見て下さい、そのカーテンの見苦しさを見て下さい、窓から差し込む光を見て下さい、そこにいる人たち、その人たちの顔や表情を見て下さい―何の価値評価もせずに、何かと比較しないで、いかなる分析もせずに―あなたはただ観察します、あれこれ選ぶことなく観察します。
 そして、そのように外の世界に文字通り気を付けていると―その汚れや卑しさや貧困あるいは国家間の分断、宗教的対立、人種間の争い、国家間の争い、集団同士の争い、家族同士の争い、家族の中の争い、夫と妻の対立、残虐性、性的欲求、満たされない欲求、苦悶―そのような外側の観察による気づきから、あなたは内へ向かいます。それは全く一つの働きです。そして、あなたが内へ向かうと、あなたはより深く文字通り気を付けます、部屋からあなた自身へと文字通り気を付けます、あなたの考えることや、あなたの感じることです。それを価値評価しないで下さい、言わないで下さい、これは品がある、これは下品である、私はこうあるべきではない、私はそうあるべきではない、私は至高の神である、私はアートマンであるなどと―それらは全て全くのナンセンスです、それらはあなたを満足させるために、あなた自身が作り上げた代物です。現にある通りのあなたをただ観察して下さい。現にある通りのあなたが事実です―事実あなたは嫉妬深く、不安で、妬まし気で、残酷で、欲深くて、暴力的です―それが現にある通りのあなたです。それを見て下さい、それに気づいて下さい、飾らないで下さい、胡麻化さないで下さい、否定しないで下さい、あれこれ弁論しないで下さい。あなたは、それをいかなる非難も価値評価も比較もしないで見守って観察します、そうすると、観察することによる何らかの気づきから愛情が生まれます。
 宜しいでしょうか、更に見ていきます。あなたはそれを瞬時に行うのです。それは瞬時にのみ行いうるのです―最初に、外側から始めて、次に深く、深く、深く歩を進めていくのではないのです、それはそのような働きではありません、それは、一気に、行われます、それは、最も外側から最も内側へ、内側の最深部へ赴きます。ここに、この中に、文字通り気を付けて気づく働きがあります―あの列車の汽笛に気づきます、そのノイズに気づきます、誰かの咳に気づきます、あなたの足の動作に気づきます―あなたは、言われていることに文字通り気を付けて耳を傾け、その意味に気づきます、そのように、あなたは言われていることの中の真理と誤りを明らかにします、ですから、あなたは話し手を何らかの権威にしません。そのように、文字通り気を付けて気づく働きは、この途方もなく複雑な矛盾する惨めで全くの絶望的な存在から生まれます。そして、精神が文字通り気を付けて気づくとき、そうするとそれは特定の何かに焦点を当てることができます、しかし、それは以前のそれとは全く異なる働きであり、そうするとそれは精神を何かに集中することができます、しかし、その精神集中は、以前の排除の精神集中ではありません。そうすると、精神はそれの行うあらゆるものに気づくことができます、そして、そのように精神が気づくと、精神はずっと効率的になって躍動的になります、なぜなら、あなたはあらゆるものを取り込むことができるからです。
 そのように、それが瞑想の始まりです、つまり、空間を追い求めてきた、それを外に追い求めてきて外側の空間を理解した精神が、その同じエネルギーで、月へ向かうときと同じ熱気で、それ自身の内側を見守るのです。そして、偽りを否定すると―言葉によってではなく、実際に、容赦なく切り捨てます、外科手術のように、人が精神を鎮めるために発明してきたあらゆる馬鹿げたものを切り捨てます―精神は穏やかになります、非常に鎮まった状態になります。そして、精神はもはや追い求めません、請いません、要求しません、なぜなら、それはそれら全てを理解したからです。そうすると、精神は自然に、何ものにも強制されることなく、いかなる圧力も受けずに、穏やかになり、完全に鎮まります。精神は、経験するための対象がその穏やかな中に存在しないときにのみ鎮まります。どうか、このことを理解して下さい、あなたはこの鎮まった精神を経験することはできません、あなたがこう言うや否や、“私はこの鎮まった精神を経験しなければならない”、あなたの精神はもはや鎮まっていません。そして、私は経験が何を意味するのか説明してきました。そのように、それは経験される何かではありません。そして、そのように鎮まった精神、対象とは無縁の空間が何であるのかを知っている精神は、空虚の精神です。それは、あらゆる努力、あらゆる苦闘、あらゆる要求、あらゆる苦悶や絶望とは無縁の精神です、なぜなら、それは社会の心理的構造から解放されているからです―それらは依然として動物同然です、貪欲で、嫉妬深くて、物欲的で、競争的で、権力や支配などその他の全てを追い求めます。
 そのような精神のみが理解します―言葉によってではなく、実際に―この途方もない空間あるいは空虚を理解します。そうして、もし精神が更に歩を進めうるなら―本当は更に進むのではありません、それは同じことです―あなたは愛するということが何であるのかを理解するでしょう。本当は、あなたは愛とは無縁です。あなたは何らかの快楽を享受します、あなたは何らかの感覚を享受します、あなたは性的な何かに執着します、あなたは家族や妻や夫に執着します、あなたは国家に執着します。しかし、何かに執着することは愛ではありません。そして、愛は神聖な何かでも世俗的な何かでもありません、それは何の区別もしません。愛は気配りを意味します、樹木に気を配ることです、あなたの隣人に気を配ることです、子供に気を配ることです、子供が正しい教育を受けているかどうかに気を配ることです―子供を学校に預けて、それで終わりではありません―正しい教育です、単なる技術的な教育ではありません、子供たちの教師たちが正しい教育を行っているのかどうか、子供たちの食事はどうかに気を配ることです、子供たちが生を理解しているかどうか、性を理解しているかどうかに気を配ることです。単に子供たちに地理や数学を教えたり、職を得るための技術的なことを教えたりすること―それは愛ではありません。そして、愛がないと道徳はありえません。あなたは社会が期待する人間かもしれません、つまり、あなたは社会の期待に応える人間かもしれません―あなたは何も盗みません、あなたはあなたの隣人の妻に言い寄ったりしません、あなたはこれをしません、あなたはあれをしません―しかし、それは道徳ではありません、それは徳ではありません、それは単に社会の期待に応えているだけです。社会的期待ほど恐ろしいものはありません、それは地上における唾棄すべきものです、なぜなら、それは数多くの醜悪なものを隠蔽するからです。一方、愛があると道徳が生まれます。あなたが何を行おうと、もし愛があるなら、それは道徳です。
 そして、愛は、自由のように、あなたが瞑想を理解したときにのみありえます。従って、二百万年、人がその中で生きてきたあらゆるもの、あらゆるプレッシャーから精神が解放されるとき、そこから空虚あるいは空間と称されるこの途方もない何かが現れます。そのときにのみ精神は鎮まります。そのときにのみ愛そして創造と称されるあの途方もない何かが生まれます。