クリシュナムルティ 一昨日、我々は成熟の問題について話していました、それは本当に矛盾しない精神の状態のことです。そして、そのような成熟にはエネルギーが要ります。宜しいでしょうか、今朝我々は、もし宜しければ、このエネルギーの性質について話したいと思います―その観念ではありません、なぜなら、エネルギーについての観念は、エネルギーそのものの事実とは全く異なるからです。我々は、どのようにすればこの上なく高いエネルギーの質が生み出されるのかの方式や概念を手にしています。しかし、方式は、エネルギーそのものの質を実際に改良したり新しくしたりすることとは全く異なります。
そのように、我々は何らかの観念について話しているのではなく、事実そのものを話しています。ほとんどの我々が難しいと感じるのは、このことであると私は思います。我々はほとんど観念の中を生きています、概念の中を生きています、どのようにして、あるいは、どうすればこの上なく高い質のエネルギーが生み出されるのかということです、そのように、我々は何らかのイメージや概念を作り上げてから、その概念に沿って、そのエネルギーを生み出そうとします。従って、そのエネルギーを作り出す概念や方式とエネルギーそのものの事実との間に引き続き矛盾が生じます。物理的エネルギーに溢れた人は、エネルギーの概念について語りません、その人はエネルギーに溢れているのです。しかし、エネルギーに乏しい人、病んでいる人、心理的にバランスを欠く人―その人はエネルギーがどのように生み出されるのかの概念をもっています。反対に、今朝、我々がこのエネルギーについて語るとき、我々は肝に銘じて明らかにしなければなりません、我々は何らかの概念について語っているのではないことを、我々は事実そのものを語っています。我々は何らかの意見や何らかの主張を述べているのではありません、そのエネルギーの性質について語っているのではありません、そのエネルギーがどのようにすれば生じるのかを語っているのではありません。しかし、もし我々が観念ではなく事実そのものを見始めると、そのような矛盾はすぐに消え去ります。
そのように、我々はこのエネルギーについて話すことになります。そして、このエネルギーのこの上なく高い質―最高の質―は精神にいかなる観念も思考も方向感覚も動機もないときの精神の状態です―それが純粋なエネルギーです。そして、そのようなエネルギーの質は探し求めても獲得できません。あなたは言えません、それを手にするにはどうすればよいか教えて下さい、その方法を教えて下さいと。そのような方法はありません。このエネルギーの性質を自分自身で明らかにするためには、我々は浪費されている日常のエネルギーを理解し始めなければなりません、我々が話すときのエネルギーです、鳥の声を聞くときのエネルギーです、我々が川の流れや広がる空を見るときのエネルギーです、汚れている、みすぼらしい、病んだ、飢えている村人を見るときのエネルギーです、日が落ちた夕闇の中の樹木を見るときのエネルギーです。あらゆるものを正に観察するエネルギーです。そして、このエネルギーを我々は食べ物や日の光から獲得します。我々が獲得するこの物理的エネルギー、我々のこの日常のエネルギーは、正しい食事などによって強化され増大します。それは必要なことです、それは明らかです。しかし、精神つまり思考のエネルギーになるその同じエネルギー―そのようなエネルギーがそれ自体で矛盾するや否や、そのようなエネルギーはエネルギーの浪費になります。
どうか、このことを理解して下さい。我々は一歩一歩進みます。もしあなたがそれを論理的に、健全に、合理的に理解しないなら、我々はあの途方もない力に出会わないでしょう、あのこの上なく高い質のエネルギーに出会わないでしょう、なぜなら、その中にのみ時間とは無縁の働きがあるからです。そして、我々は我々のエネルギーを浪費しています、この心理的エネルギーです、思考をもたらすエネルギーです、記憶を蓄えるエネルギーです、過去のことを記憶しているエネルギーです、これまでのことを思うエネルギー、そしてこれからのことを思うエネルギーです―それらは全て思考の働きです。そのようなエネルギーが矛盾に出くわして、それを理解せず、その矛盾から解放されないとき、エネルギーが浪費されます。矛盾とは言行一致しないことです、低次元で、高次元ではなく我々の日常生活の中で言行一致しないことです。一方で辛辣な物言いをして他方でそれを後で後悔すること―後悔は辛辣な物言いをした結果のエネルギーの浪費です、辛辣な物言いはエネルギーの浪費の始まりです、そのようにそれが記憶されます、人は辛辣であってはならない、人は親切でなくてはならないと、そして、このことが二重性を生みます、その二重性の葛藤はエネルギーの浪費です。宜しいでしょうか、あなたがこのことを理解していることを私は望みます。
そのように、いかなる種類の―物理的、心理的、知的―争いもエネルギーの浪費です。宜しいでしょうか、このことを理解して、それから解放されるのは途方もなく難しいことです、なぜなら、ほとんどの我々が奮闘努力するように育てられているからです。我々が学校で最初に教えられるのが“努力する”ことです。そして、そのように奮闘努力することが生涯にわたって行われます―つまり、良い人になるために奮闘努力します、あなたは悪と戦わなければなりません、あなたは抵抗しコントロールしなければなりません。そのように、教育的に、社会的に、宗教的に人間は奮闘努力するように教えられます。あなたは言われます、神を見つけるためにはあなたは何かをしなければなりません、規律正しくしていなければなりません、何かを実践しなければなりません、あなたの心や精神や身体を捻じ曲げて拷問にかけなければなりません、否定しなければなりません、抑圧しなければなりません、あなたはよそ見をしてはいけません、あなたはいわゆる精神世界で戦って、戦って、戦い抜かなければなりません―それは精神世界ではありません。そのように誰もが自分自身のために、家族のために社会に出て行きます。
どうか、このことを自分自身で見て下さい、我々は非常に、非常に深い何かを検討しています。もしあなたが話し手と一緒に歩むなら―彼に従うのではなく、彼を何らかの意見や権威とするのではなく、彼と一緒に歩んで、共に歩を進めるのです―あなたはその途方もないエネルギーに出会うでしょう、それはそれ自身を少しの努力もしないで新しくします、それは精神を新しくして、若い瑞々しい無垢な精神にします。
そのように、あなたは努力するように教えられます。社会学的にも、あなたは何かに達するために、何かを成し遂げるために、何かになるために奮闘努力しなければなりません、あなたは隣人よりも立派でなければなりません、あなたはもっとお金を稼がなければなりません。野心があなたを駆り立てます、そして、その野心が正に自己実現の姿になります―家族の中で、社会の中でそうなります。そのような自己実現のために、自己を集団や人種や国家と一体化させるために、人は絶えず努力します、一生懸命奮闘努力します。この矛盾のせいで、人は努力します、あなたが野心家であるとき、あなたが何かを成し遂げているとき、いつも何らかの欲求不満が生じるのは避けられません。そして、正にその欲求不満が更にあなたを駆り立てます、更にあなたを緊張させます。そして、もしあなたに才能があると、あなたはその緊張感から詩を書きます、あるいは、あなたは様々な歪んだことをします。
社会的に我々は我々の野心や欲望や嫉妬や憎悪や快楽のために努力します、そして、そのような努力はエネルギーの浪費です。どうか、そのことを自分自身のこととして観察して下さい。そして、性に関して、正にそのプロセスが、ほとんどの我々にとって途轍もない問題になります。その理由をよく見て下さい、我々のなすべき何かではありません。我々はそのことを検討します、そして、あなたがそれを検討すると、あなたはそれを理解するでしょう。知的にあなたは息が詰まっています、あなたは決して自分自身で考えません、あなたにはオリジナリティがありません、あなたはいつも誰かの言うことを繰り返しています、あなたは書物から知識を収集します、あなたはバガバッドギータやコーランあるいは最近の作家や何かからの言葉を絶えず繰り返します。そのように知的にあなたは歪んでいます、閉塞しています、コントローされています、型をはめられています、あなたは知的に決して解放されません。情動的にもそうです、それは感傷的という意味ではありません。感傷的になるのは醜いことです、なぜなら、そういう人は残酷になるからです、愚かになるからです、感受性が鈍くなるからです。私は感傷的なことを話しているのではありません、私は情動的な人のことを話しています。そのような情動は、その人が美を感じないとき歪められます。
あなたが人の顔の美を見て取るためには、川の流れや道端の木の葉や人の笑顔、梢に止まっている鳥などの美を見て取るためには、何らかの熱気を要します、鋭敏な感覚を要します。しかし、我々はそのような感覚を持ち合わせていません。そのような感覚は気遣いを意味します―あなたの子供たちを気遣うことです、あなたの隣人を気遣うことです、あなたの妻やあなたの使用人を気遣うことです、もしあなたに使用人がいれば―正に気遣うことです。そして、我々は気遣いません、なぜなら、我々には熱気がないからです、従って、我々は美に疎いのです、鈍感なのです。我々は鬱屈しています、我々は歪んでいます、なぜなら、我々にとって美は性的なものだからです、世界中の宗教が言ってきました、神を見出すためにはあなたは女性を見てはなりませんと。そのように、情動的に我々は歪んでいます、我々は邪魔されています、我々はそのように言われて破壊されています、成熟半ばのマハートマたちや神々や聖者たちによって破壊されています。
そのように、我々が唯一手にしているのはセックスです。知的にも情動的にも抑圧されていて出口がありません、感受性が鈍くなっています。そこで、自然と残っている唯一のものがセックスです。会社でも日常生活でも、あなたは侮辱されています。あなたが巨大な社会機構の一歯車にすぎない現代社会の醜悪さです―どうか自分自身をよく見て下さい。妻そして夫そしてセックス―セックスが途方もなく度を越して重要になっています、従って、セックスが問題になります。そのような問題の中で、エネルギーが浪費されます。我々は解放されることのない思考を手にして、我々は何らかのイメージを編み出します、我々は我々の生の中で我々に快楽をもたらすものを考えます、それがセックスです。そして、我々は毎日会社へ行かなければなりません―奮闘努力します、そうでないと十分な食事にありつけません―あなたはそのことをよく知っています。
そのように、至る所で、我々はエネルギーを浪費しています。そして、そのようなエネルギーの浪費は、本質的に何らかの争いです、すべきこととなすべきではないこと、しなければなりないことと、してはならないことなどの葛藤です。一度二重性が生じると、何らかの葛藤は避けられません。男と女、緑と赤、光と闇、高い低いということではありません―それらは自然な事実です。しかし、事実と観念との間の分断を促す努力は、エネルギーの浪費です。私はあなたが気づいたかどうか知りません、話に没頭する人たち―大衆に向かって話したり、家の中で話したり、自分自身に向かって話したりする人たち―はいつも何らかの観念に関心があると、社会主義者の観念であり共産主義者の観念あるいは資本家の観念です。その人たちは事実ではなく観念に囚われています。あなたの関心が事実にあって観念ではないとき、いかなる争いも起こりません。
宜しいでしょうか、もしあなたがこの生のシンプルなことを理解すると、あなたは争いの性質を理解して、それから解放されるでしょう。もし人があらゆる種類の争いを余すことなく取り除かないと、人はエネルギーを完全に浪費しています。一方、精神が生の働き―それは何らかの活動です―に調和して歩調を合わせるためのあらゆる種類のエネルギーを手にすると、エネルギーの浪費はありえません。そして、生に歩調を合わせるためには―それは途轍もないことです、それは何らかの観念ではありません、それは何らかの社会改革ではありません、それは社会主義者的あるいは共産主義者的あるいはヒンズー教徒的活動ではありません―この何らかの活動である生と呼ばれる途方もないものと共に歩むためには、そして、いかなる摩擦も生ぜずに、この活動に調和するためには、途轍もないエネルギーを要します。従って、人はこれを理解しなければなりません―いかにエネルギーを保存するかではありません。
もしあなたがこう言うなら、どのようにして私はエネルギーを保存するのですかと、あなたは何らかのパターンを作り出しています―それを保存する方法です―そうして、あなたはあなたの生をそのように取り扱います、そうすると再び何らかの矛盾が生じます。一方、もしあなたが、どこであなたのエネルギーが浪費されているのかに自分自身で気づくなら、あなたは、その浪費をもたらす第一の要因が何らかの争いにあると分かるでしょう、つまり、あなたは何らかの問題が起こっても、それを解決せずに、過ぎ去った何らかの忌々しい記憶と共に生きているのです、それが伝統的な生き方です。人は、エネルギーが散逸するわけを理解する必要があります、そして、エネルギーの散逸の理解は、シャンカラや仏陀やどこかの聖者によるのではなく、人の日常生活の中の争いを実際に観察することによってもたらされます。そのように、エネルギーの浪費の第一の要因は、何らかの争いです―それはあなたがじっと座っていて怠惰でいることを意味しません。何らかの争いは、観念が事実よりも重要である限り、いつも存在するでしょう。
宜しいでしょうか、我々は、我々のエネルギーを何らかの恐れによって、いかに浪費するのかの問題を検討します。私はそれを例に取っています、あなたは他の例でも検討できます―欲望や嫉妬や野心などです。しかし、恐れの構造や性質や意味を理解すると、我々はその観念から解放されるでしょう、そして、その事実と向き合うことができるでしょう―それは途方もなく難しいことです―それは何らかの経験や観念あるいは記憶されているかもしれない何らかの意見を携えて事実と相対するのではなく、正に事実に向き合うのです。その二つは全く異なります。
そのように、我々は恐れを検討しようと思います、そして、その事実とそれに関する意見とは何かを検討しようと思います。もしあなたが恐れを検討することが好きでないなら、少し後で暴力を検討しようと思います。我々は、初めに、恐れ、それから暴力を検討します。なぜなら、ほとんどの我々は―実際には誰もが―何らかの恐れを抱いています。そして、人々は―実際には誰もが―暴力的です、その思考において、その発言において、暴力的です、そして、たとえ人々がその思考や発言において暴力的でなくても、人々は家庭では暴力的です。たとえ家庭でそうではなくても、内心の深いところに暴力が潜んでいます。そのように、私はそれら二つの事実を検討したいと思います。
恐れそれ自体は存在しません。恐れは何かとの関連で生じます、世論に対する恐れ、死を恐れること、夫や妻を恐れること、仕事を失う恐れなどです。そのように、恐れは何かとの関連で生じます、それは何かによって引き起こされます。宜しいでしょうか、あなたは言います、もし私が恐れの原因を明らかにできれば、私はその恐れから解放されるでしょうと、そうして、あなたは恐れをもたらす原因を分析します、思索あるいは検討します。宜しいでしょうか、このような分析、このような検討は、エネルギーの浪費です。どうか、このことを理解して下さい。恐らく、あなたはこれらのことを今まで考えたことがありません、ですから、ただ耳を傾けて下さい、受け入れるのでも否定するのでもなく―ただそのことを見て取って下さい。
あなたは言います、あなたは何かを恐れていると、そして、あなたはその原因を見つけようとします、あなたはそれを探します、見つけようとします、検討します、そして、もしあなたがその原因を明らかにできないと、あなたは誰かにそれを尋ねます、心理分析者あるいはあなたのグルにそれを尋ねます、あるいは、その原因を明らかにするまで、あなたはどこにでも赴きます。何が起こっているのか見て下さい! 事実は、あなたが何かを恐れているということです。そうすると、あなたはその原因に向かいます、つまり、そうすることであなたは時間的な間隙を作り出します。その時間的間隙とは分析することです、内省です、問うことです、探し求めることです。そうすると、あなたは原因に行き当たります。そうすると、あなたは言います、どのようにしてその原因を取り除こうかと。そのように、事実は一つです、それは恐れです、そして、あなたはその事実からさまよい出て、その原因を明らかにしてそれを取り除こうとしています。そのようにして、あなたは何日も費やしました、あるいは少なくとも一分を費やしました、そして、そのような時間はエネルギーの浪費です。重要なことは、恐れを理解することです、その分析ではありません、その内省的検討ではありません、そうではありません、原因を明らかにしてから、その原因をいかに取り除くかではありません、それら全てのプロセスがエネルギーの浪費です。
私に同意しないで下さい、どうか、それをよく見て下さい。私は取り組んでいます。私はあなたと一緒に考えて言葉にしています、あなたは私に協力しているのではありません。あなたは私にあなたを導いてほしいと思っています、そして、あなたはそれに従います―それが現代の教育の不幸です、宗教生活の不幸です、そして、それが何かに順応することの不幸です。
そうすると、恐れの中にある事実とは何でしょうか? 恐れの原因を発見することで恐れが取り除かれますか? あなたはそれを試したことがありますか? あなたは数時間あるいは数分その原因を明らかにするために費やします。あなたは非常に簡単に、そして非常に素早くそれを明らかにします。そして、それを明らかにした後で、その恐れは消え去りましたか? 明らかに消え去りません。あなたは最初に戻ります。そこで、あなたは自分自身に言います、どこかが間違っていると。
そうすると、事実という点で、恐れとは何でしょうか? 宜しいでしょうか、あなたはどのように明らかにしますか? 明らかに、それから逃げ去るのではなく、飲酒によるのでもなく、寺院へ行くのでもなく、ラジオを聞くのでもなく、果てしなくお喋りするのでもなく、数限りなく読書するのでもなく。恐れからの逃亡のあらゆる形がエネルギーの浪費です。それは当たり前です、従って、我々はそれを議論しません、それは極めて明らかです。そうすると、恐れの事実とは何でしょうか? 人は他の人の言うことを恐れます、あるいは、人は死の事実を恐れます。それでは恐れとは何でしょうか、恐れの事実とは何でしょうか? 恐れの中にある真理とは何でしょうか―その原因を露わにすることではありません、それから逃げ去ることではありません。そのような恐れの中の真理とは何でしょうか?
精神はどのようにして恐れの中にある真理を見つけるのでしょうか? 最初に、人は恐れが思考の結果であることを理解する必要があります、違いますか? もしあなたが何も考えなければ、あなたは恐れないでしょう、違いますか? つまり、もしあなたが死について考えないなら―私はそれを例に取っています―あなたには死の恐怖はありません、違いますか? あなたが死んでいくという観念、あなたが他の人たちの死ぬのを見てきたという観念、あなたはできるだけそれを遠ざけたいと思って、恐れの原因を考えたくないという観念―つまり、死について考えることが恐れの原因です。そこであなた言います、何も考えないで生を生きることはできるのかと。眠るのではありません、無為に過ごすのではありません、そうではなく、死について考えること―それは思考です―が未来を作り出すという事実を見て取ることです。違いますか? 思考が未来を作り出します、思考が世論という観念を作り出します、世論の動向です、世論はあなたを否定するかもしれません、あなたの職を奪うかもしれません。そのように、未来について考えることが、恐れを作り出します、恐れを生み出します。そして、過去について考えると―あなたが順調であったとき、あなたが幸せであったとき、あなたがあらゆる楽しみを手にしていたとき、何でも手にしていたとき―そのような過去のことを考えて、未来について考えると、恐ろしくなります。違いますか?
そのように、恐れを理解するためには、人は思考のメカニズムを理解する必要があります―いかに恐れを取り除くかではありません。今まさに我々が指摘したように、思考が恐れを生み出します。そうすると、あなたは言います、どのようにして私は思考を止めるのかと。あなたは思考を止めることはできません―それはとても愚かなことでしょう。しかし、もしあなたが思考の全メカニズムを理解すると、あなたは恐れが何であるのかを理解して恐れを取り除くでしょう。ここまではお分かりでしょうか?
そうすると、思考とは何でしょうか? 思考は、電子頭脳が示すように、そして人が自分自身で観察するように、記憶の反応です。思考は昨日起こったことの反射的反応、昨日起こったことからの反射的反応です。何らかの経験や出来事、侮辱、へつらい、苦痛、昨日の記憶―それが反応するとき、それが思考のプロセスです。つまり、何らかの問題が起こって、それに反応するとき、何らかの時間的な間隙が生じます、その時間的間隙が思考のプロセスです。
宜しいでしょうか、どうか横に首を振らないでください、それを自分自身の問題として観察してください。
つまり、あらゆる思考が、問題と答えの間の時間的間隙の中で生じます、それは問題とその反射的反応です。その時間的間隙は長くもあれば秒単位でもあります。その秒単位や長い時間的間隙が記憶のメカニズムです、探したり、追い求めたり、問うたり、要求したり、待ち受けたり、期待したりします、そうして何かを見つけて反応します。つまり、人が良く知っていることを問われると、名前を問われると、人は即座に反応します―なぜなら、あなたは自分の名前はよく知っているからです、あなたはあなたの職業や住所をよく知っているからです―そこには時間的間隙は生じません。あなたが何かを聞いて即座に答えると、秒単位あるいはそれ以下の時間的間隙は生じません。一方、大いに検討を要する、思索を要する、記憶を探る何かを問われると、その時間的間隙はより大きくなります。違いますか? お分かりでしょうか? その時間的間隙の中で、あなたの精神やあなたの頭脳、あらゆるものが働いて答えを探します。
そのように、あなたがこう言うとき時間的間隙が生じます、“私は分かりません”、そしてあなたは待っています、探しています、追い求めています、問うています。それは一年かかるかもしれません、それは一日かもしれません、しかし、あなたは待っています、期待しています。そうして、あなたが見つけると、あなたは言います、これが答えだと。違いますか? 宜しいでしょうか、五千もの書物あるいは四千もの書物が毎週出版されていると私は信じます。私は正確な数は知りません。たくさんの書物が出版されています、そして、我々はそれらの書物から情報を得ます、月までの距離、科学や医学や外科手術や医療に関する途方もない発見、そして途方もない経済的理論―たくさんの書物がそれらについて出版されています―人はそれら全てを読んで学ぶ時間を持ち合わせていません。もし人が注意深く気を付けているなら、もし人が喜んで鋭く明確に観察するなら、人は書物を読む必要は全くありません、人が探して学ぶためのあらゆるものがそこにあります。そうすると、人は権威に頼りません、そうすると、人は自分自身の経験にも頼りません。
そのように、今朝、我々が行っていることは、話し手があなたに何らかの情報を与えているのではありません、そうではなく、あなたと私が一緒に恐れの問題を検討しています、そして、それを検討していると、人は思考の全構造を発見します。そのように、事実は思考が恐れを生むということです。思考のメカニズムを理解するということは、時間的間隙とは無縁に、事実と向き合うことを意味します。そして、時間的間隙とは無縁に事実と向き合うことは、即座に行動することです。時間的間隙とは無縁に事実と向き合う人―そのような人は恐れとは無縁です。時間的間隙とは何かを理解することが、本当に重要です、恐れではありません。時間的間隙は思考の産物です、それは言葉であり、シンボルであり、観念です。ほとんどの我々は言葉を恐れます、事実ではありません。あなたは死の観念を恐れます、死の事実ではありません―あなたはその事実を知りません。もしあなたが時間的間隙とは無縁に事実と向き合うなら、あなたの行動は全く異なる何かになるでしょう、恐れる時間的間隙の入る余地はないでしょう。あなたはこれらのことが分かるでしょうか?
そのように、人は時間的間隙を心理的な事実の解決の手段とします―橋を架けるという事実ではありません、橋を架けるためには時間を要します。時間的間隙はエネルギーの浪費です、なぜなら、その時間的間隙の中に何らかの葛藤が生ずるからです。時間的間隙は、恐れの原因の追究だけではなく、その原因を発見しようとする分析であり、その原因を取り除こうとする意志でもあります―それら全てが時間的間隙であり、その中であなたは何らかの努力をします、従って、それはエネルギーの浪費です。このことがお分かりでしょうか?
我々は暴力の問題も取り上げると言いました。ほとんどの我々が暴力的です、物理的なだけではありません、誰かを叩きます、我々は怒ります、野心を抱きます、我々は他の人と何かで競争します、それら全てが暴力です。暴力は物理的な行動であると言って自分を偽らないで下さい。暴力は自分に規律を、何らかの規律のパターンを自分に課したりすることでもあります、暴力は何らかの抑圧でもあり、コントロールでもあり、服従でもあり、支配でもあります。それは我々が日常的に経験するような暴力だけではありません、それはそれよりもずっと微妙な何かです。そのように、内面的にも表面的や外面的にも、我々は暴力的です―それは事実です。なぜなら、我々は動物から進化してきて、我々は何かを恐れます、我々が動物的になればなるほど我々は暴力的になります。
私はあなたがこの構内に犬がいるのに気づいたかどうか知りません。あなたは夜になると犬たちが吠えるのを聞いてきたに違いありません、あなたは目が覚めます、何と暴力的なのでしょうと。宜しいでしょうか、ノイズには途方もない何かがあります。あなたがノイズと争えば争うほど、あなたはそれに抵抗して眠れなくなります、安眠できません。しかし、もしあなたがそれをやり過ごすと、風が窓を通り抜けるように、それに抵抗しないでやり過ごすと、あなたは分かります、犬たちが盛んに吠えても、あなたの精神は動じないと。どうぞ試して下さい。
ほとんどの我々が暴力的です、そこで、我々は非暴力という観念を発明しました、我々は非暴力的でなければならないと。何が起こっているか見て下さい! 私は暴力的です―私のジェスチャー、私の態度、私の排他性、私の孤立、私のプライド、私の嫉妬、私の野心など―私は暴力的です、私は暴力に従順です、そうして、私は非暴力という観念を発明します。私が囚われている何らかの方式や観念と事実は別のものです。違いますか? この神経分裂症、生に対する二重性―決して事実に向き合わずにリアリティーの欠如した空論をいつも絶え間なく弄ぶ二重性―がすぐに何らかの争いを引き起こします。私は人に優しくありません、なぜなら、人に優しいためには、いかなるナショナリティもいかなる家族も持ってはならないからです―家族というのは、私は妻や子供を持ちませんという意味ではなく、家族という観念のことです。家族は、明らかに、すぐに反社会的になります、それはいつでも自分の家族以外は赤の他人です。我々はそれを検討しません。
そのように、暴力的である我々が、自分自身の暴力に気づかず、それを解決できないまま、その暴力を何らかの観念や理想でもって取り除こうと願って、我々はその理想を追求します。話し手はいかなる理想も持ち合わせていません、なぜなら、話し手は事実だけを扱っていて理想とは無縁だからです。事実を観察しうるのは、時間的間隙が存在しないときだけです。人は暴力が生ずるのを目の当たりにするとき、このことを理解しなければなりません。
宜しいでしょうか、人はこのことを明らかにする必要があります、暴力という言葉が暴力を作り出すのか、それとも、事実それ自身が作り出すのかを。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません、婦人という言葉、子供という言葉、ドアーという言葉はそれぞれ婦人でも子供でもドアーでもありません。ほとんどの我々にとって、その言葉がドアーそのものであり、子供そのものであり、婦人そのものです。自分自身を良く見て下さい、自分自身でそれをよく考えて下さい、あなたは、言葉が途方もなく重要な役割を果たしていることが分かるでしょう―共産主義者、ブラフマン、官僚、技術者、彼は役人でこれだけ稼いでいます―全て言葉です。そのように、人は明らかにしなければなりません、言葉が暴力を生んでいるのか、それとも言葉とは関係なく暴力が生ずるのかを。どうか自分自身でそれを検討して下さい。このことを明らかにするためには、余すことなく文字通り気を付けていなければなりません。
ほとんどの我々は言葉に囚われていて、事実に向き合いません。そのように、言葉は事実の抽象化です、そして、ほとんどの我々は、その抽象化されたものに取り組んで、事実に向き合いません。事実に向き合うとき、事実を見てから何らかの行動に移す時間的間隙の入り込む余地はありません、従って、見ること即ち行動です。そして、時間的間隙とは無縁に事実を見て行動するので、暴力の生まれる余地はありません。もしあなたがこのことを検討したなら、あなたは精神が完全に余すことなくあらゆる形の暴力とも無縁であることが分かるでしょう。
そして、精神が何らかの争いによって気を散らしていないで、観察者と事実とのあいだに時間的間隙が生じないときにのみ―そのときのみエネルギーの浪費がなくなります。我々は、そのようにしてあらゆる形の争いを取り除きます―あらゆる形の争いは二重性を意味します。二重性は、もし事実が何らかの意見や観念など何らかの時間的間隙によって干渉されるといつでも生じます。事実が、いかなる時間的干渉も受けないでいるときに、瞬時の自然発生的な行動が生まれます。
そのように人は分かり始めます、エネルギーの浪費は何らかのパターンに従うことによって引き起こされると、エネルギーの浪費は思考の働きによって引き起こされると―過去と未来の間に囚われた時間的間隙です。社会主義者的に、政治的に、共産主義者的に訓練された精神は、決して事実を見ることはできません、それはいつも事実をその意見やその条件づけを通して見ます。さらにずっと複雑で気を付けなければならない別の矛盾する要素があります、つまり、思考者と思考との間の二重性です、しかし、我々はそれを検討する時間が今はありません。我々は十分に検討しました、もしあなたがここまで理解しているなら。そのように、精神がいかなる時間的間隙とも無縁に事実と向き合えるなら、エネルギーの浪費はないでしょう、事実が何であれ、道路から石を取り除くことであれ、道路を修繕することであれ、棘を抜くことであれ、あるいは、あなた自身の事実であれ―実際のあなたです、あなたが考えるあなたではなく、現実のあなたです。
時間的間隙とは無縁に事実と向き合うことは、エネルギーが散逸しなくなることです、従って、そこではエネルギーが絶え間なく働きます。そして、あなたはその中にはいかなる抵抗も生じないと分かるでしょう、私はそれをすでに説明しました。そのようなエネルギーはいかなる形の妨害にも合わないでしょう、なぜなら、それはそれが働くとき、あらゆる抵抗やあらゆる形の争いやあらゆる矛盾を理解するからです―待つのではありません、問うのではありません、要求するのではありません―それは働いています、生きています、あらゆる瞬間それは働いています。そうすると、そのようなエネルギーは、最も低い次元で始まります、本当は最も低い次元などはないのです、私は、それを我々にその意味を伝える手段として使っています―それは日常生活から始まります。私は最も低い次元という言葉は使いません、なぜなら、そうすると、もちろんあなたはそれを誤って使うからです。日常生活の中で働くそのようなエネルギー―あなたの考えること、あなたの行うこと、あなたの感じること、あなたの言うこと、あなたの言い方―そのような日常生活の中で働くエネルギーがあらゆる形の妨害から解放されると、あらゆる形の争いから、何らかの矛盾である争いから解放されると、そのようなエネルギーは、正に素早く自由に働きます。そして、そのようなエネルギーこそが、精神を新たにします、若く新鮮に無垢にします、そして、そのようなエネルギーはこの上なく高い地点に至ります、そのこの上なく高い地点は、名状しがたい至高な何かです。
質問者 宜しいでしょうか?
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、あなたが質問する前に―私はあなたを遮っているのではありません、あなたは質問をします―あなたの質問とあなたが耳を傾けていたこととの間に時間的間隙の入る余地はありません。あなたは耳を傾けてさえいません、宜しいでしょうか? あなたは私が話し終える前にすでに問うています。私は話し終えましたがあなたはすでに問うています、あなたは耳を傾けているのではありません。宜しいでしょうか、続けて下さい。質問は何でしょうか?
質問者 あなたが説明していた時間的間隙とは何でしょうか、そして、そのエネルギーとは何でしょうか? それは紛れもなく活動している何かですか、それとも、それは静止しているのでしょうか?
クリシュナムルティ どうしてエネルギーが静止しているのですか? 私はあなたの質問がよく分かりません。あなたはあることを言って別のことに言及しています。あなたは我々に何を言おうとしているのでしょうか?
宜しいでしょうか、これは非常にシンプルなことです。なぜあなたは非常にシンプルな事実を複雑にするのですか? あなたが“私は変わります”と言うとき、時間的間隙が生じます、違いますか? あなたが“私はそれを明日行います”と言うとき、時間的間隙が生じます、違いますか? 時間的間隙はエネルギーの浪費ですと私は言っています。つまり、何かが即座に行われるとき―行為は全て即時的行為です―どうして時間的間隙を作り出すのですか? なぜあなたは“私はそれを行います”と言うのですか? これを例に取りましょう、人は怒ります、嫉妬します。なぜあなたは即座にその事実と向き合わないのですか、なぜあなたはこう言って、時間的間隙を作り出すのですか、“私はそれを明日行います、私は明日それを取り除きます”と。なぜですか? なぜなら、あなたには引き延ばす習性があるからです、あなたは“私はそれを行います”というのが、あなたの習慣だからです。そのように、徐々にあなたは時間的間隙を広げて、あなたの行いたいことを引き続き行います―それは百害あって一利なしかもしれません、しかし、あなたはそれを好みます、従って、あなたはそれを続けます。そうではないふりをしないで下さい。
質問者 即時的行為は余すことのない何かですか?
クリシュナムルティ その通りです。私は言いました、“即時的行為”と。それは理解するのが最も難しいことの一つです、ですから、どうか安易に言わないで下さい、“即時的行為”と。ご存じのように、“今を生きなさい”と言う人たちがいます。今を生きるということは途方もないことの一つです。今を生きるためには―それは即時的行為です―人は人が抱える条件づけを理解する必要があります、それは過去です、そして、その過去を未来に投影しないことです、従って、人は時間的間隙を消し去って、その途方もない瞬間を生きる必要があります。それには大いなるエネルギーを要します。しかし、そのようなエネルギーは何らかの観念からは生まれません、宜しいでしょうか。観念は、ご存知の通り、エネルギーを生み出します。様々な観念がエネルギーを生み出してきました―国家という観念があなたにエネルギーを与えて、あなたは他の国家と戦います。そして、そのような途方もないエネルギーの浪費をしながら我々は生きています、そして、我々はそのようなエネルギーに満足しています。そして、誰かがやって来て、“エネルギーを浪費するな”と言うと、あなたはすぐにそれを自分なりに解釈して言います、分かりました、“私は独身でいます、私はそうでなければなりません”と、そうすることによって、あなたは再び矛盾を作り出して、それに囚われます。
そのように、この問題を余すことなく理解するためには、宜しいでしょうか、人は非常にシンプルでなければなりません―腰巻ひとつだけのシンプルさではありません、それはシンプルな内面性の欠如の表れです、そうではなく、正にシンプルであること―つまり、いつも時間的間隙とは無縁に自己の内面と向き合い、自己の内面に触れていることです。あなたは月や火星や金星へ行けます―それにはエネルギーを要します。そうした技術者たちや数学者たち、労働者たちの驚くべきエネルギーを見て下さい、その人たちは数多くのものを作り出します。ロッケトを作るためには百万個の部品が必要であると私は信じます、それらの部品が正確に機能しなければなりません。そのためには途轍もないエネルギーを要します、そして、そのようなエネルギーは比較的単純です。しかし、自己に向き合うエネルギー―決して休むことなく滞らずに働くエネルギー、過去も未来も見ることなく、絶えず働き続けるエネルギー―そのようなエネルギーこそが、自己に絶えず深く向き合って、至高な何かに触れるのです。